005★ スリーライク
禍波さんに出会い、雇用契約を結んだ夜から二日が経過しました。
未だに禍波さんから仕事の連絡はありません。てっきり求人をしているくらいなのだからよっぽど多忙な仕事だと思っていたのですが、そうでもないのでしょうか。
大学の講義もあるので頻繁に呼び出されるよりは良いのかもしれませんが……これはこれで心苦しいですね。
百万円という大金に見合った働きを存分に見せるつもりでしたのに、これでは給料泥棒もいいところです。
――そう、百万円。
突然大金を投げてよこされたりキスをされたり姿を消したりと、よくよく思い返せば禍波さんと出会った夜はもしかすると夢だったのではないかと思えるようなことばかりが起きていました。
ですが家に帰ってもちゃんと百万円の札束は俺のポケットの中に収まっていましたし、銀行に預け入れる際にも消えたりしませんでした。
あの百万円は紛れもないリアル。
禍波さんとの出会いも間違いなくリアルなのです。
俺は禍波さんの下で働く契約をし、前払い分の給料として百万円をいただきました。
夢でない以上、俺は働かねばならないのです。
働かねばならないのですが――呼び出しが無い以上どうしようもないのも確かです。
こちらから電話をかけてみてもいつも留守番電話になりますし、仕事内容もわかりませんからそれに関する知識や技術を身につけることすらままなりません。
俺にできるのはいつ呼び出しがかかってもすぐに行動できるようなしっかりとした心構えを作っておくことくらいなのです。
そう、たとえ仕事の内容がわからなくとも、どんな仕事でもバリバリこなせるような心構えを――!!
……どんな仕事なんでしょうね、本当。
「はあ……」
不安からか、自然とため息も出るというものです。
それ程大きなため息をついたつもりはなかったのですが、耳聡くそれを聞きつけたマスターが声をかけてきました。
「どうしたんだ鷺澤、ため息なんかついて。何か悩み事か?」
この太い眉と無精ヒゲがチャームポイント(自称)のマスターと呼ばれる人物は、俺が日頃懇意にしている小さな喫茶店『スリーライク』の店長である三好野熱雄さんです。三四歳独身彼女なし、出来る気配もなし。
喫茶店のマスターというよりはむしろ柔道や空手などといった武道の師範にしか見えない大柄で筋肉質な肉体からは考えられないほど繊細で深い味のコーヒーを出してくれることで定評があり、固定客の多くがマスターのコーヒーのファンなのです。俺もその味に魅了されて常連になった人間の一人だったりします。
人は見かけによらないとは言いますけれど、あの言葉は本当だったのだなあと実感させられる人なのです。
『スリーライク』は立地条件もまずまずで、ここ七見河町の中心街である葵原、その駅前の大通りに面した一等地に看板を出しています。
七見河町は田舎ではありますが、田舎なりに葵原は発展している地区であり、様々な娯楽施設や流行のショップなどが集中しているので休日になると地元民が集まりたくさんの人々でごった返します。特にこの駅前の大通りは平日でも通勤・通学する人々が絶え間なく行き交うため、『スリーライク』もそれに乗じてなかなかの繁盛ぶりを見せているようです。
今も午後のコーヒータイムを満喫しているお客さんが俺の他にも数人。
一見するとメイドさんのようにしか見えない可愛らしい制服を身につけたウェイトレスさんが忙しそうにテーブル席からテーブル席へと動き回っております。
ともあれ、そんなお店のマスターとそれなりに長い付き合いである俺は、こうして店に訪れる度にお声をかけていただいている次第であります。
いつもならここで長年の友人と話すときのような自然体で話を展開させていくのですが……しかし今回ばかりはどうでしょう。
百万円という大金が絡んだアルバイトの話なんて気安くして良いものではないはずです。こんな不況の時代の下では少なくとも気分を良くする話でないのは確かですし……。
……仕方ありません。
嘘をつくのは少々心苦しいですが、誤魔化させていただきましょう。
「いえ……このお店のウェイトレスさんは相変わらず可愛い子ばかりですねえと思ってちょっとマスターが羨ましくなってしまっていただけですよ。どうしたらこんなハーレムが出来上がるんですか?」
「フッ……俺の男気に引き寄せられて可愛い女の子ばかりが面接に来るものでな、自然と出来上がってしまっただけだ」
「へー…………?」
「おい、どうして疑問系になるんだ」
俺がこう言ってしまうのもアレですが……マスターはダンディではありますが、イケメンではないかと……。
マスターの顔見てると何かを思い出すんですよねえ……。
何でしたっけ、何でしたっけ、えーと――あ、ゴリラだあ!
以上、俺の返事が疑問符になるのも無理ありませんという話でした。
「仕方ない、納得できなかったのならばこう言い直そう。フッ……俺の男根に引き寄せられていやらしい雌豚どもが陰臭を撒き散らしながら――」
「マスター、言い直した意味がわかりませんしそもそもここ飲食店ですよー。他のお客さんいますよー。男根とか言っちゃダメですよー」
「何を言っている鷺澤。料理もコーヒーも男根も結局は口に入れるものなのだから誰も気にするはずがないだろう?」
「な、なるほど! 口に入れることができるのだから汚いはずがない、だから例え食材の中に紛れ込んでいたとしても気にならない……っ!?」
「そうだぞ鷺澤、男根という言葉をまるで汚物のように扱うのは間違っているのだ。大体お前は男だろう? 男根の否定はお前という存在の否定に等しい。『我男根、故に我在り』という言葉を唱えた歴史上の偉人だっているくらいなんだぞ」
「自己存在男根説!?」
「だから男なら男根を称え、敬い、崇めるのは当然のことなんだ。それがわかったのならお前も大きな声で叫べ。恥ずかしがらずに自身を持って胸を張り、男根万歳と――っへぶしゅるぁー!?」
しかしマスターの叫びが店内に響き渡ることはありませんでした。
突如猛スピードで飛来した銀色のトレーがマスターの側頭部を打ち抜き、熊のように大きな巨体がぐらりと傾げて床に倒れ伏します。
驚いた俺が銀トレーが飛んできた方向に目を向けると、端正な顔立ちをした黒髪のウェイトレスさんが肩を怒らせながらこちらに向かってツカツカと歩いてきている姿が映し出されます。
そのウェイトレスさんは一切の迷い無くカウンターの中へと入っていき、飛び道具によってすっかりと意識が刈られたマスターの横辺りで立ち止まったかと思うと、見るからに容赦という言葉が存在する余地も無さそうな力加減でマスターの身体を思いっきり踏みつけました。
「男根男根うっせえんだよボケ! んなに男根が好きなら部屋に閉じこもっててめえのその汚ぇモノでも握ってやがれ! ていうかおいコラ黙ってねえで言い訳の一つでも言ってみろ! 男根ってしか言えねえのかその口は! あァ!?」
そう怒鳴っている間にもそのウェイトレスさんは意識の飛んだマスターを踏みつけることは止めず、見た目細い足から繰り出される強烈な踏みつけにマスターの身体はもう痙攣することでしか反応を見せられなくなっています。
白目をむいた表情が心なしかちょっと嬉しそうに見えるのは気のせいでしょうか。気のせいですね。
……とりあえずそろそろ止めてあげないとマスターの命が危ないでしょう。
マスターの口から魂がはみ出してきてるのが見える気がしますし。
幸い、このバイオレンスなウェイトレスさんとは顔見知り――というか中学、高校、大学と同じ学校に通う長い付き合いの友人だったりするので声をかけるのに問題はありません。
名前は八刀九弓さん。
巻き込まれないようにだけ注意しましょう。
「あのー九弓さん、恐縮ながら進言させていただきますと、マスター意識どころか魂まで飛んで行っちゃいそうなのでその辺で勘弁してあげてください」
「あァ!? 知るかボケ! つーか燠、てめえも共犯だろうが! 熱雄が変態なのくらいわかってんだろ!? 変なこと語りだしたらノせてねえですぐ止めろよ! 他のお客さんに迷惑かけやがって!」
「いやーまあそれは確かにその通りなのですけれど……九弓さんももう少しトーンダウンしたほうがよろしくないですか? ほら、お客さんみんな九弓さんのこと見てますよ」
俺が言うと、九弓さんは「え?」と声を上げてやっと周囲の視線が自分に集中していることに気付いたようです。
するとすぐにお客さん達に向かい深々と頭を下げて「すみません、お騒がせいたしました!」と謝罪の言葉を述べましたが時既に遅し。お客さんたちは皆微妙な笑顔を浮かべて目を逸らすのでした。
……こんなに外見が整った見るからに大人しそうな乙女が急に声を荒げて男根と連呼しながらマスターをぐっちゃぐちゃに踏み殺そうとしていれば、目を向けてしまうのも致し方ないというか。
先程まで笑顔で接客してくれていたはずの可愛いウェイトレスさんがここまで豹変したらそりゃ驚きますよね。
そんなわけで良い感じに赤っ恥をかいたマイフレンド九弓さん。
当然その怒りはすぐ目の前にいる俺へと降りかかってくるわけで、九弓さんは他のお客さんに聞こえないような小さな声で俺へとクレームを申し立ててきます。
「……ったく、最悪だ……。てめえのせいだぞ、燠。毎度毎度熱雄とバカばっかりやらかしやがって……注意する方の身にもなれってんだ」
「ご一緒にどうですか? 意外と楽しいものですよ」
「どうもクソもあるかバカ。お前らに油売ってる暇なんてねえっつーの。暇があってもお前らみたいな変態と同類にはなりたくねえ」
「心外ですねえ、俺は割とノーマルですよう。というかむしろ九弓さんのほうが立派な変態さんじゃないですか。もっと自分に素直になりましょうよー」
「はァ? 俺のどこが変態だって言うんだよ。お前らなんかと違って俺は全然普通――」
「へえ。男の子がそんな可愛らしいウェイトレスさんの格好してるのは普通なんですか?」
「ちょ、てめっ……!? バカおい何言いやがってんだクソが!?」
慌てて俺の髪をむんずと鷲掴み、そのままカウンター越しに引っ張って首をがっちりと押さえ込む九弓さん。
誰かに聞かれたんじゃないかと心配で周囲をキョロキョロと落ち着き無く見渡す九弓さんの慌てふためく姿は大変可愛らしく、顔を赤らめて口の辺りを手でちょこんと押さえる仕草を見ても女の子だとしか思えませんが――
一人称は俺。
言葉遣いは荒め。
頭に血が上りやすく、手が出るのが早い。
しかし小柄で華奢な体格、見る者の心を奪うような可愛いご尊顔、そして服の上からでもはっきりとわかるほどに膨らんだ胸元。
ただし、性別は”男”。
……なんともややこしい。
まあ、簡単に言ってしまえば今巷で流行の”男の娘”というやつですね、ハイ。
中身は今までの会話の通り、完全に男の子ですけれど。
とはいえ、この事実を知る人間はそう多くありません。
九弓さんは男の娘にあるまじきお胸があり、加えて声まで可愛らしいですから、外見などから男だと判断することはまず不可能。学校側にも圧力をかけて特別に女子扱いされるようになっていしますし、九弓さん自身も普段は女の子のように振舞っているので、疑う者すら存在しないと言って良いでしょう。
ならば何故俺がそんな九弓さんの知っているのかと言えば、そこには色々な事情があるのですが……ここでは一旦保留とさせていただきましょう。
マスターの次は俺の命が危ないです。
「痛い! 痛いです九弓さん髪は引っ張らないでハゲちゃう! 大丈夫ですよ、他のお客さんには聞こえないような声量で言いましたから聞こえてないはずです! だから離してー! イヤー!」
「うるせえ! てめえバレたらどうしてくれんだよコラ……! 俺だって好きでこんな格好してるんじゃねえんだよ! 燠だってそれくらいわかってんだろ!?」
九弓さんが女装している理由は、奇異の目で見られることやイジメを回避するためだと聞いています。
九弓さんのように可愛いお方が男の格好で男らしく振舞っていたら皆戸惑うこと間違いなし……特に膨らんだ胸元が一番マズイです。遺伝子の異常により女性的な体になってしまったようですが、そんな事情を理解してくれる人が多いとは限りません。まず間違いなく普通の男子生徒として生活していくのは困難だったでしょう。
……そう。
女性的な体つきである九弓さん。
その見た目通り、密着すると女の子特有の甘い香りが鼻をつき、ヘッドロックなんてされた日にはもう――
「そんなことより九弓さん……お胸が顔にあたってとっても幸せです。このまま一生締め上げてください」
「っ!? バカ燠っ! この変態! 熱雄かお前は!?」
俺が言うと、顔を真っ赤にしながらロックを外してカウンターへと俺の頭を叩きつける九弓さん。
そしてすぐに胸を隠すように自分の体を抱いて、羞恥に染まった怒りの表情で俺を睨みつけてきます。
……ですがその表情の可愛さといったら、もう言葉に出来ません。
正直悶えて死にそうです。
九弓さんが男の娘だって知らなければ……辛い現実なんて知らなければ俺は素直に恋していたでしょうに……!
こんなやり取りもラブコメ的な日常風景として受け入れられていたでしょうに……!
もし神がいるのなら、どうしてこんな理不尽を世界に与えたのかと小一時間問い詰めさせていただきたいですね! というか一発殴らせていただきたいですね!
嗚呼、それにしてもカウンターは硬くて痛いです……お胸の柔らかい感触が懐かしい……。
「いたたた……それはそうと九弓さん、またサイズアップしてません?」
「なっ……!? う、うるせえバカ黙れ黙れ黙れー! とっとと死ね、百回死んで二度とうちの店に来るんじゃねぇー!」
「おやおや、俺だって一応お客さんですよう。まだ注文だって何もしてませんし、このまま帰ると冷やかしみたいになっちゃうじゃないですかー」
「知るかバカ! じゃあさっさと注文しろ! 注文だけしたらあとは金払って帰れ!」
「それじゃ注文する意味ないじゃないですか……。まあいいです、ではコーヒー一つお願いできますか?」
「熱雄の意識が戻るまでコーヒーは無理だバカ野郎外の自販機で缶コーヒーでも飲んでろクソったれ」
「……注文取る気ありませんよね?」
「うん。早くお帰りくださいお客様♪」
あらまあ素直な子っ。
目一杯の接客スマイルが可愛らしいのに物凄く嫌味くさいっ。
そんなとき、九弓さんの足元からマスターの低い呻き声が聞こえてきました。
どうやら息を吹き返したようです。
カウンターから中の様子を覗き見てみると、いかにも満身創痍といったボロボロの姿で床に横たわるマスターの巨体がありました。
「鷺澤……こ、コーヒーなら、出せるぞ……ぐっ…………ううっ……!」
「ま、マスター! その傷では無理です! まだ休んでいてください、ここは俺が何とかしますから!」
「そんなわけにはいかない……。俺は……俺はこの戦いが終わったら国に帰って…………ぐふっ……借りっぱなしだったエロDVDを観るんだから……な……。だから、大丈夫だ……」
「マスター……! そうですね、帰りましょう! マスターのエロDVDもきっとあなたの帰りを待っていますよ!」
「……てめえらバカだろ。何だその意味の分からん寸劇は……」
九弓さんの呆れた声が聞こえてきましたが、俺は構わずカウンターから更に身を乗り出してマスターへと向かって手を伸ばします。
「さあマスター、立てますか? 立てなかったらこの俺の手に掴まってください!」
「……何を言っているんだ鷺澤……げほっ…………俺ならもう既にきちんと立っているじゃないか……」
「ま、まさかマスター、既に幻覚が見えて……!? ダメですマスター、戻ってきてください! 現実のあなたは床に寝転んだままですよ!」
「いいや、俺は確かに立っているぞ……! 目の前にパラダイスが……天国が広がっているのだから、立たずにいられるわけがあるか……!」
「天国……?」
そこで俺はマスターの視線の先を追ってみることにしました。
マスターの視線は床に倒れ伏すマスターの目から彼のすぐ近くに立っている人物――つまり九弓さんへと向かって真っ直ぐに伸びており、更に詳しくその視線を辿ってみれば、それは九弓さんが着用するウェイトレスの制服の短いフリルスカートの中へと侵入していました。
……ああ、なるほど、そういうわけですか。
九弓さんもどうやら俺の視線の動きを見てマスターの言っている意味に気付いたらしく、顔を真っ赤にしてわなわなと震え出しました。
それに気付かないマスターは相変わらず一点だけを見つめ続け、口の端からわずかにヨダレを垂らしながら自分へのトドメとなるとも知らずに言葉を紡ぎ続けます。
「今日は黒か九弓……。ちゃんと女物の下着を着けていることは関心するが、少々エロすぎやしないかそれ。おかげで立ち上がる力も残っていないはずの俺がこんな立派に立ってしまって――」
「…………じゃあ一生立ち上がれなくしてやんよこの変態がああああああああああああ!」
立ち上がっていたマスターの体(の一部)は九弓さんの足によって打ち砕かれ、その後俺が店を出るまでマスターの魂が現世に戻ってくることはありませんでした。
あまりにも凄惨な光景だったため、これ以上の描写はできません。
マスターが再び立ち上がることのできる日が来るのを密かに祈ってあげましょう。
……なむなむ。
そんなことがあった日の夜、夕食時の午後七時過ぎ。
――禍波さんから、初仕事の旨を告げる電話が鳴り響きました。