第三部:ブシ
朝を迎え、追手の一つも無い状態で無事に宿へと帰還を済ませた。
帰還直後の疲労は並ではなく、正直に言えば今直ぐにでも寝たい程だ。身体を引き摺るまでは至っていないものの、流れる汗が気持ち悪い。
寒くなっていく季節が近付いている。風邪を引いてしまいかねないが、書類の確認は必要だ。
隠されていたので偽装だとは思いたくないものの、万が一がある。これが巧妙に隠された代物であれば流石に彼等に対する評価を変えせざるを得ない。
木箱を開け、内部にある数枚の書類を確認する。一枚一枚記載されている情報を頭に叩き込み、咀嚼して噂との齟齬が無いかと確かめ続けた。
体感的な時間はそれほど経っていないと思っていたが、やはり文章の読み込みには少しばかりの時間が掛かる。
平民の中には文字の読み書きが怪しい人間も多く存在し、この文章も多少は読み書きの心得がある人間には読めないように難しい言い回しが多い。
何処か詩的なものであったり、専門用語も使われ、中々に混沌とした紙の束だ。
それでも形としては確りと書類の体裁を整えられ、不正の情報も何も隠さずに記載されていた。中身は負の遺産とも言うべき莫大な資金。保管場所には彼等とは無縁の筈の別の貴族の名前が書かれている。
国営の施設とも言うべき場所に関与しているのだ。他の貴族が裏で手を結んでいても不思議ではない。
その他にも奴隷の売買に関する書類も幾つか散見され、そのどれもが正規に使われている契約書類ではなかった。
俺は実際に見た覚えは無いが、本に書かれていた通りの闇契約書類だ。
あの場に居た奴隷達はやはり闇市で買われた人間で、罪状らしい罪状は存在してはいなかった。
購入金額は金貨二百枚。質に左右されるとはいえ、既存の奴隷よりも遥かに割安な金額に眩暈すら覚えるようだ。
この格安さも闇市で奴隷が買われる理由であり、少しでも出費を抑えたいあの貴族達であれば容易に手を出す姿が想像出来る。
この全てを王に渡せば、彼等の未来は破滅だ。一切の財産を失い、牧場の信用失墜の責任として一族郎党に至るまで処刑されるだろう。後任の貴族を選ぶのは苦労するだろうが、その点については此方の関与すべきことではない。
「サインもある。 よし、証拠としては十分過ぎるな」
正直に言えば、これだけの証拠品を手に出来るとは思っていなかった。
掴めたとしても奴隷売買についてくらいなもので、税金回りの流れまでは流石に無理だろうと思っていたのだ。
それを掴めたのは運が良い。ならば、その運が尽きない内にこの街から姿を眩ませるべきだ。
諸々の準備を済ませ、宿屋から外に出る。周囲は相変わらず賑やかなままで、不気味な騒々しさだけを残していた。
周囲を歩く人間達の間を縫うように足を進める。冒険者達がよく集まるギルドを遠回りしつつ、目下最大の脅威である胡散臭い男から逃走を始めていた。
隠れ潜むように動くのは得意だ。何せ元の家から抜け出す時にも隠れていたのだから、例え技術が無くとも感覚は持っている。
無数の視線、冒険者独特の装い、戦う者特有の気配。街中に溢れる中からこれらだけを選別するのは難しいが、やらねばもっと前から俺は何も出来ていなかった。
「一、二、三。 近いのはこれくらいか」
あの胡散臭い男はこの街の惨状を確りと理解していた。
理解した上で、何もしようとしなかった。忠告をするだけして、自分はただ周りを眺めるだけ。まるで傍観者のように振舞う姿に、何も感じないなど有り得なかった。
十中八九街の運営に関わる貴族と繋がっている。それがどのような形であれ、僅かでも繋がって利益を得ているようであれば敵だ。
あちらは俺の存在を見つけ次第捕縛しようとするだろうし、俺の背後に居るハヌマーン達を殺しに来る。
暗殺であれ、毒殺であれ、如何なる手段でもってもハヌマーンの存在を特定して殺しに来るのは明白だ。だからこそ、それが露見する前に事を済ませる。
これが済めば王族達も彼を讃えるだろう。行動を起こし、その許可を下したのは彼だ。ハヌマーンが許可をせねば俺が動けなかった以上は、間違いなく英断だったと認められる。
その意志が更に彼を前へと押し出していき、本格的な生存闘争を始めるのだ。
汚い路地裏を抜け、作り笑いを浮かべる肉屋の横を抜け、時には冒険者達から隠れるように正門に到達する。
門番達にギルドカードを見せ、そのまま馬と共に外に出てから直ぐに跨った。少しでも距離を稼ぐ為にも馬を酷使させてしまうが、そこはもう致し方無いとしか言えない。
徐々に加速していく風景を見つつ、まだまだ油断をせずに警戒をし続ける。まだ街を出たばかりで、何処かから弓がやってこないとも限らない。
金で雇った盗賊や冒険者がやってくる可能性も含め、王宮に戻るまでは一切気は抜けないのだ。
そのまま暫く走り続け、近道の森を使わずに敢えて遠回りの道で王国へ向かう。実際に何も起きないのであればそれで良いが、森の中で襲撃されれば苦戦は必至だ。
数に任せて攻められれば傷も多くなるし、その状態で長い道程を進めると断言は出来ない。
安全に安全を重ね、その上で進む。――だが、それは所詮誰でも考える基本事項に過ぎない。
「ちょっと待ってくださいよ」
「……ッ」
遠く遠く、耳が捉えられるかどうかの距離で男の声が聞こえた。
同時に背筋が寒くなるような感覚を覚え、即座に馬から飛び降りる。着地して馬の方に顔を向ければ、丁度俺が居た辺りを複数の矢が通り抜けていった。
矢の方向は街からだ。であればと身体を振り返らせ、遠くからゆっくりと歩いて来る人間を視界に収める。
その姿は印象的だった。黒と白のガウンめいた姿で、腰には細長い剣が付いている。
瞳が見えない程の糸目を持ち、面長の顔は今は笑みに彩られているのが見えた。銀の髪は風に靡き、歩む姿はあまりにも一般人ようだ。
手には弓。何の装飾もされていない木製の安い弓は簡単に壊れてしまいそうで、恐らくは彼も足止め程度にしか考えていないのだろう。
構えを取り、相手が近付くのを待つ。何をするにせよ、いきなり剣を抜いては何も情報を手に出来ない。相手の真意を聞いた上で、俺がすべきことを決める。
「おや、その剣を抜かないのですか」
「いきなり矢を撃つとはどういう了見ですか」
「質問に質問をぶつけないでいただきたいのですが……まぁ、今は良いでしょう」
弓を捨て、男は腰に付いた剣の柄を握る。
動作に淀みは無く、放つ圧は恐ろしいまでに低い。強者特有の潰されるような感覚は存在せず、だからこそ気を抜く真似は断固として認められない。
「昨日……いえ、もう今日でしたか。 実はとある施設からある物が盗まれましてね」
「それは……ご愁傷様ですとしか言えませんね」
「まぁ、私も聞いた当初は呆れたもんです。 隠すにしてももっと良い場所があったでしょうに、素人が素人なりの方法で裏を掻こうとした結果です。 まったく嘆かわしい。 次に組む相手が居れば、その時はもっとまともな相手と組みたいものですね」
「…………」
この男は解っているのだろう。俺が潜入し、俺が盗んだのだと。
その上で貴族達の手法を嘆き、実際に動き出した。己が動き、己で解決すると。
事前に介入を拒否したのだろう。ならば、この男を殺せばこれ以上追われることは無くなるに違いない。仮に殺した後に追われるとしても、その頃には王宮に到達しているだろう。
全てはこの一戦で終わる。その思いで剣を引き抜き、相手もそれに合わせて剣を抜く。
やはり俺の予想通り、彼の剣は異常な程に細い。一撃でも刀身に衝撃が走れば折れてしまいかねない程、彼の武器は特殊だった。
「では、先ずは一つ。 手合わせをお願いしますよ」
「来い――ッ!」