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6 恋

 9月に入り、森の中の城に英軍総司令官夫妻が引っ越してきた。いつかまたあの家に住める日が来るのだろうかとエリザベートは寂しい思いにかられた。あの城は彼女の夢の城だった。ウィーンの街から白馬の王子様とともに移り住んだ彼女の夢の日々の象徴だったのだ。

 だが、現実はうけとめなくてはならなかった。さしあたっては生活費をどうにかしなければならなかった。マルタの父親の経営する百貨店はベルリン市内の何箇所かにあったが戦争末期は物資の不足で4階建ての一階部分しか営業できないありさまだったのでテナントは空いていた。戦争末期になるとマルタは学業なかばで軍需工場に徴用されていた。徴用はなくなったが大学も再開されないので彼女は家業を手伝っていた。エリザベートとマルタは通りからも直接入れるテナント部分に彼女たちの小さな店を作った。

 城にたくさんあった来客用の毛布・シーツ・美しい食器類がよく売れた。食器の中にはリヒテンラーデ家の頭文字と家紋を組み合わせた図柄をモチーフにしたものがあった。これは党のお偉方を招くために特別に作らせたものだった。愛国心からハーケンクロイツを入れたりしなくて本当によかったとエリザベートは思った。店の中には常に連合国マルクとドイツの帝国マルクがごっちゃになっていた。あるいはシガレットやドルでも買い物ができることにしていた。もう着る機会のない華やかなドレスや靴も売ってしまった。どうせ流行もサイズも変わってしまうだろう。そのうち親しくなった占領軍将校の細君たちと「ちょっとした物資の横流し」と交換にドイツ語を教えるということもやってみせた。最近では闇市に行ってとんでもない金額を払わないと手に入らないものも多かったので、これはありがたかった。

 こうして3人の子供たちと使用人2人の食べる分くらいはなんとかできた。エリザベートは退屈と寂しさを紛らわせるために働いた。あの日以来アレクセイからは一本電話があっただけだった。彼女は彼との思い出をいろいろ思い出しては「アレクセイは私のことが好きなのだからきっとまた連絡してくれる」と楽観的な気分になったり、「こんなに長い間連絡がないなんて、もうだめなのかもしれない」と絶望したりした。こんなことはジークフリートとの結婚前のつきあいでは考えられないことだった。好きになってもつらくなるだけの相手なのに、どうしてこんな気持ちになってしまうのだろう。それでも自分の気持ちを止めることはできなかった。

 子供たちはアレクセイにとてもなついていた。「おじちゃんは今度いつ来るの?」とたびたび言ってはエリザベートをいらだたせた。聞きたいのはこっちのほうなのだ。しまいにはお菓子にさえ「アレクセイおじちゃんのくれたのがいい」とぐずりはじめた。

 狭い家の中で子どもと始終顔を突き合わせているというのは想像以上にストレスのたまる生活だった。エリザベートは今までいかに自分が子どもの世話をせずに生活してきたかを思い知った。食事や排せつや風呂の世話はもちろんのこと、遊んだり字を教えたりすることすらまれだった。昼間働いていたジークフリートとほとんど変わらないくらいの短い時間しか、彼女は子どもたちと接触してこなかったのだ。子どもたちも母親よりも使用人になついていた。だからアレクセイがこんな短期間で子どもたちの心をつかんでしまったのが不思議でならなかった。

 ある日レオニードとナターリアのいつもの二人組が突然家にやってきて石炭や缶詰を山ほど台所に並べた。

「これから寒くなるので体に気をつけて」

 二人が渡してくれたアレクセイからの手紙はそっけなかった。彼女はなんとか行間に愛情を読み取ろうとしたが、どこをどう読んでも何も読み取れなかった。エリザベートが暗い顔をしているのを見てナターリアが

「電話の一本くらいするように少将に言っておくわ」

と、とりなしてくれた。

 夫に帰ってきてほしいという思いよりも、アレクセイに会いたいという思いのほうが日増しに強まっていくのをエリザベートは実感していた。彼女は時々、アレクセイが今の生活の重荷を全部引き受けてくれたらと夢想した。残った預貯金は今年の住民税と固定資産税を払ったら大した金額は残らず、家財を売った金で生活するという自転車操業にも疲れ果てていた。家財はいつか底をつくのだ。無理に値切ってくる客との交渉、どこか不満げな表情をしている二人の使用人、ぐずる子どもたち……「働いたこともないくせにのうのうと暮らして……」アンネリーゼに浴びせられた言葉は幾度となくエリザベートの心によみがえった。働いて生活費を稼ぐということはこんなにも疲れることだったのか。そして金は稼いだ端から消えて行ってしまうのだ。

市街地のアパートにいると夜の闇を切り裂くような女性の悲鳴や銃声がしょっちゅう聞こえてきた。ソ連軍兵士による押し込み強盗や強姦はとどまることを知らなかった。この時期一般市民は夜間外出が禁止されていたが、その規定時間よりもずっと早めに仕事を切り上げて、日のあるうちに家に入って厳重に施錠しなければ身の安全は保証されなかった。さすがにエリザベートのアパート付近はアレクセイが何がしかの布告をしいてくれているのか被害はでていないようだったが、通りからロシア語の騒ぐ声が聞こえてきた時など彼女は怖くてたまらなかった。終戦直後に「赤軍兵士はドイツ人住居に入ってはならない」という命令があるにはあったが、さらに最近「命令以外で部隊を離れることを禁ず」という通達が出された。いまだにガレキの山の下には多くの死体が埋まっていて、吐き気がするような腐臭がこの街にはただよっていた。水道水は煮沸してろ過しないと飲めないし、子どもたちの好きなハムやチーズも手に入らなかった。アレクセイから届けられた食糧と配給券がなければこの小さなフラットに身をよせる家族の生活はすぐにどん底に落ちてしまっただろう。いや、事実彼女の心の中で今の生活は井戸の底にいるようなものだった。暗く冷たい水の底から見える太陽こそ、アレクセイだった。この混沌とした生活から逃げ出したいと、エリザベートは自分が捕らわれた牢獄からアレクセイが救い出してくれる空想にひたりながら眠りにつくことが多くなった。


 10月の初めにアレクセイから長距離電話があった時、エリザベートは受話器を握り締めて泣いてしまった。どんな贈り物よりも今この人に会って抱きしめられたいと思った。

「しばらくワルシャワに行っていたんだ。次の週末にようやく連休が取れそうなんだけど、ベルリンまで帰っていたら時間的にとんぼ返りになりそうで……」

「じゃあ私、途中まで行くわ」

「来てもらったら、泊まることになるけれどいいのか?」

 その言葉の示す意味はすぐに分かった。それこそが彼女の望みだった。ためらうことなく彼女は了解の言葉を口にした。

 こうしてエリザベートはいつものロシア人二人組の運転する車に乗り、旧ポーランド国境近くの湖のある保養地へ向かった。ここは別荘地帯だがかつての所有者が金に困ってホテルのように短期で貸し出しているものが多くあるということだった。

 共同の駐車場でアイドリングをふかしながら待っていると向こうからアレクセイが歩いてくるのが見えた。以前会った時は夏服だったが、この地帯はベルリンより一ヶ月ほど寒くなるのが早いので冬の制服にコートを着ていた。初めて会った時もそうだったわ、とエリザベートは思い出した。私を助けてくれたアレクセイ、「大丈夫ですか、フロイライン」と言った彼、なんて素敵なのだろう。

 その夜ログハウスのような小さな別荘でエリザベートは夫以外の男と初めてベッドをともにした。ジークフリートとの6年弱の結婚生活で3人の子を産み、男女の交わりについては一通り理解しているつもりだった。しかしこの夜彼女は、自分の知っていたことはごく表面的なことでしかないことを思い知った。身も心も愛される幸福をかみしめながら、エリザベートは身をよじり、我を忘れて快楽の声をあげた。

 寝たのか寝ていないのか分からないような一夜はすぐに明けてしまった。

「クリスマスまでには必ずベルリン勤務に戻る、直属の上司にも親戚の元帥にも再三頼んでいる」とアレクセイは何度も言った。

「4年間の戦争中、ベルリンはゴールだった。そしてゴールに君がいた。戦火の果てに俺は君と出会った。俺はもうモスクワに戻りたいとは思わない」

 前日と同様にレオニードの運転する車でナターリアとエリザベートはベルリンへ戻った。私用でこきつかった礼として二人にも別荘での宿泊がアレクセイからプレゼントされていた。駐車場の車の傍でアレクセイは長い間エリザベートと別れを惜しんだ。何度も抱きしめてキスをし、愛を伝えた。出発する他の赤軍将校の家族の失笑を買っておりエリザベートは恥ずかしかったが、悪い気はしなかった。

 帰りの車の中でエリザベートはいつの間にか後部座席に横たわって眠ってしまった。「昨日は眠らせてもらえなかったんだろうな」とレオニードは小さな声で笑いをかみ殺しながら言った。


 このままフリードリヒスハインのアパートに戻るのもなんとなく気恥ずかしかったのでエリザベートは店に立ち寄った。日曜なのでどのみち定休日だったが、行ってみるとマルタが店内のたな卸しをしていた。

「家にいても暇だし、いろいろ考え込んでしまうから」

 マルタの言葉に、彼女が今でもエルヴィン・クルーゲ少佐を待っているということをエリザベートは思い出した。

「エリザベート、あなた、どこかに行っていたの?」

 マルタは彼女のボストンバックを見ていた。

「アレクセイに会いに行っていたの」

「ああ……ジューコフ少将ね。彼、よそに行っているの?」

「長期の出張でワルシャワにいるの。彼やっと休暇が取れたって連絡があって……中間地点の別荘地で会ったの」

 マルタはエリザベートの顔を見た。エリザベートはマルタの目を見ようとはしない。半年間の保護と食糧の礼を要求されたのだろうか。

「誤解しないでもらいたいのは……私、彼のことが好きなの」

「………リヒテンラーデ大佐のことは?」

「ジークフリートのことを嫌いになったとか、忘れたとかじゃないの。今でも夫のことは愛しているし、生きて帰ってきてほしいと思っている。でもね、この半年ずっと私の傍にいてくれて愛情を伝えもせず、何も要求せずに私を守ってくれたアレクセイのこと………自分の気持ちに正直になりたいの」

 荷物の多さからして、泊まってきたことはすぐにわかった。エリザベートは占領軍の将校の囲い者になる気だろうか、とマルタは考えた。無秩序な強姦と略奪がこの街を支配したこの春にも、誰かの「専属」になることで集団暴行から逃れようと考える女性は多く見られた。現在では金銭や食糧と引き換えの売春か、愛人としての同棲が一般的な形になっていた。住居に困っている女性にとっては一石何鳥にもなる取引だろう。マルタは自分が強姦の被害に遭わず、両親も健在で実家も裕福であるという幸運を棚にあげて、そういう女たちを軽蔑していた。そして友人でもあり、形式的には自分の会社の社員であるエリザベートがそういう倫理観の欠如した行為に走るということを黙認できるだろうかと悩んだ。


 アレクセイはあの別荘での一夜以来ひんぱんに電話をかけてくるようになり、10月の下旬にはハロウィン用のかぼちゃと大量の焼き菓子を送り届けてきて、子供たちは大喜びしていた。エリザベートは将来の約束もなしに男に体を許すなどとんでもないことをしてしまったと思いながらも幸せな気持ちを味わっていた。あの夜のことを思い出すと恥ずかしくて顔を伏せてしまうのだが、また彼に抱かれたいという情欲がこみあげてきた。まるで一ミリの隙間も残すまいというかのように自分の体を愛撫していったアレクセイの指と唇を忘れることはできなかった。彼が望むから、彼に自分の体を与えたのではなかった。自分が彼を抱きたかったのだ。まるで竜巻の中を駆け上がるような感じだった、とエリザベートはあの夜のことを思い出した。あんな快楽がこの世にあることを今まで知らなかったし、自分にこんな欲求があることも信じられなかった。同時になぜジークフリートに対してこんな風に思うことができなかったのだろうかと申し訳なく思ったりもした。ジークフリートは普段の生活でもベッドの中でも優しかった。ジークフリートに初めて抱かれた夜……結婚式の夜、「怖がらないで」と何度も夫は言った。終わった後の自分の感想は、「想像していた程恐ろしいものではなかった」というものだった。その後の結婚生活の中でも、エリザベートにとって夫婦生活というものは夫が求めてきた時に応じるものであり、子供を身籠るという大きな喜びのために、妻にとっては「品位をもって耐えなければならない」義務なのだと頭から信じ込んでいた。ところが子どもを作るという目的がないときでも、男がこれをしたがるということを知った時、彼女の心は混乱した。嫌だとまでは思ったことはなかったが、彼女は決して自分から求めたことはなかった。

アレクセイに対しては全然違った。また彼の力強い腕に抱きしめられてすべてを奪われてしまいたかった。彼の腕の中にいると、何もかも忘れて夢中になれるのだ。こんなにも激しい感情で愛し合うということが自分の人生に起こるなんて信じられなかった。ジークフリートとの穏やかな落ち着いた愛情とは全く違うものだった。しかしどちらかの愛が真実でどちらかが間違っているというものではなく、両方とも彼女にとっては真実だった。

 約束通り、11月中旬にアレクセイはベルリンへ戻ってきた。彼は仕事が早く終わった日は必ずマルタの店にやってきた。そのまま二人で食事に行くこともあればコンサートや観劇、買い物にも行った。街中にはクリスマスの飾りつけがされ、この新しいカップルにとっては華やかで幸せな気分を味わうことができた。ベルリン・フィルは終戦直後から演奏会を再開していており、ワグナーはもう聞けないが、戦争中は禁止されていたチャイコフスキーがソ連軍の指示でよく演奏された。エリザベートが音楽好きということを知っていたので、アレクセイはしょっちゅうベルリン・フィルやオペラの切符を手に入れてきた。

 ジューコフ少将がブロンドのドイツ女を連れて繁華街をデートしているという噂は瞬く間にロシア人社会に広まった。しかもいつも同じ女だ。娼婦には見えない。見るからに少将は女にベタ惚れで、相合傘でよりそって身をかがめて女に笑いかけながら歩いているし、官舎にも連れ込んでいる。「あの人も女に興味があったんだな」将校たちはそう言い合って驚いた。戦時中連隊内の女性兵士の中には「戦死者があまりにも多いので自分たちは結婚できないかもしれない」という不安が広まり、独身の将兵に好意をよせてくるものもいた。故郷に帰っても結婚相手になる男はいないからだ。ジューコフ少将に好意を寄せる女性兵士も多かったが、彼はその誰も相手にしなかった。少将は将校同士の賭けトランプにも参加しないし、戦場には必ずある娼館にも行かなかった。夜はいつも一人テントでドイツ語の学習をしていた。振られた女性兵士が腹いせに「ホモ疑惑」の噂を流したこともあった。そのジューコフ少将が女を連れている、しかも相手はナチ高官の未亡人らしい。「ドイツ人と占領軍との親睦禁止令」を声高に叫ぶソコロフスキー上級大将はあからさまにアレクセイを非難した。

 このころ占領軍やその家族はドイツ人とは親しく交際してはいけないというのが公式通達だった。しかし占領軍兵士の間には性病が蔓延しているし、将校は公然と女を囲っているし、この通達は全くといっていいほど守られていないことは誰の目にも明らかだった。

 このロマンスの噂に一番びっくりしたのはアレクセイの遠縁で、今ではドイツ駐留ソ連軍総司令官となったゲオルギー・ジューコフ元帥だった。元帥はすぐにアレクセイを呼びつけた。アレクセイがあまりにもあっさりと「彼女はSSの未亡人です」と言ったことにも驚いたが、後日夕食に招いたエリザベートが元帥の想像していたナチの女と違い、善良で優しい女性であることにはもっと驚いた。そしてエリザベートを見つめるアレクセイの目が愛情に満ち、彼女のそばにいることで彼があまりにも幸せそうにしている様子を見て、交際に反対する気力をなくしてしまった。元帥は彼の可愛がっている弟分が戦争直前に婚約者を亡くして以来、笑顔を忘れ幽霊のようになってしまっているのに心を痛めていたので、相手の女の素性は気に入らないが、まあアレクセイが幸せならそれで構わないと容認した。

 週末はデートの後にアレクセイの家に行き、そのまま泊まってしまうことが多くなった。独身の兵卒は雑居に近く、尉官以上でも集合住宅があてがわれるのが普通であったが、アレクセイは少将であり、総司令官の親戚ということもあり一人暮らしには広すぎる一軒家が与えられていた。中年の女が一人掃除や洗濯の世話をするために雇われていた。

 アレクセイは一日も早くエリザベートと一緒に暮らしたい、そう思って2階の主寝室には大きなベッドを購入し、南向きの部屋は子供たち用に空けているとエリザベートに伝えた。初めてこの家に彼女を招きいれたとき、「こんなに大きなベッドに一人で寝ているの?」とエリザベートは笑った。「一人だと寒いから一緒に入ってくれ」とアレクセイは彼女を押し倒した。エリザベートは笑って彼を抱きしめた。相手からの欲求の強さをびっくりしながらも、彼女は喜んで受け入れていた。彼は自分のことを女として魅力があると思って求めてくれている、そう心から感じられることが本当にうれしかった。

 外泊をするほど時間の余裕がない日は、時間単位で部屋を貸してくれるという無許可営業のホテルに連れて行かれたこともあった。暖房が入らないので制服の上着を着たまま、快楽に顔をゆがめるアレクセイを下から見上げ、自分が征服されてしまったような妙な錯覚に浸りながら、エリザベートもまた忘我の心地に埋もれてゆくのだった。

 勤めながらデートをしたり外泊をしたりと、エリザベートは自分が母親であることを忘れてしまいそうになっていた。フリーダとギーゼラが家の中のことも子供の世話もきちんとしてくれていたからだ。しかしやはり何かしら悪いことをしているような気持ちがあった。アレクセイはこのエリザベートの後ろめたさにもちゃんと気づいていたので2月に休暇が取れたらみんなでスキー旅行に行こうと提案した。


 ところが2月の初めに小さいアルフレートが高熱を出し、エリザベートはギーゼラとともにシュナイダー総合病院を訪れた。ぎゃんぎゃん泣きわめくアルフレートを耳鼻科に診せて中耳炎という診断をもらった。

「スキーまでに直るといいんだけど……」

「直りますよ。ねえ、楽しみにしているもんね」

 ギーゼラはアルフレートに微笑んだ。子供は涙の跡を頬に残したまま乳母の腕の中でウトウトし始めていた。二人を薬局の待合に残し、エリザベートは自分の体の診察に向かった。アルフレートを1944年の夏に産んだ時はひどい難産になり、しばらく出血が止まらなかった。また月経再開後もひどい月経痛と大量出血や貧血に苦しめられたので、ホルモン治療の一環として特別に経口避妊薬ピルを処方されていた。戦争末期こういう薬は大変手に入りにくかったが、シュナイダー総合病院は知り合いだったので特別に処方してもらっていた。

「飲み始めて1年以上たちますね。一度ちょっと中断してみますか? なるべく体を自然な状態に戻したほうがよろしいかと思いますが」

 内診を行った後、産婦人科医が言った。女性ホルモンを抑制し生理が楽になるのと同時に、排卵を止めて確実な避妊を行うピルは今のエリザベートにとっては手放せないものだった。

「もうしばらく飲みたいんです。飲んでいないと不安で……」

 医師はとくに疑念を抱くこともなくピルの処方箋を書いてくれた。夫以外の恋人がいるから避妊薬が必要なんてばれたら娼婦扱いされるだろう。自分の体がもう次の子供を妊娠出産できるまでに回復してきているのは嬉しかった。しかしアレクセイを愛しているとはいえ、正式に結婚しないまま妊娠するのは怖かった。アレクセイは彼女を抱くとき避妊など全く考えていないようだった。まさか妊娠を望んでいるなんてことはないだろうが、きちんと話し合ったことはなかった。このまま付き合っていくと避けられない「妊娠」という問題について彼がどう考えているのか、今さら聞くのも怖かった。

 自分も薬局で薬をもらわなければならないのでエリザベートは総合待合室へ急いだ。産婦人科なので途中で生まれたばかりの赤ちゃんがガラス越しにたくさん並んで寝ている部屋があった。小さくてかわいいな、と彼女は懐かしく見ていた。そして「今出産される赤ちゃんはいつごろ授かったのだろう」と思った。逆算してみると1945年の4月の終わりか5月の初め頃だろう。ああいう終戦のどさくさでも人間ってそんなことするものなのね、でも男の人たちは徴兵されていたし残っている老人や子供もみんなベルリン防衛の義勇軍に入れられていたのに……そこまで考えて別のことが頭をかすめた。まさかそんなことってあるだろうか。あの時ベルリンになだれこんできた異国の男たち……自分を襲った酔っ払いの兵士。ああいうことは街じゅうで起こっていた。知り合いの知り合いが自殺したというような話は嫌と言うほど聞いた。赤軍のほうも「兵士が少々行き過ぎた振舞いをした」と認め、無料の診療所を開いていた。多くの女性が泣きはらした目をして並んでいるのを見た。まさか敵兵に強姦されて妊娠して子を出産するなんて。いや、妊娠中絶はナチス政権化では許されなかった。重罪だった。だからって。エリザベートは並んで寝ている赤ん坊を順番に見ていった。しかし赤ん坊たちはすやすやと無邪気な顔をして眠っており、悪魔どもの血をひいているようにも見えなかったし、ドイツ人かロシア人かの区別すらつかなかった。

「……号室の産婦さんがいなくなったわ」

 看護婦の詰め所からひそひそ声が聞こえた。

「赤ちゃんは?」

「当然置いたまま。今週これで5人目」

 エリザベートはその場から逃げるように足を速めて立ち去った。父親の分からない赤ちゃんを身ごもった女性。精神的ショックで安全に中絶できる時期を逃してしまったのだろうか。月満ちて赤ん坊は産まれる。異国の男の血を引いた赤ん坊。子を見るたびに悪夢はよみがえる。名づけることもなく母は立ち去る。どのくらいの女性が泣いたのだろう。

 アレクセイの子を産めるだろうか、と彼女は考えた。子供を作ってしまえばもはやジークフリートの元へ戻ることはできないだろう。ボリシェビキに肌を許し、さらにその男の子を産んだ妻を彼は絶対に許さないだろうと思った。では今の段階なら許してもらえるのだろうか。敵兵に抱かれてその腕の中で快楽に声をあげている自分。ジークフリートが一度も与えることのなかった肉体の悦びをアレクセイは彼女の体に教え込んでしまった。

「ジークフリート、どうして私をひとりぼっちにしたの……」

 エリザベートはいつの間にか泣いていた。誰もいない階段室で涙は流れ続けた。酔っ払いの兵士に押し倒されたがすんでのところで彼女は犯されずに助けられた。そのあとはアレクセイの保護があった。アレクセイが銃で脅して彼女を暴行したのなら、あるいは家族と使用人の安全のために人身御供的に彼女の身体を要求したのなら、まだ言い訳できると思った。しかし自分は彼を愛し、自分の意思でアレクセイの愛に応えたいと決心してあの別荘に行ったのだ。「暴力だったから」「生活のために」といういい訳すらできなかった。

 その夜エリザベートに元気がないのをフリーダとギーゼラは末っ子の病気のせいだと思っていた。子の看病をしながらエリザベートは考えた。私には3人も子供がいる。もう充分だわ。ジークフリートの死がはっきりして、アレクセイと正式に再婚ということにでもなれば、その時に考えることにしようと彼女は結論を先送りした。


 さすがにソビエト陸軍の将校ということでアレクセイのスキーの腕前は超一級だった。アルフレートはソリでさんざん遊んだし、エドゥアルトとヘルムートもアレクセイからいろいろターンの技を教えてもらって満足していた。アレクセイは本当に子供たちに優しかった。義理の子を虐待する父親も多いだろうに、なんていい人なんだろうとエリザベートはほほえましく見ていた。街でたむろする飢えた子供たちにも彼はよくキャンデーやチョコレートを振舞っていた。

 あの日病院でふいに湧き上がった自責の念をエリザベートは無理に心の奥底へ沈めてしまった。考えても仕方のないことを長い時間考え続けることを彼女は苦手としていた。

 この夜二人きりになった時間、アレクセイはエリザベートに彼女の瞳と同じ色のエメラルドの指輪を贈った。

「占領軍兵士とドイツ人の結婚はまだ認められてないけど……俺は君と結婚したいと思っている。そのつもりで付き合ってほしい」

「でも……役所もまだジークフリートの死亡届を受け付けてくれないし……」

「分かっているさ。問題は山積だけど、ひとつひとつ取り除いて行こう。とりあえず一緒に住まないか」

 エリザベートがこの申し出を断ったのでアレクセイは少しむっとした顔をした。ベルリンに帰って来てからというもの、アレクセイが何度も同居を誘い、エリザベートが断るという会話を繰り返しているのだ。

「やっぱりジークフリートの死亡が確認されるまでは、ってことか?」

 エリザベートはうなずいた。

「けじめっていうか……」

 なんといえばいいのだろう。目の前にいるこの人を愛していることに、嘘いつわりはない。この恋愛は人妻のお遊びでは決してない。けれど自分は今でもジークフリートの妻なのだ。私は卑怯な人間だ、とエリザベートは考えた。生活への援助とセックスの快楽だけを味わい、自分の法律上の身分や地位は守ろうとしているのだ。

 アレクセイはため息をついて話題をかえた。

「君は体調には変わりはないのか?」

「なあに、疲れているように見える? そりゃ久しぶりのスキーだから明日筋肉痛かもしれないけれど……」

 笑ってそう言いかけてエリザベートはアレクセイの深刻な表情に気づいた。

「君とこういう関係になって4ヶ月たつ」

 彼の言いたいことが伝わってきた。初めての恋に勢いづいた十代の若者が暴走したわけではない。自分たちはゆっくりと想いを育て上げ、肉体的にも結ばれた。大人としてアレクセイは自分の行為の結果を想像しているのだ。

「でも……もしそんなことになったらあなた困るでしょう?」

「なんで困るんだ?」

 アレクセイが大きな声になったのでエリザベートはとまどった。彼は痛いほど彼女の二の腕をつかんだ。

「女が妊娠したからといって逃げるような、君は俺のことをそんな恥知らずな男だと思っているのか」

「だって私たちはまだ正式に結婚してないのに」

「後から正式に結婚すれば問題ないだろう」

「ジークフリートが死んだことを役所が認めてくれなければ、産まれてくる子の父はジークフリートと住民票には記載されるわ。婚姻期間中の懐胎は夫を父と推定するって民法で定められているのよ。あなただってそんなことになったら嫌でしょう?」

 エリザベートは自分でも卑怯だと思いながら、さわりしか知らない法律のことをくどくどと述べた。自分がまだロシア人の子供を産むだけの根性がすわっていないことを棚にあげていた。

「それは……」

 アレクセイは言葉につまった。そしてひとりごとのように言った。

「俺は君との絆が欲しいんだよ」

 そしてエリザベートを抱きしめ、甘えるように彼女の胸に顔をうずめた。

 この人は不安なのだろうか。二人の間の「恋愛」は圧倒的にアレクセイが優位にたっているのに。勝った国の将校と負けた国の女の恋愛。「帰国するからサヨナラだ」と言われ、あっさりと捨てられていく女たち。二人の間の「絆」が欲しいだなんて女のセリフだわ、とエリザベートは思った。

 ピルを飲み続けている限り決して妊娠はしないだろう。自分はずるいのだろうか。ロシア将校の私生児を産めば、自分は確実にドイツ社会から排斥されるだろう。彼女はかばんに隠してあるピルのことを考えた。毎朝必ず飲まなければならない面倒な薬だけど……もうしばらく助けてちょうだい。まだ私は心の準備が出来ていない……もうしばらく付き合って、結婚ということになればその時に考えることにしよう。


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