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7 妊娠と夫の死

 夏の始まりをつげる雨がベルリン市を支配していた。一年前、戦争の終わりの頃も雨が続いたことをエリザベートは思い出した。当時雨の日は空襲がないので気持ちは楽だった。そういえばアレクセイと出会った日も雨の夜だったな、と思いながら彼女は横に立つ将校を見上げた。

「寒い?」

 彼女は首を振った。あの時まさか一年後の自分がこんな気持でこの男の隣にいるなんて、想像もしなかった。今アレクセイは彼女の恋人だった。エリザベートは自分の手を彼の手の中に滑り込ませた。

「なんだよ、やっぱり寒いんじゃないのか。こんなに手が冷たい」

 アレクセイは彼女に向き合って、両手を包み込み温めようとした。彼らは突然の雨に降られ、タクシーを待ちながら店先の軒下で雨宿りをしていた。

「タクシー、来ないね」

「店で電話を借りて軍の車を呼び出すか……その方が早いかもしれないな」

 通りにひとけはなかった。手を握ったままアレクセイはエリザベートに口づけた。アレクセイは彼女の髪の匂いをかぐように大きく息をすい、耳たぶを噛みながらささやいた。

「食べちゃいたいくらい、かわいい」

「くすぐったいわ」

「早くうちに帰ろう。君を食べたくてたまらない」

「ちゃんと暖めてね」

 二人はいちゃついていたので周りが見えていなかった。それだから一人の女が近付いてきていたことに、声をかけられるまで気づかず、心臓が止まるほどにびっくりした。

「ファッション雑誌を創刊したんですが、恋人にいかがですか?」

 アレクセイから手を離してエリザベートが振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。

「……アンネリーゼ」

 非常に気まずい再会だった。終戦直後に罵声を浴びせられて以来、エリザベートはマルタを通してしかアンネリーゼの近況を聞いてはいなかった。勤めていた新聞社がつぶれてしまったので、仲間と集まって会社を設立できないか話し合っているというのは聞いたことがあった。雑誌といっただろうか? では彼女は出版社を作ったのだろうか。

「あの……」

 暴行されそうになったところをソ連軍の少将が助けてくれたことを話したのを彼女は覚えているだろう。「あなたみたいに幸運な人間がいるなんて、信じられない」と言われたことをエリザベートは思い出した。これがその少将か、という目でアンネリーゼはアレクセイを見ていた。いちゃついていたのを見られたはずなので、「なんだ、ついにそういうことになったのか」と思っているのだろう。

「お久しぶり。お元気そうね」

 アンネリーゼはそう言って作り笑顔で笑った。そしてジューコフ少将に向き直った。

「雑誌を作っているんです。買ってもらえませんか」

「どんな雑誌?」

 アンネリーゼはアレクセイに雑誌を一部渡した。アレクセイはパラパラとページをめくって流し読みした。

「あの、アレクセイ、彼女は大学の時の友達なの……」

「そうか。じゃあ今ある分を全部買わせてもらうよ。いくらですか?」

 アンネリーゼは袋に入っている分をアレクセイに渡し、現金を受け取った。

「ありがとうございます、少将殿」

 アンネリーゼは雨の中を去って行った。アレクセイはレインコートの襟をめくった。

「階級章は隠れていたのに、よく少将だって分かったな、彼女」

 エリザベートはそれに対して何も答えなかった。自分の言ったことを彼女は覚えていたのだ。どう思ったのだろう。アレクセイが抱えている10冊近い雑誌を見て、エリザベートは一冊手に取ってみた。

「何も全部買わなくてもよかったのに」

「明日司令部で適当に配っておくよ。みんな女に何をプレゼントしたら気が引けるか、興味があるからね。エリザベートは何か欲しいものがあるかい? いい店があったら一緒に行ってみようよ」

 雑誌の中にはこの夏流行の香水やアクセサリーが載っていた。取り扱っている店舗の住所と地図が隅に書いてある。店からも宣伝費を出させて印刷費用を安く上げるのだろう。だが、少しは秩序が回復したとはいえこのベルリンの街で出版社を立ち上げて利益を出すのに、どれほどの手間が必要なのかエリザベートには想像もできなかった。本屋に置くだけでなく、ああやって歩き回って占領軍の将兵に売りつけているのだろうか。なんという営業努力だろう。英知と才覚、そして絶え間ない努力があればこんな時代でも女でも一人で生きていけるのだろうか。今でもアンネリーゼはひとりアパートで自活して暮らしているのだろうか。マルタだってそうだ。親から借りたテナントとはいえ店を繁盛させ、先月3号店を開いた。

 タクシーに乗り込み、行き先をつげるアレクセイを見ながらエリザベートは考え続けた。肉体関係を持った後、アレクセイからの生活援助は際限なく増えていった。彼女の方も、もはや「もらう」ことにそれほどの引け目を感じなくなってしまったのは確かだった。これは売春なのだろうか、と時々彼女は自問した。愛のある売春? 生活援助付の交際。矛盾を含んだ新しい言葉だ。

 ケーペニックにあるアレクセイの官舎までの道のりは渋滞し、エリザベートは気分の悪さを感じた。車に酔ったことなどなかったが、さっき食べた料理が今どういう状況で消化されているのかが頭に浮かび、さらに気分を害した。彼女は家につくなり洗面所に駆け込んで胃の中のものを吐き出した。

「おい、大丈夫か?」

 アレクセイが彼女を追って洗面所にやってきて背中をさすった。

「ごめん、車に酔ったみたい。何か冷たい飲み物をちょうだい」

 エリザベートは口をすすぎながら言った。鏡の中でアレクセイが台所へ消えていくのが見えた。それと同時に、彼女の目はカレンダーをとらえた。今日は何日だ? 彼女は二週間も生理が遅れていることに気づいた。

 アレクセイが戻ってきて、カレンダーに釘づけになっているエリザベートを見つけた。

「どうしたんだい?」

「いえ……ありがとう」

 エリザベートはアレクセイからコップを受け取り、口に含んだ。アレクセイは何か言いたげな様子を見せていたが、特に何も言わなかった。具合が悪いのならすぐに眠ろうと言うアレクセイに対し、エリザベートは「いつもより情熱的に抱いてほしい」とせがんだ。違う、違う、きっと大丈夫だ。きっと明日になれば……エリザベートはアレクセイの腕の中でずっとそう思い続けた。そしてこの次からこそ避妊してもらうように話し合おうと決心した。


 雨が上がると急激に夏らしい暑い日が続くようになった。エリザベートは胸のむかつきと熱っぽさを感じながら「ピルを飲むのを中断したのに生理がこない」と産婦人科医に訴えた。通常ひと月の間に21日服用、その後4日ほどで月経が来るという周期を繰り返すのに、今回は飲むのをやめて2週間たっても生理が来ない、何かまた生理不順といったことになったのでは、という主訴をした。彼女は簡単に予測できる恐るべき真実については眼をそらしていた。

 尿検査の結果の医師の言葉は恐れていた通りのものだった。

「妊娠7週ですね」

「だって……先生、ピルを飲んでいたのに………」

 絶句しているエリザベートに医師は言った。

「飲み忘れたことはないですか?」

「ない、ないです。ありません! 私は毎日きちんと……」

 彼女は自分が動揺して蒼白になっていくのを感じた。妊娠? どうして。

「予定日は3月ですから」

 医師は診察を切り上げたがっていた。待合室はいっぱいなのだ。仕方なくエリザベートは診察室を出た。

 愛する男から与えられた新しい命が自分の身体に宿ったという喜びはどこにもなかった。リヒテンラーデ侯爵家の3人の息子たちを身ごもったときの誇らしさもなかった。あの時はドイツ帝国の新しい命を生み出すという若い母親の役割に酔っていた。今はただ「どうしよう」「どうして」というのが正直な感想だった。

 街をぼんやり歩いていてエリザベートは人だかりにぶつかった。ドイツの警察とアメリカ軍の兵士も来ていてロープを張っていた。シュナイダー総合病院は米軍占領地なのだということを思い出した。野次馬の声が聞くともなしに聞こえた。

「かわいそうに、まだへその緒もついていたって」

「赤軍も責任とって孤児院くらい作るべきだ」

 ああ、また可哀想な赤ちゃんが捨てられているのだ。このお腹の子も同じようにドイツとロシアの血を混ぜた存在なのだ。自分は望んで望まれて、敵国の男に抱かれた。子どもを産む覚悟もないままにセックスをした。私は最期の一滴まで第三帝国と総統閣下にささげると誓ったのに、自分の血にボリシェビキの血を混ぜてしまった。

 エリザベートはふらふらと建物の陰にかけこみ、胃の中のものを吐いた。7月の暑さと捨てられた赤ん坊と自分の身体の変化と、どれが原因かは分からなかった。途中から涙がでてきて顔がめちゃくちゃになっているのを感じたが、吐かずにはいられなかった。

 この子はリヒテンラーデ侯爵家の血をひくわけではないのに戸籍上はリヒテンラーデの名になってしまうだろう。エリザベートがあれほど憧れ続け、ジークフリートとの結婚によってようやく手にした侯爵夫人という称号。どうしよう、どうしよう……エリザベートは教会に行って神に懺悔したいと思った。しかし許してもらえるわけがないと思った。これは天罰なのだろうか。夫の生死が明らかではないのに他の男を愛した。ほとんどの女は何年でも夫の帰りを待ち続けるだろうに。自分は他の男の腕に抱かれた。しかも男は夫の敵だった。

 放心状態で座り込んだエリザベートの周りに人だかりができた。一人の女が歩み出た。

「エリザベートさんじゃないの? どうしたの? 具合でも悪いの?」

 赤軍の衛生兵ナターリアはエリザベートを助けおこして近くの公園のベンチに連れて行った。その間エリザベートは口を聞けなかった。相変わらずどうしよう、どうしようという考えが頭の中で渦巻いていた。

「あんなに吐いて……もしかして妊娠?」

 エリザベートはナターリアの買ってきてくれた冷たいジュースをぐいっと一気に飲んだ。エリザベートが何も言わないのでナターリアは確信を得て喜びの声をあげた。

「そうなの? ジューコフ少将の赤ちゃんよね? 少将はもう知ってるの? どんなにお喜びになるか……あんなにあなたのこと愛しているんですもの」

 エリザベートは何も言わずに空になったコップを見つめていた。

「ご主人の件がまだ解決していないから、あなたの複雑な気持ちも分かるけど……でも、もう終戦から一年以上たったことだし、前を見て歩いてもいいのではないかしら。少将は責任感の強いまじめな方だから赤ちゃんのことも喜んで迎えてくれると思うわよ」

「それは……分かっています。結婚も申し込まれているし、子供が欲しいってはっきり言われていますから」

「じゃあ何も心配ないじゃない。それにご主人の『戦死』についてレオニードが何か情報をつかんだって電報があったわよ」

 エリザベートは驚いてナターリアのほうを向き直った。

「なんですって?」


 一度家に帰って休んでから司令部に電話したほうがいいというナターリアを振り切ってエリザベートはドイツ占領ソ連軍の総司令部にかけこんだ。ドイツ民間人である彼女が中に入れるわけもなく、当然のごとく玄関ホールで足止めをくらった。

「とにかく少将に取り次いできてもらうから、おとなしくここで待ってるのよ。動いちゃだめよ」

 ナターリアはエリザベートを残して奥へ急いだ。ナターリアも「少将」に会うにはそれなりの手順が必要なのだということを、ようやくエリザベートは理解して所在なさげにホールの柱にもたれた。壁にかかっている鏡に自分の姿が映り、本当にひどいと思った。髪は乱れてぼさぼさだし、頬には涙の跡が幾筋もあった。

 ほどなくアレクセイとナターリアが現れた。アレクセイはエリザベートが山猫のように毛を逆立てているのを見て「どうしたの」と驚いた様子を見せた。

「家も店も電話したのに、どっちも留守だっていうから心配していたんだよ」

 アレクセイは微笑んだ。彼女の愛する、人懐っこい優しい笑顔だった。ああ、やはり自分はこの人のことが好きだとエリザベートは思った。

「リヒテンラーデSS大佐のことを知っている兵士をレオニードが見つけてきたんだ。今、上で事情を聞いていたところだ。会ってもらいたい」

 エリザベートは震えていた。誰だろう、自分の知っている人だろうか。彼女はいろいろなショックで頭が混乱して足元がおぼつかなくなり、アレクセイに支えられながら階段を上がった。

「エリザベート、真っ青だよ。本当に具合でも悪いんじゃないのか」

 アレクセイはエリザベートの顔をのぞきこんだ。ふいに彼女の目から涙がこぼれた。この人はこんなにも自分のことを愛してくれているのだ。ジークフリートとアレクセイのどちらかを選べと言われたらどうしたらいいのだろう。

 部屋は想像していたような取調室の雰囲気ではなく、普通の応接室だった。壁際にソ連兵が二人立ち、ソファに二人の男が座っていた。エリザベートはそのうちの一人に見覚えがあった。

「マックスじゃないの? ジークフリートの従卒の……まあ、あなた無事だったのね」

 マックス・アンダーソンは終戦の半年前にリヒテンラーデ大佐の従卒についた若いSS伍長だった。運転手として家にも出入りしたのでエリザベートも顔を知っていた。マックスは「お久しぶりです」と会釈した。もう一人の不精髭の中年男には見覚えがなかった。

「アンダーソンSS伍長については知ってるね。もうお一方はギュンター・フィッシャー国防軍伍長。じゃあ、まずアンダーソン君、お話を」

 アレクセイに促されてマックスが話し始めた。自分がリヒテンラーデSS大佐に仕えていたのは3月までで、突然大佐はハンブルクへ向かうことになり、自分はベルリン防衛軍に入れられて5月に捕虜になり、ソ連軍の収容所にいたということだった。

「ハンブルクに? 一体何を……」

 エリザベートは去年読んだ新聞記事を思い出した。まさかヒムラー長官と、英米軍との和平工作に?

「理由は自分には分かりませんが、10人以上のお偉方があの日ベルリンを脱出しました」

 ヒムラー長官と一緒に行ったのなら、長官がつかまった時にどうして一緒ではなかったのだろう。

「ではフィッシャー伍長、頼む。フィッシャー伍長はミュンヘン出身で3月にハンブルクにいたそうだ」

 アレクセイは間違いないな、という風にフィッシャーに目配せをした。男は話し始めた。SSの幹部たちは国防軍の制服に着替えてハンブルクを脱出したという。フィッシャーはドイツ南部に詳しいのでスイス国境までの運転手兼案内役だった。ところが途中で米軍と鉢合わせし、ちりぢりになって山の中へ逃げ込み、リヒテンラーデ大佐は撃ちあいの末負傷して失血死したということだった。

 エリザベートは黙って聞いていた。撃たれて死んだ、死んだということだけが頭のなかをかけめぐった。

「何か最期の言葉とか遺品はありませんでしたか?」

 アレクセイがそう言ったがフィッシャーは首を振った。

「時計を預かったんですが、米軍の捕虜収容所でGIに取られちまいました」

 時計! 彼はいつもエリザベートが婚約記念に贈った腕時計をしてくれていた。スイス製の高級品だった。

「指輪は……結婚指輪と一緒に彼がいつもつけていたヒムラー長官から下賜されたSS髑髏リングは……?」

 忠誠の証として、優秀なSS隊員に対して下賜された指輪。国防軍に化けて脱出したなら、髑髏リングはもうつけていなかったのだろうか。

「すみません、わからないです」

 フィッシャーは頭をかいた。レオニードはソ連軍だけでなく西半分の捕虜収容所にも協力を依頼していた。従卒だったマックスはともかく、フィッシャーはただ一人名乗り出てきてくれたのだ。エリザベートは二人に感謝の言葉を述べた。フィッシャーが話の中で「リヒテンラーデ大佐」をよく「リヒテンベルク中尉」と言い間違えたが、これは脱出時の国防軍将校としての偽の身分証明書の名前だったらしいとアレクセイが説明した。

 フィッシャーたちが立ち去り、エリザベートはアレクセイと二人きりになった。西日の差し込む部屋で二人は無言だった。

「あの二人に何かお礼をしないと……特にフィッシャーさんはジークフリートを看取ってくださった人ですから」

「アンダーソン氏は若年のためもうじきうちの捕虜収容所から釈放予定だったが、即日釈放する。フィッシャー氏は体調不良のため米軍が近々釈放するという約束を取り付けている。二人には俺からまとまった金を渡しておく。君はつらいだろうから、これ以上かかわらないほうがいい」

 エリザベートはアレクセイの黒い瞳を見つめた。彼女はこうしてジークフリートの腕のなかで彼の蒼い瞳を見るのが好きだったことを思い出した。もうあのきれいな蒼い瞳を見上げることは永久にない。自分にはこの人しかいなくなってしまった。退路は完全に絶たれてしまった。エリザベートは妙に冷静な気分だった。涙は出なかった。さっき泣いたときに全部出し切ってしまったのだろうか。なぜさっき泣いたのだろう。ずいぶん昔のような気がした。

「もう誰もいないから、泣いてもいいんだよ、エリザベート」

 エリザベートは寂しくつくり笑いをした。

「一年も音沙汰なかったんだもの。覚悟はできてたわ」

 ジークフリートが生きてどこかに逃亡しているにせよ、偽名で手紙くらいかけるだろう。城は接収されてしまったので住んではいないが、あちらに来た文書はすべてシュミット弁護士のもとへ転送してもらえることになっていた。弁護士やルドルフ・シュナイダー医師のもとにも何の連絡もなかった。生きているのに連絡もしてもらえないなら、そちらの方が耐えられなかった。自分の身の安全だけ考えて妻子を敵のまっただなかに捨てて逃げるような男が夫だなんて耐えられない。

「エリザベート、俺に気を使う必要はないんだ。ジークフリートのことをまだ愛していたってかまわないんだ。俺は君の心のなかのジークフリートも含めて丸ごと君を愛しているんだから」

 エリザベートはアレクセイの胸にもたれて肩を震わせはじめた。そしてもしかしたらジークフリートがアレクセイを私のもとへ遣わせてくれたのかもしれない、と都合のいいことを想像した。世間知らずな頼りない妻のために限りなく強く誠実な男を……

 アレクセイの子を妊娠したことと、ジークフリートの死が同じ日に分かるなんて、なんて不思議なことだろうとエリザベートは思った。新しい人生を歩めという運命なのだろうか。

 アレクセイは黙って彼女の肩を抱き、長い時間髪をなで続けてくれていた。数時間前、自分は彼の子を身ごもったことを何か汚らわしいことのように思い、心が砕け散るような気がした。今思えばどうしてあんなふうに思ったのだろう。

「今私が愛しているのはあなたよ、アレクセイ」

「分かってるよ」

 エリザベートはそれから一息吸い、「私、妊娠したみたいなの」と言った。アレクセイはどんな表情で喜んでくれるだろうと彼女は期待して彼の顔を見つめていた。しかし彼の反応は不思議なものだった。

「そうか」

一言そういい、口元を引き締め満足げに微笑むというものだった。まるで作戦の成功を聞いた戦場の司令官のようだとエリザベートは思った。軍人ってこうなんだろうか。それとも男によって反応は違うものなのだろうか。「赤ちゃんができたら二人で育てよう」なんて虫のいいことを言って女と関係を持ちながら、いざ妊娠となると逃げ出す男もいるらしいということは彼女も知っていた。あるいは中絶するための金を投げてよこすとか? よもや自分がそんな男に引っかかったとは思いたくなかったが、彼女はだんだん不安になってきた。

「喜んでくれないの?」

「喜んでるよ、当たり前じゃないか」

 アレクセイはいつもの笑顔に戻っていた。

「念願かなって乾杯したいよ」

 エリザベートはアレクセイのキスを受けた。キスしながら何か妙な違和感を感じたことをずっと考え続けた。さっきのアレクセイの表情、急に効かなくなったピル、急に現れたフィッシャー伍長。アレクセイと子供の話をしてからそれほど時間は経っていない。何もかもアレクセイの思い通りになりすぎている、と思えた。けれど人為的にこんなことができるはずもないだろうし、こういう運命だったのかもしれないと思いなおした。エリザベートは「ジークフリートの死」と「アレクセイとの子供」を受け入れ、将来的な「アレクセイとの再婚」を考えていかなければならない立場においこまれてしまった。



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