褒美の誘惑
平和な街の中で突如として轟音が鳴り響く。
発生源は壁の一角。破壊されてはいないものの、罅の走った壁が触れただけでも崩れ落ちるだろう。
その音に気付いた王子――シャルル・エーレンブルクは穏やかな眼差しを鋭利なものに変え、傍に居る騎士達と共に壁へと視線を移した。
大きな罅が無数に走った壁には僅かに土煙が立ち上り、その下には蹲っている男が居る。
脇腹を抑え苦悶の声を漏らす男の身形は決して良いとは言えず、しかしそれ以外に関しては極普通の男性のようにも見受けられた。
男の傍には鞘に収まったままの剣が一つ。それが脇腹に直撃したのだと予測を立てることは容易であり、だからこそ王子達は剣を投げた者を探した。
そして、シャルルは見た。
男の元へと一直線に向かう外套で隠した少年の姿を。一切の淀みも無く男の足元へと向かい、そのまま自身の剣を拾いあげる。
一部の逡巡も含まれず、酷く自然体なままの行動は背丈から年齢を推測する限りでは異常そのもの。
早速厄介事がやってきたのかとシャルルは内心で溜息を零しつつ、視線だけで騎士に警戒を伝えた。
その視線を背に受けた騎士は無言で頷く。甚だ失礼極まりない態度であるが、シャルルは一切気にせず少年へと歩を進めた。
腰の留め金に剣を付けた少年の動作は酷く手慣れたものだ。仮に少年のような背丈で成人年齢になっているのだとしたら、それは最早詐欺に近いだろう。
騎士の一人が前を進み、シャルルの両脇を別の騎士達が固める。
「何をしている。 王族の前で騒ぎを起こすなど、気は確かか」
騎士であるザインの言葉に、初めて少年はシャルル達に意識を向けた。
しかし、そこに驚きの感情は見受けられない。此方を認識した上でその真似をしたというのなら、騎士としては断じて認められない行為だ。
ただの喧嘩だと考えるには実力差が有り過ぎる。ザインであれば別方向から投げられた攻撃を避けるのは難しくないが、一般人であれば難しいだろう。
そして、武器を携行している者は殆どの場合冒険者だ。中には貴族お抱えの傭兵も居るが、シャルルが資料で確認した限りにおいて傭兵の気配は無い。
「――申し訳ございません。 何分緊急だったので、ご迷惑と解っていた上で行動しました」
少年はゆっくりとした動作で跪く。淀み無く、流れるような姿勢移動は実に自然だ。
以前にも貴族を相手に似たような真似をしたのだろうと推測出来る程には違和感が少なく、シャルルは目の前の相手に対して少々の興味を引かれた。
だが、今は少年の語っていた件についてだ。声によって少年であるのは即座に判明し、そんな人物が緊急だと王族の前で蛮行を働いた。
これがシャルルの知る貴族であれば斬首も可能性として浮上しただろう。
五月蠅い者達だと部下に命じて切り捨て、しかし相手はそれを理解して剣を投げた。
「緊急? 何かこの街で起きているのか」
少年の言葉にザインが疑問混じりの声を放つ。
この街は首都・ザンクティンゼルからは遥かに田舎だ。シャルル達も此処に到着するまでに数ヶ月を掛け、身体には確かな疲労を感じている。
田舎の情報は余程の事でない限り、首都にまでは届かない。情報伝達の手段が手紙や口伝えしかない以上、異常が発生していれば真っ先に対処しなければならないのはその地方を収める貴族だ。
一応別の手段もあるが、それを使う事はシャルルには出来ない。そもそもそれを使う為の道具も無く、例えあったとしても彼は使わないだろう。
タイミングが悪い、とはシャルルは思わない。
自身の国で異常が起きた。ならば、それを解決するのも王族の役目。未だ実権を握っている訳ではないものの、王子という役職が持つ力は絶大だ。
「いえ、今解決しました」
「何?」
「そこの男。 どのような理由かは解りませんが、シャルル王子を殺そうと路地裏に潜んでいました。 その証拠に――此方をご覧ください」
少年は蹲る男に近寄り、剣が当たった脇腹を力を込めて蹴り上げた。
男は追加の激痛に叫び声を放ち、抵抗もせずに仰向けに身体が転がる。その際に折り畳まれたナイフがポケットから零れ落ち、シャルル達の前に姿を現した。
少年とは初対面であるが、堂に入った姿は仰向けに倒れる男よりも信憑性がある。加え、相手の居た位置は王子達が通る可能性のあった道だ。
少女がお菓子をあげようとする好機を狙い、死ぬのを厭わずに殺しに来ればどうなったかは解らない。
だが、騎士達は疑問に思う事がある。相手は明らかに武芸の心が無いにも関わらず、殺気を感じ取る事が出来ていなかった。
今の仕草も巧妙に弱者の姿を装っていたのであれば納得も出来たのだが、まったく反撃の気配が無い。
紛れも無く、彼は弱いのだ。
「成程、怪しい男だ。 しかし、どうして我々は殺気を読めなかった? 見る限りにおいて特殊な技能など無いように見受けられるが」
「単純に殺気の範囲を理解していたんだと思います。 実力は無くとも、急造の暗殺者として仕立て上げるなら自身の放てる殺気の範囲を理解している程度で良い」
「つまりは、コイツは誰かに脅されていたと?」
「順当に考えるのならばそうでしょう。 私は何故シャルル王子が暗殺されかけたのかを知らないので、理由については解りかねます」
シャルル王子達の視察は誰にも通達されていない。
故に、暗殺しようとしても待ち構えておくのは不可能だ。有能な暗殺者が赴いた先がまったくの見当外れであっても構わないように、敵は敢えて現場の人間を利用した。
本格的な鍛錬はするだけの時間が無い。教えるのは、最低限相手に気取られない技術。
そこまで行き着き、直後騎士の一人は唖然としていた少女の腕を掴む。
男が動き出したのは少女がお菓子をあげ始めた直後。暗褐色の半袖の服に白いスカートを穿いた見るからに平民も同然の少女も暗殺者として協力していれば、この状況を必然として構築出来る。
怪しまれるのは当然だ。もしも加担していれば、少女と言えども死罪は免れない。
「聞こう。 君はこの男の事を知っているか?」
「……し、しらないよ?」
子供ながらの純粋な眼差しが捕まえた騎士に向けられる。
その目に罪悪感を抱いてしまうが、それもまた教育の賜物であるならば話が違う。若干の威圧感を込めて騎士は睨み、少女はその目に涙を溜め始める。
状況的に見れば怪しい。しかし、ナイフを持った男とは違って彼女には明確な証拠が無い。
頼れるのは騎士達の目だけ。それでさえ、明確な証拠とは程遠い。
どうしたものかとシャルルは考え、少年へと視線を移す。今は彼が暗殺者の傍に居る事で必要以上に警戒しなくて良いのだが、このままでは当然駄目だ。
既に騒ぎは起きている。もう間もなく警備の人間が姿を現し、男を連れて行く筈だ。そうなる前に結論を出しておきたい。
「貴方はこの少女の事を知っていますか?」
「…………」
少年はゆっくりと男に問い掛ける。
しかし、男は何も言うつもりがないのだろう。さっさと殺せと言わんばかりに無言を貫き、少年は溜息を零した。――――――かと思えば、彼は足を上げてそのまま男の足の指を踏み潰す。
骨が砕ける音と、男の絶叫が大通りに響き渡り、現場を見ていた市民はその声に数歩下がった。
シャルルも突然の少年の行動に目を丸くさせるが、少年はそんなことなどお構いなしに再度同じ言葉を問い掛ける。
貴方はこの少女の事を知っていますか。
その言葉は、しかし激痛に悶えている男には届かない。仕方ないと少年は再度足を上げ、反対側の足の指を踏み潰した。
激痛に次ぐ激痛。脇腹の痛みなどまるで比較にならない痛みに、声を枯らす程に男は吠えた。
腕を必死に動かし、その身体はシャルルの元へと向かっていく。
涙を流し、涎を垂れ流し、助けてくれと懇願するその眼差しは、少年が腕を優しく踏む事で一気に恐怖へと変わった。
「教えてくれれば良いんですよ。 貴方はきっと脅されていて、今回こんな行動を取ってしまった。 そうでしょう?」
優しい声だった。天使の声の如く、純粋さすら感じられる言葉に男の脳が揺さぶられる。
「……そ、そうだ」
「そうでしょう。 なら、貴方が厳罰に処される事は無い。 シャルル王子を狙ったのは悪ではありますが、その行動は自分にとって大切だと思った存在を守る行為だ。 であれば、素直に話してしまえば刑を軽くすることも可能です――そうでしたよね? シャルル王子」
「あ、ああ。 その通りだ」
少年のやっている事は飴と鞭だ。
最初に激痛を与えて、甘い言葉で真実を引き摺り出そうとしている。そんな手段は大人でさえ、満足に出来るものではない。
この少年は見かけと中身があまりにも乖離している。そして、その乖離を恐らくだが彼は自覚している。
そうでなければ更に彼は痛めつけようとしただろう。飴など使わず、ひたすらに暴力によって言葉を出そうとしていた筈だ。
「なら、言える事は全部言っちゃいましょう。 先ずはあの子が貴方と関りがあるかです」
「……俺はこの子の事を何も知らない。 ただ丁度良いと合わせただけだ」
「成程……。 だ、そうです」
こうして、少年の発言によって少女は無事に解放された。
ただし、この街に居る限りでは二度とシャルル王子に近付いてはならないと騎士が少女に告げ、半ば泣きながら少女はそれに頷いた。
暫くした後に警備兵が走りながら出現し、男を連れて行く。
最後に見えた男の顔は、酷く安堵に包まれたものだった。
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