2 惨状
アレクセイに連れられてベルリン市街地に来たエリザベートは想像以上の惨状に目をみはる。そして知人たちがどれほどの辛酸をなめたかを思い知る。
2 惨状
隣に座っている二人が急に立ち上がって敬礼した。エリザベートはアレクセイが来たことに気づき、あわてて立ち上がって敬礼のものまねをした。赤軍兵士の制服を着ている以上、上官には敬礼しなければという彼女なりの考えであったが、あまりにも不恰好な敬礼のためアレクセイは苦笑いした。
「いや、失礼。今日のところはもういいそうです。明日からこっちに毎日来なければならないですが……今からあなたと街の探検と行きましょう」
その後ロシア語で残りの二人に向かって当面の決定事項について説明した。現在の中継地点である郊外の屋敷を借りつつ、無線と電話線の配備を早急に行うこと、市街地の無事な建物をいくつか接収することなどであった。空爆や地上戦で家がかろうじて残った人々もこうやって住処を失っていくのだろうかとエリザベートは思った。そして自分の財産の中に賃貸に出しているアパートメントが含まれていることを思い出した。あのアパートや住んでいる人たちはどうしているのだろう。
アレクセイは自分たちに同行する兵士を何名か選んだ。小銃を構えた護衛の兵士たちや、地図を研究した文官や通訳もいた。
「まずはどこへ行きますか?」
「シュナイダー総合病院へ。友人の嫁ぎ先が経営しているんです」
一行は幌のついた軍用トラックで出発した。エリザベートは一番後ろの場所に座った。トラックの荷台に座るなんて初めてだったが、この場所からは街の様子がよく見えた。病院へ向かう道路は大通りだったので空爆や戦闘もひどかったようだが、なんとか通行できるように瓦礫もかなり片付けられていた。しかしガタガタ道だし、しょっちゅう止まるし快適なドライブとは言いがたかった。アレクセイは地図を見ながらずっと文官と話し込んでいるし、エリザベートは少し退屈してきてトラックの後ろから過ぎ去っていく景色を見ていた。さすがに日が高くなってきたのでドイツ人の姿が増えてきたが、みんな薄汚れていたし、険しい目をしていた。ポンプで水が出るのだろうか、バケツを持った行列も見かけた。何時間くらいああして並ばなければならないのだろう。
一組の若い男女が彼女の目に留まった。男のほうは私服でまだ20歳前後に見えた。徴兵されていないわけがない年齢なのに、戦闘が終わったので家に帰れたのだろうか。ジークフリートはどのあたりで戦ったのだろうと思っていると、私服の男が咳き込み、女がいたわるように男の背をさすった。
女の髪に巻いていたストールが落ち、輝くような金色の巻き毛が現れた。エリザベートは荷台から身を乗り出した。あれは……あの少女は……
「アリシア?!」
エリザベートの叫びに少女が振り向いた。声の主を探そうときょろきょろしている。エリザベートはちょうど止まっていたトラックから飛び降り、かけよって帽子とゴーグルを取った。
「私よ。アリシア。よかったわ。生き残ったのね」
「……先生?」
かつてジークフリートがSSの高官としてヒトラーユーゲントやドイツ女子青年同盟(この時代の十代の若者はどちらかへの参加が義務付けられていた)へ視察にでかけることがあり、エリザベートもお遊びで夏のキャンプなどに同行していた。特別授業としてバイオリンを手ほどきしたこともあり、アリシア・ミラーはその時の生徒だった。際立って美しい彼女は女子青年同盟始まって以来と言われた美貌であった。党のポスターモデルや映画会社からひっきりなしに誘いが来ていたが両親が厳格なため許してもらえないとぼやいていた。2年ぶりであったが女の目から見てもため息の出るような美しさをエリザベートは覚えていた。彼女を初めて見たとき「人魚姫もかくや」と思ったことを記憶している。エリザベートはあの日のことがよみがえった。
「アリシアはこんなにきれいだから男の子からの誘いが引きもきらないのよ」と周りの少女たちはうらやましがっていた。
「でもみんな断っちゃうのよ。もったいない」
エリザベートはどうして断ってしまうのかを聞いてみた。
「だって私は本当に好きな人としか付き合わないことにしているのよ。ねえ、先生、先生の旦那様のような素敵な方とどうやったら知り合えるのかしら」
少女は夢見るような瞳で笑っていた。あの日は昨日のようだ。
自分が着ている赤軍通信兵の制服に少女がとまどっているのだろうと思い、エリザベートは歩み寄りながら説明を始めた。
「ごめんなさい。この格好はね……」
せきこんでいた黒いコートの男がアリシアを自分の体の後ろに隠し、エリザベートの言葉を制した。
「何の用だ」
男はコートの襟を開けた。エリザベートは息を呑んだ。赤軍下士官の制服が見えた。階級章からして、エリザベートの着ているものよりも上級のようだった。
「セルゲイ・ズボフスキー曹長だ」
なぜアリシアは赤軍兵士と一緒にいるのだろう。ただ一つの考えられる答えがエリザベートの脳裏をかすめた。
「リヒテンラーデ夫人、何事ですか」
アレクセイの怒鳴り声が後ろから聞こえてきた。セルゲイの顔が青ざめていくのがまざまざと見て取れた。
「同志ジューコフ少将閣下……」
セルゲイは軍靴をならして敬礼し、また咳き込んだ。アリシアはセルゲイによりそったまま、不安げな目をしていた。アレクセイがきつい口調で尋問した。
「制服のコートはどうした、同志曹長」
「昨日水に濡らしてしまい、やむをえず彼女の兄のものを借りました」
「どこに行こうとしている」
「今朝から熱があるので軍の診療所へ行くところです」
「女連れでか?」
「彼女を一人で家に残しておくのも心配ですので……あ、彼女の家の一階を自分の部隊が借りていまして、あの……彼女は一人で大きな家に暮らしていたので……」
その会話にエリザベートは青ざめた。アリシアは裕福な家庭の娘だった。両親も兄もいた。父と兄は徴兵されたのか? 母は? 手伝いのものたちは? これほど若くて美しい彼女はこの市街戦の戦闘を一人で生き抜いたのだろうか。
その後女性の通訳兵も介してアレクセイはアリシアから詳しい話を聞いたが、セルゲイの話と矛盾することもなく、アリシア自身がセルゲイと共にいることを希望していると判断し、二人を釈放した。エリザベートはこっそりアリシアに「うちに来てもいいのよ。あなた一人くらい寝る場所も食べ物もなんとかなるわ」と何度も言ってみたが、彼女は首を横にふった。
再び走り出したトラックの中でアレクセイが言った。
「降りるときはひとこと言ってくださいよ。いくら低速でも飛び降りるなんて危ないし」
「すみません」
あきらかにアレクセイは怒っているのだろうと思い、エリザベートは素直に謝った。しかし頭の中は別のことが支配していた。あの娘は戦勝国の兵士の情婦として生きているのだ。いや、あの男に出会う前に彼女は地獄を経験したに違いない。
「あの……ジューコフ少将、さっきの曹長はどうかなるのですか?」
「え、どうって?」
「だから、何か処罰とかは」
「処罰? どうして?」
「だって明らかにあの兵士はアリシアを無理やり従わせていて……」
「無理やりってこともないと思いますけどね」
アレクセイは平然と言った。彼はこちらを見ようともしなかった。
「軍隊内の秩序と規律維持のために、あなたに乱暴狼藉を働こうとした兵士のような連中は厳しく処罰します。しかし、さっきのフロイラインは何度聞いても自分の意思で曹長と一緒にいると言い張っていました。合意の上での恋愛関係としてつきあっているのなら、こちらにできることはありません」
合意なのだろうか。こんな無法地帯でなんとか安全を手にいれようと思えば、思いつく方法はただ一つだ。誰か自分を守ってくれる人物を探す……それもできるだけ高位の人物のほうがいいだろう。身の安全と食糧を得るために体を提供するという合意。そう考えて、エリザベートは愕然とした。自分だって同じなのだ。アレクセイは紳士なのか奥手なのか彼女に対してあからさまな要求をしてくることはなかった。さっきの曹長は若くて直情的なので多少アレクセイよりもはっきりした「勧誘」をしたのかもしれない。他の連中から守ってやるから……と。
「だって私は本当に好きな人としか付き合わないことにしているのよ」
アリシアの言葉、笑顔。あれから2年。あの娘はまだ17歳なのだ。自分は運よくアレクセイに助けられたが、ベルリン中でいったいどれくらいの数の女性がひどい目にあったのだろう。戦争に負けるというのはこういうことなのだ。やっと彼女には理解できた。エリザベートは泣きたかったが、今ここで泣くわけにはいかないと考えた。夜になってから思い切り泣こう。アリシアのために。彼女を救えない自分のために。
車はいつの間にか大病院の敷地に入った。建物のガラスは多くが割れて布地や紙で修復されていたが、人が多く出入りしていた。エリザベートはアレクセイと並んで歩き始めた。この病院も赤軍の支配化にあり、廊下には兵士が退屈そうにたむろしていたが、ドイツ人の患者やスタッフの姿も多く見られ、少なくとも受診拒否をされるということはないようだった。
エリザベートは顔見知りの受付係に声をかけた。
「院長先生はおられるかしら?」
「院長先生もおられますけど、副院長もおられますよ。軍医として従軍しておられましたが戦線の後退にあわせて3月に戻ってこられました。今は一般の方もいますが、少し前までここは軍隊専用にされていたんです」
「まあ、じゃあ外科かしら?」
「今日は小児科ということでしたよ」
エリザベートの女学校時代の親友ユーリアはこの病院の院長の息子に嫁いだ。偶然にも副院長ルドルフ・シュナイダーはジークフリートのギムナジウム時代の後輩であったため、それ以来家族ぐるみで交流を行っていた。毎年何度もパーティーに招きあい、コンサートやオペラを見に行った。休暇には一緒に旅行することもあった。
小児科の前にくるとちょうど母親と10歳にもならない女の子がでてくるところだった。エリザベートは秘書に断りをいれ、アレクセイに会釈をしてから診察室に入った。
二年ぶりに会うルドルフ・シュナイダーはエリザベートが現れたことに驚いた表情をしたが、すぐに無事であったことを喜ぶ笑顔になった。エリザベートは今までのいきさつを手短に話した。
「ジークフリートから最期に電話をもらったのは3月の2日なのよ。それ以来全く連絡がとれなくなって……こちらの病院に怪我をして運び込まれていたりしてないかと思って来てみたの」
「終戦の前後は毎日外科で24時間診ていたし、廊下に入院患者の名簿も張り出されているけど……彼の本名はなかったと思うよ」
「どういうこと? どうして彼が偽名を使う必要があるの?」
「そりゃあ……親衛隊エリートのリヒテンラーデ大佐ってことがバレたら、殺されはしなくても拘束されて尋問されるだろうしね」
「どうして?」
「僕は従軍している時に捕虜になったソ連兵の検査や尋問にも立ち会った。やつらのドイツへの憎しみはすごいよ。特に、SS(ヒトラー親衛隊の略称:ナチスドイツのエリート部隊)が一番悪いって思っている」
「それって武装親衛隊のこと? ジークフリートは一般親衛隊よ。戦闘には出たことがないわ。一般の官吏となんら変わることはないわ」
「僕らの認識と、彼らの認識は違うみたいだよ。彼らは1919年のように、戦争を全部ドイツの責任にしてしまうだろうと思う。財産を全部没収して、責任者を裁判にかけるわけさ。要は報復さ。いや、もう現に東部戦線でもこの街でも復讐が行われているけどね」
エリザベートは黙っていた。ドイツがポーランドへ侵攻した。ソ連へ侵攻した。その仕返しとしてこの街は破壊され、暴力を繰り返されているのだろうか。だってあの辺りは全部もともと「ドイツ帝国」だったのだ。あそこに住むドイツ系の人々がポーランド人から迫害されているから、救うために進駐していったはずなのに。みんな拍手して旗を振ってドイツ軍を迎えてくれたのではなかったのか。彼女は自分が見てきたニュース映画を思い出した。
「君は無事だったみたいで、よかったよ……。今となってはユーリアが具合を悪くして去年のうちにスイスへ療養させたことを本当に幸運だったと思っている」
ルドルフは目をそらしながら言った。さっきの少女は自分の身に何が起こったのかを理解できていなかった。理解できたとき、彼女の心は壊れてしまうだろう。
「ジークフリートになら、3月の1日に会ったよ。当直だったから日付は確かだ。急に夜に電話をしてきて訪ねてきたんだ」
「彼とは何を話したの?」
ルドルフはエリザベートの目をまっすぐ見据えてゆっくりと言った。
「やつらの思い通りにはさせない、とか。かならずドイツを復活させてみせる、とか」
ルドルフの話によると、ジークフリートはこの戦争に負けることを認めていたという。敗北精神はゲシュタポによって厳しく取り締まられていたのに、当の保安本部の人間の口からそんなことが聞けたのでルドルフはびっくりしたのだった。その後ルドルフはその日の会話を思い出しうる限り再現してくれたが、市街戦が終わった後どこに潜むとかいうような話はついに聞けなかった。患者が何人も待っていると秘書が催促に来たのでエリザベートは仕方なく、ジークフリートの親しかった人物や同僚たちの名前を書いた紙を渡し、もしこれらの人物が病院に来たらジークフリートの消息を聞いてくれるよう頼んだ。
その後ルドルフの話にあった入院患者名簿が張り出してある場所にも行ってみた。大勢の人々が泣きそうな顔で名簿を見つめていた。名前の横には入院病室の数字が書かれていて、それを消して「死亡」と訂正してあるものも多かった。ルドルフの言ったとおりジークフリートの本名はなかった。
どこに行ってもほこりっぽく人々が多くて落ち着かないのでアレクセイとエリザベートは車の中で昼食をとることにした。赤軍の食堂ではドイツ語で話せないというアレクセイの配慮もあった。
「なんだか長い時間をとらせてしまって、すみません」
エリザベートは礼と謝罪を口にした。
「いや、構わないですよ。元帥はモスクワから戻ってないし、今日は今後の指示を受けただけですから。こうしてあなたと二人で出歩くのも初めてで楽しいです」
「元帥閣下は戦勝の報告に行かれたのですか?」
「戦勝祝賀パレードですよ。同志スターリンと並んでね」
「あなたは行かなくてよかったのですか?」
「誘われましたけど……あの頃はまだ戦闘も終わったばかりで、いろいろと気がかりなことも多かったし……」
アレクセイははにかんだような笑顔を見せた。それって私のことなのだろうか、もしかしたらこの人は私を守るために残ってくれたのだろうか、そもそも初めから接収もそのためだったのだろうかとエリザベートは感じたが何も言わなかった。ナターリアがコーヒーを入れてくれた。米軍から届いたというコーヒーは今まで飲んでいた代用コーヒーとは天と地ほどの差のおいしさだった。
一行は少し休憩した後、大学の裏手にある住宅街へと進んだ。子育ての合間をぬってエリザベートは不定期に大学の聴講をしていたので、この地域には大学の友人が何人か住んでいた。だが建物の多くが崩れ、テントやバラックが多く野火で鍋を沸かす人々が多く見られた。エリザベートの目が一人の女にとまった。
「マルタ!」
彼女の呼びかけに女はふりむいた。
「エリザベート、何その格好」
赤毛を男のように短く切って顔を炭で汚した女はマルタと言った。エリザベートが一番探していたのがこのマルタであった。商店を多く経営する裕福な家庭の娘でこの地域に一人で暮らしながら大学に通っていた。また彼女がゲシュタポの少佐とつきあっているということを知っていたので、そちらからの情報も聞きたかった。二人はお互いの無事を喜びあった。マルタは市街戦のころはさすがに実家へ帰っていたが、自分のアパートがどうなったか心配で今日戻ってきたところだと言った。
「一人で出歩いているの? 怖くないの?」
エリザベートの問いにマルタは笑った。
「私はこんな風に背も高いし、こうして汚していたら男に見えなくもないでしょ? 一応弟がついてきてくれてるわ。それにね、朝は安全らしいの。やつらの狩猟時間は夕方から夜にかけてだから」
狩猟という表現にエリザベートは吐き気を覚えた。負けた国の女は獲物、戦利品。古代からそれは戦争の常。
アレクセイは少し離れた場所で煙草を吸っていたので二人は植え込みのレンガに腰掛けて話した。エリザベートは今日まであったことと、アレクセイとの経緯を話した。
「なんだ、そうだったの。あんたまで赤軍の兵士の愛人になったのかと」
「あんたまでって? ほかにそんな人がいるの?」
言ってしまってからエリザベートはアリシアのことを思い出した。
「まあ……そういうことしている人たちはそれなりの事情もあるんだろうとは思うけれど……」
マルタはため息をついた。そして小声で言った。
「あんただって、今は紳士のあの人だって、今後はどう出てくるかわかんないわよ」
「……それは……」
エリザベートは言葉につまった。そうなったら本当にどうしたらいいのだろう。煙草を吸っていたアレクセイに誰か知らない赤軍女性士官が話しかけていた。屋敷では見たことのない顔だ。アレクセイが笑顔で何か答えていた。エリザベートは奇妙な苛立ちを覚えた。アレクセイと女性士官は地図を見ながら話しているようだった。エリザベートはマルタの話を聞きながら、アレクセイのほうにも聞き耳を立てた。
「だから、ここが一箇所通れなくなっているんだ。明日から毎日通うのに不便だから、なんとかしておいてくれ」
あの一箇所通れなかった道のことか、とエリザベートはほっとした。アレクセイが仕事以外の話を女性としていたら面白くなかっただろう。しかしなぜ自分がこういう苛立ちを感じるのかよく分からなかった。
マルタの話によると彼女の恋人であるエルヴィン・クルーゲ少佐は4月の9日に彼女を訪ねてきたのが最期だという。クルーゲ少佐は一時ジークフリートとも同じ部局にいたことがあるらしいが、それほど親しくはなかった。しかし同じように保安本部の男を伴侶にしているという点で共通していた。つまり、逃亡しなければならないような事情があるということだ。ジークフリートがどんな仕事をしているのかエリザベートはほとんど何も知らされていなかった。だがその「仕事」はドイツには正義でも連合国にすれば「悪事」なのだろうということはだんだんと理解してきていた。
「もし自分が行方不明になっても必ず連絡するし、迎えに行くから待っていてくれって……」
マルタは肩を震わせて涙声になった。髪を短く切り男に見えるように変装して、彼女はエルヴィンを待っていたのだろう、エリザベートは彼女の肩を抱いた。
「自分たちの帝国を必ず復活させてみせるって」
ああ、このセリフはジークフリートがルドルフに語ったのと同じだ。今まで見たドイツ軍の遺体は国防軍の制服ばかりだった。親衛隊はドイツを復活させるためにどこかに隠れたのだろうか、エリザベートの心に希望が生まれた。
「ねえ、私たちは彼らを待ちましょうね」
二人はそう言って堅く手を握り、別れた。結局マルタの知っていることもルドルフの話とあわせても何一つはっきりしたことはなかった。確かなのは3月の2日まではジークフリートはベルリンで生きていたということだけだった。住民用の掲示板には「この人を知りませんか」という尋ね書きと写真がすきまなく張られていた。少々堅苦しいまでに秩序だっていた祖国は、限りなく混乱に陥っていた。役所の文書も焼けているだろう。この先他人になりすましたり、他人の財産をかすめとる人間が現れるかもしれない。
帰りの車中でエリザベートは疲れてうとうとしてしまい、正面玄関の車寄せの前で止まるブレーキでようやく目が覚めた。彼女はアレクセイの肩にもたれて眠ってしまっていたのだ。
「すみません……私ったら」
顔を赤らめるエリザベートにアレクセイは「いいんですよ」と笑った。まだ知り合ったばかりのアレクセイの隣でこんなに安心しきって眠ってしまったことが恥ずかしかった。ほんの少し前までは殺し合いをする敵同士だったのに。しかしまるで数時間眠ったかのように彼女は疲れが取れているのを感じた。
二人が玄関ホールに入った後、レオニードとナターリアは車を駐車場へ回した。
「オレ、今日は本当にいらいらした」
独り言のようにぼそっとレオニードはもらした。
「なにが? 少将のこと?」
「少将は本当にあの人妻に惚れてるんだ。みんな気づいてる。昼飯のときのセリフ、聞いてただろう? あなたのことが気がかりだから、心配だから、自分はモスクワには行かなかったってはっきり言えばいいのに……帰りの車であの奥さんが寝てしまった時、少将は彼女の髪に何度も頬を近づけてた。いとおしげに。バックミラーで見えてたし……」
「みんながみんな、あなたのようにはっきり物を言えるわけじゃないのよ。夫人は旦那さんを待ってるんだし、今告白したって断られるだけじゃない。少将も30過ぎてるし、大人として待ってるのよ」
「だからって、こういうことは男がはっきり言わないと何にも始まらないんだけどなあ……」
その日の夕食はアレクセイが部隊から一匹子羊を失敬してきたのでラム料理になった。アレクセイがエリザベートとの二人だけのディナーを希望したのでいいワインをあけ、彼女は久しぶりにドレスを着て宝石を身に着けた。アレクセイも儀礼用の制服を着用した。二人は湖の見える大きな窓のある二階のサンルームを使用した。対岸の明かりはあまり見えなかったが、月がきれいに出ていた。使用人たちと赤軍の下士官以上の人間は大広間でバイキングパーティーをしていて、そのにぎやかな声が二階まで聞こえた。
「いいコックを雇っていますね」
「こちらに嫁ぐときに実家からついてきてくれましたの」
エリザベートはウィーンでジークフリートと出会ったことを話した。ドイツがオーストリアを併合し、ウィーンに駐在していたジークフリートが彼女の父の目にとまり、とんとん拍子に縁談が進んでしまったことまで話した。
「わが国でも上流階級の人間は恋愛感情抜きでの家同士の結婚が多いですから、驚きませんよ」
「いえ、抜きっていうと……」
そんな風に聞こえてしまったのだろうかとエリザベートは考えた。いや、そんな風に話してしまったのは自分なのだ。どうしてなのだろう。
婚約が決まったとき嬉しかった。結婚式、新婚旅行、新居……金にあかせた豪奢な生活。子供たちの誕生、夫の出世、総統の山荘に招かれる栄誉。結婚生活に不満があっただろうか。夫は家で仕事のことをほとんど話さなかった。子供たちにも私にもいつも優しかった。感情を荒げる夫を見たことがなかった。夫にとって私たち家族はどういう意味だったのだろう。
突然庭のほうから甲高い叫び声があがり、エリザベートの思考はそこで途絶えてしまった。彼女が席を立ったとき、すでにアレクセイはバルコニーに出て下を覗き込んでいた。あわてて隣に立ち、庭を見下ろしてみる。何人かの兵士と彼女の使用人たちが庭で花火をしていた。酒が入っていてみんな上機嫌で笑っていた。ふと隣を見るとアレクセイも笑っていた。
「あれ見てください」
アレクセイが指差す方向を見ると一人の赤軍士官とこの屋敷の掃除をしているアンナが寄り添って立っていた。エリザベートの目にも二人が好きあっているように見えた。あの二人は思いを伝え合っているのだろうか、と彼女は考えた。戦争がなければ、ドイツが負けなければ生まれるはずのなかった恋。アレクセイと自分との出会い。そしてまた夫と自分の結婚も戦争がなければ成立しなかったのだ。