鬼雨
絹糸のような雨が間断なく降り続いている。
長雨の湿気で膨張するのか、木製の戸の開け閉てにも難儀する。
病室の引き戸も、そのせいで軽く透いていたのだろう。とりたてて盗み聞くつもりなどなかったが、足早に廊下を行く看護婦たちが、小声で何事か相談しあっているのは分かった。くぐもった言葉の群れは、湖底に沈んだ藻のようにふやけて掴みどころがなく、時折、病名やら医療器具やらの角張った専門用語が混じった。声は足音と共にだんだん遠ざかり、やがて、ふつりと途絶える。廊下を過ぎ、階段を下りて行ったのだろう。
「……あら、起きたんですか、姉さん」
引き戸を閉め直し、戻ってくると、姉がぼんやりと焦点の合わぬ目を開けていた。朝から目まいがひどいと言って、ずっと横になって目をつむっていたが、少しはましになったのだろうか。入院してからこちら、姉は空気の抜けた紙風船のように崩れて、とろとろと眠ることが多くなった。
「曼珠沙華、燃やしたでしょ」
まどろみを引きずったままの、たゆとうような声で姉は言った。
「だめよ、消さないと」
わたしは慣れた手つきで、蛇の脱け殻のようによじれた姉の掻い巻きを直してやった。
「何も燃やしやしませんよ」
噛んで含めるように否定する。姉が不調に陥ってからというもの、頑是ない子どもをあやすような口調が癖になった。我慢強い、姉思いの妹――格別そうあろうとしたわけでもないのだが。
「曼珠沙華――彼岸花のことでしたっけ」
眼裏に、鮮血のほとばしるような花が咲く。
「まだ花の時期じゃないでしょう」
「違う、違うわ、仏様のおぐしに降るもののことよ。天界に生えてるの。赤いの」
だめなのに、とむずかる赤子のように姉は繰り返す。何度も何度も。いやいやをするように枕の上で首を振る。
「燃やさないで。火を消して。回向などしたら、あの人がかえってこれなくなってしまう……」
義兄は一昨年、カフェの女給と駆け落ちし、心中した。
二人して海へ身を投じたのだという。しばらくして、浜に女の溺死体は揚がった。だが、義兄の亡骸は見つかっていない。海流に攫われたか鱶に喰われたか、未だに杳として行方知れずだ。
「ゆうべ、あの人がわたしの閨にかえってきたの」
姉が夢見るように言いだしたのは、ひっそりと三回忌の法要を終えたある日のことだった。
子もないまま寡婦となった後、嫁ぎ先に持て余された姉は実家に連れ戻された。娘時分は、はつらつとして人の輪の中心にならずにはおかない性分であったのに、今や鬱ぎ込んで誰も寄せ付けない。話しかけられても頑なに押し黙り、返事もしない。起こったことを思えば、致し方ないだろう。変わり果てた姉を前に、両親は鷹揚な静観を装っていたが、手をこまねいて放置しているというのが実情だった。
だが、この日の朝は襟元の乱れた寝間着姿のまま居間に現れると、自ら息せききって話し出した。寝間着はなぜか水でもかぶったようにびっしょりと濡れていて、裾からぽたぽたと水滴を垂らしている。蛞蝓の這った跡のように、姉の素足は臆面もなく床を汚した。昨晩は、天の底が抜けたような土砂降りの雨だった。姉は夜通し庭にでも出ていたのだろうか?
「わたし、あの人の子を身ごもった。産みます。もう病院の目星はつけてあるから」
雨上がりの晴れやかな窓辺で白浴衣を縫っていたわたしは、ざくりと針を指に突き刺してしまった。稽古を重ねた仕立物は、縫うのも裁つのもめったにしくじらなくなっていたが、今回ばかりは手元が狂った。みるみるうちに指先に膨れ上がる血の玉をよそに、ほうけたように姉の顔を見上げる。
一方、姉はまじろぎもせず凪いだ表情をしていた。満ち足りて、陶然として、どこか気高い眼差しにも思われた。女学校に通っていた頃、礼拝堂で毎朝のように仰いだ聖母像のような。この世の条理を上回る何ものかに、うっとりと心奪われているかのような。
両親はあらゆる伝手を使って姉を入院させた。人里離れた山奥の療養所には、汽車を乗り継いで行かねばならない。当然ながら産科ではなかった。
「外聞が悪いわ」
手紙での押し問答を繰り返し、業を煮やしてわたしを病院から呼び出した母は、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。姉の容態を尋ねようともしない。
「あなたまで律儀についていくことはなかったのよ。してやれる世話はもう充分したでしょう。あなた、いつまでも付き添い看護婦の真似ごとなんてしていないで、いい加減、家に戻っていらっしゃい」
「わたしまで見放してしまったら、姉さん、本当に取り返しがつかなくなりますよ」
わたしはすくい上げるような上目遣いで母を見た。
「あなたはどこまでお人好しなの。あの子にそこまでしてやる義理はないわ。あの子があなたにしたことを思えば――」
言いさして、さすがに母は言葉を呑み込んだ。
「とにかく、あの子はもうだめになってしまった。憑かれてるの。分かるでしょう」
いっそ死んでくれたら――吊り上がった母の目はまざまざとそう語っていた。どうして聞き分けないのかと、苛立たしげにわたしを見返した。姉が病みついてから、父との仲も険悪になり、心細い母はしきりにわたしを手元に置きたがる。
おざなりに聞き流して、別れた。
仲のよい姉妹だった――とは、お世辞にも言いがたい。
わたしが姉に、一方的に嫌われていただけではあるのだが。
姉は、父方の祖母譲りの西洋人形のような華やかな顔立ちで、ぱっちりとした双眸はいつも涙ぐむように潤んでいた。両親は――特に父は、大輪の薔薇のような姉をひとかたならず溺愛しており、欲しがるものは何でも与えた。着飾るものでも食べ物でも、家中の誰より先に姉の前に供した。姉の指を棘で傷めた庭木はすぐに植木屋を呼びつけて伐らせたし、姉を子どもと侮って口答えしたねえやは即刻解雇された。姉の思い通りにならぬ物事はなかった。姉は愛くるしくほほ笑み、寛大な女王のように喜んでみせるだけでよかった。
姉の擦りきれたお古をまとい、姉の食べ残しを囓りながら、わたしはまばゆく光り輝くような姉と、それにかしずく父を物陰から見ていた。
物心もつかぬ赤子の頃、粗忽な子守に過って取り落とされた際、幸いにして命に別状はなかったが、わたしの片頬には畝のように盛り上がった傷跡が残った。己が非の打ちどころなく美しいがゆえに、他者のわずかな瑕疵も許せぬ姉は、わたしの姿が視界に入るだけで機嫌を損ねた。わたしは、暗い土蔵で息を潜めて過ごすことが多かった。気兼ねなく母屋を闊歩できるようになったのは、姉が嫁いで家を離れてからのことである。
怪我のこともあって縁遠いわたしとは裏腹に、姉は当然ながら引く手あまたで、次々と寄越される釣書のなかで最も条件の良い相手と結婚した。婚礼には両親のみ出席し、わたしが呼ばれることはなかった。
空の棺を用いた葬儀には、どこから聞きつけたのやら、野次馬が垣をなして詰めかけていた。新聞沙汰になったから覚悟はしていたが、気の滅入るような有様だった。
「男は戻ってくるつもりだったんだとよ」
死者を弔う場だというのに、遺された家族が間近にいるというのに、芝居見物のように大声で騒ぎたてている。まるきり猿の群れだ。
「こっそり駅で帰りの切符を買ってたんだってさ」
「じゃあ死ぬ甲斐性もないのを、情婦に殺されたってのか。みっともないねえ」
久しぶりに顔を合わせた姉は血の気を失い、やつれはてていた。疎ましいわたしが傍に寄っても、あからさまに顔を顰めたり、邪険に身を引いたりもしなかった。喪服を着つけられ、髪を結われ、魂の抜けた人のように動かない。造作が飛び抜けて美しいだけに、本物の人形のように見えた。両親も舅姑も、茫然自失の姉を腫れ物に触るように扱いかねていた。
「姉さん、何か食べて、少し眠らないと」
振り払われるかもしれないと危ぶみながら、そっと腕に触れると、斧を入れられた樹のようにぐらりと姉の体がかしぎ、こちらにもたれかかってきた。わたしの頬の歪んだ傷跡に、白くきめ細やかな姉の頬が吸い付くように重なった。黒い睫毛にふちどられた煙水晶のような目がじわじわと濡れ、ぽた、と雫がわたしの肩に落ちた。
ぽた……、と雫が落ちた。
その幽かな水音で、目覚めた。夜が更けるにつれていよいよ本降りになったらしく、外では滝のような雨が降り続いている。その轟音に掻き消されることなく、ぽたん……、ぽたん……、と途切れ途切れに雫の落ちる音がどこかから聞こえる。病室の引き戸の向こう、廊下の遙か彼方から。
わたしは狭苦しい簡易ベッドから身を起こした。夕方に薬を飲ませたので、姉は昏々と眠っている。部屋の隅に押し込んでいた鞄を引っ張り出し、蝋燭と手燭を取り出した。蝋燭は、麓の寺院で買い求めたものだ。赤色の顔料で、一本一本に丁寧な絵付けがしてある。その筆先は細長くくねり、先端が放射した紋様は、茎のある花のようにも思われた。
燐寸を擦る。雨でしけっているのか、なかなか火花が立たない。二度、三度と発火材の上に擦過の跡を残して、ようやく火が付いた。
病室を出る前、ふと手燭を掲げて姉の寝顔を照らしてみた。仰臥した姉は、苦しげに眉間に皺を寄せ、喘ぐように浅く唇を開けていた。暗闇に浮かび上がる姉は、羽化したての薄羽蜻蛉のようにもろく、触れれば折れそうなほど弱々しかった。あれほど自信に満ち、周囲を従わせ、意気揚々と振る舞っていた姉が――いつまでも見入ってしまいそうなのを、視線を振りほどくようにして廊下へ出た。
患者たちの寝静まった消灯後の院内は、白い壁に取り囲まれているのも相まって、とりつくしまもない冷たい顔をしている。闇に塗り潰された廊下の果てで、ぽたん……、ぽたん……、と間延びした雨漏りのような音が異様に高く響いてくる。耳をそばだて、手燭を捧げ持ちながら慎重に歩き出す。雨のせいで空気はぬらぬらと肌にまといつき、泥道を踏み分けるように足取りは重い。
だが、不思議と恐ろしくはなかった。子どもの頃、姉に厭われて半ば閉じ込められて育った土蔵の、黴臭い闇の方が、よほど寒々しくおどろおどろしかった。けれど、あの無明の暗黒にも、子どもは慣れた。暗闇の奥深くに息づいていた見えざる不定形のものどもにも。無垢な者なら、害され壊されることを恐れもしよう。だが、わたしは最初から悪意によって壊されていたから、これ以上損なわれるものがなかった。傷跡は疎外される呪いの刻印であったが、わたしの正気を守る生身の護符でもあった。
生まれながらに常に誰かに愛され、汚穢から遠ざけられてきた姉は、無防備だったのだろう。だから、粉々に壊されてしまったのだ――あれに、触れられて。
近付くにつれ、ぽた、ぽた、と水滴の垂れる音の間隔は徐々に狭まっていく。やがて、ぴしゃん、ぴしゃん、と何かが激しく水溜まりを踏み荒らしているような音にすり替わった。びちゃり、びちゃり、と水をはね散らかしながら、こちらに――姉の病室に近寄ってこようとしている。
見覚えのある病室の戸が並ぶ、過ごし慣れた療養所の廊下であるはずなのに、ほかの患者がいぶかしげに顔を出すことも、巡回する看護婦と鉢合わせすることもない。どこにも辿り着かない。ただじっとりと重苦しい闇と雨音とに四方を閉ざされている。手燭が辛うじて足下だけ照らすが、ほとんど何も見えない。
ぐちゃり、ぐちゃり、とまるで腹から引きずり出されてぶちまけられた腸の上をのたうち回るような、不快な足音が前方から耳に這い上ってくる。魚貝の腐ったような悪臭が膨れ上がり、院内に漂う消毒液の匂いを厚ぼったく塗り消していった。わたしは片手で鼻を覆った。腐敗した血と混ざりあった海水の臭い。雨に乗じて、この世の外から流れ込んでくるものの放つ臭いだ。
「お引き取りください」
蝋燭を突きつけながら、暗闇に向かって言い放つ。
「何度も申し上げておりますが、姉はもうあなたにお目にかかりません」
火が怖いのか、あるいは蝋燭にほどこされた魔除けが効いているのか、今のところ、音はそれ以上は近付いてこない。にちゃりにちゃりと、その場にこごまって恨みがましく鳴き続けるだけだ。わたしは立ちはだかり、辛抱強く待ち続ける。雨がやみ、夜が明け、それが去っていくのを。
姉さん。わたしは知っている。手を滑らせた、粗忽な子守などいなかったことを。
わたしが生まれ、両親は初めてあなたから気をそらした。幼いあなたには許しがたいことだったのだろうね。生まれてこのかた、よってたかって可愛がられ、甘やかされ、驕慢に育ったあなたには。
あなたは大人たちが離れた隙を狙って、ゆりかごに近付いた。無抵抗なわたしを見下ろすあなたの心に、わずかでも迷いは起こらなかったのだろうか。良心の呵責はなかったのだろうか。それとも、そんなことなど思いも寄らぬほど、あなたは幼かったのか。幼稚な嫉妬、未成熟な憎悪には、却って歯止めが利かないものだ。
身動きのとれない芋虫でも観察するように、あなたはあなたから両親の歓心を奪った罪深い赤ん坊をしばし眺める。あなたは考える――罪には罰を与えねば。あどけない手には、母の裁縫箱からくすねてきた鋏が鈍くぎらついている。
姉さん。美しい姉さん。無力な赤子のようになっていく姉さん。
あなたをあなたの望み通り、あの変わり果てた化け物に与えはすまい。取り殺されることがあなたの至福なら、決してそうはさせない。
卵の殻のようにもろく壊れていくあなたならば、わたしは何もかも赦すことができる。永劫、愛することができる――雨が降るたび、浄めた火を灯して、迎えを追い払って。喉を嗄らして泣き叫ぶあなたを優しくあやして、悶え苦しむあなたを腕に抱いて、ゆらゆらとゆらして、わたしはあなたを守りましょう。わたしたち、ずっと一緒にいられるでしょう。壊れゆくあなたは、とても可愛い。
わたしは満ち足りている。