2.下僕・史也
結局、久しぶりの登校は2週間後。ギプスは膝下から足首までに巻き直してもらって、大分動きやすくなっている。
そしてその日の朝、史也はものすごく嫌そうな顔をして玄関前に立っていた。
「お、おはよう」
「……」
「あら、おはよう史也君! 今日からよろしくね」
「おはようございます、今日からよろしくお願いします」
オレの挨拶には返事もしなかった史也が、後から出て来た母親にはちゃんと挨拶をする。史也は嫌そうな顔をしながら、無言で右手をオレの方へ差し出してきた。
「?」
意味が分からず、どうしたら良いのか分からないで困っていると、「カバン」と言われた。どうやら持ってくれるつもりらしい。
「い、いや、いいよ。大丈夫だから」
そんな嫌な顔をしながら持たれてもこっちが困るので断ったのに、史也は無理矢理オレの背中からカバンをふんだくると、そのまま学校に向かって歩き出した。
「まあ、やさしいのね。フフフ、いってらっしゃい!」
母親は何か勘違いをしている。これはやさしくはない。
史也はスタスタとふつうに歩いていくが、オレは松葉杖なのでうまく歩けなくて、どんどん置いて行かれてしまった。病院で教えてもらって練習もしたけど、もともと運動神経が良いわけでもないので、とても下手くそなのだ。
松葉杖をついているからふつうにしていても目立つのに、カバンも持たずに一人で歩いているせいで、余計に目立っている気がする。
周りからジロジロ見られながら、下手くそな松葉杖で史也を追った。
史也は校門前で、眉間にしわを寄せた不機嫌そうな顔でオレを待っていてくれた。
〈夢の中〉では、史也の周りはすぐに女子の人たちが群れてしまって大変だったけど、今の超機嫌が悪い史也には誰も怖くて近づけないようで、遠目にチラチラ見ているだけだ。
あれ? いや、でも、どんなに機嫌が悪くても〈夢の中〉では群れていたから、あれは、『毎日みんなと話しましょう』という大義名分があったから、堂々と史也に近づくことができていたということだったのかもしれないな、とか考えているうちに、やっと史也に追いついた。
史也はとても不機嫌だけど、ちゃんとオレを待っていてくれるんだから、オレはちょっと嬉しかった。
「遅い」
「えっ? あ、そうだね、ごめん」
歩きにくいんだもん。しょうがないじゃん、と、心の中で思う。
「……」
史也は更に機嫌が悪くなって、さっさと昇降口まで行ってしまった。
靴箱の前で待っていた史也は、オレが追いつくと、オレの靴箱から怪我をしていない側の上履きを出して、オレの前に履きやすいように置いてくれた。
「えっ?」
「さっさと履けよ」
史也は腕を組んだ偉そうな態度な上に、目も逸らしてこっちを見ようともしない。きっと、お父さんにこうしろと言われているのだろうというのが、ありありと分かる。
それでも、オレのためにしてくれているという事実は、素直に嬉しい。
「あ、ありがとう」
しかし、オレはここで動きが止まった。「あれ?」これって、どうやって履けばいいんだ……?
えーと、今オレの片足は骨折しているから地面についてはいけない状態だ。松葉杖だけで体を支えながらもう片方も持ち上げて靴を履き替えるなんて、そんな器用なこと、オレにはできない。ていうか、ひっくり返るな。
史也にお礼は言ったものの、そのままじっと動けなくなったオレに気づいた史也は、「ああ、ちょっと待ってろ」と言って、どこかに行ってしまった。
松葉杖をついて一人で待たされる状態は、とても困った。次々と登校してくる他の生徒の邪魔になるだけの存在になってしまったからだ。
このままでは気まずいので、端っこの邪魔にならない場所へ避難する。端っこにいても、松葉杖でボーッとしていればジロジロ見られるので、これはこれで恥ずかしい。
しばらく待つと、史也がどこからか丸い座面の椅子を持ってきた。スツールっていうのかな? そして、史也の横には見覚えのある女の人がいた。茅野先生だ。
「あなたが古井戸くんね? ごめんなさい、先に椅子を用意しておくべきだったわね」
「あ、いえ……」
史也は、椅子にオレを座らせると、履いていた靴を脱がせて上履きを履かせてくれた。そして、脱がせた靴はちゃんと靴箱にしまってくれたのだ。ワオ! 〈夢の中〉でさえ、こんなことしてもらったことはなかった。
「あ、ありがとう」
オレは感動に打ち震えていた。
「まあ、日比野くんはやさしいのね」
「いえ、これはオレがやらなきゃいけないんで」
茅野先生が褒めると、史也は困っている様子だった。椅子も持ってきてくれたし、思っていたよりもしっかりと責任感を持って世話をしてくれている。
「この椅子は古井戸くん専用で、しばらくここに置いておくといいわ。それで、足がもうすっかり治って、椅子が無くても大丈夫になったら、保健室に戻してもらえるかしら?」
「はーい」
史也が良い返事をする。
「日比野くんがいてくれれば安心ね。じゃあ、古井戸くんのことは頼んだわ。古井戸くんも、無理はしちゃ駄目よ」
「はーい」
今度は二人で良い返事をした。
茅野先生は、〈夢の中〉で見た時よりも、先生らしかった。まあ、あっちは夏休みで遊びに行っていた様な感じだったし、比べてはいけないな。
などと考え込んでいたら、いつの間にか、史也に置いて行かれてしまった。茅野先生にオレのことを頼むと言われたばかりだというのに。さすが、自由人だ。
でもまあ、史也は教室に行ってオレの机にカバンを置いたら、朝の仕事は終わりだ。さっさと終わらせたいだろう。
しかし。
廊下は平らだからまだ良いが、階段が大変だ。松葉杖初心者には難易度が高い。オレが階段を上ると、明らかに皆の邪魔になるので、基本的に4組の人しか使わない奥の階段の壁よりを使うことにする。こっちは人が少ないので気兼ねなくゆっくりと上ることができるはずだ。
えーと、先に元気な左足を上の段に乗せて、左足に体重を乗せて体を持ち上げる時に、杖と折れた方の足を同じ段に持ってくる……だったな。それを繰り返す。よいしょ、よいしょ、と。
周りの注目を浴びて恥ずかしいとか考える暇もなく、オレは一心不乱に階段を上った。2階へ上がる階段の半分を上り切ったとこで、ふうと一息吐きながらくるりと向きを変えた。
すると、目の端にオレのすぐ後ろで両手を構えた体制の熊野さんが目に入った。
「あっ……」
熊野さんは真っ赤になって、慌てて両手を後ろに隠した。
「ええっ、もしかして、オレが落ちたら受け止めてくれようとしていたの……?」
「えっ、いや、あの……」
熊野さんは両手をパタパタ振って、そのままオレを追い越して階段を駆け上がって行ってしまった。
「あの、ありがとう、熊野さん」
熊野さんはそのまま行ってしまった。
まあ、もし本当にオレが落ちてしまったら、熊野さんを巻き込んでしまうから、そっちの方が危ないので、今は行ってくれて良かったと思う。
残りの階段も上り切って、ふうと一息吐きながら向きを変えると、今度は後ろに穂坂くんがいた。特に手を出したりして構えている体制ではなかったけれど、あれ? もしかして、フォローしてくれていたのかな? とか思ったけど……いや、違うかもしれないな。
余計なことを言うと、怒られるだけだし。「おはよう」と挨拶だけした。
一瞬、嫌な顔をしたけど、目を逸らしながらゴニョゴニョと、「この前は、悪かったな」と、穂坂くんが言った。
「え? 何が?」
骨を折ったのは史也だし、穂坂くんに何かされた覚えはなかったので、オレには何のことを言っているのか分からなかった。
「何って……日比野のヤツを止めなかったから」
「ああ、なんだ」
そうか、確かに穂坂くんが止めてくれていれば、折れなかったかもしれないな。
「いや、でもあっという間だったし。日比野くん、まったく遠慮が無かったもん」
「でも、やり方を教えたのはオレだし……」
どうやら穂坂くんは、責任を感じているらしいけど、オレとしては、史也と絡む口実が出来てむしろ感謝してもいいくらいだ。まあ、スゴイ痛かったけど。
「たぶん、日比野くんは今まで4の字固めなんて、されたことが無かったんじゃないかな? だから、どれだけ痛いのか知らなかったみたいだし、折れるとも思ってなかったんだよ」
「まあ、そうだろうな」
「だから逆に、今まで穂坂くんにやられていた時は、ずいぶん手加減してくれていたんだなっていうことが、よく分かったよ」
「えっ?」
穂坂くんが驚いて、少し恥ずかしそうにした。
「そ、そうか、やっとオレの優しさに気づいたか」
「うん、まったくだよ。穂坂くんは案外、気を遣ってくれていたんだね」
「……」
オレが素直に感謝したのに、穂坂くんは照れたのか気まずいのか、そのまま行ってしまった。素直な感謝だったのになあ。ちゃんと伝わっているだろうか。
それより、オレとしては早くお昼のお誘いをしたいんだけど、オレがこんな有様なのでどうしようか困っているのだ。
きっと今朝も穂坂くんはトースト1枚だろう。早く穂坂くんを朝からお腹いっぱいにしてあげなくては。
などと考えながら、穂坂くんの後を追って教室に入った。
「あ、松葉杖だ」
誰かがそう言って、教室中の皆に注目されてしまった。
しかし、普段からいじめられっ子で特に親しい友達もいなかったこの時のオレに、何かあったのかとか、そういうことを聞いてくる人は、誰もいなかった。
まあ、あの日の放課後に教室にいた当事者は皆、知っているしね。
その声で立ち上がったのは史也だった。立ち上がっただけだったけど。
史也は、オレが席に着くまでそのまま待って、オレが座ると松葉杖を取り上げて、それを教室の後ろの端っこの邪魔にならないところに置いてきてくれた。たぶん、お父さんからそういう指示が出ていたのだろう。
この分なら、帰りの靴の履き替えも手伝ってくれそうだなとかのんきに考えながら、戻ってきた史也に「ありがとう」とお礼を言うと、ギロリと睨まれてしまった。オレはニッコリ笑って返した。
一連の流れを見ていた教室の皆は、史也がオレの世話を焼いているという驚きの事実と、オレが松葉杖をついているのは、恐らく史也のせいなのだという憶測で、ヒソヒソ盛り上がっている。……先生は、何も話していないのかな?
とかなんとか考えていると、いきなり、声を掛けられた。
「あれっ? 古井戸どうしたんだよ、その足は」