星の砕石 〜子〜
乳白色の平たい石がまっすぐに敷かれていた。両側には大きさも形も様々な同じ乳白色の石が無造作に転がり、道と共に霧の向こうへと続いている。
その石の道を、ひとりの青年が歩いていた。
霧に紛れるような銀髪に、銀の瞳。白一色の衣装を纏う。
立襟の上衣は膝までを覆い、首元から臍の辺りまで四つの飾紐の釦がついている。動きに合わせて翻る裾にはよく見れば銀糸の刺繍が施されていた。だぼつきはないが緩やかに体型を隠す上衣と同生地の下衣、柔らかそうな布製の靴。
靴底に至るまで全て白ずくめの青年が口ずさむのは、今はもう忘れられた唄。
ここは〈さいせきじょう〉―――星を砕き、拾う場所。
「そうかもしれないけど」
歩みは止めずに青年は笑うような声で応える。
「でもそれなら今までにもあったはずだよね?」
青年の動きに合わせ、辺りの霧が緩やかに舞い流れていく。
「…別に、諦めてないよ」
声音に苦いものが混ざったところで、青年は足を止めた。
するりとその身体から白さが抜け落ちるように、青年の髪と服が灰を経て黒に変わる。同じく黒く染まった瞳で霧の奥を見据えながら、青年は小さく続けた。
「お客様ですね」
イラスト作 コロン様
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白い石が円形に敷かれた広場に、霧の向こうから人影が近付いていた。遠目からもわかる程の覚束ない足取りで現れたのは、ひとりの女。中年というにはまだ年若いが、やつれきったその姿からは生気が感じられなかった。
「ようこそ、砕石場へ」
声を掛けられ、女がようやく気付いたように足元から視線を上げる。
霧に覆われた広場の中央に、十歳くらいの少年が立っている。黒髪に黒い瞳、黒一色の服を纏った少年は、呆けてこちらを見る女へと一礼した。
「私はここの管理人で―――」
今までの動きからは考えられないくらいの勢いで、女が少年に駆け寄り倒れ込むように抱きしめる。
膝立ちでそのまま泣き出した女。少しも動揺を見せず、少年は無表情でされるがままになっていた。
「取り乱してごめんなさい」
一頻り泣いて落ち着いたのか、我に返った女が恥ずかしそうに少年に謝った。
「いえ」
表情を変えずに短く返す少年をじっと見つめてから、女はふっと口元を緩める。
「同じなのは年格好だけなのに。どうして似てると思ったのかしら」
その眼差しに浮かぶ慈愛に気付いているのかいないのか、少年は何も答えない。
くすりと笑い、女はゆっくりと周囲を見回した。
少年の背後には白い岩肌を晒した山が聳え、広場の左右には同じ石を敷かれた道が続いている。どちらも先は霧に呑まれ、その全貌は見えない。
「……不思議なところね」
独り言のように呟き、女は道の両側に無造作に転がる白い石から少年へと視線を戻した。
「ここが採石場?」
「はい。砕石場です」
頷く少年から再び周りの景色へと目線を移し、そう、と女は洩らす。
「……辿り着けたのね…」
いつも笑っている子だった。
誰が来てもただ穏やかに微笑んで礼を言う、そんな子だった。
時々泣きはらした目をしていても。
十年にも満たない生、外で走り回るどころか、最期には起き上がれなくなってしまっても。
それでもこちらを見る時には笑っていた。
いつからか、あどけなさの奥に消えぬ覚悟が見えるようになっても。
ただ、穏やかに―――。
少し疲れが勝る様子を見兼ねたのか、少年は少し休むかと提案したが、女は大丈夫だと頭を振る。
「ここに着いたら楽になったの。だから大丈夫よ」
その言葉通り、最初にここに現れた時のようにふらつく様子はなく。自然な動作で手を伸ばして見上げる少年の頭を撫でてから、はっと気付いて手を引っ込めた。
「ごめんなさい」
「いえ」
淡々と返した少年は、ゆっくりと注意を促すように広場の左右に続く道を一瞥ずつする。
「ここから道沿いに歩いてください。どちら周りでも構いません」
霧に沈む道を同じように見やってから、女が頷いた。
「山の周囲を回ってここへと戻ります。その途中に貴女の石がありましたら、どうぞお持ちください」
「…私の石……」
考え込むように一度視線を落とした女。暫くしてから、あの、と呼びかける。
「他の…私以外の人の石を持って帰ることはできないの?」
「はい。ご本人のもの以外を持ち出すことはできません。……ですが」
即座に否定され肩を落としかけた女に、少年は相変わらず外見に似合わぬ落ち着いた物腰で言葉を継いだ。
「相手が望むなら、貴女の石を分けることはできます。」
言い切られた言葉に、女が少年を凝視する。
「…相手が…望むなら……?」
「はい。ですがそれについてはまた後程お伝えします。まずは貴女の石を見つけにいきましょう」
切り上げるように言い切った少年に、まだ怪訝そうな顔をしていた女も小さく息を吐いて頷いた。
「左右どちらかの道を進んでください。途中で引き返したり道を大きく外れたりなさると戻れなくなりますので、お気をつけください」
改めて霧の向こうを見ながら、少年が説明を再開した。
「私はうしろからついていきます」
それきり口を噤んだ少年に、説明は以上だと理解した女。左右どちらも同様に霧に呑まれる道を見比べてから、こちらにしますと右を向いて歩き出した。
ゆっくりと一歩ずつ、先程よりは確かな足取りで進んでいく。
ただ己の足音だけが霧に吸い込まれていく中、同じように己の発した音しかしなくなった小さな部屋を思い出す。
苦しげな荒い息も。辛さに耐えかね身動いだ衣擦れの音も。扉を閉めて暫く後の押し殺した嗚咽も。何も聞こえない。
無音の中に横たわる我が子は、とても穏やかな顔で。
その瞬間に湧き上がった今までのそれと相反する感情。そのどちらが正しいのか、未だ自分にはわからないままだった。
蘇った惑いを胸に歩き続けるうちに、行く手にほんのりとした光が見えることに気付く。
「…あれは?」
足を止めて光を指差し少年に問うと、少年は表情を変えずにそちらを見やった。
「貴女の石ですので私にはわかりかねますが、探しに来られた皆様は光って見えると仰られます」
「ならあれが…?」
「傍に行けばわかるかと思います」
淡々と返す少年から光へと視線を戻し、女は足早にそれへと近付いていった。
辿り着いた光を前に、女は道に膝をつく。道の傍らに転がる石のひとつが、その存在を訴えるかのように淡く光を放っていた。目を射るほどではない、しかしはっきりと主張するその石を、女がその両手で優しく掬い上げる。
役目を終えたことを悟ったのか、光は徐々に収まり消えた。その手に残るのは、半球が捻れて繋がったような塊。暫く、というには少々長めの時間呆けて見つめた後、女は石を大事そうに両手で包み込んで立ち上がる。
「…ありがとう……」
視線を落としての呟きは、誰の応えもないままに霧へと紛れた。
次第に霧は深くなり、左手側の山どころか道の周りの石さえも見えなくなってきた。
進みましょうと少年に促されて再び歩き出した女。視界が白く狭まるにつれ、その思考も過去へと沈む。
なんの音もしなくなった部屋で、ずっと考えていた。
たとえこのまま起き上がれなくても。苦しそうな顔を見続けることになるとしても。それでも生きてさえいてくれればいい。
ずっとそう思っていた。それなのに。
記憶の中のどの顔よりも穏やかな、そんなあの子を前にした瞬間。もうこれであの子が辛く悲しい思いをすることはなくなったのだと。ようやく苦しみから解放されてよかったと。そんな思いが湧き上がった。
己が抱いた相反する気持ち。それはきっとそのまま、あの子自身がずっと向き合ってきたものなのだろう。
折り合いがつかないふたつの感情を前に、浮かんだもうひとつの疑問。
自分にあの子の苦しみはわからない。だから安易に願ってしまっていた。
しかしそれは、あの子にとって負担ではなかったのだろうか、と。
最早聞けぬその問いの答えを知りたくて、古い詩に縋った。
あの子と自分との間にもし絆があるのなら、きっと自分にもあの子の気持ちが伝わっている。
そして自分の気持ちもきっと―――。
霧の中にぽつりと黒点が浮かんだ。歩を進めるにつれうっすらと見えた敷石は、最初の広場のように弧を描きながら広がっている。
「お疲れ様でした」
うしろからの声に振り返る女の横を過ぎ、少年は真ん中にある場違いな程黒い一枚石の横に立った。
少し霧が薄くなったのか、見えるようになった岩山から少年へ、少年からその隣の四角く平らな敷石へと視線を移しながら、女はここがやはり最初の広場であると気付く。
「それは…」
「これは砕石盤です」
ここを出るまではなかった黒い敷石を見つめて呟く女に、少年は当然のように答えた。
「ここで石を割ることができます」
聞き慣れぬ言葉に眉を顰めて考え込んでした女が、はっと気付いたように少年を見やる。
「これを分ける、ということなのね…」
「相手がそれを望むなら」
石へと視線を落とした女に、少年は変わらぬ声音で重ねた。
「分け合いたい相手のことを考えながら、石を砕石盤に落としてください。相手はひとりでなくても構いません」
少年の声を聞きながら、女は砕石盤の前に立っていた。
生きていくことは、あの子には辛いことだったのかもしれないが。
どんなに苦しくても生きていてほしいと願っていた。
どんなに辛そうでも傍にいてほしいと望んでいた。
今はもう苦しくも辛くもないことをよかったと思う気持ちもある。
それでもやはり、生きていてほしかった。
生きることが苦しくても、生きていてほしかったのだ。
「…酷い母親だって、そう思ってる…?」
呟きと共に、女の手から白い石が落ちていった。
カン、と響く澄んだ音。
星の石は、ふたつに割れた。
へたり込むようにその場に座り込んだ女が、捻れた部分で割れてふたつの半球になった石を拾い上げる。
同じような形のふたつの石は、思いは同じだと示すようで。
ふたつの石をぎゅっと胸に抱き、俯く女の頬を涙が伝う。
本当は、もっとずっと一緒にいたかったけれど。
「…精一杯生きてくれてありがとう……」
一言零して啜り泣く女を、砕石盤の傍らに立つ少年はただ見つめているだけだった。
やがて泣きやんだ女は、どこか晴々とした表情で前を向き、立ち上がった。
「色々ありがとう」
やはり自然に手を伸ばし、少年をぎゅっと抱きしめる。
同じくされるがままの少年は、女の気が済むまで動きも声を出しもしなかった。
「あなたも元気でね」
少年に示された途を進みながら、時折振り返り手を振る女。
少年は女の姿が霧に紛れるまで深々と頭を下げたままだった。
話すものも動くものもいなくなった静寂の中。ゆっくりと頭を上げたその時には、少年だった姿は元の黒衣の青年へと戻っていた。
暫しの間どこか呆けたように霧の向こうを見据えていた青年は、そのまま視線を空へと向ける。
「……お疲れ様でした……」
解けるようにその黒さが霧に溶ける。
銀の髪と瞳に白い衣装へと戻った青年は、砕石盤が消え失せた真っ白な広場で立ち尽くしていた。
「……え?」
我に返ったのか、青年が小さく洩らして瞬きをする。頬を伝う感触に、青年はその手を頬へと当てた。
濡れる頬に気付いて両頬を拭い、仕方なさそうに微笑む。
「……ちょっと落ち着いてよ。まだ僕だって驚いてるんだから」
言葉を発したことで自身も少し落ち着きを取り戻したのか、軽く息をついてから、青年はそうだねと頷いた。
「…望まれたのはそれなんだと思う。でも…」
言葉を切った青年は幾度か相槌を打った。その表情に少しの期待を滲ませながら、今度は長く息を吐く。
「全部じゃない。だけど見つけた」
ひとり呟いてからくすりと笑い、気が早いねと明るく告げた。
「でもありがとう」
心からの感謝を述べて、青年は道沿いに歩き出す。
白いそのうしろ姿はすぐに霧に覆われ、消えた。
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