5 引っ越し
1945年8月、日本が降伏して第二次世界大戦がすべて終結したころ、エリザベートは3人のこどもたちとともにベルリン市中心部から少し東に行ったフリードリヒスハイン区のアパートメントに引っ越した。フリーダという台所女中、ギーゼラという子供の養育係をしていた元使用人たちも一緒だった。この集合住宅は結婚したときに実家から「恒久的な収入」の保証のために譲ってもらったもので、比較的便利な場所にあるため戦争中も部屋があいたことはほとんどなかったが、今回そのうちの一家族が田舎に帰るという理由で空いたため、エリザベートたちが移って来ることが可能になったのである。3つの寝室と水周りしかない小さな住宅である上に、戦闘であちこち破壊されていたが、この時期はひどい住宅事情で野宿やバラックで生活している人々も多かったのでこれでもかなり幸運だといえた。
先月アレクセイとのラブシーンを邪魔するかのように現れたイギリス人との交渉は今思い出してもはらわた煮えくりかえり、背筋の寒くなるものだった。交渉ではなく一方的な通告だった。
英軍は司令官の居住する邸宅を探していた。貴族である司令官とその妻は住宅に関していろいろと注文がうるさく、ようやく「静かな森の中の城のような邸宅であまり古びていないものを希望」というめちゃくちゃな条件の住宅をようやく見つけたのだった。この城は築100年を越していたがエリザベートの嫁入りに際してその持参金で大改装されていたので伝統的な古めかしさも残しつつ、最新の設備が入っていた。さらに戦争の被害もなく英軍にとってはうってつけだった。
あの時アレクセイがいてくれて本当によかったとエリザベートは考えた。英軍の一団の誰よりもジューコフ少将は階級が上だったので向こうもそうむちゃなことはいえない状況になっていた。なぜこんなところに、ベルリンの西の端っこに赤軍の将校がいるのかという態度がありありとでていたので、アレクセイは「少し前まで接収していたことと、今も友人関係であること」を説明した。
「ご友人ですか、それはそれは」
いやみったらしい笑い方をされたが、その後の通告は笑えるものではなかった。英軍による接収と居住者の即時立ち退き………エリザベートは英語で書かれた公文書を手にとり、助けを求めるようにアレクセイを見たが、彼は首を振った。
「逆らうことはできない。そして、これは英軍の統治下のことなので自分には何の力もない」という目をしていた。
しかしアレクセイを交えた交渉のおかげで「即時立ち退き」には一ヶ月の猶予をもらえた。どうせ司令官一家は夏のバカンスが終わるまでやってこないのだから。また、当初提示された家賃も微々たるもので、これもアレクセイのおかげで値上げしてもらえ、さらにドイツ帝国マルクや連合国軍マルクではなく英ポンドのままでの支払いにした。またエリザベートは残った召使たちの継続雇用をイギリス側に求めた。これは割りとすんなり通ったが、フリーダとギーゼラは別だった。フリーダは足を交通事故で痛めて以来、婚期を逃し実家もなかったが、「一人前に働けない」という理由でイギリス側から雇用を拒否された。ギーゼラは家庭教師を兼ねたベビーシッターであったが、司令官夫妻の子供たちはもう成人しておりイギリスに残るため不要とされた。しかしエリザベートは自分が外に働きにでようと考えていたので、昼間子供たちを見てくれる信頼できる人物が必要だったので二人を喜んでつれていこうと決心した。
家具や絵画、カーテンはそのままつけて貸すことになったので、シュミット弁護士を交えて膨大な書類にサインをした。ジークフリートのピアノを置いていくのは残念だったが、宝石とバイオリンは持っていくことにした。かさばらないし、時代が落ち着けば売って生活の足しにできるだろう。ドレスと客用食器、シーツなどはマルタの実家の店の一角で売ってもらうことにした。物資が不足しているのでこの時期は中古品のリサイクルや物々交換が大流行だった。
アパートは狭く、身の回りのものや最低限の家具、思い出の品を入れるとすぐにいっぱいになってしまった。ジークフリートの親衛隊の礼服も大切に持っていった。この黒い礼装をエリザベートは一番好きだった。戦争が始まる直前に親衛隊の制服は国防軍と同じフィールドグレイに変更されてしまって残念だった。彼女はこの黒い服を着たジークフリートに恋をしたのだから。
引越しにはナターリアとレオニードも手伝いに来てくれた。アレクセイとエリザベートの間にあった何かしらぎこちない丁重な雰囲気がなくなり、ちょっとした目線や会話が親愛あふれるものになっていることに二人はすぐに気づいた。
「あの二人、うまくいったんじゃないかなあ。少将も最近すごく機嫌がいいし」
「それはそうよね。Sieじゃなくてduを使ってるもんね。ファーストネームで呼び合っているし……以前は『ジューコフ少将』『フラウ・フォン・リヒテンラーデ』ってまどろっこしかったけど。少将も戦争中は無愛想で戦闘のことしか興味ないって感じだったし、必要なことしかしゃべらない人だったけど、今はちょっとしたことでも笑ったりしているし、親切なのよね。この間なんて将官連中で冗談言いながら笑いあっているのを見かけてびっくりしたわ」
※訳注:ドイツ語の二人称には二種類あり、Sie(敬称:あなた)とdu(親称:お前、君)を使い分ける
ナターリアとレオニードはトラックの運転席でそんな会話をしていた。アレクセイはリヒテンラーデ家の人々や二人の使用人とともにバンを運転していた。
「この3ヶ月間のイライラが解消されたよ、オレ。やっと少将は気持ち伝えたんだ。あの奥さんの方もまんざらでもなかったんだろう」
「でも、あのご夫人はご主人を待ってるんじゃないの」
「戦争が終わってもう3ヶ月だ。アフリカ戦線に行ってたならともかく、ベルリンにいたんだろう? しかも軍人だったわけじゃない。うちの捕虜収容所も少将に言われてオレがくまなく探したし……もう生きちゃいないよ」
「遺体が見つからないし、誰も死んだところを見たわけでもないし、心の決着がつかないのよ。きっと」
3ヶ月くらいで諦めて他の男に心を移すというのもどうか、とナターリアは思っていた。
「セルゲイ・ズボフスキー曹長……あ、今は少尉になったのか。覚えてるか?5月に街で……」
「ああ、あの人のこと探して連れて来いって少将に頼まれたのよね、あなた。やっぱりあのきれいな金髪の女の子のことだったの?」
エリザベートはどうしてもアリシアのことが納得いかず、その後何度もアレクセイに調査を頼んだのであった。
「絶対に無理やり連れまわしてるって奥様が言うもんだからね……戦乱のどさくさで強姦が多いもんだから何度か禁止令が出ただろう? それなのに現場責任者の曹長がそんなことしてたらまずいもんな」
「ああ……」
ドイツ軍の捕虜収容所から解放されたソ連軍兵士は正規軍に編入されてドイツ領土へなだれこんだが、捕虜収容所での悲惨な待遇からドイツ国民への怒りとうらみはすさまじく、ドイツ領での蛮行はすさまじいものがあった。司令官からいくら通達があっても、将校が止めようとしても酔っ払った兵士たちを抑えることは困難を極めた。ジューコフ少将が被害者たちの訴えを聞いて回ったり、もっと厳しい軍規粛正通達を出すよう司令官に対して求めているのを、ナターリアは何度も目撃したことがあった。
「あのアリシアって子は兵卒の間では有名な美人だった。ズボフスキーの隊が到着するまでに相当ひどい目にあっていたと思う。ところがヤツの隊が到着したとたん、あの街区ではぴたりと強姦や略奪がなくなったんだ」
「どうして?」
「曹長はアリシアに頼まれてみんなに命令したんだ。まあ、セルゲイ自体は強姦とか買春とかしなくても女のほうからよってくるくらいの男前だ。けど、アリシアの美しさには目がくらんでしまったらしい。この女をどうしても守ってやりたいって思ったって本人の口から聞いたよ。知り合ってすぐにそういう契約みたいなことが成立したらしい」
「なにそれ、売春のオンリー契約みたい」
ナターリアの言葉には棘があった。
「まあまあ。アリシアは戦争末期に家族を徴兵やら空襲で失ってしまって一人ぼっちだった。焼け残った家で一緒に暮らそうって言い出したのは彼女のほうらしい。今では普通の夫婦みたいに暮らしているって近所の評判だよ」
「占領地妻ってやつね」
「いちいちそうつっかかりなさんなよ、ナターリア。ズボフスキーは独身だから、もしかすると本当に結婚するかもしれないよ」
絶対ありえない、とナターリアはあきれ返った。セルゲイがアリシアに惚れこんでいてもアリシアのほうはそうではないだろう。めちゃくちゃな集団レイプから守ってくれて、食糧もくれて、他の連中より少々マシで利便性があるから一緒にいるにすぎない。
「そうそう、面白い話があってさ。あの日やつは風邪引いてただろ? あの前の日にアリシアをめぐって川べりで他の兵士と殴り合いの決闘をしたらしいんだ。いつの間にか二人とも川の中に入ってて、あくる日は二人してダウンさ。あの辺りの連中はみんな知ってる」
「ふうん……」
「少将は尋問のあとズボフスキーとビアホールで飲んでた。多分そこでヤツから言われたんだ……少将殿、女を自分のものにしようと思ったら、ハッキリ態度で示さないと何も進みませんよ……」
レオニードは笑い転げて言葉にならなくなった。ナターリアはあわててハンドルを支えた。自分の国が負けていたらアリシアの運命もリヒテンラーデ夫人の運命も自分の運命になったかもしれない、と彼女は思った。
新居が一通り片付くと、ナターリアとレオニードは帰り、ギーゼラは子供たちを寝かしつけるために子供部屋にこもっていた。フリーダは使用人部屋でなにやら片付けをしていた。エリザベートは台所兼居間として作られた部屋に置かれたテーブルでアレクセイと二人でワインを飲んでいた。彼は何度も部屋を見渡した。
「本当に……もっと庭のあるような広い家だって何とかしてあげたのに。子供のためには庭があるほうがいいよ」
6人で住むには狭すぎるし、自分が訪ねて来てもあまり居心地のいいものではない、という意味だろう。召使がすぐ傍の部屋にいるのでは落ち着いて話もできない。しかし一応ここは東側であり、ソ連軍占領地域にあるのでアレクセイが満足しているようなのも確かだった。彼も自由に行き来できる街なのだ。
「そのうち新しい家も建つだろうし、お金が貯まったら引っ越すわ」
エリザベートは楽観的に言った。悲観的に考えても何も始まらないのだ。マルタの店に出した商品はよく売れていて当面の日銭には不自由なさそうだった。ソ連軍が接収した家を一つくらいアレクセイならどうにかできただろう。しかしそれは同じドイツ人家族を追い出し、路頭に迷わせることを意味した。エリザベートはそれだけは避けたかった。
「仕事は見つかりそう?」
エリザベートは首を振った。
「街には公職追放されたお役人がうじゃうじゃいるの。私なんか親衛隊大佐夫人でナチスの党員で婦人部の役員もしたし女子青年同盟の教師をしたこともあるのよ。職業経歴もなければ役に立つ資格も持っていないし……当分はマルタの店を手伝わせてもらうつもりなの。今は販売を委託しているけど来週からは自分でも店に立つ予定よ。私働いたことないから、結構楽しみなの」
仕事のことでもアレクセイは何度も力になると言ってきた。英語やフランス語に堪能なエリザベートは4カ国共同統治となったベルリンで他の占領軍の公式文書の翻訳やタイピングの仕事ならできるのではないかと思ったからだ。しかし彼女はアレクセイのことを好きでも赤軍に協力することはどうしてもできなかった。何年もの間ボリシェビキへの憎しみのプロパガンダを彼女は信じてきた。そして故郷ウィーンよりも深く愛するベルリンの街を破壊し、蹂躙したロシアを憎んでいた。アレクセイへの恋を素直に認めることができなかったのはそのせいだし、未だに何かしらしこりのようなものが胸につかえていた。
この一ヶ月間はアレクセイと一緒にいることが本当に多かった。イギリス軍との交渉、新しい家の修理。彼は何でも付き合ってくれた。あの日のキスとそのあとのことを思い出すとエリザベートは体が震え、熱くなった。何度も彼のキスを思い出した。唇から頬そして首筋へと移って行った彼の唇と彼女の体を愛撫した彼の手を思い出し、顔を赤らめた。しかしアレクセイはそのことを全く話題に出さないし、彼女に触れてもこなかった。エリザベートは「君を愛している」というアレクセイの言葉をまた聞きたかった。もう一度彼の広い胸に抱きしめられたかった。アレクセイが何もしてこないのは、自分は何か失態を演じて嫌われてしまったせいだろうかとなどと考えたりもした。そしてこれではまるで自分が彼に片思いしているみたいだと呆れてしまった。
アレクセイは帰り支度をはじめ、帽子をかぶった。
「夏休みも取らずに働いているのに、また明日からも書類の山と格闘すると思うとぞっとするよ」
引越しも終わったし、英軍との交渉も終わってしまった。もうアレクセイに会う「用」がなくなってしまった。
「じゃ、おやすみ、エリザベート」
アレクセイは右手で帽子を少し持ち上げて挨拶した。やはり彼は今日も自分にキスをする気はないのだろうか。エリザベートは彼の制服の袖をちょっとつかんだ。
「あの、次はいつ会えるの、アレクセイ」
顔が熱い。自分でも顔が赤らんでいるのがわかった。目を合わせることすらできない。何でこんなに照れくさいのだろう。エリザベートがようやく顔を上げると、アレクセイが驚いた顔をしてのぞきこんでいた。
「忙しくて、約束はできないけど……」
「そう……」
彼女はがっかりして目をふせた。今の自分はこの男の言葉ひとつで一喜一憂してしまうのだ。次の約束がないと不安でたまらないほどに。彼女は自分のほうから彼の司令部や家に電話をかける勇気は持ち合わせていなかった。
「でもこれからは家も近くなったし、早く帰れそうな日は電話するよ。夕食だけでも一緒にできたらいいね」
その言葉にエリザベートは微笑んだ。するとアレクセイは彼女を引き寄せて抱きしめた。彼の制服の胸につけられた勲章が頬にあたって痛かったが、男の腕の中でエリザベートは幸福を味わった。
「本当は毎日でも会いたいと思っているんだよ、エリザベート」
「ありがとう。うれしい」
「今度休暇が取れたら間違いなく君と過ごすよ」
「本当? 楽しみだわ。」
笑顔を見せたエリザベートにアレクセイは何度もキスをした。
フリードリヒスハインのアパートは静かな住宅地であったがそこから少し歩くとミッテと呼ばれる繁華街に出た。夜遅くまで営業しているレストランや酒場もあり、戦勝4カ国の制服が入り乱れていた。客引きの女に声をかけられたり、赤軍兵士から敬礼を受けたりしながらアレクセイ・ジューコフ少将はソビエト軍占領司令部を目指して歩いた。
彼の目はあるロシア人の集団に止まった。みんな酔っ払っていい気分になっているようだったので彼は気づかないふりをして通り過ぎようとした。しかしその中の一人と目があった。
「あ〜〜………」
セルゲイ・ズボフスキー少尉は無礼にもジューコフ少将を指差した。その結果全員がアレクセイに気づいてしまい、総敬礼を受ける結果となった。
「申し訳ありません、同志少将殿、ズボフスキー少尉は酔いが回っておりまして………」
連隊長である大尉が言った。大尉はズボフスキーを右手で小突いた。
「いや、いいんだ。勤務時間外だしな」
アレクセイは笑った。
「みんなこれからこの店に入るのか? 私から一杯ずつおごろう。大尉。」
アレクセイは大尉にいくばくかの金を渡した。一団は敬礼も忘れて喜びの声を上げた。皆が店の入口に向かったのでアレクセイは一人帰ろうと向きをかえた。
「同志ジューコフ少将閣下」
セルゲイが話しかけた。まだ少年の面影が残る茶色いまっすぐな瞳をした青年は22歳だった。しかし女にかけてはアレクセイの百倍も経験をつんでいた。
「機嫌がよさそうですね」
アレクセイは苦笑いした。
「まあな」
それを聞いてセルゲイは訳知り顔でにやりとした。ビアホールでの恋愛相談から二ヶ月がたっていた。
「今度また、うまいものでもおごるよ」
「お役にたてて光栄です」
セルゲイはそういって敬礼をした。
エリザベートはアレクセイと一緒に飲んだワイングラスや皿を鼻歌まじりに洗っていた。少将が帰った気配に気づいてフリーダが部屋から出てきて交替した。
「おやすみ」と言った女主人の顔。なんということだろう。奥様は恋をしているのだわ。あんなにハンサムでおやさしかった旦那様をもう忘れてしまったのだろうか。けれどこれから先、自分たちが安全に不自由なく生きていくためにはあの赤軍将校からの援助と保護が不可欠だった。「給料はいらないから」と言って自分とギーゼラは無理に奥様に連れて来てもらった。ここを追い出されたら自分たちには雨露しのぐ屋根すらないのだ。この先奥様がジューコフ少将の愛人になって、彼が自分たちに給料を払ってくれたらどんなにありがたいだろう、などとフリーダは考えていた。ボリシェビキを憎む気持ちとアレクセイに感謝する気持ちとのはざまでフリーダもまた悩んでいた。