こころの示す方へ
井の頭公園の桜が散り始めた頃、
吉祥寺の飲み屋は仕事終わりのサラリーマンや大学生達で賑わっていた。
「なんだよ圭吾、もう帰るのか? 」
詰まらなさそうに野中健太郎は言った。
「わるい。明日早めに起きなくちゃいけないんだ。ゼミの準備なんもしてなくて。」
この言葉に健太郎は、あからさまに不満そうな顔を浮かべた。
「圭吾くんは健太郎と違って研究熱心なんだよ。 ね、圭吾くん! でも、そういうことなら仕方ないね、また今度飲もうよ。」
浅沼加奈が名残惜しそうに言った。
しかし、本心はそう思っていないことくらい、僕には理解できた。
余計なことを言うと面倒になりそうだ。
僕はそう思い、何も言わずに店を後にした。
吉祥寺の夜空を見上げるとなぜかぼやきたくなる。
どうして飲み屋という場所は、人の欲望を孕ませたお世辞や嘘がこんなにも飛び交うのだろうか。
雲ひとつない夜空なのに星一つ見えない。
街の明かりが、今はなんとなく星を見たかった僕には意地悪く感じた。
サンロード商店街に入ったところで、何かのメロディが聴こえてくる。
ほのかに酔っているせいか、何かのBGMなのか、それとも誰かの「音」なのか分からなくなっている。
音の発信源に目を走らせると、30歳くらいの髭を生やした男性が奏でる、お世辞にも上手いとは言えないアコースティックギターが目に止まった。
しかし、音の発信源はもう1つある。
僕にとってはそっち方が気になる。
それは、彼に侮蔑の目を向ける女子大生が発する、例えるならエレキギターをドロップDチューニングのままオクターブ奏法で弾いているような不協和音であった。
「気持ちわるい」
吉祥寺の空にまたぼやこうとしたが、空は見えなかった。
そっかサンロード商店街だから屋根あるんだった。
そんなどうでもことを再確認しながら、僕は吉祥寺駅へ向かった。
人の心の音が聴こえる。物心ついた時からそうだった。
僕は勝手に「心音」と名付けている。
例えば電車の中は心音がよく聴こえる。
今日みたいな金曜日の夜は特にだ。
酔っ払いに足を踏まれた女の憤り、好きな女子と会話をしている男の気持ちの高揚、こういった感情が音として脳内へ流れてくる。
その感覚は、人の顏を見た時に表情などと一緒に、音も聴こえてくると思えば分かりやすいかもしれない。
心音を形成する音は、圭吾の脳内にある音の記憶に依存するようで、ピアノ、ギター、ベースなど僕の聴いたことのある音の範囲で心音は奏でられているのだと考えている。
この奇妙な能力について、友達には話したこともあるが、もちろん信じてもらえず、「圭吾は宇宙人っぽいところあるから、宇宙と交信ができるのかもね」と変人扱いされる始末であった。
そのことが影響しているのか、それとも本当に僕の見た目が宇宙人っぽいせいなのかは分からないが、中学校の時、一部の友達に火星人というあだ名を付けられた。
そういう経験もあり、今ではこの能力を誰にも話さないと僕は心に決めているのである。
「金曜日の夜は気分が悪い」
僕は、また、空を見上げる仕草をしそうになった。
電車が人々をゆっくりと運んで行く。
湘南新宿ラインの池袋ー赤羽間は一刻も早く電車から降りたい僕には一層長く感じた。
明日のゼミに備えて少し準備をしておかなければならないのだが、なぜ土曜日に、しかも朝からゼミがあるのだ。
そう考えると一層憂鬱な気持ちが心の中を支配した。
確か何週間か前、教授に急用が入って中止になったゼミがあった。その埋め合わせが明日なのだ。
「運がわるい」
そう思うと少し苛立ちすら感じた。そんな僕を気遣ってくれているのか、電車はさっきより速く走っているように感じた。