9 レーナ
エリザベートの産んだのは女の子だった。リヒテンラーデの血を引く子供たちはいずれも金髪で生後しばらくは髪の毛が全然なかったのに、今回の赤ん坊ははじめから黒い髪がいっぱい生えているのでエリザベートはびっくりした。こどもにはドイツ、ロシアいずれでも使えるということでレーナという名がつけられた。
妊娠中の経過は良好でつわりも軽く、食欲もあった。アレクセイはこれまで以上にエリザベートに優しく、大切にしてくれた。妊婦が平均的な体格なのに対してアレクセイは190センチ近い長身であったため、医師は胎児が大きくなりすぎて難産になることを恐れ、予定日よりも早く産んだほうがいいと言ったが、どうすればそのようなことができるのかは誰にもわからなかった。
アレクセイはどうしても出産に立ち会いたいと言い張り、2月以降はあらゆる出張を断ってベルリンに居座り続けた。すでに親戚のジューコフ元帥はロシアへ異動していて、後任としてドイツ駐留ソ連軍の総司令官となったワシーリー・ソコロフスキー上級大将からの目の上のたんこぶ扱いに加えてこの命令不服従はアレクセイの地位を脅かしかねないものであったが、彼はそんなことは全く意に介していなかった。一度司令官からは呼び出しをくらったが「産まれた後は倍働く」と空手形を切っていた。多くの将官がドイツ女性を愛人として一緒に暮らしていたが、アレクセイは「まじめな人ほど狂うもんだね」と陰口をたたかれていた。
予定日一週間前に陣痛があり、重々言われていたとおりエリザベートはすぐにアレクセイに電話を入れた。彼は会議をすっぽかしてすぐに病院にかけつけた。安産の後にレーナは産まれた。アレクセイはエリザベートの手を握って「ありがとう」とうれし泣きをし、産湯を使う赤ん坊から離れようとしなかった。
病室に戻ったエリザベートの目に、ゆりかごの赤ん坊をずっと見つめているアレクセイがうつった。いろいろあったけど、私はいいことをしたんだわ。彼女は疲れた頭で考えた。アレクセイは長い間ずっと私と私の家族、使用人、財産を守ってくれた。深い愛情で私が心を開くのを待ってくれた。恋人同士になり、抱き合うときはいつも私の快楽を優先してくれた。男がその時に快楽を覚えるものだということくらいエリザベートもわかっていたが、それでも不安になり、「あなたは気持ちよくなっているの」と聞いてアレクセイを大爆笑させたこともあった。
一緒に暮らしてからもアレクセイからは与えられることばかりだった。生活費も使用人たちの給料もアレクセイが出してくれていたので、エリザベートはそれがいくらくらいかかるのか知ろうともしなかった。リヒテンラーデ侯爵家の子供たちへの教育費も出し惜しみしなかったし、エリザベートにも欲しいものを買うように現金を渡してくれた。いったいアレクセイがどのくらい給料をもらい、どのくらいを使い、はたまた貯蓄がいくらあるのか不明だった。今のところ彼は自分の「夫」ではないし、そこまで詮索するのも失礼だろうとエリザベートは思っていた。
エリザベートはリヒテンラーデ家から相続した財産を一応管理していたが、単に「持っている」ということにすぎなかった。フリードリヒスハインの貸しアパートから入る家賃も折からのマルク暴落でたいした金額にはならないし、侯爵家の家財を売った代金もとても恒久的な生活費にはならなかった。
そんなアレクセイがエリザベートに初めて「要求」したのが子供であった。あの日アレクセイはいつもと逆にまるでエリザベートに抱かれるかのように彼女の胸に顔をうずめ、「君との絆が欲しい」と言ったのだ。
「ピルが急に効かなくなって思いがけず妊娠したけれど、私はあのまま半年か一年付き合ったあと自主的にピルを飲むのをやめていたはずだわ」エリザベートはそう考えた。助産婦に笑われながらアレクセイがおそるおそる赤ん坊を抱いているのが目に入った。
「あの赤ん坊は私がアレクセイに与えた唯一の宝だわ」
黒髪の赤ん坊が自分の子供であるというのは違和感があった。ナチス時代のエリート養成機関ナポラの入学資格は金髪碧眼のアーリアンであることだったのだから。リヒテンラーデ家の3人の子供たちもいずれはナポラに入学させようと考えていたのだ。もうナポラはなくなってしまったが。しかしあの小さな赤ん坊が恩人であるアレクセイを幸せにするのならそれもいいだろうと思った。それにあの子がいるかぎりアレクセイは私たちへの養育義務が続くだろう。死ぬまで生活の心配をする必要がないんだわ。
アレクセイは「小さいな」とか「かわいいな」とか言いながら赤ん坊の頬をつついていた。アレクセイは私とレーナを愛しているから一緒にいてくれるのだろう。それなのになぜ「養育義務」なんて思ってしまったのだろうとエリザベートは愕然とした。自分はこの人と一緒にいることを、一時的なことだと思っているのだろうか。世間が安定するまで、自分の仕事が見つかるまで安全に守ってくれる相手として重宝しているだけなのだろうか。そして「ああいう子どものことを世間では何と言うのだろう」と考えた。婚外子。私生児。非嫡出子。もちろん妊娠判明後アレクセイは嬉々として認知届を出してくれたのだが……
エリザベートがぼんやりと暗い顔をしていることに医師が気づいた。
「奥様、出産直後は精神と肉体のホルモンバランスが崩れがちです。お産の処置はこれで一通り終わりましたのでゆっくりおやすみください」
エリザベートは「はい」とだけ答えた。今まで出産に使っていたシュナイダー総合病院を使うのもいやだったので今回は違う病院だし、違う医師だ。新しく雇用された乳母がアレクセイから赤子を受け取り、隣の部屋へ去った。上の3人の子の時もそうだったが、エリザベートは産まれた子とべったり24時間一緒にいたいとは思わなかった。貴族の伝統として妻の最も重要な役割は跡継ぎとなる嫡出男子を出産することであった。そう思うと自分の役割は長男エドゥアルトを産んだ時に終わってしまったのだ。ジークフリートは死んだとされ、エドゥアルトは6歳の小さな侯爵様なのだ。
アレクセイは医師たちとともに部屋を退室し、エリザベートは一人病室に残された。産後一ヶ月は夫婦の交わりが禁止されているので退院しても彼女は別の部屋に寝ることになっていた。アレクセイは不満がたまるかもしれないな、と彼女は考えた。そしてこんなに愛しているのに、また彼もこれほど自分のことを愛してくれていると実感できるのに、なぜこの生活がずっと続くと信じられないのだろうと不思議に思った。
ジークフリートとの結婚もその後の生活も何も疑ったことはなかった。第三帝国の栄光に熱狂し、永遠に続く繁栄と信じていた。総統は「帝国は千年続く」と再三言っていたのだ。エリザベートは戦争にも勝つものだと信じていたし、命をドイツ帝国にささげると誓っていた。
なぜ自分は生きているのだろうと彼女は考えた。戦後に聞いた話では多くの人々が赤軍到着前に自殺をしていたそうだ。もちろん赤軍到着後の自殺もはなはだ多かった。ジークフリートはなぜ「ボリシェビキに犯されるくらいなら自殺しろ」といわなかったのだろう。ベルリンを脱出するときになぜ電話一本くれなかったのだろう。なぜ私たちを連れて行ってくれなかったのだろう。
涙が頬を伝わり、髪を濡らし、枕を濡らした。私の人生は第三帝国とともに終わらせるべきだったのかもしれない。私は肉体だけでなく心までロシアに渡してしまった。第三帝国と総統閣下とリヒテンラーデ家にささげた私の血を、ロシアの血と混ぜてしまった。
「ジーク……夢でもいいからでてきてよ」
エリザベートはジークフリートを思って泣いた。幸せだったころを思い出して泣いた。祖国の崩壊と自分の人生の取り返しのつかないことを思って泣いた。ジークフリートが死ぬなら自分も一緒に死んでしまえばよかったのだ。なぜ自分は一人でこんなに混乱した戦後を生きなければならないのだろう。私が始めた戦争じゃないのに、私がユダヤ人を殺したわけじゃないのに、なぜ世界中に謝罪し続けなければならないのだろう。
アレクセイは医師たちに礼と挨拶をした後、エリザベートの顔を一目見てから家に戻ろうと病室に戻ってきた。彼はエリザベートが涙を流しているのを見て驚いた様子を見せた。
「どうしたの」
「わからない……涙が止まらないの」
エリザベートはそう言って手のひらで涙をぬぐった。結局点滴に睡眠薬が混ぜられるという処置が加えられた。その後2,3日は少し熱を出したり、昼間もうつらうつらして過ごすことになった。余計なことを考えずに済むのはありがたかった。彼女は病気のせいにしてアレクセイやレーナとも必要以上に顔を合わせることもなかった。
「産後うつということも考えられますので、一ヶ月間は絶対に目を離さないように」
安産だったのにエリザベートの様子がおかしいと、アレクセイは何度も医師に相談していた。
「とにかく奥様はこの2年間一時も気の休まる暇がなかったことでしょう、この機会にゆっくりと休ませてあげてください」
アレクセイはエリザベートに仕事はしばらく再開しないように、と命令した。家には何人も使用人がいるのだから、育児も好きなときだけして後はゆっくりしていろと言った。
「それじゃあ、私何のためにいるのかわからないじゃない」
「いいから。言われたとおりにしろ」
エリザベート自身も、周りの人々も彼女がこれほど第三帝国の崩壊を精神的に引きずっているとは夢にも思っていなかった。世間知らずの若い奥様は軽薄で流行のドレスにのみ興味を持ち、首相の名前など知らないものだと思われていた。お偉方の夫人の集まりでは必ずゴシップとして誰それの不倫が話題になった。夫人の会ではエリザベートはかなり若い存在だったので何を聞いても決して意見せずにいたが、「浮気というのは配偶者に不満があり、他の相手に気を移すもの」なのだろうと思っていた。あるいは「完全な遊び」だろうと。ジークフリートが彼女の夫だったとき、エリザベートは他の誰にも心を動かされることはなかった。ベルヒデスガーデンには俳優や有名人も招かれたりしたが、なんとも思わなかった。漁食家と評判のハイドリヒ長官に声をかけられても何も思わなかった。
しかしアレクセイは違った。今まで会ったどんな男とも違った。2年前の7月、「もうアレクセイに会えなくなるかもしれない」と思うと、たまらなくなり、追いかけて抱きついてしまった。夫よりも5センチ背が高く、鍛え上げられた身体に抱きしめられ、自分自身が完全に無力な女であることを実感した。求められるだけでなく、自分自身が激しくアレクセイの存在を求めた。憧れ続けた激しい愛がどういうものなのかやっとわかった気がした。あの後ずっと昼も夜もアレクセイのキスを思い出した。ジークフリートを嫌いになったわけでもないし、愛が冷めたわけでも、忘れたわけでもなかった。それなのにアレクセイを好きになった。そして彼の心だけでなく、身体も欲しいと思った。彼のぬくもりに包まれたいと願った。
そして一年半前のあの日、私はアレクセイに抱かれるつもりで湖の別荘地へ向かった。駐車場で待っていたらアレクセイが制服のコート姿で私のほうへ歩いてきたのを今でも覚えている。この恋に溺れようと思った。食事もシャワーももどかしいくらいだった。早く抱き合いたかった。あの人の体温を感じたかった。
エリザベートは身震いした。ああ、あの夜のことならどんなに細かいことでも思い出せる。新婚の花嫁のように真新しい下着と化粧着を持っていった。ドレッサーの前に座っていた私の頬にキスをして「この日が来るのを待っていた」とアレクセイは言ったんだわ。そして私を抱き上げてベッドへ運んだ。「私も待っていたわ」私は彼の耳元でそうささやいた。
また涙がでてきた。看護婦が見ている。目を閉じておこう。考えないでおこうと思ってもどうしても考えてしまう。
戦争中のプロパガンダのせいで自分はロシアを軽蔑して憎み続けた。それまで好きだったチャイコフスキーも聞かなくなった。戦争末期、ロシアの国土は昔のモンゴル帝国と重なる部分が多いので、かつてのチンギスハーンの軍隊のように女は戦利品として将兵に分配されるといううわさも流れた。けれど自分はアレクセイのことが好きなのだ、どうしようもないくらいに。進んで彼に抱かれたのは私なのだ。
とにかく過去はもう戻らないのだ。今現在のことを優先させようとエリザベートは考えた。ナチはもういないし、ジークフリートは死んでしまった。食べさせなければならない子供は4人に増えた。心のなかの想い出は消せないけれど、あまり思い出さないようにしよう。アレクセイが現実世界の「夫」であり、彼女の愛の対象なのだから。
エリザベートは自分の心の混乱に終止符をうつために楽になる道を選んだ。心の奥に沈められた傷は癒えることがなく、ずっと未来になってから自分自身に牙をむくことを彼女は知らなかった。
熱が下がるとエリザベートはレーナに母乳を与えてみた。そうすることで今の自分を肯定したいと思った。アレクセイは授乳の様子を珍しそうに眺めていた。彼はどうやらエリザベートの知らないところでレーナのオムツを替えたり沐浴の世話をしたりしているらしかった。反面、エリザベートは産まれた子どもに対してもほとんど関心も愛情も抱かなかった。上の3人の時もそうだったので、子どもの世話は他人に任せっきりにし、自分は紅茶を飲みながらゆったりと日向ぼっこをして過ごしていた。春の気配を感じるころになっても彼女は相変わらず涙がよく出て気分は不安定だったが、少しずつエリザベートは日常の生活へ戻っていった。
実家やウィーンの友人たちにこのことを連絡するべきだろうかとエリザベートは悩んだ。ベルリンの友人知人は彼女のお腹が大きくなっていったことを知っていた。ナチの幹部の夫人会の方々はどうしているだろう。あの人たちにこのことが知れたら蜂の巣をつついたような大騒ぎになるだろうと思った。格好のゴシップネタを提供することになるだろう。
今の自分の人生を肯定して生きなければ、とエリザベートは自分自身に言い聞かせた。ベルリンにいるからいろいろと思い出すのかもしれないとも思った。しかしアレクセイがベルリン勤務なのでどうしようもなかった。それだって彼は自分のためにベルリン勤務を願い出てくれているのだ。彼によると戦争が終わった時すぐにでも祖国に帰ることを希望する者と、ドイツ残留を希望する者とに軍隊内は二極化していたという。後者は女関係が大きな原因だった。
しかしある日、アレクセイが思いがけないことを言った。
「ベルリンを離れるかもしれない」
彼によると「どうも自分は新しい司令官から嫌われている」ということだった。向こうもなんとかしてアレクセイを追い出したいと考えていたところへ最近の命令不服従が重なり、人事を進めているという。
「もしそうなったらついてきてくれるかい?」
「それは……そうするつもりだけど……でも、どこへ?」
彼らは結局ソ連軍の占領する東半分の中では南のほうのライプチヒに行くことになった。昇進も昇給もなかったので左遷にほかならなかった。