4 愛憎
エリザベートは長兄からの手紙を握りつぶした。終戦前から具合の悪かった父が正式に引退して銀行経営から手を引き、兄が実家も事業も取り仕切っていたが、もうこんりんざいエリザベートへの金銭的援助はできないという内容だった。
「オーストリアはドイツの侵略の被害者で………お父さんは乗り気であったが、自分は最初からお前の結婚には疑問があった………当初の予定通りシュヴァルツ家との縁談に乗っていればこのような気苦労をすることもなかっただろうに………SSの将校にほいほいついてベルリンへ行ったお前のことを街じゅうの人が覚えているだろう………お前の夫が失業してウィーンへ戻ってきたところでこちらも今の社員を抱えるだけで大変なので余分な人間に払える給料はない………」
ジークフリートのおかげで実家の事業がどれだけ便宜をはかってもらえたのか彼らは忘れてしまったようだった。ただもう、縁を切りたい、自分たちはドイツ人ではないと手紙は語っていた。負け犬とはかかわりあいになりたくないということだろう。手紙の消印は1945年5月10日となっていた。終戦直後に投函されているにもかかわらずベルリンにつくまでに2ヶ月を要していた。この2ヶ月でエリザベートはこれまでの一生分と匹敵するほどの頭を使っていた。
占領軍を通して報道されてきたことはドイツ国民にとって衝撃的なことばかりだった。
東ヨーロッパ各地に点在した強制収容所………確かにユダヤ人たちは追放されていったことは知っていた。しかし追放された後どうなっているのか彼女は気にもとめたことはなかった。見るも恐ろしい写真が新聞に掲載され、そこで看守として勤務していた武装親衛隊員は皆逮捕されたということだった。通常の映画の上映前には必ずソ連軍による収容所解放の宣伝映画が放映された。そこに出てくるソ連兵は皆紳士的で規律正しく、ドイツ人たちは映画を見ながらこそこそと文句を言うことしかできなかった。
アドルフ・ヒトラー総統と長年の恋人エーファ・ブラウンは4月28日に防空壕で結婚式をあげた後、ともに自殺をしたということだった。エリザベートはベルヒデスガーデンの総統の山荘で何度もエーファに会ったことがあった。気立てのいい優しい女性だった。彼女は子供好きでリヒテンラーデ夫妻の子供たちをとてもかわいいと言ってくれた。エーファが子供を欲しがっていることは誰の目にも明らかだった。どれほど総統と正式に結婚したかったことだろう。毒を飲んで自殺するというエーファの悲劇的な最期にもかかわらず、「よかった」とエリザベートは素直に思った。
親衛隊長官のヒムラーは国歌保安本部第六局局長のシェレンベルクと共に英米との単独和平工作を行って失敗し、ヒムラーは逮捕直後に自殺、シェレンベルクは拘留されていた。終戦末期、同じ「反共」としてアメリカがドイツを救いに来てくれるという噂がベルリンを駆け巡ったが、根拠はあったのだ。シェレンベルクは若干35歳の親衛隊少将であり、ジークフリートとも親しかったはずだ。もしかしたらこの和平工作に夫も同行したかもしれないとエリザベートは考えた。しかし、逮捕者の中にリヒテンラーデ大佐の名前はなかった。
この和平工作に総統が激怒し、ヒムラーの連絡将校フェーゲライン親衛隊中将を即決裁判で銃殺刑にしたという記事はエリザベートを震え上がらせた。フェーゲラインはエーファの妹グレーテルと結婚しており、総統にとっては義弟とも言えた。去年6月にベルヒデスガーデンで行われた結婚披露宴では、リヒテンラーデ夫妻は余興にバイオリンとピアノ演奏までした。フェーゲラインは愛人とともに脱出を図り、自宅に私服でいたところを逮捕されたという。確かグレーテルは妊娠していて産み月も近かったはずなのに。もし和平工作にジークフリートがかかわっており、このときにベルリンにいたなら一緒に処刑されてしまっているかもしれない。
一体どうして政府高官たちはこんな好き勝手なことばかりしていたのだろう、とエリザベートは思った。こんなことしているから戦争に負けたのではないだろうか。他の人たちはどうしているのだろうと思ったエリザベートは、知っている限りの知人に手紙を書いた。手紙は到着しているのかいないのか、返事は誰からもなかった。
いや、彼女が手紙を書く前に一通だけ友人からの手紙が来た。ルドルフ・シュナイダー医師の夫人となった女学校時代の親友ユーリアからだった。
「……私たちの友情はこれからも続いていくものだと信じています」
手紙の最後に書かれたその言葉に、エリザベートは泣いてしまった。女学校時代の友人たち、ウィーン時代の友人、ベルリンでの取り巻き……皆去って行ってしまった。これから先、旧体制の遺物である自分と友人になろうという人間など決して現れないだろう。
ナチのお偉方はみんな赤軍が来る前に逃げてしまった……街の人々はそう思っているようだった。今年に入ってからは特に旅行許可が出にくくなり、一般市民がベルリンから逃げ出すことは不可能だった。それでも政府幹部の中には妻子を避難させた者が多かったようだ。しかしジークフリートは私たち家族に「逃げろ」とは言わなかった。英米軍と単独和平して一緒になって赤軍を追い返せると信じていたのだろうか。それともまさかフェーゲライン中将のように愛人と一緒に逃げようとしたのだろうか。赤軍の迫る帝都に私をおいて……? 赤軍が東部地域でどんな蛮行をしでかしているか知っているのに、妻と子をその最前線にほっぽりだして……? エリザベートは新聞を読みながら泣けてきた。
7月のある日、代々リヒテンラーデ侯爵家の財産を管理してきたシュミット弁護士が尋ねてきて、執事カウフマンも交えて話し合い、彼女は結婚して初めて資産の状況を理解した。エリザベートの結婚の際の持参金の大部分はこの城を改修するのに使ってしまっていたので、この家は結婚の際に実家から譲られたベルリンのフリードリヒスハイン区にある賃貸アパートからの家賃とジークフリートの俸給、実家からの援助の3つを合算して運営されていた。このうち後者の二つが永久に途絶えてしまった。しかも銀行の預金を調べてみると3月にジークフリートがかなりの金額を下ろしてしまっていた。
「ともかく収入が減るのですから、これまでのような生活はできません」
執事カウフマンが言った。
「私を含めて全使用人を解雇してください」
エリザベートは驚いて異をとなえた。
「何言ってるの、カウフマンさん、そんなことしたら私と子供たちはどうやって生活するの。召使がいなければこんなに広い家は管理できないわ。例えばマリアに手伝ってもらわないと着られないドレスだってたくさんあるのよ」
「これからはご自身のできる範囲で生活をしてください。ほとんどの市民の家庭では使用人はおりません。使用人に手伝わせないと着用できないようなドレスを着てどこに行かれるというのですか。年に何度も来ない客のために毎日客用寝室や舞踏室を掃除する必要がどこにあります」
カウフマンに続き、シュミット弁護士もまた
「財産の管理は今後ご自身で行ってください。私に支払う経費も相当なものです。削れるところは削ってください。何か法律的な問題が起こりましたら、その時はもちろんお力になりますが……」
と言った。これからはすべてが自分の肩にのしかかってくるのだ。今までエリザベートは独身時代には両親、結婚してからはジークフリートの傘の下にいた。良家の令嬢として、あるいは奥方として「難しいことは何も考えなくてよい」という風潮の中にいた。それなのに世の中は手のひらを返したように彼女に「自分の頭で考えろ」とか「自分で生活費を稼いで来い」というのだろうか。使用人の給与計算や税金のことなど、エリザベートは一から覚えなければならないことが多すぎた。独身時代に必死に覚えたフランス語やダンス、結婚してからお遊びで通った大学やらバイオリン演奏は一体なんだったのだろう。そんなことをする暇があるなら、法律の一つでも勉強していればよかっただろうに。
やむなくエリザベートは使用人の解雇に同意した。一人ひとりに対して故郷に戻れるだけの鉄道運賃といくらか割り増しした最期の給料を渡した。そして最低限必要な部分を除いて屋敷の大部分を閉鎖した。1年もすれば以前のように荒れ果ててしまうだろう。4月の終わりから彼女の家を占領していた赤軍はすでに屋敷を出て行き、街の中に宿舎を構えていた。6月に入ると占領地運営が本格的に始まったのでアレクセイも忙しいらしく、エリザベートを訪ねてくるのも日曜の午後だけになってしまっていた。
このまま収入がなくなれば数年後には固定資産税が払えずに差し押さえられてしまうかもしれない。だがジークフリートの留守中に勝手に屋敷を売ったり貸したりすることはできないと彼女は考えていた。ここはリヒテンラーデ侯爵家の世襲財産なのだから。次代の侯爵位を継ぐエドゥアルトに渡さなければならない大切な財産なのだ。
そうはいってもジークフリートの生きている証は何一つなかった。アレクセイと一緒に市街地に足を踏み入れたあの日以来、彼女は何度も執事と一緒に街を見に行った。街の中は馬糞とゴミだらけで悪臭がし、女性たちがバケツリレーで少しずつ瓦礫の山を片付けていた。広大なティーアガルテンの木々は市民が薪にするために切られてしまい、見るも無残なことになっていた。エリザベートはこれまでに訪問したことのある政府高官の邸宅も訪ねていったが、ほとんどが焼け落ちていたり瓦礫の山になっていて、かろうじて家があったとしても、所有者とは全然違う人間が占領していることも多く何度も危ない目にあいかけた。街でたむろするソ連兵から声をかけられることはしょっちゅうだった。
「ウーリ、ウーリ(Uhrはドイツ語で時計、時間の意味)」
と言って、時計を要求されたり、
「パン、ベーコン、うちで寝る」
と言って売買春の勧誘を受けることもあった。
おかげで心配したアレクセイが歩兵を護衛につけてくれた。誰かが話しかけてくるたび、兵士は「この方はジューコフ少将閣下の……」と言って、相手をおっぱらってくれた。「友人」と言われているのか、「愛人」と言われているのか。どっちにしろ、少将の威光のおかげでロシア兵はすぐにおっぱらわれるのだ。屋敷に出入りを許されていた将校や士官たちと一般の兵卒たちとは雲泥の差があることにエリザベートは驚きあきれていた。自分に襲い掛かった兵卒はごく一部の乱暴者なのだろうと彼女は思いこもうとしていたこともあったが、こうして町中で見る敵兵は酔っぱらって昼間でも遊び呆けて乱暴をしでかすのだ。この連中が市内に突入したころ、どんな惨状が繰り広げられたかは想像したくもなかった。
自分の所有する賃貸アパートが無事であったことにエリザベートは本当にほっとした。中には荒らされたり略奪を受けた家もあったが住んでいる人々と無事を喜び合った。だが家賃の値上げは当分できないだろう。みんな困っているのだから。
マルタのことは時折訪ねた。そのたびに二人で「まだ連絡がないわね」と慰め合うのだ。同じように大学で知り合い、卒業後は大手新聞社に勤めていたアンネリーゼも以前と同じ住所にいた。3人で再会を喜んですぐ、彼女はエリザベートに言った。
「何回やられた?」
一瞬とまどったが、すぐに意味は理解できた。ソ連軍からの仕打ち。平時であれば性的暴力を受けた経験など、死んでも人には話せないようなことだった。加害者はせいぜい懲役何年かで済むが、被害者は一生残る心の傷に苦しめられ、それよりも恐ろしい「世間からの目」におびえなければならない。本人には何の非もないにもかかわらず「傷もの」として扱われ、結婚相手を探すことができなくなるのだ。だから大部分は泣き寝入りしかねない犯罪だった。
エリザベートが事情を話すと、アンネリーゼは顔色を変えて「信じられない」と言った。
「あなたみたいに幸運な人間がいるなんて、信じられない。少将ですって! 雲の上の司令官じゃないの。私なんて何度もやられたあげく、やっと守ってくれる中尉を見つけたのに、彼は異動で市外に行ってしまったのよ。もう食べ物をくれる人もいないんだわ。どうやって生きていけというのよ。あたしの姉はソ連兵に追いかけられてバルコニーから転落して死んだのよ。自殺だったのかもしれない。けれど事故ってことにしないと教会でお葬式をあげてもらうことができなかった……会社の再開のめどは全くたたないし、配給だって券のとおりになんてもらえないのよ」
エリザベートは聞いているのもつらくなり、砂糖の入った瓶をかばんから取り出してテーブルの上に置いた。これはソ連軍から供給されたものを小分けにして持ち歩いているもので、道中友人に出会った時などプレゼントすると喜ばれるからだった。アンネリーゼも砂糖を見て少しは機嫌を直してくれないだろうか、あるいは話がそれてくれないだろうかとエリザベートは願った。アンネリーゼは砂糖を手に取った。
「これもその少将とやらがくれたもののおすそ分けなの? 戦時中だって親衛隊大佐の夫人で、戦後は敵国の少将が守ってくれてたですって? あんたって本当に将校好きのする女なのね。一回も外で働いたことがないくせに、いつものうのうとして生活に困らないなんて信じられない」
これにはマルタのほうの堪忍袋の緒が切れてしまった。
「いいすぎよ、アンネリーゼ!」
「あたしの配給券は一番下のランクなのよ。『無職者その他』ですって、笑わせるわ。一日中バケツリレーで瓦礫を撤去したって、もらえる食糧は朝食にも足りないような量よ。それにくらべてエリザベートはどうなのよ。無職っていうなら、エリザベートのほうが無職じゃないの! 専業主婦ですって、ふざけないでよ。使用人を10人以上も抱えて、主婦らしいことも母親らしいこともしてなかったじゃないの! あたしは自分の力でお金を稼いで、自立していたのよ。どうしてよ、どうしてこんなにあんたは運がいいのよ。大学でだってオーケストラクラブでだって、みんなエリザベートには気を使っていたわ。エリザベートの後ろにはゲシュタポがいるんですからね!」
マルタはアンネリーゼに平手打ちをくらわせた。だが、アンネリーゼは全くめげずに言い続けた。
「ねえ、エリザベート。その少将の友達かなんかで同じように偉い人を紹介してよ。あたし、なんだってするわ。お砂糖を持ってきてもらうよりよっぽどありがたいわ」
エリザベートは心の中で怒りが沸騰して体が震え、何か怒鳴り返してやりたかったが、何も言えずに彼女の叫びを聞いていた。アンネリーゼの変わりように対する悲しみのほうが大きかった。友達だと思っていた。誇り高く美しいアンネリーゼ。大学の論文では彼女の右に出るものはいなかった。実力で新聞社に入社し、男社会の中でがんばってきたのにそれがすべて崩れ去ってしまったのだ。彼女の署名入りの記事を新聞に見つけた時は、切り取っておいたくらい自分も彼女を応援してきたのだ。だがアンネリーゼは心の底でこちらのことをこんな風に思っていたのだろうか。ドイツの新聞は皆ナチに協力していたということで戦後の発行許可は全く下りていなかった。新しい新聞社が設立されたところで、雇ってもらえる保障はないのだ。二人は早々に訪問を切り上げ、帰路についた。パン屋の前に配給切符を手にした人々が行列を作っていた。アンネリーゼの言うとおり、自分はああやって行列に並ぶ必要もない。今でもアレクセイがいろいろと届けてくれるからだ。瓦礫撤去の作業に動員されることもない。
「あなたに何か届けるから、手間だけどアンネリーゼに届けてもらえるかしら」
エリザベートの言葉にマルタはあきれ返った。
「あんな言われ方したのに、彼女に親切にする必要なんてないわよ。なんなら、ロシアの将校を紹介してやったら? 飛びついて来てあなたにキスするわよ」
「冗談にもそんなこと言わないで」
エリザベートは暗い顔で言った。もう一度アンネリーゼを訪問する勇気は持てそうになかった。
「ジューコフ少将に頼んで、そのなんとかいう中尉から連絡するようにしてもらえないかとは考えているんだけど」
「お人好しすぎるわね、よしたほうがいいわ。異動? 口実に決まってるわよ。男が女に会いたいなら、どんな手を使ってでも連絡してくるわ。彼女をロシアまでつれていくことだってできるじゃない。何回か遊んで飽きたから、さよならの言い訳にすぎないわよ」
エリザベートはアリシア・ミラーのことも訪ねてみた。夏のキャンプで出会っただけの師弟関係だったが、先日の街中でのこともあって気になり続けていたので、非礼とは思いながらも少しばかりのチョコレートを持って訪ねた。あの時セルゲイという曹長が言ったとおり、彼女はひとりで暮していた。
「うち、4階でしょう。爆撃が怖くて近所の人たちと一緒に地下の防空壕に隠れていたけど……4階に隠れていたら無事ですんだのよね。下っ端の兵隊たちは3階以上には怖くて上がれないらしいから。先生の家ではそんなことない?」
「さあ……うちは二階建てだし、兵卒は呼ばれた時以外には屋敷に入れない規則になっていたから……」
「田舎から徴兵されてきた兵隊たちは平屋しか見たことがないから、地面から離れるのが怖いんですって。笑っちゃうわよね。あんな大きな自動小銃を肩からかついでいるくせに」
アリシアはエリザベートを歓迎し、コーヒーを入れながら言った。セルゲイ・ズボフスキーが持ってきているのか、少女は食べるものにも着るものにも不自由はなさそうだった。
けれど子供らしくアメリカ製のチョコレートには目を輝かせていた。
「セルゲイがジューコフ少将から呼び出しをくらったって言っていたわ。けど先生、御心配にあらずよ。私のほうがセルゲイをひっかけたんだから。私も彼との交際を楽しんでいるの」
確かに以前会った時よりもアリシアは顔色もいいし生来の美貌を取り戻しているようだった。セルゲイとやらもこの少女にはぞっこんなのだろう。「好きな人以外とはつきあわない」と言っていたアリシアが、セルゲイのことを好きになったとでも? 自分がアレクセイのことに感謝している程度の感情が「好き」といえるなら、そういうものなのだろうか。エリザベートはアリシアの陶器のような肌と海をうつしたような青い瞳を見ながらいろいろと考えをめぐらせた。
「先生のだんな様は?」
「まだ戻らないわ。連絡もないし」
「ジューコフ少将は先生に何か……言ったりとかする?」
「何かって?」
少女は「何でもないわ」と言ってチョコレートにかぶりついた。
街の中にいるのは国防軍の兵士ばかりでSSは一人も見なかった。こうまでSSが見事に消えているのを見ると、エリザベートは「もしかすると秘密のルートを使って外国にでも逃げたのだろうか」と考え始めた。それなら待っていたらいつかジークフリートからの連絡があるだろう。その時に家にいなくては彼からの手紙を受け取ることすらできない。
働かなくてはならない、と彼女は考えた。残された現金ではそう長くは暮らせないだろう。4カ国の戦勝国がドイツを分割占領することになったので、「4つの通貨が流通したらややこしい」という理由で「連合国マルク」なるものが発行された。ソ連軍などはこの3年間兵士への給料が支給されていなかったが、遡って連合国マルクでの支給が行われた。貧しい田舎から徴兵された兵士たちは今までの人生では見たこともない大金を一気に手にし、しかもそれを故郷に持って帰ることができないので市内の闇市で時計などを買いあさった。物流が回復していないので食糧や日用品は不足しているのに通貨があふれたせいで、敗戦国の当然としてインフレが始まっていた。従来のドイツ帝国マルクを持っていても以前のように紙切れになる可能性が高いから使えるうちに使ったほうがいいという執事と弁護士の意見に従って、エリザベートは気前よく使用人に最期の給与を払った。
焼け出されてリヒテンラーデ家に居候していた近所のランバッハ家とアイスマン家の人々が親戚を頼るために旅立つ旅費も用立ててやった。ランバッハ家の老紳士も、アイスマン家の息子も6月になると自らの足で歩いて帰ってきていた。老紳士はベルリン義勇軍に入れられ、最期の闘いで負傷したものの教会でしばらく養生していたとエリザベートに言った。「大丈夫、侯爵もきっとどこかで手当てを受けているはずです。奥さん、お気を落とさずに」 アイスマン家の跡取りは東部戦線に送られていたが、除隊なのか脱走なのかさっぱりわからないような迷走を繰り返したあげく、なんとか生家に戻ることができたのだった。二つの豪邸は焼けて久しかったが、彼らは焼けた柱に張られた「リヒテンラーデ家にお世話になっています」という張り紙を見て難なく侯爵邸にやってくることができた。
彼らは何とか持ち出せた宝石などを担保としてリヒテンラーデ夫人に渡そうとしたが、彼女はこれを断った。
「お金ができたときに返してくださればいいですから……」
困っている人々から思い出の品々を担保として取るなんてユダヤ商人じゃあるまいし、と彼女は考えていた。ドイツ人としての、それも貴族としての誇りだけは失いたくなかった。自分は成金の商人の家に生まれたが、侯爵夫人になったのだ。しかし今やフリードリヒスハインに残ったアパートと庭の田畑からの作物……これが彼女の収入のすべてだった。これで3人の子供たちと残った5人の使用人を養わなくてはならない。
使用人たちの再就職についてはアレクセイが力をつくしてくれた。若い者はベルリンに駐留する占領軍将校の家の使用人として雇ってもらえることになった。残されたのは身寄りのない年老いた者ばかりで「給金はなくてもいい。ただ雨のしのげる家においていただければ」と懇願するばかりであった。
エリザベートは現金収入を得る方法として彼女なりにいろいろと考えはしてみた。
「ねえ、私のバイオリンとジークフリートのピアノを売ったらどうかしら。かなりの値打ちがあると思うのよ。宝石を買い取ってくれる店はないのかしら」
弁護士はあきれて言った。
「奥様、このご時勢に音楽を奏でたり、宝石をつける余裕のある方はいないと思いますよ。買い叩かれるのが落ちです」
「じゃあ、音楽を教えるのも無理かしら」
「無理でしょうね。プロの音楽家たちも青息吐息ですから。奥様、お屋敷もあり、略奪も受けてないあなたはベルリンで有数のお金持ちだと思いますよ」
「家に下宿人を置くというのは?」
「家賃を払えるようなお金のある人は、不動産には不自由していないと思いますよ」
残った召使の一人である老庭師カールと一緒にエリザベートはハーケンクロイツの赤い旗とヒトラーの肖像画を庭で焼いた。カールが火を枝でつつきながらつぶやいた。
「この12年間のことはなんだったんでしょうね」
ヒトラーがドイツで政権を取ってからたった12年なのだ。私たちはその国威高揚にのり、失った領土を取り戻すべく戦争をはじめ、そしてすべてを破壊されてしまった。
「前よりももっと領土も減るかもしれませんね」
カールは前の大戦で従軍した経験を持っていた。そして領土が大幅に減り、東プロイセンが飛び地のようになったドイツで、戦後のハイパーインフレの屈辱的時代を生き抜いてきた。カールはヒトラーが立ち上がった時、歓喜したという。彼はナチスエリートの親衛隊将校の家で働くことを何よりも喜び、家中で一番熱心なナチ党員だった。
「また卵一個が一兆マルクなんてことにならなきゃいいけど……」
エリザベートは黙って火を見つめていた。第一次世界大戦が終わった年に生まれた自分は戦後の混乱もハイパーインフレも覚えていなかった。屈辱的なヴェルサイユ条約、50%を越える失業率。ただ父や周りの人々から聞いただけだった。それが今度は自分の人生に直接降りかかってきた。それなのに自分には頼るべき夫もいない。実家からも縁を切られた。それでも生きていかなければならないのだ。煙が目にしみた。
自分の就職のことをアレクセイにお願いしてみようかとも考えた。けれどそんなことを言ったら、困っているならと言って現金でもくれかねないと思ってやめた。知り合ってから3ヶ月近くがたっていた。彼はいつも紳士的で親切であったが、エリザベートに対して恋愛表現は周りの全員が笑ってしまうくらい不器用なものだった。屋敷の接収を解除するときに彼はかなりの食糧とタバコを置いていってくれた。このごろでは信用を失った帝国マルク通貨のかわりにタバコが「1シガレット換算」として使われていたからだ。そして彼は言った。
「時々様子を見に来てもいいですか? ご迷惑でなければ……」
エリザベートは二つ返事で了解した。アンドレイとピョートルは異動でロシアに帰国してしまったが、アレクセイだけは元帥に頼み込んだのかどうだか知らないが、占領ロシア軍に残ることになりそうだということだった。アンドレイは明日が出立という前夜、エリザベートと話がしたいと彼女を訪れた。
「あいつのこと……アレクセイ・ペトローヴィチのこと、嫌いじゃあないだろう、奥さん」
「嫌いってことはないわ」
「アレクセイは恋人を亡くしてから生きる屍みたいになっちまったんだ。それがあなたに会って、笑うようになった。あなたは彼の生き甲斐になっている。あいつの気持ちを受け入れてやってほしい」
この言葉にどうにも答えることができず、エリザベートは黙りこくっていた。「彼の気持ちを受け入れる」ということは不貞を犯すことに他ならないのだ。自分はそんなことを決して望んでいないと彼女は強く信じていた。たとえジークフリートが死んでいたって、自分は一生後家を貫くのだ。
アレクセイは時々やってくるたびにちょっとした布地やお菓子、チーズや裁縫道具など手に入りにくい貴重品ではあるが、過度ではないおみやげを「もらいものだけど、自分には全然必要ないから」と言っては、持ってきてくれていた。アレクセイの来訪はエリザベートにとって、とても楽しみなものだった。以前は屋敷に一緒に住んでいたので毎日お茶の時間に話をすることができた。あの時間は彼女にとってすばらしい気晴らしだったのだ。今は週に一度、短い時間しか会えないが彼女は前の日から着るものについて大変悩んだりしていた。会っていても何か重要な話があるわけでもなく、ハーフェル川で一緒にボートに乗ったり、裏の森を散策したりと、ごく平和な休日を二人で過ごすだけであったが、心いやされる大切な時間だった。
ボートに乗り降りする時など、アレクセイはさりげなくエリザベートに手を差し出した。彼の手の中に自分の手を差し入れるたび、この手を離さないでほしいと思ってしまったり、このまま抱き寄せられたら、などと想像してしまうのだ。
エリザベートは正面玄関のシャンデリアがあったはずの金具を見るたびに、アレクセイと出会った日を思い出した。そして大理石の床につけられた傷をなで、あの日以来はじまった彼との日々を考えた。幸いなことにソ連兵たちに襲われたことが心の傷になり、何度も悪夢にうなされるというようなことはなかった。シャンデリアが落とされた日は、少年のような兵士に殴られた日ではなく、アレクセイと出会った日として彼女の心に刻まれているのだ。彼女は彼との間に築かれた「友情」に感謝していた。だが、この関係は「友情」なのだろうか。自分はこんなにも彼を意識しているというのに?
アレクセイがはっきりした求愛に出ない以上、エリザベートのほうから「自分はあなたの好意にこたえることはできない」と断ることもできず、二人の関係はあやふやのまま続いていた。いわばエリザベートにとっては一方的な受益状態であった。しかし突然その危うい均衡が破られる日がやってきた。7月中旬アレクセイはもうこの家には来られなくなったと伝えたのである。
「戦勝4カ国でベルリンを分割統治します。グリューネヴァルト区は英軍の占領地になります。中心部の繁華街はともかくとして管轄外の地域へは公用以外では足を踏み入れることはできなくなりました」
エリザベートは驚いて何も言えずに彼の黒い瞳を見つめていた。この人ともう会えなくなる。3ヶ月前突然自分の人生に現れたこの男はまたもや突然去って行ってしまうのだろうか。
「私の住所はこちらです。破壊を免れた家を赤軍が接収したものですが」
アレクセイは一枚のメモを渡した。中心部から東へ行ったケーペニック区の高級住宅街の住所と電話番号が記されていた。自分はこちらの地域には足を踏み入れられないから、会いに来てくれという意味だろうかと彼女は考えた。
「何か困ったことがあれば……いつでも……いや、別に困ったことなどなくても……用なんてなくても、来てくれれば……」
アレクセイは口ごもっていたが言いたいことは伝わってきた。彼はこれからも自分と会いたいと思ってくれている。うれしい、というのがエリザベートの率直な感想だった。
アレクセイは立ち上がって客間の庭に面した窓の傍へ歩んだ。エリザベートからは彼の顔が見えなくなった。
「あなたがご主人の帰りを待っているのはわかっています。これから先もご主人があなたの心から消える日は来ないでしょう。ただ、私があなたに友情以上の関係を求めてしまっていることを知っていてほしいのです」
エリザベートは立ち上がってアレクセイのすぐ後ろに立った。手を伸ばせば彼の広い背中にすぐ届きそうだった。それよりも以前の車の中でのように彼にもたれてしまいたいような気持ちがした。アレクセイはその気になれば、この3ヶ月間の力関係を利用すればすぐにでも彼女を自分のものにすることは可能だった。だが彼は自分の気持ちを伝えることすらしなかった。今ようやくこんなまどろっこしい言い方をしたのだった。
「私………」
「誤解しないでいただきたいのは」
アレクセイはエリザベートの言葉をさえぎった。
「あなたを金銭だとか、権力だとかで無理に従わせようと思っているわけじゃないんです。確かにあなたの国は戦争に負けた。私の国がこの街を支配している。けれどそんなことは関係なく、対等な人間として私のことを見て欲しい。私が欲しいのはあなたの心なんです。ご主人を忘れてくれとは言わない。あなたの心のなかに私の居場所が欲しいんです」
エリザベートはなかばぼんやりと聞いていた。感動して物が言えなかった。今まではアレクセイから「交際」を申し込まれれば、ドイツ婦人の気概を見せてきっぱりと断らなければならないと心に決めていた。だが今実際に彼の告白を耳にすると彼女の心には感動とときめきが満ち溢れていた。自分もこの人と今後も会いたい、この人から愛されたいと願っていると確信があった。
「私………」
「言うべきではなかった!」
アレクセイはエリザベートと目を合わせようとせず、強い口調で言った。
「すみません、忘れてください」
彼は早足でソファに戻り、帽子を手にした。彼は帰ろうとしている。そしてもう二度とここへたずねてくることはない。その予想はエリザベートを焦らせた。
「待って、待って、ジューコフ少将!」
アレクセイはドアノブに手をかけた。
「待って、お願い、アレクセイ! 帰らないで」
なんとかして彼を止めたいという一心でエリザベートは後ろからアレクセイに抱きついた。アレクセイは撃たれたように立ち止まってドアから手を離した。ファーストネームで彼を呼んだのは初めてだった。
「私、私ね、……私………」
涙があふれてエリザベートは自分の気持ちを表現できなかった。夫と子供たちのことはもちろん愛している。けれど自分はこの男とこれからも会いたいのだ。アレクセイはエリザベートのほうを向き直り、彼女を抱きしめた。背の高い彼のたくましい腕と胸に包まれるのをエリザベートは心地よく感じた。
「泣かないで、愛しい人」
アレクセイは彼女の金髪に唇をうずめた。
「あなたを困らせるつもりではないのです」
「困ってなんかいないわ」
彼女はうっとりしながら言った。そしてもっと強く抱きしめてほしいと思ったのでありったけの力でアレクセイを抱きしめた。
「……エリザベート」
エリザベートは彼の口付けを受けた。彼女は瞳を閉じ、彼の愛情にこたえようとした。彼が自分のファーストネームを呼ぶのもこれが初めてだと気づいた。背骨が折れるかと思うほどの力で抱きしめられ、エリザベートは自力で立っていられなくなった。体が密着しているのでアレクセイの体の変化に彼女は気づいていた。女として自分は求められている。夫以外の男から欲情されるなんて考えたこともなかったが、嫌な気持ちはしなかった。むしろやっと彼が自分のことを愛そうとしてくれていることが嬉しかった。
このままなし崩し的に抱かれたら後悔するかもしれないと考えたが、抱かれなくても後悔するだろうと思った。すこしでも拒絶の姿勢を見せたらアレクセイは体を離してしまうだろう。とにかく今は抱きしめられていたかった。彼の広い肩の内側にすっぽり抱きしめられて、まるで熱に浮かされたようにぼんやりしていたかった。
エリザベートは床の冷たさを背中に感じた。その冷たさはあの日自分を犯そうと襲い掛かってきた酔いどれの兵士を思い出させた。今自分の体の上にいるのは同じ赤軍に属する兵士なのに、どうしてこんな幸せな気持になるのだろう。あの時彼女は自分の非力さが悔しかった。しかし今は逆に自分が弱々しい女であることをうれしく思った。エリザベートは自分の胸に顔をうずめたアレクセイの髪をなでた。早鐘を打つ心臓の音が聞こえてしまっているだろう。彼の短く刈った髪が手に気持ちよかった。アレクセイの手が優しく自分の体をなでていくのを感じた。
「エリザベート………君を愛している……」
ああ、彼はやっと言ってくれたのだと、エリザベートはこの言葉を心の中で反芻した。この言葉を聴きたかったのは自分のほうだったのだ。私はこの人のことが好きなのだ。これまでの彼女は夫の要求に応じるだけだったが、今はじめてアレクセイという存在を欲しいと感じた。いっそうの愛撫を求めてエリザベートは男を抱きしめた。
しかしこの夢のようなひとときは突然打ち破られた。アレクセイがエリザベートのブラウスの3つ目のボタンをはずそうとした時、来客を告げる召使のノックがあった。二人はまるで雷にうたれたように我に返り、大急ぎで衣服と髪を直した。ドアの外にはおびえた目をしたフリーダが青い顔をして立っていた。
「イギリスの方がいらしていて……」