8 クリスティン
1947年2月、出産を一ヶ月後に控えたエリザベートは大きなお腹で毎日ケーペニックの赤レンガの大きな家からマルタの店までを往復するのを日課にしていた。「安静にしなければならないし無理をしてはならないが、適度に運動しないと難産になる」という医師の難しい指示のため、昼間の暖かい時間を選んで歩いていた。雪が吹雪く日以外は、一駅手前で降りて歩いたりもしていた。店はマルタがオーナーであるし、さらに二人の売り子を雇っていたのでエリザベートがわざわざ行く必要もなかった。今ではほとんど給料にもならないくらいの仕事しかしていなかった。しかし今日はマルタの高校時代の友人が買い物に来るというのでどうしても挨拶しておこうと思っていた。
昨年7月に妊娠が分かるとエリザベートは観念してアレクセイの住む赤レンガの家に引っ越した。子供たちと二人の使用人も一緒だった。新たにコックらも雇用された。3人の子供たちの部屋と、産まれてくる子供と世話係の部屋も用意された。リヒテンラーデの城に比べると小さな家だったが、それでも一般的には豪邸といえる部類に入るだろう。
約束通りマルタの友人はやってきたが、エリザベートはその顔に見覚えがあった。向こうも知っているようだった。
「私の友人のクリスティン・エーゲノルフよ。薬剤師をしているんだけど、ミュンヘンに新しい仕事が見つかったのでベルリンを引き払うらしいの」
それでエリザベートは彼女をどこで見たのかを思い出した。シュナイダー総合病院の薬局にいたのだ。
「こちらはエリザベート・フォン・リヒテンラーデ……あっと、もうジューコフを名乗っているの?」
マルタがそう言ったのをエリザベートは制した。
「いいえ、まだ正式には結婚していないの。だからまだリヒテンラーデよ」
その会話をクリスティンはエリザベートの顔をまじまじと見ながら聞いていた。大きなお腹なのにまだ相手と結婚していないのが不思議なのだろうと思い、エリザベートはいいわけをした。
「やっと夫の戦死を役所が認めてくれたんですけれど、この子の父親はロシアの方なの。それでまだ入籍できなくて」
未だ敵国として正式な和平の成立していない現状では両国民同士の結婚は認められていなかった。
「ロシアの方と……結婚するのですか。軍人ですか?」
「ええ、そうよ」
エリザベートは何の気なしに答えた。クリスティンは何か考えているようだった。マルタがその場の空気を取り繕った。
「ほらクリスティン、あなたきれいな置時計を探しているって言ってたじゃない。いろいろ出しておいたのよ」
その後会話は時計のことに終始し、支払いを終えたクリスティンが二人に別れを言い、店を出て行こうとしたときだった。アレクセイ・ジューコフ少将が入ってきてクリスティンにぶつかった。
「失礼、フロイライン」
しかしクリスティンは声にならない叫びをあげてその場にへたりこんだ。
「フロイライン、すみません、失礼を……」
アレクセイは助けおこそうとしたがクリスティンがあまりにおびえた顔をしているのをみて手をひっこめた。マルタが急いでかけよってクリスティンを立ち上がらせた。エリザベートは妊娠後期ですぐに動けなかったので少し離れた場所でこの騒ぎを見ていたが、このときアレクセイが軍帽を目深にかぶったままクリスティンを冷たい目で見ているのに気づいた。ようやく立ち上がったクリスティンも無言でアレクセイを見ていた。エリザベートはアレクセイの横に歩み寄り、彼の腕に手をかけてクリスティンに微笑んだ。
「クリスティン、この方よ。この方が私の赤ちゃんのパパなの。アレクセイ・ジューコフ少将よ」
しかしクリスティンはそれには何も答えず、聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「みなさんごきげんよう。私はもうベルリンへは戻ってきません。お元気で」
そして誰とも目をあわさず、ドアを開けた。
「雪がふぶいてきていますよ、気をつけて」
アレクセイは彼女のためにドアを支えた。クリスティンはアレクセイをチラリと見て急ぎ足で立ち去った。
「アレクセイ、早かったのね。でも私もうお腹ペコペコよ」
エリザベートはアレクセイに近寄り、彼の肩の雪をはらった。今日はアレクセイが店のみんなに昼食をごちそうしてくれる約束だった。
「エリザベートは二人分だからな」
アレクセイはかがんで彼女の頬にキスをした。
「さっきの女性は君たちの知り合いなの?」
「マルタの高校の友達ですって。ミュンヘンに引っ越すとかで……あの人アレクセイのこと怖がっていたみたいに見えたわ」
「制服のせいじゃないか。俺たちはここでは嫌われ者だから」
アレクセイはさらっと受け流した。確かに彼の言うとおり、終戦直後の乱暴ぶりを市民は恨んでおり、英米の占領軍と違ってソ連軍は嫌われていた。けれどなんだかアレクセイとクリスティンが知り合いのように見えたのは自分の錯覚だったのだろうか。聞いてみるべきかどうかエリザベートは迷っていた。
「あの………彼女ね、戦争の終わりにつらい目にあったらしくて」
マルタが言いにくそうに口を開いた。
「多分ミュンヘンに行くのもそのせいじゃないかと思うの。赤軍の制服を見るだけでつらいらしいから」
こういう話を聞くのはエリザベートにとってつらかった。一歩間違えば自分も同じ目にあっていたのだ。もしそうなっていれば赤軍の制服を見ただけで恐怖と悲しみがよみがえることは用意に想像できた。それならあのクリスティンの態度も説明できよう。
「心苦しい限りだ。お詫びの言葉も見つからないよ」
クリスティンの去ったドアを見ながらアレクセイが言った。エリザベートはアレクセイがミリタリーポリスを率いてベルリンを巡回していたことも知っていた。何人かを救うことができてもあの当時は混乱していて限界があった。助けてもらったうえにこんなに幸せにしてもらえた自分はなんて幸運なのだろうと思い、アレクセイとクリスティンの変な雰囲気など忘れてしまった。
クリスティン・エーゲノルフはあんまり急いで走ったので、息が切れて吐きそうになり立ち止まった。雪の中なのに街は混雑していた。アメリカのGIがドイツの若い派手な女と楽しそうに商店のディスプレイをのぞきこんでいた。米軍でも英軍でも仏軍でもかまわない、とにかく赤軍の姿の見えない西半分に行きたいと彼女はずっと望んでいた。なかなか仕事が見つからず時間が過ぎていったが、ようやく春からミュンヘンの病院で働けることになったのだ。
クリスティンはあの市街戦で空襲と砲撃を命からがら逃げたと思ったら、地下室に近所の人々と一緒に隠れていたところをソ連兵の一団からひきずり出され、友達数人と一緒に暴行を受けた。相手は大勢いるし、銃器を持っているのでどうしようもなかった。次の日もまたその次の日もそれは続いた。抵抗すると殴られるので抵抗をしなくなった。叫んでも誰も助けには来てくれず、のどが渇くだけなので声すらあげなくなった。涙は相手を楽しませるだけなので、流れなくなった。しまいにはこれが夢なのか現実なのか分からなくなってきていた。
加害者たちの名前はもちろん顔も覚えていなかったが、機械油と垢と酒の入り混じったひどい臭いと、周りで笑いながらはやしたてるロシア語だけが記憶に残った。
幼友達のうちの一人は暴行を受けた翌日首をつった。クリスティンも死を考えないわけではなかったが、自殺を考えることすらおっくうなくらい精神が疲労し、現実を見すえることができなくなっていた。数週間後、彼女は自分の体の変化に気がついた。
妊娠していたのだ。悪魔どもの子を。
敬虔なクリスチャンでありながら、彼女はみじんも迷わず妊娠中絶手術を受けることを決心した。医療に携わるクリスティンは、妊娠週を重ねるほど中絶手術は母体へのダメージの大きいものになることを知っていたのだ。できれば妊娠7週までに(これは月経の遅れにより妊娠に気づいてから4週間以内という早急な決断を要す)遅くとも11週までに手術をしたほうがよい、という医学的知識。事実ショックのあまり手術の遅れた女性が彼女の勤務する病院で術後経過が悪く亡くなったこともあった。
「神様っていないのかな……」
あのころ一番心に考えていたのはそんなことだった。彼女は熱心なキリスト教徒の家庭に育ち、神の存在を疑ったことなどなかった。しかし今、「神はどこにもいない」とクリスティンは確信した。神がいるなら、かならず「やつら」にいかづちを降らせるだろう。しかし「やつら」は戦争に勝利し、笑って暮らしている。被害者の顔も名前も忘れ、自分たちのやったことを後悔する日など決して来ないのだろう。むしろ「あの頃はやりたい放題で楽しかった」くらいにしか思うまい。自殺した親友は天国にいけないのだろうか。中絶手術の失敗で亡くなった女性は? 妊娠中絶と自殺はキリスト教徒にとっては殺人にも並ぶ大罪の一つだった。自分は子供を産むべきだったとでもいうのだろうか。
季節がかわりようやく普通に働いたり、笑ったり、男性とも話せるようになった。地下鉄やエレベータで知らない男性と体が触れてもそれほど苦痛ではなくなってきていた。冬が終わり、春になるころだった。勤務を終えて病院の裏口を出たところでクリスティンはソ連兵数人の待ち伏せにあった。彼らは有無を言わせずクリスティンを車に押し込み、発車させた。10人乗りの大きなバンの中で彼女は両側から腕を押さえられていた。1年前の記憶が鮮明に心によみがえった。まただ、またやられる……どうして私だけ……彼女は恐怖で声も出せず、失神しそうになった。
「怖がらないで。あなたを強姦するつもりはないし、お金をとる目的でもないわ」
女の声がした。きれいなドイツ語だった。クリスティンは正気に返った。女? 赤軍の女性兵士だった。他は全員男性だったが、かつて彼女に襲い掛かった兵士たちのように情欲に狂った目もしていないし、酒の匂いもしなかった。
「クリスティン・エーゲノルフさん。シュナイダー総合病院の薬局勤務ですね」
今度は別の若い男が言った。彼らは自分の名前も仕事も知っている。一体何なのだろう。車は人通りのない暗い路地に止まった。
「我々はあなたにお願いがあるのです」
若い男は封筒に入った札束をクリスティンに渡した。アメリカドルだった。公式レートでも彼女の月給の3倍はあった。強姦でも強盗でもなくお金をもらって物事を頼まれる。クリスティンは一瞬喜びかけたが、おそらくはまともな依頼ではあるまいと思い警戒した。まともな話なら昼間病院に来るだろうし、こんな拉致まがいのことはしないだろう。彼女が何も言わないので若い男は続けて話した。
「エリザベート・フォン・リヒテンラーデ侯爵夫人を知っていますか」
クリスティンはうなずいた。リヒテンラーデ夫人は病院の上客だった。出産のときは最上級の特別室を使っていたし、通院の際にも待ち時間なしという待遇を受けていた。
「夫人はあなたの病院の産婦人科で毎月ピルを受け取っています。通常のピルのかわりに次回からこれを渡してもらいたいんです」
若い男が差し出した紙袋にはピルのびんが6つ入っていた。クリスティンにとっては見慣れたメーカーのものだった。ラベルも中身もそのメーカーのピルの錠剤に見えた。だがすりかえろというからには別の薬品なのだろう。クリスティンはリヒテンラーデ夫人のことは好きでも嫌いでもなかった。薬の受取の時の必要な会話しかしたことがないのだ。けれどこの謎の薬のせいで夫人が死んだり具合が悪くなるようなことがあるかもしれないと思うと恐ろしくなった。
「大丈夫、毒じゃありません。単なるビタミン剤です」
「え、じゃあ何のために?」
クリスティンは初めて口を開いた。若い士官は口ごもり、何かロシア語で助手席の男に話しかけた。助手席の男は低い声で言った。
「要はピルを飲ませたくないだけなんですよ」
「でも、それじゃあ妊娠……」
クリスティンは言いかけてやめた。リヒテンラーデ夫人に4人目の子供を妊娠させることが目的なのだろうか。あのハンサムなSS大佐は無事だったのだろうか。でもそんなことがなぜソ連人たちに関係あるのだろうか。
「成功のあかつきにはその金の倍を払いますよ」
助手席の男が言った。その時他の車が通ったのでヘッドライトが助手席の男を照らした。黒髪に黒い瞳の30半ばの将校だった。制服の形が違うのと、勲章の多さや肩章からかなり上位の将校らしいということがわかった。
クリスティンは駅前で解放された。ビタミン剤の瓶と金の入った紙袋を彼女は抱えていた。断ったら殺されるかもしれなかった。彼らはクリスティンの名前も勤務先も知っているのだから。
リヒテンラーデ夫人に処方するピルをビタミン剤にすりかえながらクリスティンは「西半分」での仕事を必死に探した。ソ連兵からもらった米ドルのおかげで旅費には不自由しなかった。去年の7月青い顔をして会計を待っているリヒテンラーデ夫人を見かけた。そして夫人はその後ピルをもらいにこなくなった。しかしその後ソ連軍から約束の金が匿名の書留で届いた。3人の子が4人になってもそれほど大きな問題はないだろうと、クリスティンは自分の罪に言い訳をした。お腹の大きくなってきたリヒテンラーデ夫人が健診に訪れるのも見かけたが、夫である大佐の姿は見えなかった。以前の出産のときはよくついてきていたのに、とクリスティンは不思議に思った。
ようやく彼女は駅についた。暇そうにたむろしているソ連兵の二人組がクリスティンをちらっと見たので彼女はにらみ返した。とにかくこいつらを目にしないでいいところに行きたかった。もうすぐおさらばだ。
今日リヒテンラーデ夫人と会ったことでクリスティンが一年間ひっかかっていたことのパズルのピースが合ったような気がした。そしてあの赤軍将校。夫人はあの助手席の男の子どもを妊娠し、再婚する気でいるのだ。リヒテンラーデ夫人に自分の子を産ませるためにあの赤軍将校はこんな小細工をやってのけたのだ。
「あたしのせいじゃないわ。ソ連兵なんかに……あんな悪魔みたいな連中の仲間に心変わりしたリヒテンラーデ夫人が悪いのよ」
そうつぶやいて彼女はプラットホームに向かった。