10 エッシェンバッハ家
「売国奴、売春婦、裏切り者、恥知らず………」
毎度のことながらエッシェンバッハ伯爵夫人はあらんかぎりの罵詈雑言でリヒテンラーデ侯爵夫人を罵倒していた。上流階級に生まれ育ったこの老婦人は美しい言葉遣いしか知らず、それが自分でもはがゆかった。もっと下品で汚らしい言葉で「あの女」をののしってやりたいと思っていた。
クリスティン・エーゲノルフは黙って聞いていた。ベルリンを忘れようと思って誰も知り合いのいないミュンヘンにやってきたのに、いつもいつもベルリンを思い出させるリヒテンラーデ夫人の話を聞かされて辟易していた。彼女の勤める病院の「上客」エッシェンバッハ夫人の居住する山の上の城へは週に一度医師・看護婦・事務員がそろって薬剤師クリスティンとともに往診にでかけるのを常にしていた。金と暇をもてあます夫人にとって医師団の来訪は格好の退屈しのぎであるので、いつも病院が閉まった金曜日の夕方に往診をして豪華なディナーとワインでもてなされるのだった。まだまだ食糧配給も不足していたので医師団にとってもこの往診は楽しみなものだった。権力者への知己もなく乏しい給料と配給で我慢していたクリスティンにとってもありがたいものだった。そう、あの日。エッシェンバッハ夫人の友人からの手紙が届くまでは。
「スイスにいるとドイツの皆様の近況が分からなくてさびしい思いをしております……ところで先日びっくりするような話を聞きました。ドレスデンにいる私の従姉妹のところへベルリンの友人が訪ねてきたそうなのですが、その方の話によるとあのリヒテンラーデ侯爵夫人が大きなお腹をしているらしいのです。その方が見かけたのがクリスマスのころだというので、もう産まれていることでしょう。リヒテンラーデSS大佐はスペインへ逃げたものとばかり噂されていましたがお戻りになったのでしょうか。あの方の地位からすれば占領軍の軍事裁判にかけられる恐れが……」
ディナーの最中に届いた手紙を読むという失礼な行為を平気で行ったあげく、エッシェンバッハ夫人は大声を上げて立ち上がった。列席者はみんな、少なくとも誰かが死んだのだろうと予測した。
「大佐は行方不明のはずよ!」
エッシェンバッハ夫人の亡き夫はヒトラーがベルヒデスガーデンへ来たときの主治医をしていた。一家は山荘の常連であり、息子をSSにも入れていた。夫人はミュンヘンのヴィッテルスバッハ家に連なる貴族ということでジークフリート・フォン・リヒテンラーデ侯爵がSSに入るのを歓迎し、彼の妻はぜひ自分が世話をしたいと意気込んでいた。リヒテンラーデ侯爵はハンサムでピアノの名手であったため夫人は大変気に入っていたのだ。しかしジークフリートはウィーン駐在中に「成金銀行家の娘エリザベート」と結婚してしまった。エッシェンバッハ夫人は初めてエリザベートを見たときからこの成金の娘が気に入らなかった。エリザベートが何か失礼なふるまいをしたというわけでもなかったので理由は自分でも分からなかった。年に何度かベルヒデスガーデンの山荘で顔を合わせたが、エリザベートは年の近いエーファ・ブラウン(ヒトラーの恋人)やリナ(故ハイドリヒRSHA長官の妻)と仲良くしていたのでエッシェンバッハ夫人一派はあからさまな嫌味を言うこともできなかった。しかし自分の家では友人を集めては「名誉ある侯爵家の嫁にあの娘はふさわしくないわ」と言っていた。
クリスティンはうっかり自分が「ベルリン出身」で「リヒテンラーデ夫人と面識がある」ということをもらしてしまった。エッシェンバッハ夫人はクリスティンを話の聞き役としてしょっちゅう城に呼んだ。断るわけにもいかず、上流階級の婦人たちの鼻に付くような発音の会話の中で、彼女はいつも黙ってテーブルの端で話を聞いていた。
「金でvonの称号を買ったような成金商人の娘が侯爵夫人として大きな顔をして」
「でも、商人だけあって世渡りは上手なんじゃありませんの。大佐よりも少将のほうが上官ですものねえ……」
「名誉あるドイツ軍とボリシェビキの軍隊じゃあ、階級なんてくらべものになりませんわ。あちらの元帥がこっちの二等兵ですわよ」
「いくら生活に困っても敵兵の情婦になるなんて。私なら自殺したほうがましですわ」
「ベルリンから来た方からの噂話だと、赤軍の乱暴狼藉はすさまじいものだったとか……不特定多数を相手にするよりも少しでも上位の将校に取り入って専属になるほうがよかったんじゃありませんか」
「汚らわしい敵兵に触れられるくらいなら、その場で舌をかみきって自殺しますわ」
「あの女にはそんな勇気も誇りもないのよ」
「赤軍って毛むくじゃらの大男なんですってね。馬まで毛むくじゃらって聞いたわ」
「あの淫売はそういうのが好みなのよ」
夫人方は好き勝手なことを言っており、クリスティンはいたたまれなくなってトイレに立つふりをしてそっと一座から離れた。「汚らしい敵兵」の話を聞くのは耐えられなかった。彼女の経験したこと聞けば彼女たちはクリスティンのことまで汚らわしいと断罪するのだろう。「舌を噛み切る」だなんて、実際にそんな目にあったことのない人間のセリフなのだ。
庭には夏の花が咲き誇り、ミュンヘンの景色が一望できた。ここにいると戦争があったことなど信じられなかった。平民出身のクリスティンは貴族というものをあまり見たことがなかったが、怒りにまかせて口から泡を飛ばしているエッシェンバッハ夫人よりもいつも優しい笑みを浮かべているおとなしげなリヒテンラーデ夫人のほうが貴族としてふさわしいのではないかと思った。
花の向こうに金髪の若い女性がいて、クリスティンに会釈した。クリスティンもあわてて微笑んだ。客人の中の一人だろうか、自分と同じように話題に辟易して脱出してきたのだろうか。淡い金髪に緑の瞳は、うわさの的になっているベルリンの夫人を思い出させた。
女性はシャーロットと名乗った。
「エッシェンバッハ夫人の姪です」
シャーロットは聖母のような微笑をうかべていた。
「あなたは病院の方ですよね」
クリスティンはうなずいた。シャーロットは戦争で両親をなくし、この城で叔母の世話をしながら居候させてもらっていると言った。
「叔母のこと許してやってくださいね。ほとんど話したことのないリヒテンラーデ夫人のことを悪く言うことでしか、自分を正当化できないんです。」
「あのお取り巻きの方々もそうなんでしょうか」
「皆さんきっとリヒテンラーデ夫人のことがうらやましかったんです。大佐はとてもハンサムで総統閣下の覚えもよく、大学出で、あの若さでRSHAの課長で大佐。ピアノもダンスもお上手でしたわ。それに他の女性には目もくれず、奥様お一人を大切になさっておいででした」
そんなにも素敵な夫を忘れて、あの人は敵兵を愛した……クリスティンにはエリザベートの行動が理解できなかった。
「シャーロットさんも山荘で大佐に会ったことがあるんですか?」
「シャーロットでいいわ。私もクリスティンって読んでいい? 年に何度か叔母たちと一緒に私もベルヒデスガーデンにおじゃましてたの。素敵な方でした。あまり話したことはないけれど……クリスティンも大佐に会ったことがあるのでしょう?」
「私の病院で夫人がお産をしたので、その時に何度か。スタッフにも丁寧な方だったわ。でも大佐はお亡くなりになったってエリザベートさんは言っていたわ。やっと役所が死亡届を受け付けてくれたって。彼女はそのソ連の将校と再婚する気みたいなの」
シャーロットは驚いた顔をした。
「まあ、じゃあ叔母たちが言うように情婦だとか囲い者だとかってことではないのね。まじめなお付き合いなんだわ。そのソ連の方はいい方なのね。夫人には子供だっているのに再婚なんて。戦勝国の将校なら国へ帰れば英雄だし、いくらでも条件のいい未婚のお嬢さんが見つかるでしょうに」
あの人は「いい人」なんだろうか、とクリスティンは考えた。あの少将は確かに紳士なのだろう。少なくとも自分に襲い掛かった兵隊たちとは別の人種だろう。どういういきさつで知り合ったにせよ、彼は未亡人にぞっこん惚れこんでいた。だからこそどうしても自分から離れていかないように正式に結婚して、自分との間の子供を作ることを思い立ったのだろう。すでに一線を越えた関係であったにせよ、相手が妊娠を望んでいないのにだますようなことをして子供を作るのは人間としてしてはいけないことだろうとクリスティンは思った。そしてその片棒をかついだのは自分なのだ。
最近クリスティンは、自分はもしかしたらエリザベートのことがうらやましいのではないかとさえ思えてきた。同じようにベルリンに住んでいながらエリザベートの出会ったロシア人はりっぱな将校であり、「結婚」して「子どもを産もうか」と考えられるほど愛し合える相手なのだ。自分の腹にいた子は半分は自分自身の子供だった。それなのに、自分は子供を殺した……クリスティンは両親から引き継いだ財産も持っていたし、薬剤師という資格があるのでこれからも仕事には不自由しない自信があった。経済的には確かに子どもを育てていけただろう。しかし、殺しても飽き足らないほど憎んでいる連中の子供を産んで育てるなど、想像もできなかった。しかも相手を特定することすらできないのだ。愛情をかけて育てていけるとは到底思えなかった。ジューコフ少将とリヒテンラーデ夫人の間に生まれた子は二人の愛情をかけられて育つのだろう。母親の手で殺された私の腹の子とは大違いだ、と思った。時々こどもは夢に出てきてクリスティンを苦しめた。子どもはいつも女の子で成長した姿をしていた。
「わたしのパパは誰なの?」こどもは決まってそう聞くのだ。
これからはこの城に来るたびにシャーロットと話ができればとクリスティンは嬉しくなった。
「あら、ここに来なくても会えるわ。私ザビーネ教会で奉仕をしているんだけど、来月からその関係であなたの病院でソシアルワーカーをするの。患者さんの退院後の生活設計とかの相談にのる仕事よ」
「まあ、教会で奉仕をしているの、えらいわねえ」
「私、戦争で好きな人を亡くしたの。だから一生結婚はしないの。後の人生は叔母の世話をしながら、教会と病院の奉仕に捧げるつもりよ」
シャーロットの恋人は戦死の公報も届いたという。だがリヒテンラーデ大佐は「行方不明」のままだ。夫人たちがベルリンから仕入れた情報によると「たった一人」大佐の死を目撃した人物の証言で死亡届が受理されたらしい。ピルの時と同じで、もしかするとそれもあの背の高い黒髪の赤軍将校の仕業なのだろうか、とクリスティンは考えた。
「ねえ、あなたはカトリックなのかしら。プロテスタント? よかったら教会にもいらっしゃらない?」
クリスティンはあいまいに笑った。あの事件以降信仰心をなくしてしまった彼女は長い間教会へは行っていなかったのだ。「やつら」はあの時の行為でクリスティンの心と身体を傷つけただけでなく、彼女の人生にもっと恐ろしい破壊的な影響を及ぼした。神への信仰を奪い、もう男性を愛することはできないだろうという絶望感を彼女の心に刻み付けたのだ。この先の人生で誰かを愛せたとしても、体の愛を交わすことなど決してできないだろう。
シャーロットは摘んだ花に顔を近づけていた。恋人のことを思っているのかもしれない。この天使のようなシャーロットになら、自分の悲しい経験も罪も告白して懺悔できるかもしれない、とクリスティンは思った。