1 ベルリン陥落
1 ベルリン陥落
車が市街地に近づくにつれて振動はひどくなり、砂ぼこりのせいでガラスが汚れるので外が見えづらくなっていった。エリザベートは思わず窓を開けようとハンドルに手をのばした。
「あけないほうがいいですよ。ひどい粉塵だ」
隣に座っている男が言った。エリザベートは黙ってドアハンドルから手を離した。確かにその通りだろう。ほこりのせいで窓はひどく汚れていた。運転手は雨の日のようにワイパーを動かしていた。彼女たちが乗り込む前に運転手役の兵士が車を洗っていたのを彼女は知っていた。郊外の彼女の屋敷からここまで来る間に車はまるで泥をかぶったように汚れてしまっている。
運転手が後ろを向き、ロシア語で何か言った。何かができない、と言った様にエリザベートには聞こえた。彼女は付け焼刃的に学習した基本的なロシア語を知っているのみで、なまりの強いこの運転手の言葉が理解できなかった。
「この先の道が車では無理のようです。降りて歩きましょう。あ、ゴーグルと帽子は今つけてください」
エリザベートの横に座る黒髪の男は流暢なドイツ語を話した。4年間の戦争の間にドイツ占領のことまで考えて「勉強させられていた」らしい。男の態度と同じ、折り目正しいドイツ語だった。
「離れないでくださいよ」
エリザベートはうなずいた。この戦勝国であり現在ベルリンを占領しているソ連軍の将校から離れる気はなかった。この男の「親切」から見放されることは彼女と彼女の家族・使用人たちの日々の生活はもとより生命の安全が失われることを意味した。瓦礫の前で車を降り、ソ連赤軍のアレクセイ・ペトローヴィチ・ジューコフ少将とドイツ人のエリザベート・フォン・リヒテンラーデ侯爵夫人は並んで歩き出した。その後ろを後続車両から降りた赤軍兵士たちが続いた。傍目には彼女は赤軍の女性通信兵に見えただろう。事実彼女は自分の屋敷を占領する一団から制服を借りていた。
2ヶ月ぶりに見た、ゴーグル越しに見える街の惨状はエリザベートの想像以上の酷さだった。崩壊して瓦礫の山となった建物や壁だけがかろうじて建っている家もあった。また、逆に壁が崩れて中の部屋がドールハウスのようにむき出しになっている家もあった。かつてのハーケンクロイツの旗のかわりに、ほとんどの窓から白旗がたれさがっていた。どの窓にも窓ガラスはなかった。あちこちで水道管が破裂して道路が水浸しになっていた。そこらじゅうから煙が上がり、きなくさい臭いが充満しているし、されにはひどい腐臭もただよってきた。空までが煙のせいでどんよりしていた。乗り捨てられた戦車や死体がころがっていたが風景にとけこんでしまっていて気にする者もいなかった。傷ついて武器を捨て、なすすべもなく座り込んでいる国防軍の制服姿の兵士や、何か物を拾いながら歩いている老人がいた。いたるところに赤軍の兵士がたむろし、ジューコフ少将の姿を見ると敬礼した。
ソ連兵たちは公園などの空き地を使って野営のテントを張っていた。羊や豚の群れがいた。自転車の練習をしている輩もいる。兵士たちの制服はみんないろいろで、統一感がなかった。人種もさまざまで日本人のような顔をしたのもいるし、金髪碧眼でドイツ人と見間違うようなのもいた。
「イワンども(ロシア兵士への蔑称)め! あんな風に制服を着た軍隊がダラダラしている姿なんて初めて見るわ。ドイツの軍隊はいつもしゃきっとしていたわ。制服に誇りを持っていた」
彼女はそう考え、心の中で敵を侮蔑した。
「それにしてもみんな汚らしいわ。こんな劣等人種に街をのっとられるなんて、ドイツ国防軍は何をしていたのかしら」
エリザベートがそう思うのも無理はなかった。彼女はベルリンに移り住んでからというもののナチスのプロパガンダに支配されて生活していたのだから。ユダヤ人はもちろんのことポーランドやロシアの人間を劣等人種と決め付け、軽蔑するという考えは意識の根底までしみこんでいた。また、今まで目にしてきたドイツ国防軍や親衛隊はいつもアイロンのきいたきれいな制服を着ていたが、それは戦争に行く前の姿や閲兵式の風景であり、戦争をくぐりぬけてきた敵兵というものを彼女は初めて目にしたのであった。4年間の戦闘で疲れ果て、日に焼け、泥にまみれ、毎日の硝煙から目を守るために赤軍の兵士たちは皆細い目をしていた。
エリザベートは隣を歩くジューコフ少将の横顔を見上げた。「この人は不思議な人だわ。ロシア人はみんなひどい人間だと宣伝省は言っていたけれど……」
エリザベートとその家族はこの20日間、敵の一連隊を率いるジューコフ少将の保護下にいた。食料もわけてくれたし、何より安全に暮らせるのがありがたかった。「安全」なんて以前は当たり前のことだったのに、今ではいくらお金を出しても買えないものだった。ああ、アレクセイ・ジューコフ少将がいなかったらどうなっていただろう。
ベルリン市南西部のグリューネヴァルトにあるリヒテンラーデ侯爵邸は奇跡的に空襲の被害を免れていた。湖と森に囲まれた別荘地・高級住宅地として名高いグリューネヴァルト地区の中でもリヒテンラーデ邸は郊外というより「はずれ」に近く、森の中に家が点在するという表現のほうが正しかった。幹線道路から大きくはずれ、森の中の舗装もされていない狭い私道を通らなければ屋敷にたどりつけなかった。かつて馬車を何台も所有した貴族の別邸だったのだから。湖のほとりに建つ邸宅は環境もよく、馬を乗り回したりボートに乗ったりするのには適していたが、買い物に行くとなると一大事だった。昼間ならサイクリングも可能であったが、夜は街灯もまばらなのでころんで怪我をするのが落ちだった。ウィーンの便利な市街地からここへ引っ越したときはどうなることかと思ったが、今では逆にこの田舎ぶりに感謝していた。空爆を行う英米軍もこんなところへは爆弾を落とす気にはならなかったのだから。戦況が厳しくなるにつれ、広い庭園やテニスコートはすべて畑になり、エリザベートも召使たちとともに農作業を行った。馬が徴用されてしまった時、子供たちがあまりに泣くのでジークフリートはヒヨコを買ってきた。これが今では大変な数に増え、皆の飢えを満たすのに大変役にたっていた。配達業者とはいつの間にか連絡がとれなくなり、ガス、水道、そしてついには電気や電話も危なっかしくなってしまった。井戸の水を飲み水にし、湖で洗濯をした。レンガをつんで釜戸を作った。電池式のラジオは一日一度全員集まって聞いていたが、戦況はよく分からなかったし、政府の発表などいつごろからか誰も信じなくなっていた。
彼らは毎日毎日市街地へ向かう敵機が轟音をとどろかせながら屋敷の上空を通過するのを地下室でじっとしながら過ごしていた。昼は英軍、夜は米軍が何千という編成で飛んできた。燃えさかる市街地の空は夜になると真っ赤になり、灰が空から降ってきた。あの空の下にジークフリートがいると思うとエリザベートは胸がつぶれそうだった。しかし「お父様は総統閣下の防空壕にいらっしゃるから大丈夫よ」と子供たちに言い続けるしかなかった。電話がかかってこないのは電話線が切れてしまったせいであり、個人的なやりとりのために兵士を一人伝令には使えないのだろう、と思い込むしかなかった。だが5月の始めには戦闘が終わり、その後何日待っても夫は帰ってこなかった。市街地から家まで歩いて何日かかるというのだろう。平時なら自転車ででも行ける距離だった。やきもきしている時、アレクセイ・ジューコフ少将が所用で市の中心部に行くことになり、彼女はしぶる赤軍将校に頼み込んで同行させてもらったのである。
部下の兵士が地図を見ながら何かアレクセイに話しかけ、ようやく残っている看板や通りを示す標識から現在地を確認しながら一行は進み続けた。戦時下であってもにぎわっていた大通りはソ連軍の兵士ばかりでドイツ人は見あたらなかった。たまにいても老人で、若者、ことに女性は全くいなかった。
ついに一行は国会議事堂に到着した。議事堂が建っていたのでエリザベートはびっくりした。しかし、頂上にはソビエトの星とカマの赤い旗がはためいていた。占領軍の事務所にでもなっているのだろうか。ここまで来ると回りは赤軍の兵士で混みあっていた。エリザベートは果たして自分がロシア人に見えるかどうか緊張した。話しかけられたらすぐにばれてしまうだろう。アレクセイは忙しそうにしているし、彼女は背中を冷や汗が流れるのを感じた。
「しっかりして。大丈夫よ」
エリザベートの不安を見越したように同行のナターリア・トルスカヤが腕をとった。彼女は女性衛生兵でエリザベートの推測するにレオニード・ロストフスキー大尉とつきあっているようであった。やがてアレクセイがこれから議事堂に入る旨と同行するメンバーの名前を呼んだ。エリザベートにもなんとなく理解できた。その後彼はエリザベートの傍に来て耳元でささやいた。
「一時間ほどかかりそうです。ナターリアとレオニードを残しますから、このあたりで待っていてください。あまり遠くにはいかないで」
周りの兵士にドイツ語を聞かれないための配慮であったが、知らない人が見たら二人は恋人同士に見えるかもしれない、とエリザベートは考えた。アレクセイが彼女に好意を抱いていることは屋敷に出入りしている赤軍の将校たちも、侯爵家の使用人もみんな気づいていた。エリザベートはとまどっていたが、そういう感情を持ちながらも自分に何も要求することなく、親切にしてくれるアレクセイをありがたいと思っていた。
残された3人は並んで座った。ナターリアとレオニードは楽しそうに話していた。二人を残してくれて本当によかった。もし自分とあと一人しか残らなかったら相手は彼女に気を使っていろいろ話しかけてくるだろう。エリザベートはゆっくりと目線を上げ、街を見た。政治の中心部であるこのあたりは建物が多く残っていた。ブランデンブルク門も残っている。総統官邸やジークフリートの勤務先である国家保安本部はもう少し先に行ったところだっただろうか。華やかな時代、ジークフリートと一緒にウンター・デン・リンゲンを歩いた。車で通った。パーティーや夜会、観劇やコンサート……今の街を見ているとそれらの思い出はすべて幻だったのかという気もしてきた。エリザベートは彼女の人生がひっくり返ってしまったこの20日間のことをゆっくりと思い出した。
今年1945年の2月頃から夫は官邸に泊まりこむことが多くなり、帰宅しない日が続いた。国家保安本部(RSHA)に勤務する政府高官を夫に持つ身としては仕方のないことだと思っていた。市の中心部への爆撃はすさまじかったが、夫からの電話の声はいつも明るく、「そのうち新兵器が投入されて赤軍は撃退されるから」と話していた。たまに帰ってくると、いろいろ物資を持って帰ってくれた。エリザベートは連合軍はまだ何百キロも先にいるのだろうと思っていたがそれは呑気な考えだった。東プロイセンや東部のドイツ軍占領地域から逃げてきた人々は難民となってベルリン市にもかなりなだれこんでいたので、戦地での赤軍の恐ろしいふるまいは徐々に市民の耳にも入ってきた。子供は串刺しにされ、老人を閉じ込めたまま家を焼き、幼児から老人まで女という女は暴行される。昼間であろうが、家族の目の前であろうが、道であろうがおかまいなしに。邪魔だてしたり、激しく抵抗しすぎた者は惨殺されて木につるされる。これまでも宣伝大臣ゲッベルスは「ロシア人の侵略を許せばドイツは破壊され、女性はみな凌辱されるであろう」とさかんに演説していた。最初この話を耳にした時には「中世じゃあるまいし、まさかそんなことが現代社会において行われるなんて」とエリザベートは気にしなかった。しかし、難民という難民が全員口をそろえて同じことを話すので、ベルリンの女性たちは恐慌状態に陥った。
ヒトラー総統の誕生日である4月20日の空襲を最期に、空からの攻撃はぴたりとやんだ。召使たちはドイツ軍が制空権を奪い返したと大喜びしていた。この少し前にラジオでアメリカの大統領が急逝したことなどが伝えられていたので、かのフリードリヒ大王の奇跡の逸話になぞらえて「戦況は好転する」ことをみんなが期待した。しかし空爆の代わりに大砲の音が雷鳴のようにひびきはじめた。連合軍は彼らの仲間がベルリンに近づいたので誤爆しないために空からの攻撃をやめただけだった。空襲警報が鳴らないのに、すぐ近くで爆撃音がして、1キロほど離れた隣家が燃えているのが見えた。彼らは長距離砲でベルリンを狙えるくらいに近くにいるのだ。エリザベートは大砲の音がどこから聞こえるのか必死に耳をすませた。「赤軍が来るなら、東からのはずだ。南からなんて来るわけがない」彼女はそう祈った。しかし、音は南から聞こえていた。さらには敵の照明弾の光がまぶしく見えた。神経が高ぶってしまい、戦車のキャタピラの音まで聞こえてくるような気もした。赤軍はすぐそこまで近づいている! 屋敷の中はパニックになった。ここは市境からすぐなのだ。
やがて下男たちは大きい街道から屋敷へ向かう道の折曲がり角の標識を取り外し、道路に10メートルほど木を植え替えて、「まるで道などないように」装った。
「大丈夫、ここは街道からもかなりそれているし、見つかりっこありませんよ」
下男は草むらの中から、街道を進んでいく赤軍の戦車を見たのだった。
「ドイツ軍の姿は全然見当たらなかった」と彼は言った。
そのうち森の向こうから夜通し騒ぐ赤軍の声が聞こえるようになった。機関掃射の音も聞こえてきた。エリザベートは執事カウフマンと一緒に玄関ポーチから森の向こうを眺めた。
「酔って空砲を打ち鳴らしているに違いない」
と執事は言った。
「軍隊ってお酒を持って移動するものなの?」
エリザベートは敵の軍隊がこんな近くまで来ていることがいまだに実感できていなかった。カウフマンは呆れ顔で答えた。
「ああ、奥様は世間知らずないいお方ですね。赤軍のやつらどこかのビール工場かワイン貯蔵所を襲ったに違いありませんよ」
光を漏らさないために屋敷はみんな雨戸を閉め切って、できるだけ全員で玄関横の応接室の小さなランプで過ごすようにした。「できればこのままこの屋敷の存在が赤軍に気づかれませんように」というのが家の人間みんなの願いであったが、そううまくいくはずもなかった。4月25日の夜、酒に酔った十数人の兵士が部隊を抜け出して森の中を探検し、この屋敷を見つけたのである。いつもはラジオを聴いている時間だったが、この日からラジオ放送まで止まってしまい、禁を犯してでもイギリスのBBSを傍受するかどうかを皆で話し合っているところだった。玄関を壊して乱入してきた一団はまずチェコ製のシャンデリア(おそらくこの兵士の年収では買えない)に向けて銃をぶっぱなして落としてしまった。若い女の召使は酔った兵士に抱きつかれて金きり声をあげ、エリザベートの前に立ちふさがった執事が殴られて気を失うと、彼女は恐怖のあまりもう声もでなかった。大きな自動小銃を持った若い男は酒にふらつく足取りでエリザベートに近づき、にやにや笑いながら銃口を彼女につきつけ、「フラウ、コム!(女、来いの意)」と片言のドイツ語で言った。抵抗して殺されるか、あきらめてこの兵士たちに犯されるか、その選択を迫るように若い兵士は銃をおもちゃにしていた。誰かの叫び声がしたが、それが自分のものとは分からなかった。機械油と垢の混じったひどい臭いがした。酒臭い息が顔にかかり、思わず相手の顔をひっかくと、平手打ちにされた。男が体重をかけるので彼女は身動きままならなかったが、突然ふいに体が軽くなった。彼女を犯そうとしていた兵士は殴られて壁にふっとばされていた。
一瞬何が起こったのか分からなかったが、エリザベートはすぐに上体を起こして破れたブラウスを両手で合わせた。子供たちが泣きながら抱きついてくる。召使を二人かかりで押さえつけ、今まさにベルトをはずそうとしていた兵士もあっけにとられてこちらを見ていた。部屋の中心には明らかに乱暴者の兵卒たちとは違う様子の「将校たち」が立っていた。制服の汚れ具合やその仕立て、目つきまでが違うので全く違う人種に見えた。将校は何名かの部下をつれていたが、その誰もが厳しい規律に従っているように見えた。リーダー格の将校は背が高く、黒い髪に黒い瞳をしているせいか、スラヴ系の顔立ちにもかかわらずどこか東洋的な雰囲気を感じさせた。これがナチスドイツ第三帝国のエリートである親衛隊(SS)大佐を夫に持つエリザベートと、ナチスを滅ぼすべくはるか東から進軍してきたソ連赤軍のアレクセイ・ジューコフ少将との出会いであった。
赤軍将校はエリザベートに手を差し伸べた。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
エリザベートは彼の手を取って立ち上がった。まるでダンスを申し込まれた時のように、反射的な対応だった。そして彼女は言いなれた自己紹介をした。
「私はリヒテンラーデ侯爵夫人です」
敵の将校は敬礼し、
「アレクセイ・ペトローヴィチ・ジューコフ少将です。部下が失礼を働き、申し訳ありませんでした」
ときれいなドイツ語で言った。ようやく意識を取り戻した執事が下男に支えられながら立ち上がり、
「ジューコフって総司令官の……?」と聞いた。
「ドイツの一般市民にもジューコフの名は知られていますか? ゲオルギー・ジューコフ元帥は私ではありません。私は元帥とは遠縁の関係なので同じ姓を名乗っています。私自身はイワン・コーネフ将軍指揮下の第一ウクライナ方面軍に所属していて、軍隊内部の規律保持と後方支援を担当しています」
ジューコフ少将はそう言って少し微笑んだ。
無法者の汚い兵士たちがつれて行かれてしまい、玄関ホールにはジューコフ少将とその配下の数名だけが残っていた。彼らは屋敷を見渡したり指差したりしながら何かロシア語で話していた。エリザベートは彼らにお茶を出すように言い、自分は服を着替えに自室へいったん戻った。
「奥様……あの人たち私たちをどうするつもりでしょう」
彼女の身の回りの世話をしている若いマリアはおびえていた。エリザベートはそれに対しては何も答えなかった。自分が今おかれている状況がよく把握できなかった。このベルリンに本当にソ連軍がやってきたのだ。信じられなかった。彼女は服と髪を整えたが、殴られた時に唇の端が切れてしまったのはどうしようもなかった。頬も赤くなっていた。悔しさと情けなさでエリザベートは鏡の中の自分をにらみつけた。今になってから涙がぼろぼろとあふれてきた。怒りと恐怖で体が震え、歯がガチガチ言うのがなかなか止まらなかった。あの兵士はまだ子供のような顔をしていた。まだ十代半ばのこども……こどもが武器を持ち、自分の上に馬乗りになってなぐりかかってきたのだ。信じられなかった。なぜ女には男のような腕力がないのだろう。ああ、もし自分にサムソンのような怪力があればあんな連中全員殴り殺してやるのに、と彼女は考えた。
少なくともこの時点では「あの礼儀正しい少将はお茶を飲んだら帰ってもらおう」とエリザベートは考えていた。しかし、事態は彼女の考えとは違った方向に進んでいた。彼女が階段を下りていくと足音を聞きつけて執事のカウフマンが応接室から出てきた。
「奥様、あの少将はこの屋敷を接収したいと言ってきています」
「接収?」
「軍隊用語で占領地の家屋を借り上げるという意味です。通常居住者は追い出されますが、ここは広いので一部でいいそうです」
エリザベートは執事の言葉に「まるで接収とやらを歓迎する気だろうか」と腹立たしく感じた。
「あなたはドイツ帝国の貴族の城にボリシェビキを住まわせようというの?」
しかし執事は女主人の言葉に対し、一歩も引かなかった。
「奥様、敵とはいえあのジューコフ少将は少なくとも紳士であると見受けられます。赤軍に屋敷と森を使わせるかわりに、私たちの身の安全を保証させてください。ああ、奥様、あなたは『侯爵夫人』だなんて自己紹介するなんて……ロシアは皇帝を銃殺して貴族を追い出した野蛮な国なんですよ。貴族に対してどういう感情を抱いているか……接収を断ることはできませんが、もし出来たとしても、さっきの乱暴者のような連中が毎晩来るかもしれません。奥様、あなたのような若い女性が、戦争に負けた国の女性が古今東西どういう目に合わされるものなのか想像してください」
執事の言葉にエリザベートはぞっとした。あの少将はその気になれば彼女に襲いかかった兵士を押しのけて、彼自身が「先にその続き」をすることくらいわけがなかったのだ。戦車部隊を指揮し、自動小銃を持っている敵に襲われても、自分たちにはどうすることもできないという無力感が情けなかった。どんな扱いをされても、たとえ殺されても、犯人は処罰もされないし、自分たちが訴えていく場所すらもないのだ。しかしあの少将はそんなことをせず、助けてくれた。それに彼は総司令官と遠縁だと言った。そういう権力のある人間と知己になっておいて損はあるまい。
ジューコフ少将たちは客用のダイニングテーブルについていた。3人の将校は皆、アイロンの当たった清潔な制服を着ており、ピカピカに磨き上げたブーツをはき、鬚をきれいに剃っていた。エリザベートがテーブルに近づくと彼らは立ち上がり、改めてあいさつをした。先ほどの乱暴で無作法な汚らしい犯罪者たちと目の前の礼儀正しい将校たちを比較してしまい、同じ軍隊の中にこれほどまでの多様な人材が存在することに彼女は困惑してしまった。アレクセイ・ペトローヴィチ・ジューコフ少将に続き、アンドレイ・コンスタンチノヴィチ・ミハイロフ大佐とピョートル・ニコラエヴィチ・セミョノフスキー少佐も自己紹介した。彼らの国の、苗字と名前の間に父の名をミドルネームとして称するというやり方は聞いてはいたが、実際に耳にするととても覚えられないほどの長さにも思えた。彼女の表情からそれを察したのか、ジューコフ少将は
「ファーストネームで呼んでもらっていいですよ。私はアレクセイです」
と言った。エリザベートはさすがにそれは遠慮しておいて、必死で彼らの姓と階級だけでも覚えようと心の中で復唱した。
「ソ連という国は革命で皇帝と貴族を滅ぼしたと聞いていたけれど、この少将たちは身のこなしも紳士的だし、言葉遣いもきれいだし、そう悪い人には見えないわ」
エリザベートは紅茶を飲みながら考えた。子供たちは不安がって彼女の周りを離れようとしなかった。
「その子たちはあなたの子なのですか?」
エリザベートはジューコフ少将の問いに対し、「そうです」と短く答えた。そして「私が若いから、侯爵夫人らしく見えないって思っているのだろうか。あるいは、本当は貴族の生まれではないことを察しているのだろうか、まさか」とむかむかしてきた。「助け起こす時にフロイライン(お嬢さん)なんて言われてしまった」彼女は考えた。きっとこの男は私のことをドイツのバカな小娘くらいに思っているのだろう。
アレクセイは子供たちにお菓子の袋を見せた。そして安心させるように自分がその中から一つ口に入れ、再度勧めた。子供たちは喜んでお菓子を手に取った。それを見てエリザベートは敵意をそがれてしまった。「ジークフリートと同じくらいの年だろうか。それにしてもこの若さで少将っていうことは士官学校か陸軍大学校をいい成績で出ているはずだわ」と彼女は考えた。貴族の出身ではないだろうが、屋敷に住まわせてもそう不愉快な相手ではなさそうだ。
「さっきのような乱暴なことは二度と起こらないって約束してくださいますか?」
エリザベートはできるだけ侯爵夫人としての威厳を持って言った。
「ここには見てのとおり、年寄りと女子供しかおりません。ドイツ軍は隠れてなんかいません。私の夫は市内で働いておりますが、連絡がつかなくなっており、ここにはいません」
アレクセイは人懐っこい笑顔を浮かべた。エリザベートはなんだか自分が一方的にとげとげしい態度をしているようで、気恥ずかしくなってきた。
「もちろんお約束します。屋敷に足を踏み入れるのは女性兵士と、将校かあるいは下士官までとしますので、みな規律を守るはずです。決められた範囲以外は立ち入りしませんし、お屋敷の方々への接触も禁止します。接収のお礼として食糧をお分けします」
安全と食糧! それは今のエリザベートにとって何より必要なものだった。焼け出された近所の二家族とその使用人たちがリヒテンラーデ邸に居候していたので、食べさせなければならない人数は多かった。配給切符はジークフリートの権力でかなり一般市民よりも優遇されており、毎日使用人たちが受け取りに行っていたがとても足りる量ではなかったし、もう今後はドイツ政府による配給はないだろう。屋敷の貯蔵庫にある小麦粉もソーセージも底をつきかけていた。このままでは成長期にある子供たちの身長が伸びないのではないかと心配していたところだった。
屋敷の図面を見ながらあわただしく部屋割りが決められ、ピョートルという少佐が隊の方へ伝令に走らされた。3人の中では彼が一番若くて階級が下なのだ。これまでリヒテンラーデ邸の豪華な客室にゆったりと滞在していたランバッハ家とアイスマン家の人々は大急ぎで客間を明け渡す必要に迫られた。たとえそこにいてもいいと言われても、隣の部屋にソ連軍が滞在するとなっては、彼らとしては納屋のほうがましだっただろう。居候たちは家族用のウィングの図書室や音楽室などに寝具を運び込んだ。
やがてロシア人の将校の一団が現れ、玄関ホールで屋敷のりっぱさに驚嘆した顔をしてみせ、ホールの階段を汚れたブーツのまま駆け上がって行った。屋敷の前庭にも兵卒がいっぱい集まっていた。ジューコフ少将の言ったとおり、屋根のあるところにはちょっと階級が上の人間しか入れない規則のようだった。けれど将校だからといって西欧のような騎士道精神やプロイセンの鉄の軍律が通用するのだろうか。エリザベートは玄関ホールの角に立って、自分の「城」が敵に占領されるのを見ていた。彼らがロウソクを持ち込んであちこちの蜀台にともしたおかげでホールは明るくなってきていた。さっき落とされたチェコ製のシャンデリアが割れて床にちらばり、幻想的に輝いていた。彼女はこの屋敷を改修した際、なかなか気に入るシャンデリアが見つからずにいろいろと見て回ったことを思い出した。ロシア人たちが階段を上がって、廊下を左に曲がっているのが見えた。客用のゾーンはあちらなのだ。客用の大きな広間、舞踏室、音楽室、そして多くの寝室。ジークフリートの上司を家に招いた時、エリザベートは心をこめて客用寝室の準備をしたものだった。マイセンの置物やバカラの灰皿は壊されるか持ち去られてしまうことだろう。「コンバンハ」と明るい声で女性士官のグループが笑いながら通り過ぎていった。「奥様、お邪魔します」と馬鹿丁寧な社交界式のお辞儀をする将校もいた。彼らは自分をばかにしているのだ。「敗戦」という苦々しい言葉の響きが彼女の心をかけめぐった。この戦争には負けるのだ。敵は自分の家を占領し、嘲笑い、見下しているのだ。
どこへいっても大切に扱われ、敬われる生活に慣れていたエリザベートはこれから始まるであろう苦難の日々を考えると気が狂いそうになってきた。これが何週間、いや何年も続くのだろうか。ドイツはロシアの植民地になってしまうのだろうか。彼女は両手をつないだ二人の子供の手を強く握りしめた。そんなわけにはいかない。この子たちはドイツの子なのだ。
「奥様、あとは私たちが彼らと話をいたします。どうか坊ちゃまたちとお部屋へお戻りください」
執事カウフマンと夫人のテレジアが言った。二人とも実家から彼女の結婚に際して移ってきてくれた古参の使用人で家の中のことについては若いエリザベート奥様よりも発言権が強かった。しかしエリザベートは今回ばかりは二人の意見を受け入れなかった。自分には何の力もなくても彼らとの交渉には立ち会いたいと思った。
「ママ、どしたの」
エリザベートは子供たちと目線を合わせるためにしゃがみこんだ。長男エドゥアルトも次男ヘルムートも不安な表情のなかに興奮が見て取れた。幼稚園も休みになって何のイベントもない日々が続く中、いきなり大勢の他人が我が家になだれこんできたのだ。パーティーか何かが始まったと思っているのだろうか。
「大丈夫よ」
父親が留守の今、この子たちを守るのは自分しかいない、とエリザベートは二人の金髪の少年を抱きしめた。
その時、まるで新年のパーティーのカウントダウンが終わった瞬間のように家の中の電気が一斉についた。何日もの間、ろうそくとランプの明かりだけで生活してきたドイツ人たちにはこの文明の利器にまぶしくて目をあけられなかった。
ジューコフ少将が何人かの士官とともにホールに入ってきた。
「発電車と給水車を下男の方と一緒に家につないでみました。家の設備はどこも壊れてないのに電気と水道が通じないのは市内のどこかで線が切れているだけです。戦闘が終わったら真っ先に復旧させますが、とりあえずはこれでしのげるでしょう」
そっちの爆撃で壊れたのだから、当たり前だとエリザベートは頭にきた。しかし今日からは水を二階に運んだり、わずかな水で体を洗ったりする生活から脱出できる喜びのほうが大きかった。
「さて」
ジューコフ少将はしゃがみこんで子どもたちの頬をつついた。
「君たちはもう寝る時間だよ。おじさんは君らのお母さんと少し話があるからね」
子どもたちはその言葉に素直に従い、家庭教師のギーゼラとともに家族の寝室のある右側のウィングへと向かった。エリザベートは少々驚いた気持でそれを見ていた。あの子たちったらいつもは中々ベッドに入らないのに。
アレクセイ、アンドレイ、ピョートルの3人とエリザベートとカウフマンは再び客用ダイニングの食卓につき、家の図面を見ながら話した。正面の正式な玄関から続くパーティー用のホールや大広間などに続き、左側の客用寝室などはすべてロシアの占領地となった。その代わり右側の家族用のウィングとそれに続く使用人棟へはロシア人は立ち入り禁止にし、通路には歩哨を配置するという。どの部屋をどういう風に使うかについて、ジューコフ少将は「……という感じにしたいと思いますが、いかがでしょう」と、いちいちこちらの許可が必要とでもいうかのような表現をした。この状況の力関係ではどこをどう使われようと破壊されようとこちらには何も言う権利はないので、不思議な感じだった。アレクセイが顔をあげてエリザベートの方を向き直り、彼の大きな黒い瞳で見つめられるたび、エリザベートはどぎまぎしていた。彼の黒い瞳には何かはかりしれない大地の強い力がやどっているように感じてしまっている。
台所のほうから叫び声が上がり、ジューコフ少将は「ちょっと失礼」と言って、ダイニングを走り出て行ってしまった。ピョートルとカウフマンもそれに続いたので、テーブルにはアンドレイとエリザベートだけが残された。
「奥さん、フランス語は話せますか」
「え、ええ」
唐突にフランス語で話しかけられ、エリザベートはびっくりした。アンドレイが言うには彼自身は帝政期のインテリ階級の出身で、幼いころには住み込みのフランス語の家庭教師がいたという。
「自分はどうもドイツ語が苦手で……ジューコフ少将は本当に上手です。それにしてもりっぱなお屋敷ですね。空爆の被害もなく、奇跡的だ。こんなに広いと使っていない部屋ばかりなのではないですか」
そういえばこの屋敷にはいったいいくつ部屋があるのだろう、とエリザベートは考えた。数えてみたこともなかった。
「客用寝室はお客様のあるときにしか使いません。家族用の部分だけでも十分生活はできますわ」
「子どもたちはあなたと同じ部屋なのですか?」
「いいえ。長男と二男は二人だけで子ども部屋で寝ています。一番下はまだ1歳にならないのでナニーが一緒の部屋で休みます」
エリザベートは子供部屋を図面で指差した。
「たくさん使用人がいるんですね。さっきの執事なんかは普段どこにいるのですか?」
「執事には執務室もあるし、夜は離れに戻ります。他の使用人は別棟に部屋があります」
家族の部屋があるゾーンから渡り廊下を経て使用人の建物へ続くあたりを彼女は指でなぞった。
「あなたのお部屋は?」
「私は普段この寝室を使っています」
話の流れから自然に彼女は自分の部屋を教えてしまった。そしてすぐ「しまった」と後悔した。そこへ少将と少佐、カウフマンが戻ってきた。
「食糧を台所に運んでいる最中にひっくり返して大騒ぎしていただけでした」
おそらく少将はまたさっきのような乱暴事件かと思い、飛んでいったのだろう、とエリザベートは解釈した。なんとなくアンドレイが軟派なプレイボーイに感じるのに対し、アレクセイは堅そうで実直な軍人という印象を受ける。
少将が席に着く時、アンドレイがにやっと笑って小声で言った。
「聞いといてやったよ」
「何を」
「彼女の部屋。二階の奥の東側」
アンドレイは図面を指差した。ロシア語のスラングでこそこそ話しているので細かいところは理解できなかったが、アンドレイのしぐさからエリザベートには彼らが自分の部屋のことを話しているのを悟り、胸が悪くなった。
「ふざけるんじゃない」
ジューコフ少将はアンドレイをにらみつけた。
「おせっかいがすぎましたか? 同志少将殿」
少将はアンドレイを無視して、表情を正し、エリザベートに目を向けた。
「とりあえずお約束の食糧をいくらか台所に運んでおきました。私たちの食べる分は大きい方の台所をお借りしてこちらで調理いたしますので、今回運んだ分はご家族の方でご自由にお使い下さい。足りないものがあれば遠慮なく言ってください」
何と言えばいいのか判断つきかねたが、エリザベートはとりあえず礼を述べた。
その夜エリザベートは自室のドアの前にイスを何脚か置き、その上にワイングラスをいくつも並べた。こうしておけば彼らが忍び込んで来ても物音がしてすぐに気付くだろう。彼女はベッドで眠ることすら恐ろしく、クローゼットの中に布団を持ち込んでくるまって眠った。
翌朝早くに目が覚めると、床に直接寝たせいで体のあちこちが痛み、ひどい疲れを感じた。昨日の夜のことは夢なのか現実なのか判断ができなかった。バルコニーに出ると、ソ連軍のトラックや重機が庭に乗り入れているのが見え、彼らの洗濯した制服が木々の間にロープを渡して干してあった。エリザベートはため息をついた。ここからの眺めはとても気に入っていたのに……
ジューコフ少将が5,6人の将校と連れだって歩いているのが見えた。その中にはアンドレイ・なんとかヴィッチ・ミハイロフ大佐と、ピョートルなんとかセミョなんとか少佐が見えた。彼女は向こうがこちらに気付く前に部屋に戻ってしまおうと思ったが、少将はそれより早く彼女に気付き、手を振りながらバルコニーの下まで走ってきた。
「おはようございます、リヒテンラーデ夫人」
朝の陽光の中、あまりにも明るい声と笑顔で挨拶されたので、エリザベートはつられて笑顔になってしまった。
「おはようございます、ジューコフ少将」
「昨日はよく眠れましたか?」
エリザベートは自分の作ったバリケードを思い出して赤面した。椅子は1センチも動いておらず、ワイングラスはすべて無事だったのだ。
「遅くまでうちの連中がうるさくしていてすみません。昼までにはこちらの棟からは見えない場所に移動させますので」
「はあ……」
少将はまた手を振って、仲間のほうへ戻って行った。まるで競技場でスポーツをしている選手がフェンスの脇にガールフレンドを見つけて、ちょっと話をしに走り寄ったような感じだった。しかしこんな朝早い時間にナイトガウンを着てボサボサの髪でここにいたことにより、この部屋が彼女の部屋であることの確証を与えてしまったとエリザベートはまずいことをしたと感じた。
朝食の席は、居候たちから子供たちまでが感嘆の声を上げるような大騒ぎになった。本物のコーヒーの香り、焼きたてのパン、ベーコンやソーセージ、何種類もの肉や魚のフライ。はちみつやバター、ジャムの瓶にはふちまで潤沢に中身が満たされている。具のたくさん入ったスープが何種類かあり、新鮮な緑黄色野菜のサラダや果物、砂糖をたっぷりと使ったケーキまで並んでいた。皆が食べ飽きたじゃがいもとキャベツは今日だけは姿を消していた。
「食事の際の話題の決定権は主人にあります。妻は夫の言うことに反論することなく耳を傾け、あいづちを打ちましょう。お客様がいらしたときには、話題からはずれてしまう方が出ないように気をくばるのが女主人の務めです。全員が楽しい食事ができるような話題を提供する必要があります。主賓との食べるスピードを合わせ、大皿料理を勧めることを忘れてはなりません……」
女学校で学んだ花嫁教育。結婚前も結婚後もテレジア夫人から厳しくしつけられた貴族の女主人としての教育。エリザベートは今回ばかりはそれらを頭の隅に封印した。いつもは自分のほうが家柄のいいことを鼻にかけたランバッハ老夫人も、口の中にいっぱい食べ物を詰め込みながらさらに次の料理を取りにかかっていた。子どもたちはパンを食べずにいきなりケーキにかぶりつき、オレンジジュースを飲んでいた。ジュースにするほどのオレンジがあったのだろうか、と目のはしで子どもたちを見ながらエリザベートは黙って自分も次々に食べ物を口にした。彼らは貴族のマナーなどそっちのけで、全員無言の欠食ブタのようにガツガツと長い時間かけて食べ続けた。
久しぶりに油っこいものや砂糖菓子を食べすぎたせいでエリザベートは朝食後少し胸がつかえたが、好奇心にかられて台所の隣にある食品倉庫をのぞきにいった。2日前カウフマンとともにここを見たとき、棚にはほとんどものがなかったが、今や天井までぎっしりと箱がつまっているし、床の上にまで野菜の入った木箱が置かれていた。熟れたオレンジが山積みのダンボールもあった。彼女はチョコレートの入った箱を見つけ、2,3枚をそっと自分のポケットに入れた。部屋でこっそり食べよう。疲れてどうしようもない時、この苦みのある甘さがどうしても恋しかったのだ。そしてわれながらあきれ返った。女主人が自分の家の台所で万引きまがいのことをするなんて! 地下室に行くとバターやチーズ、肉類や薫製品もたくさんあったし、牛乳の缶まであった。よくよく見るとロシア語表記のものばかりか、ドイツ語表記、英語表記のものまであった。ドイツ語のものは途中でどこかの店からかっぱらってきたものなのだろう。英語は彼女の学んだイギリス英語ではなくアメリカ英語だった。ソ連軍の後ろにはアメリカがいたのだ。なんという豊かな国なのだろう。ノルマンディーに上陸して西からドイツを攻め、太平洋では日本と戦い、同時にロシアを背後から支えるなんて。
「これでも一週間分って言って、運び込んだんですよ。あの人達」
後ろからの声に振り向くと、台所女中のフリーダが立っていた。
「ベンヤミンも久しぶりにたくさんの食材を見て張り切っていました」
コックのベンヤミンが嬉々として大量の料理を作るのを想像して、エリザベートはほほ笑んだ。ここ何週間か、ベンヤミンはじゃがいも料理とザウアークラフト(キャベツの酢漬け)くらいしか作ることができなかったのだ。しかしソ連軍だっていつまでもこんなに大盤振る舞いしてくれるという保証はない。だいたいそんなに長く居座られても困るのだ。できるだけ食べ物は節約するようにカウフマンから言ってもらおう、とエリザベートは考えた。
その日の午後、ジューコフ少将からお茶に誘われたので、エリザベートが用意をして客用ウィングのテラスで待っていると、少将はアンドレイを伴ってやってきた。今日はあの若い少佐はいない。
「子どもさんたちも一緒でもよかったんですよ。別にそんな堅苦しい話というわけでもないし」
アレクセイの言葉にアンドレイが噴き出した。
「こいつは本当に子どもが好きでね、しょっちゅう町や村の子供たちに話しかけては、お菓子を与えるんです」
もしかするとアレクセイには国に残してきた妻に小さな男の子がいるのかもしれないな、とエリザベートは考えた。もう何年も会っていないのなら、どれほどさびしいことだろう。
「早く結婚すればいいのに」
アンドレイのその言葉にエリザベートが驚いた顔をしたので、アレクセイは自分から話し始めた。
「自分は独身です。これでも。もう35になるっていうんですが……」
「そうですか……でも、いつかいいご縁がありますわ、きっと」
いきおくれた娘に言うような社交辞令をエリザベートが口にしたので、アンドレイはゲラゲラ笑った。年も同じくらいだし一つしか階級が違わないとはいえ、上官の前でこの態度はいかがなものか、と彼女は感じた。アンドレイは好き勝手なことを言い続けた。
「昨日初めてお会いしたとき、我々はあなたを20歳そこそこかと思ったんですよ。今でも3人も子どもがいるようにはとても見えませんけどね」
「まあ、これでも27になりましたのよ」
自分が若く見られたことを喜んでいいものかどうか、エリザベートは悩んだ。確かに最近食べるものがあまりなかったのと心労で痩せてしまったので、娘時代のようにほっそりしている。
その時、ボールとともに子どもたちが走りこんできた。服も手も泥だらけにしている。
「すみません、さあ、あなたたち、戻りましょう」
息せき切って追いかけてきた家庭教師のギーゼラがそう言ったが、アレクセイは彼らにも同席するようにすすめた。
「こっちへおいで、お菓子もあるよ」
少将の手まねきに子どもたちは歓声をあげて走りよった。アレクセイは制服が汚れるのもかまわず、長男エドゥアルトを膝に抱きあげてタオルで手をふいてやった。この子は人見知りで恥ずかしがり屋なのに、とエリザベートは考えた。エドゥアルトはジークフリートの前では委縮して自分の気持ちを話すことすらできない少年だった。
「一番下の赤ちゃんはどうしたのですか?」
「まだお昼寝中です。ナニーがつきそってますわ」
ギーゼラが答えた。エリザベートはギーゼラにも椅子を勧めた。
「おじさん、このお菓子おいしいね」
子どもたちは口のまわりをチョコレートだらけにしながらお菓子を口いっぱいにほおばった。今までどれほど食卓のマナーについて厳しくしつけをしてきたかを思い出すと、エリザベートは目眩がしそうになった。だいたい子どもは大人同士のこういう席には同席しないものなのだ。自分が今まで当然と思ってきた貴族社会のルールが音を立てて足もとから崩れていくのを彼女は感じた。
エリザベートは追加の紅茶をいれようと、立ち上がった。彼女はティーカップにお茶を注ぎながらジューコフ少将の視線を感じていたので、できるだけとりすました顔をして作業に集中した。
「何見とれてるんだよ」
アンドレイがアレクセイに肘鉄をくらわせた。
「いや、貴族的な優雅さだ。すばらしい」
アンドレイのロシア語での問いかけに対し、アレクセイはドイツ語で言った。こそこそ話をしていると思われたくないためか、あるいは私への賛辞を聞かせたいのか、エリザベートはいろいろと考えてしまった。
「これ、素敵なカップですね」
ジューコフ少将はティーカップを目線まで持ち上げた。
「これはヘレンド社のものです。私が結婚に際して揃えたものです。私の故郷の近くのメーカーですので」
「故郷って、どちらです?」
「ウィーンです。もっとも、私はずっとスイスの学校に入っていたので、ウィーンっ子とは言えないかもしれませんが……」
この言葉にアンドレイとアレクセイは顔を見合わせた。アンドレイはうれしそうに言った。
「じゃああなたはドイツ人ではないのだから、戦争が終わっても大丈夫ですよ。それほどひどい目に合うこともないだろうし、引け目を感じる必要もありません」
「ひどいって……何かドイツ人は罰を受けるという意味ですか?」
エリザベートは確かにオーストリアの出身だった。だが、ドイツ人たるジークフリートと結婚し、帝国ドイツ人としての誇りを持っていた。ジークフリートは何か罰を受けるのだろうか? ゲッベルスの言ったとおり、男はシベリアへ送られ、女は凌辱されるとでも言うのだろうか。
「我々はそんなに野蛮な考えを抱いてはいません。戦後の処理をどうするかは我々軍人の問題ではなく政治の問題です」
アレクセイ・ジューコフが言った。彼は遠い目をして森の方を見た。
「ここにいると戦争など忘れてしまいそうです。まるで休暇で旅行にでも来ているみたいだ。もっとも、こんなにすばらしいホテルに泊まったことなどありませんが」
そう言った瞬間、森の向こうの市街地から大きな爆撃音が響き、煙が派手に上がった。断続的な地響きもしている。戦争は続いているのだ。見えるはずもないのだが、彼ら3人は立ち上がって森の方を見た。
「あと1週間ってとこかな」
アンドレイが言った。そう言えばこの人達はこんなに暇にしていていいのだろうか、とエリザベートは思った。ピョートルを含めてこの3人は栄養状態もよく、長い戦争の疲れを感じさせなかった。
「戦闘が終われば市街地を一度見に行って、それから休暇を取ってやる。俺は妻の手料理が食いたい」
アンドレイの言葉にエリザベートは笑った。彼はもう何年も休暇がないとぼやいた。ジークフリートもこの混乱が終われば戻ってきてくれるのだろう。ドイツが勝とうが負けようが……
彼らは本当に暇そうだった。お茶の時間以外直接話すこともなかったが、ある日乳母車にアルフレートを乗せて屋敷のまわりを散歩しているときに、将校たちがフェンシングに興じているのに出会った。ちょうどジューコフ少将がアンドレイを負かしたところだった。
「やあ、いいところに来ましたね」
少将は誇らしげに手をあげてエリザベートに笑いかけた。彼は何試合もしていて暑くなったのか上着を脱いでいて、薄い半そでシャツ一枚になっていた。筋肉の盛り上がった肩や胸のラインと汗の輝きに、エリザベートは彼に対して男性的な力強さを感じ、顔を赤らめた。
「今度乗馬しましょうよ、リヒテンラーデ夫人。乗馬なら俺はアレクセイに負けはしない」
横からアンドレイが口を出した。ピョートルとレオニード・ロストフスキー大尉との試合が始まっていた。
「もう何か月も乗っていないし、軍馬に乗るのは自信がありませんわ」
「大丈夫ですよ。おとなしいヤツもいるから」
本当に、アンドレイとは何も意識せず普通にしゃべりやすいのに、どうしてアレクセイが相手だと自分は変に意識してしまうのだろう、とエリザベートは考えた。アンドレイがロシア社会の中でもブルジョワ出身なのに対し、アレクセイは軍人の家系で厳しく育てられたせいだろうか。軍人といえば戦時中ドイツ国防軍の将校たちとも話したことがあったが、特に何とも思わなかったのに。ロシアやポーランドの捕虜、あるいは連行されてきた労働者がベルリンで防空壕を掘ったり、空襲で壊れた建物を片付けたりしているのをよく目にしてきた。異国のスラヴ人。劣等人種。労働者階級。自分とは違う世界の人間だと思っていた。しかしこの時彼女は生まれて初めて男性の汗に性的な魅力を感じた。
「おちびちゃんは今日もご機嫌だね」
アレクセイはしゃがんでアルフレートに話しかけた。赤ん坊は「だっこ」をせがむように両手をアレクセイに差し出した。少将は軽々と乳児を抱きあげ、赤ん坊は母親よりも目線が高くなったことに喜んで、声をたてて笑った。この人は本当に子どもに好かれる人なんだわ、とエリザベートは考えた。敵の隊長とはいえ、こんなに紳士的にやさしくされ続けると、憎むことができなくなってしまう。
「この子が一番あなたに似ていますね」
少将はアルフレートの頬をつついた。
「髪も瞳も……ちょっとした表情まで。あなたをうつしとったように似ている」
そういって少将はアルフレートに頬ずりをした。エリザベートはまるで自分がそうされたかのように、胸がどきんと鳴るのを感じた。
翌日は本当に馬場で乗馬大会が行われた。本人の言葉通りアンドレイ・ミハイロフ中佐の障害物越えはすばらしいものだった。エリザベートは木の柵にもたれて彼らを眺めながら、こうしてジークフリートが貴族的な優雅な乗りこなしを見せてくれた日々を思い出していた。
「ワルキューレ、どうしてるのかなあ」
長男エドゥアルトが言った。神話から名付けられた子どもたちの馬はずいぶん前に徴用されてしまい、それっきり何の音沙汰もなかった。人間ではないから手紙も電話もできないし、戦争が終わったところで返してはもらえないということも大人たちには分かっていたが、子どもたちにとっては承服しがたいことだった。
「どこかできっと元気にしているわよ」
エリザベートはエドゥアルトを引き寄せた。ヘルムートは馬に乗せてもらい、アンドレイの従卒が手綱を引いていた。
「子どもたちの馬まで徴用されたんですか?」
ふと気付くと、アレクセイが隣に来ていた。乗馬に疲れたのか、水の入った瓶を持っていた。
「一年前に……大人は納得できても、子どもには理解できませんものね」
エドゥアルトは不安な目をアレクセイに向けていた。アレクセイは子供の頭をなでた。
「兵隊さんは皆、馬には優しくしてるんだぞ。大丈夫、君のワルキューレもひどい目にはあってない」
子どもが笑顔を取り戻したので、アレクセイは彼の肩をたたき、
「さあ、君も乗っておいで」
と、馬場へ送りだした。
エリザベートはアレクセイと二人で、柵の前に残された。彼と二人きりというのは初めてだったので、何を話せばいいのかわからなかった。
「アンドレイは乗馬の名手でしょう? 彼は次の異動で騎兵学校の教官にでもなれそうだ」
アレクセイの言葉にエリザベートは相槌をうった。
「あなたとはとても気心の知れた感じに見えますけど……もうずっと前からお友達なのですか?」
「陸軍大学校の同期です。一緒に授業を受け、一緒に寮を抜け出して……若くて無鉄砲な日々をともにすごしました。こうして一緒に戦争の終わりを見ることができたことにたまらなく感謝しています」
違うタイプの二人だからこそ、長きにわたる友情を築くことができたのだろうか。それに比べて自分はどうだろう、とエリザベートは考えた。心から信頼できる友人というのはいるだろうか。リヒテンラーデ大佐夫人だからこそ、自分を取り巻いていた人々はこの敗戦でそっぽを向いてしまうことくらい、世間知らずの彼女にも充分予見できた。
5月2日、国会議事堂がソ連軍に明け渡され、中心部での戦闘が終結したことが伝えられた。
「ヒトラーは死んだらしい」
この日はアンドレイがロシアンティーを皆に作ってくれていた。
「戦死なのか、自殺なのか……情報が錯そうしていてわかりませんが」
彼は優雅な手つきでいつものメンバーに紅茶を配った。
「もう、こういうのどかな日々が終わってしまうんですね」
ピョートルがため息とともに言った。アンドレイが彼の足をけとばした。
「だって大佐、こんなりっぱな家のすんごいベッドに眠って、いいもん食って……もうこんなこと、一生ないような気がしますよ」
それを聞きながらアレクセイは笑っていた。エリザベートは何も言わずに彼らのやりとりを見ていたが、戦闘が終わればこの人達はどうするのだろうと考えた。全部のソ連兵がベルリンに残るわけではないだろう。半分?ほんの一部を残して故郷に帰るのだろうか。アンドレイは休暇願を早々に出してしまったらしいし、ピョートルもモスクワ軍管区への異動をずっと希望しているらしい。アレクセイはどうするのだろう。エリザベートの心を見透かしたかのように、アレクセイが口を開いた。
「もう少ししたら、私たちも一度司令官から呼び出しがくると思います。その上でまた新しい仕事を与えられます。戦争というのは始めるのはたやすく、終えるのは難しい。兵隊たちにいつまでもテント暮らしをさせるわけにもいかないし。そのうち米英軍もやってくるし……」
アンドレイが続けた。
「まあもうしばらく、この暇でのどかな日々を味わわせてもらいたいものだがね。我々は4年間休みもなく、死闘をくぐりぬけてきたんだから」
「そうですよね、大佐。大佐はとりあえず休暇希望でしたっけ? 僕はずっとレニングラードかモスクワに戻る希望を出しているけど、もう少し先でもいいなという気になってきてるんです。少将はどうなんですか? コーネフ将軍が少将の事務能力にはいつも感心していますからね、ジューコフ少将はきっとベルリン残留組だと僕はにらんでいるんです。ドイツ語も上手だし」
ピョートルの無邪気な言葉にアンドレイが笑って言った。
「まあ、なかなか人事というやつはそう希望通りにはいかないさ。ベルリン残留はほとんどジューコフ軍っていう話だ。我々ウクライナ軍はロシアに帰れるさ。もっとも、ドイツ残留を希望すれば別だがな」
「少将は残留を希望するのですか?」
「さあ、どうするかな」
アレクセイは無関心な様子でクッキーを口にしていた。アンドレイはちらりとエリザベートの方を見て、うがったような言い方で、
「ジューコフ元帥閣下に頼めば、お前ならなんとでもなるだろうよ。ベルリンにいたけりゃ、いたいで……」
と言った。
「父親同士が従兄弟っていう遠い関係だ。戦争が始まってからはめったに会ったこともないし。そう無理は通らないよ」
アレクセイはそう言って、紅茶を飲んだ。エリザベートはアレクセイを横目で見た。この人がいてくれたらどれほど心強いだろう。気安く口をきけるアンドレイ、まだ少年の面影を残すピョートル、3人の中ではアレクセイが一番口数も少なく、とっつきにくい存在ではあったが、自分が一番信頼を寄せているのはジューコフ少将にほかならないのだ。
接収と占領の当初、警戒して部屋にこもっていた屋敷の使用人や居候たちも、日が経つにつれて通常の生活を取り戻していった。最後まで心を許すまじと頑張っていたアイスマン夫人がアンドレイと図書室でフランス語話に興じながら声をあげて笑っているのを見たとき、エリザベートは自分の心の中の最後の氷が溶けたのを感じた。ソ連軍の方も、接収の利点を大いに享受していた。長い戦争の間、野宿もやむを得ない状況だったのが、屋根の下で眠れるし、窓ガラスが北風を防いでくれるのだ。風呂も煮炊きにも不自由はなくなり、女性兵士たちは着替えや休憩の場所が出来て大喜びだった。屋敷の人間は何より安全に感謝した。この連中がここにいるかぎり、空爆もされないし、大砲もとんではこないのだ。想像していたのと違って赤軍の連中も話が通じるということにみんな安心した。そのうち召使たちと士官が談笑している場面も多々目撃されるようになってきたが、当初懸念されていたトラブルもなく、日々は平穏にすぎていった。
双方の責任者としてジューコフ少将とエリザベートは毎日一度お茶の時間に顔をあわせて相談や報告を行っていたが、だんだんそれも形式的なものになりしばらくすると雑談しかしなくなった。それほどまでにトラブルもなく、話すこともないからだ。ではお茶の時間をやめるかと思えば、誰もそれを言い出さなかった。結局のところ皆暇で、お互いに話したいと思っていたのだ。アンドレイとピョートルは時々どちらかが欠けることもあった。しかしアレクセイだけはいつも出席し、口数少ないものの、彼女の話に耳を傾けていた。
ある日アレクセイが庭の奥にある温室に行きたいと言い出した。彼は庭のあちこちを散歩していて温室を発見したのだが、鍵がかかっていて入れなかったのだ。
「じゃあ案内しますわ」
エリザベートは当然アンドレイとピョートルも来ると思っていたが、彼らは「自分たちはあまり花に興味がないから」と言って同行しなかった。彼らは二人で温室に入った。むっとする湿気が鼻につく。エリザベートは手持無沙汰に剪定ばさみを動かした。
「お花、お好きなのですか、ジューコフ少将?」
「詳しくはないですけれど……ああ、以前は花も春も嫌いだったこともあります」
「まあ、どうして? 私は春が一番好きです」
「婚約者を亡くしたのが春でしたので」
二人の間に緊張が走った。ああ、この人の瞳の中にある影はこれだったのか、とエリザベートは感じた。大きな黒い瞳に濃い眉をした整った顔立ちをしているし、背が高くて陸軍のエリート。実直で生真面目な性格。結婚歴がないのが不思議だった。
「すみません。悲しいことを思い出させてしまって」
「いいえ、もう昔のことですから。それに今は花も春も好きです。お屋敷の中にもあちこち飾ってあって目を楽しませてもらっています。私の部屋と私たちが使っているほうの食堂にも少し持って行っていいですか?」
エリザベートはいくつか花を切って新聞紙に包んだ。その様子をジューコフ少将はじっと見つめていた。彼に見つめられると、息ができなくなるような気がした。温室の空気のせいだろうか。
「エリザベート……」
ふいにファーストネームで呼ばれて彼女は驚いて顔をあげた。
「……というのは有名なオーストリア皇后にいらっしゃいましたが、あなたは彼女と同じ名前ですね」
「ああ、シシィのことですね。フランツ・ヨーゼフ皇帝と恋愛結婚した。オーストリアでは有名な方です。腰よりも長い豊かな黒髪が印象的な、とてもスリムで美しい方だったそうですわ。でも、宮廷には寄り付かず旅行ばかりしていて最期は暗殺されて……」
彼女はどぎまぎしている心を隠すように早口でまくしたてた。ハプスブルク帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフは23歳の時、バイエルン公国の16歳のエリザベート公女に一目ぼれし、皇后に迎えたのだ。ヨーロッパ一美しい皇后と言われたが、姑との対立や長女の夭逝、長男の暗殺など彼女の人生には不幸があいついだ。オーストリアでは誰でも知っていることだった。
「歴史書と伝記などで読みました。愛し合って結婚したのになんて悲しい人生だろうと……皇帝は執務に追われ、彼女は孤独を深めていく。庶民の家庭でも似たようなものでしょうが、自分は妻になる女性にそんなさびしい思いはさせたくありません」
この人はどんな女性を愛し、誰を妻にするのだろうかとエリザベートは想像した。きっと情熱的に、息つく暇もない程に愛してもらえるのだろう。今は恋人はいるのだろうか。この人の腕に抱きしめられたらどんな感じなのだろう。先日アレクセイが半そでになっていた時の体の線を思い出し、彼女は顔を赤らめた。エリザベートはかぶりをふって話題を変えた。
「ジューコフ少将。私、謝らなければなりませんわ。最初あなたに会った時、とても失礼な応対をしてしまったような気がします。お礼も満足に言えず……」
「え、そうでしたか? 別に気にはなっていませんが。あなたはいつも丁寧だと思うし……時に、もう少しうちとけてくださればいいのにと思うほどです」
「いろいろとソ連軍の悪い噂ばかりが伝わってきていましたので、身構えていました。確かに最初の兵士たちは暴力的な人達でしたけど、あなたや、ミハイロフ大佐やセミョノフスキー少佐、ほか皆さん方と接していて、あの噂は誇張されたものだということがよくわかりました。何百万人にも軍隊が膨れ上がれば、いろいろなもめごとも起こるでしょう。長い戦争でしたし。きっと小さな事件が大きくなって伝わってきたんだと思います。宣伝省はそれを利用して赤軍の悪口をひろめようとしたんですわ」
エリザベートの言葉に、ジューコフ少将は何か言いたげな表情をしていたが、無言だった。彼女はちょっと小首をかしげた。
「どうかなさいまして?」
「いえ……軍隊内の秩序と規律の維持も私の重要な仕事なのです。非戦闘員への蛮行を止められなかったのは司令官や将校の統治能力が欠けていたといわれても仕方がありません。目の前でああいうことが起これば、必死でとどめてきました。けれどリヒテンラーデ夫人」
彼はそこで言葉を区切ってエリザベートのほうを向いた。
「未遂の段階で被害者を救出することができたのはあなたが初めてです。あなたの存在は私の誇りになっています。今少しかけつけるのが遅れれば、あなたは花を見て微笑むこともできなくなり、こうして私と話すことは不可能になってしまったほど傷ついていたことでしょう。あなたを助けることができて本当によかったと思っています。これから先もあなたを守っていきたいと私は思っています」
エリザベートはまるで愛の告白を受けたかのような錯覚を覚えた。自分は確かに不思議とこの人を意識してしまっているが、それは彼も何がしかの感情をこちらに抱いているせいなのだろうか。直接的な言葉ではない。けれど……男が女に対して「守りたい」というのは……彼女はかたずをのんで彼の次の言葉を待ったが、アレクセイは何も言わずにエリザベートの瞳を見つめていた。ガタン、と音がしたので二人は温室の入口を見た。下男のカールが土の袋を抱えて立っていた。
「奥様……御用がおありなら、わしが切りますのに」
「いいのよ、少しだから。それにもう終ったわ」
アレクセイはエリザベートから花を受け取った。そして二人は温室を後にした。
一時間後エリザベートはテレジアから雷を落とされた。
「いくら自分の家の庭といえ、あのような人気のないところでよその男性と二人きりになるなんて、相手は奥様のことを軽い女だと思って何をしてくるか分かったものではありませんよ。それにあの方は敵の司令官ではありませんか!」
「まあ……そんなにカッカしなくても。ジューコフ少将は紳士的な方よ。言葉遣いも物腰も丁寧だわ。あのような場所で何をするというの。私は少将のことを信頼に足る人物だと思うけれど」
「あれほど恐ろしい目にあっておきながら、奥様はもうお忘れになったのですか。ロシア軍は皆けだものなのです。少将だって同じ国の人間です。いつなんどき豹変するか。私たちはオオカミの群れに取り囲まれているようなものなのですよ」
「わかりました。これからは誰かに声をかけて同行してもらいます」
エリザベートはテレジアを下がらせた。一人きりになった寝室で彼女は大きな寝台に飛び込み、手足を伸ばした。カウフマンとテレジアは私のことを赤ん坊のころから知っているから、いつまでも小娘だと思っていて子ども扱いするのは仕方がない。結婚してからもそうやって誰かに監督されてヤイヤイ言われているほうが気楽だったのは確かだ。けれど……テレジアですらエリザベート自身があの温室で、ジューコフ少将から手を握られて愛を告げられるくらいのことならされてもいいと考えていたことまでは気づいていないようだった。話した言葉の数ならアンドレイとの方がはるかに多かったのに、彼女が一番信頼しているのはアレクセイ・ジューコフなのだ。助けてもらったからだろうか。テレジアの「オオカミの群れ」という言葉を思い出した。たしかにオオカミの群れだ。けれどオオカミのリーダーは……あのリーダーは私のことをどう思っているのだろう。どう思っていようと、こっちは人妻なのだからどうしようもないのに。
「アレクセイ」
エリザベートは彼のファーストネームを声に出して言ってみた。大抵の人間は彼のことを「ジューコフ少将」とか「同志ジューコフ」とか呼ぶ。それ以上に親しい間柄でも、「アレクセイ・ペトローヴィチ」と父姓をつけて呼ぶのだ。「アレクセイ」と名だけで呼ぶことなど、恋人か妻か両親以外には考えられない。そして自分は決してそういう間柄になることはないのだ。エリザベートは寝返りをうって枕に顔をうずめた。そしてジークフリートと抱き合ったのはいつのことだっただろうかと記憶をたどった。
だんだんエリザベートはロシア人たちに慣れてきて、お茶の時間の後みんなで庭を散歩して案内したり、テニスに興じることもあった。時にはレコード鑑賞会も開かれ、双方から音楽に心得のある人間が集まって演奏を行ったりもした。テレジアにきつく言われているのでアレクセイと二人きりになることは避け、ロシア側もドイツ側も何人かが一緒だった。ランバッハ夫人の下の娘カタリーナなど、若いピョートルの恋人気取りでいつも離れなかった。もしカタリーナがアレクセイに魅力を感じていつもつきまとっていたら、自分はいやな気分になっただろうとエリザベートは想像した。だが、どうしてそういう気分になるのかは理解できず、きっとアレクセイがロシア側の司令官なのに対し、自分はリヒテンラーデ邸側の司令官なのだから、一対一でちょうどいいのだと思い込んでいた。
アレクセイはジークフリートのことを根ほり葉ほり聞いてくることもあった。エリザベートがジークフリートのことを「親衛隊の大佐で、国家保安本部の課長職にある」と言うと、アレクセイは絶句したような顔をし、その後ろでカウフマンが泡をくらったような表情をしていた。
「ご主人はそこでどのような仕事を?」
「さあ……時々所属は変わっていたようですが、仕事の内容について夫は家では話しませんでしたので、私にはよくわからないんです」
「大佐はずっとベルリンに? 戦地へは行っていないのですか?」
「戦争には行っていません。ずっとベルリン勤務でした。3月から連絡もなくて……市街地は空襲がひどい日もあったので……でも、無事を信じています」
アレクセイは「そうですね」と短く答え、エリザベートをやさしい目で見た。この時のことについては再びテレジアから雷を落とされた。
「奥様、あの人達はドイツの指導者層を根こそぎ死刑にするに決まってるんですよ。侯爵様が貴族というだけでも危ないのに、親衛隊の大佐だと言うなんて」
「テレジア」
エリザベートはできるだけ落ち着いて言葉を発した。
「いつまでもかくしておけるものではないわ。あの人達がこの家に最初に来た時、ナチの旗も総統閣下の肖像画もたくさん飾ってあったじゃないの。この家がナチスの信望者であることなんて、彼らはとっくに知っているわ。私が言わなくても、ランバッハ家やアイスマン家の人たちに聞けばすぐに分かることよ」
「だからってわざわざ話すことでしょうか? あの少将は奥様に個人的な関心があって聞いてきたにすぎないでしょうに」
確かにアレクセイ・ジューコフ少将はリヒテンラーデ侯爵夫人に関心があるらしかった。ドイツ人の生態に関心があるのか、はたまたロシアでは滅ぼされた貴族というものに関心があるのか、そんなところだろうと思っていたが、もしかして彼は私自身に関心があるのだろうかと考えることは、エリザベートにとって悪い気はしなかった。彼がいろいろ聞くので昔のアルバムまで持ち出していろいろと話したりもしたが、ジークフリートのことだけでなく、子どもたちのことやオーストリアやスイスの生活のことまで聞くので、彼が本当はどの部分に一番関心があるのかはわかりかねた。だが、エリザベートの身の回りの世話をしている召使のマリアの言葉はさすがにショックだった。
「あの方は奥様のお部屋にも来られるのですか。灰皿をご用意したほうがよろしいでしょうか」
自分たちは使用人の目にはそんな風に映るのだろうか。テレジアだけでなくマリアまで? こうなると、召使たちは全員この噂を知っているに違いない。そういえばもともとアンドレイなどはアレクセイをけしかけているようなそぶりも見せていた。では赤軍内部でも? 当然のごとく赤軍のほうでも気付く人間が現れ、台所では下働きのフリーダが衛生兵ナターリア達とお菓子を食べながら噂話に花を咲かせていた。
「うちらの少将って全然愛想のない冷たい人だったのよ。女にも興味がない感じで一時ホモ説も流れたくらい。あの人があんなに女性に優しくするのを初めて見たわ……」
やがて5月7日にドイツは無条件降伏に調印し、8日ヨーロッパにおける戦争は終わった。アレクセイの話だと、メーデーの前後でほとんどのドンパチは終わってしまっていたらしかった。しかし一週間たち、二週間たってもジークフリートは帰ってこなかった。電話線も直してもらったのに何の連絡もなかった。
「ご主人のことを考えてらっしゃるんですね」
ある日のお茶の時間にアレクセイが言った。エリザベートがついぼんやりしてしまっていたからだった。彼女は謝った。
お菓子を食べ終わると子供たちはテラスから外へ駆け出して行ってしまい、ナターリアたち女性兵士が相手をしていた。彼女達も午後には暇になるらしく、いつも喜んで子供たちと遊んでいるようだった。アンドレイとピョートルはボールで遊んでいた。
「連絡のとりようがないですもんね……電話が直ったけれど市街地はまだ通じないのかもしれないし、電報もできないだろうし。怪我をしているのかもしれません」
エリザベートはなるべく自分に都合のいい考え方をするようにしていた。連絡が取れるのに連絡してこないというようなことはありえないだろうし、そうでなければ「死」を意味するのだから。彼女は自分の心をごまかすかのようにミルクティーに口をつけた。そしてアレクセイの方をちらっと上目遣いに見た。彼は子供たちがブランコで遊んでいるのをやさしい目で見ていた。みんなはジューコフ少将が私に気があるように言うけれど……彼ははっきりしたことは何も言わないから本当のところは分からないわ。目線や言葉遣いから好意は感じる……彼女は考えた。自分にもっと恋愛経験があれば理解できるのだろう。男の好意についてエリザベートは悪い気はしていなかった。この無法地帯において彼が戦勝国の少将という権威ある人物であるということも魅力的だったし、初めて夫以外の男から女として扱われ好意をよせられたという喜びもあった。かつてはリヒテンラーデ親衛隊(SS)大佐夫人として、あるいは侯爵夫人として彼女はどこへ行っても丁重に扱われていた。しかしまわりの人間は皆、こびへつらってなれなれしく近づいてくるか、あるいは逆に社交辞令以上の会話には踏み込めない場合も多く、誰も本当の心を見せてくれないという寂しさをいつも感じていた。アレクセイとの間に構築された奇妙な友愛関係はエリザベートにとって大変心地よいものとなっていた。
昨夜、エリザベートがもう寝ようと思って化粧台の前で髪をとかしていると突然のノックがあった。使用人かと思いながらドアを開けるとアレクセイが立っていたのでびっくりした。いつも影のように彼に付き添っている副官はついてきていなかった。彼には一番上等の客間を提供しており、そこはリヒテンラーデ侯爵夫妻の寝室からはずっと離れていたのでお茶の時間以外で顔を合わせることはなかったからだ。それに家族の寝室があるウィングは、接収の最初にアレクセイ自身が「ロシア人立入禁止」と決めたゾーンだったのだ。いよいよ彼はこれまでの「安全と食糧提供の礼」を求めにきたのだろうか。
「夜分にすみません、リヒテンラーデ夫人。司令部からさっき無電で呼び出されました。明日の朝早くに私は市の中心部に向かいます。夜に戻って来られるかどうか分かりません。この家にもある程度の人員を残していくので……」
アレクセイがすべて言い終わらないうちにエリザベートは叫んだ。
「私も一緒に連れて行ってください」
「いや、それは……」
彼に拒絶の言葉を言わせまいと、エリザベートは続けた。
「同行できるだけでいいんです。市街地がどうなってしまったのか、私は自分の目で確かめたいんです」
興奮して将校の制服の襟をつかんでしまった彼女の手を、アレクセイはそっと握った。襲われた時に助け起こすためにさしのべた手を除くと、彼らが直接触れ合ったのはこれが初めてだった。アレクセイの黒い瞳に見つめられてエリザベートは我に返った。
「すみません、ジューコフ少将………私、失礼を……」
「いえ……」
エリザベートは手をひっこめようとしたが、アレクセイは離さなかった。まるでそれがようやく手に入れた大切なものであるかのように、ゆっくりと自分の頬に近づけた。
「7時に玄関ホールに来てください」
そう言うと、アレクセイはきびすを返し、ふりかえりもせず長い廊下を歩いて階段へと消えていった。エリザベートは彼の頬の触れた手の甲をなでながら、その後姿を見送った。