第三部:女の誘い
「王宮に向かうとして、私は一緒に行かないよ?」
自室として使っている宿屋の中でナナエは俺に向かって最初にその言葉を告げた。
あの事件から既に十日も過ぎている。その間に王宮より正式な招待状がナノの居る学舎に送られ、予定された日時に合わせて準備を進めていた。
共に行くのはハヌマーンを筆頭に、ナノやアンヌに俺の計四名。ナナエも事件には参加していたものの、彼女はハヌマーンに従っている訳ではない。俺との個人的な繋がりによって第四勢力に在籍しているに過ぎず、だからこそその言葉を言われても何も言えはしなかった。
ここでしかしと言う事は出来る。だが、俺個人が文句を言ったとしても招待状の数が増えはしない。
王宮に平民階級の人間が入れるのは招待状を持った者だけ。門番に厳しく招待状を確認され、荷物検査を経て王族や高位貴族と謁見する事が出来る。
準備といっても、すべき事は基本的に難しくはない。
服装を整え、最低限の礼儀を示すだけだ。相手もそこまでの基準を求めてはいないので、多少無礼な振舞いをしたとしても見逃してもらえるだろう。
幸いと言うべきか、今回参加する人員は全て貴族と関りの深い者達ばかり。王族に、その護衛に、元貴族二名という有様だ。
内一名は貴族であると告げているので、俺だけが客観的に平民と認識されている事になる。
故に、俺に礼儀や服装の注意が向くのは必然だ。一度でも学ぶ機会が無いのが平民の冒険者なので、ナノなりに俺を心配していたのだと理解はしている。
「ええ、それは解っています。 私もあんな堅苦しい礼儀を覚えろなんてナナエには言えませんし、招待状も有りませんしね」
「最近自室に籠りっきりなのはそういうこと。 ま、お疲れ」
「労いが軽い……」
軽い労いの言葉に内心で雫が一滴。
しかし、所詮はそんなものだ。彼女から見れば礼儀なんて何の役にも立たないし、学ぶ人間を阿呆のようにも感じている。
それで金が貰えるのであれば彼女も死に物狂いで学ぶだろう。戦うよりも余程平和的な資金集めだ。
選択肢として最上位に来ていても何も不思議ではない。――とはいえ、では戦う事を完全に放棄したのかと尋ねられれば答えは否だろう。
何の得にもならない。正しく雑談を行って空気を軽くしているものの、彼女が此処に尋ねた理由は一切不明だ。
普段であれば俺の部屋に寄る事は無く、如何に重要な話であっても酒場の端で会話する。
王宮関係で何かあるのだろうとまでは推測出来るが、あそこは俺も本での知識くらいしかない。
「はぁ、まぁいいです。 ところで一体どうして此処に? 普段なら絶対に寄らない筈ですが」
「うん? ……んー、なんか寂しいなぁって」
椅子に座っていた身体を立ち上げ、俺が座っているベッドの隣に座り込む。
隣同士で並ぶと解るが、昔に比べると互いの背の差は縮まっている。もう数年もすれば俺が追い抜き、ナナエやバウアーと合わせた身長の順位も変化するだろう。
この街で暮らすようになって貴族らしくない生活にも慣れた。もう自分を平民だと言っても過言ではなく、それに対して誇りすら抱くようになっている。
自分にはこの生活の方が丁度良い。あの家に戻るよりも、貴族を目指すよりも、このまま生活していた方がきっと暮らし易いだろう。
「バウアーも貴族連中の仕事を請け負うようになってからあんまり姿を見せないしね。 私は今回あの戦いに参加したとはいえ、それでも実際にハヌマーン様やらナノさんやらには会ってないから今後も貴族と話す機会は無いと思う。 ……だからかな、どんどん貴族社会に入って行く二人に何処か寂しさを感じちゃうのよ」
足を畳んで抱き締める彼女には確かに寂しさが漂っている。
五年前と比較すれば、三人で一緒に活動する時間は間違いなく減った。最初はバウアーが抜けていき、次は俺が抜けていく。
このまま三人一緒で冒険者として生活していたかった。
そんな言葉が彼女の身体から滲み出ているようで、ナナエもナナエなりにあの三人での日々を大切に思っているのだと再認識することが出来た。
「出来ることなら、貴族とは関わらない方が良いですよ。 彼等が如何様な性格をしているのかは解っておいででしょうし、時々会うバウアーの愚痴も大分酷くなっています。 貴方はなるべく冒険者として仕事を続けていた方が良い」
「まぁねぇ。 私の知っている貴族も大分酷い奴等だったからさ。 基本的にクズって姿勢は変わらないし、そんな奴等と絶対に話したいとは思わないよ。 だから此処に居るのは、単に寂しいから構ってくれよってこと」
「構うって……此処じゃ話すくらいしか出来ないでしょうに」
「おや、二人きりの空間で話すだけかい?」
挑発的な顔が俺に向けられる。
何処か艶やかな雰囲気を纏った笑みに、しかし俺の意識が左右されることはない。
此方を揶揄う時の何時もの手段だ。今更揺らぐ程でも無く、五年の間に彼女の恰好にも慣れたので然程心臓が五月蠅くなる気配も無かった。
揺らがず、騒がず。これが他の冒険者であればひょっとしてと僅かながらの希望を思い描くものだが、こと貞操観念において彼女の場合は酷く高い。
肌同士の接触であればまったく気にしないが、実際に誘われると笑顔で罵倒を吐く。
彼女との関わり合いが浅い人間であればその恰好から勘違いを起こすのかもしれないが、しかし遊び感覚で一夜を過ごそうとするのは俺でも納得出来ることではない。
「そういう事をするから勘違いする人間が出てくるんですよ。 あまりしないでくださいね」
「何を言ってるんだ。 ここまで露骨にやるのは君とバウアーくらいなもんさ。 それに――存外私も本気なのかもしれないよ」
最後に瞬きをして締め括る彼女の言葉に、やはり胸から湧き出て来るのは呆れしかない。
そう言って男を煽って、実際に抱き締めようとすれば彼女は何の躊躇もせずに股間を膝蹴りするだろう。
強者だからこそ、簡単に抱かれてはやらない。その姿勢は正しいし、男性側はその意思を尊重する必要がある。
何事も相互理解だ。例え長年の友であろうとも一線は存在するのだから、他者の想いを尊重せねば日々の生活を続けることなど不可能に違いない。
揶揄って、注意して。それが俺とナナエの普段の関係で、更にバウアーが笑って俺に情けないと発破をかける。
三人の生活は、恐らくはこれまでの人生の中で最も彩りに溢れたものだ。あの家での生活では絶対に味合う事が無かっただろう日々に、不満なんてある筈も無い。
それが少なくなる。或いは、完全に無くなってしまう。――成程確かに、寂しさを覚えない訳でもない。
「そういう顔で本気と言われても信じられませんよ。 それより、これから色々と準備をしなければならないんです。 良ければ、一緒に準備をしに買い物に行きませんか?」
「それはデートの誘いかい?」
勿論行くさ!
そう告げる彼女の表情は晴れやかだった。寂しさも妖艶さも無い顔は、何時もの彼女と同じである。
準備をするだけに時間を必要以上に掛ける訳にはいかない。だが、彼女の表情を見る限り買い物をするだけでもかなりの時間を食うだろう。
この分であれば一日中彼女に付き合わねばならないと思い、彼女に伝われと溜息を吐き出した。
それを全てナナエは無視し、半ば引き摺るような形で部屋から出て行く。
周りからの生暖かい目で見られながらの買い物は、俺の中の羞恥心を騒がせるのに十分な威力を持っていた。
――こんな日々は暫く過ごせないかもしれない。
ふと湧いた思考を、今だけは忘れ去った。