三兄妹の契約
「ハァ!」
強引な横凪ぎの一閃にノインが下がる。
強制的に動きを阻害された事実に彼女の目は見開かれた。
流麗な動き、舞踏の如き足運び。剣の舞は確実にザラを飲み込んでいた筈なのに、彼はそれを無理矢理断ち切った。
明確な変化。その事実に傍観を決め込んでいた他二名も息を呑む。
腰を低く落とし、剣を横に構えたザラの姿はこれまで見たモノとは一変している。これまでのものが何であったのかと思わされる程に、隠された外套の奥にある視線は研ぎ澄まされていた。
忘れてはならない。彼がこうなった原因は、兄妹達の圧倒的な才だ。
その結果により彼の心には疵が生まれ、持ちたくもない劣等感や嫉妬を発生させている。
その心を表出させれば、彼は間違いなく兄妹達を揺さぶれるだろう。その身体を鈍らせ、罰を受けねばならぬとノインはそのまま立ち尽くすのは自明の理だ。
故に、その心を表出させはしない。
満たすのは内のみ。抱えたものを否定せず、極限にまで研ぎ澄ませてこそ感情は力になる。
使えるモノは全て使え。さもなくば覆せない。
小さな小さな感情の爆発は、これまで蓋をしていたからこそ途切れる気配を見せなかった。
それは傍目からはどう見えることだろう。
変化?変質?成長?――――否、進化である。
誇り高き獅子の心を忘れず、その上で闇を抱え込む。情けない感情を向けるべきは只一人。
今はまだ、自分はあの家に帰りたくない。その一心で、ノインを打倒する。
理由は定まった。思考も定まった。ならば何故、負けると考えるのだろうか。
「来い。 今度は呑まれん」
「――――」
その目は澄んでいた。胸の内は決して明るいものではないが、誰よりも真っ直ぐに彼女を見ていたのだ。
ノインは一瞬、幼い頃を思い返す。恨み辛みがまだ無かった頃の、純粋に夢を語り合った夜を。
ネルとノインの仲がまだ然程良くなかった時にもザラは真っ直ぐ兄妹と向き合っていた。熱く、時には柔らかく説得されたのも二人は忘れていない。
ザラは左手で外套を取る。久方振りのように感じた顔は、やはり覚えている通りのまま。
いや、違うとノインは断ずる。
幼さは削ぎ落されて、その顔は男として完成され始めている。このまま成長を続ければ、やがては自分達に並ぶと確信を抱かせた。
それが何よりも嬉しいと、彼女の心は喜びに満たされていく。
帰還の意思は無い。であれば、激突は必至。既に解り切っている事実を再度胸の内で呟き、退かぬと三文字を刻む。
「負けません」
「此方も一緒だ」
涙など一滴も流すものか。
目の前の男を前に、そのような真似は侮辱に等しい。
互いに言葉を交わし合い、直後として前に踏み出す。間合いは共に同じであり、どちらかが一方的に攻め立てる様子は絶対に有り得ない。
ノインの剣が狙うは四肢。殺す気が微塵も存在しない以上、狙う箇所は必然的に限定される。
そして、ザラもその点においては一緒だ。互いに致命傷を狙わず、その上で動けない程度の傷を負わせる。
どちらが有利かと言われれば、それはノインだ。
目標は最初から定められている。ならばその通りの道筋を立て、現在を観測しながら未来の剣を予測すれば自然と相手はその通りに踊ってくれるのだ。
前後左右。時には上からの上段斬りも合わせ、彼女の攻めは緩める事を良しとしない。
技巧者の振るう剣はさながら檻だ。何処に行っても剣という檻から離れられず、破壊しようと得物をぶつけても風を斬るように受け流される。
突破の材料はあるのか――勿論あるとも。
ザラの自問自答は一瞬。身体は先程よりも前へ前へと進み、猪のように後退を選ばない。
引けば彼女の思う壺。檻の周りを斬り付けても意味が無いのであれば、檻の発生源を直接攻撃する他に無い。
腕を動かせ。意識を研ぎ澄ませろ。
無い筈の切っ先に至るまで神経を通わせ、相手の動作を食い破るように剣を振るう。
そこに知性のある剣撃は無い。あるのはただの獣の剣。鮮やかさも鮮烈さも存在しない剣は変幻自在であり、故に徐々に徐々にと彼女の予測とはズレていく。
それが彼女には楽しくて仕様がない。兄はやはり才のある男だったのだと全霊で対応し、勢いは衰えるどころか益々上がっていく。
「これは……」
「まだ上がるぞ……ッ!」
美女と野獣。
二人の剣を比較し、ヴァルツはそう再評価した。
ザラの剣にヴァルツの剣の痕跡は残されてはいない。教えた全てを無視し、ザラはザラだけの極致へと一直線で突き進んでいる。
そこで初めて、ザラの剣に才が無い理由をヴァルツは理解した。
確かに、ザラには剣の才能が無い。技術の無い攻撃の数々は拙く、砕こうと思えば容易く砕けるだろう。
現時点でのノインでも彼の剣舞は砕ける筈で、なのにまったくその気配を見せない。
彼の才能は前進。
決めた道を寸分も疑わず、ただ我武者羅に走り抜けるだけの才。努力や運といった彼を構成する全ての要素が背中を押し、求める未来へと無理矢理であろうと高め続ける。
歩く事を止めない限り到達する可能性を見せ続ける才能だ。故に――時には道理を無視した超常現象も引き起こす。
「見えてるのに見えない……何で!?」
「さぁな!!」
ノインの笑みは止まらない。
疑問を口にしながらも、そんなことはどうでも良いのだと喜びを露にしているだけだ。
父親の剣の才能が引き継がれず、母親の武術の才能の引き継がれていない。まったくの白紙の世界に、ザラは自分だけの色を付け始めている。
まるで彼だけは違う世界を生きているかのようだ。
ノインの予測精度は彼を相手にすればする程に高まっていく。だが、その予測を全て超えて食い破る剣の圧は、ノインの背筋に久方振りの震えを走らせた。
胴体下部、右足、左腕――ザラが見ている箇所から攻撃を予測し、それが全て嘘であると仮定しての攻撃予想も行う。
十も二十も浮かび上がる青い軌跡線は彼女だけにしか見えず、ザラはその線をなぞるように剣を振るった。
全てが間に合わない訳ではない。五割程度は彼女でも斬り払えるし、剣舞は彼の身体を傷付ける事も出来る。致命傷にならない攻撃は彼の肌の一部を削るだけで、深手になる事は無かった。
戦いを早期に終わらせるのであれば、致命傷を狙うべきだ。
それが出来ないからこそ時間が延び、ザラの進化を加速させてしまった。
ネルの目には直ぐに、それが自分達と同じであると理解する。鍛錬でも実戦訓練でも飛躍的に強くなっていく自分達と同様に、ザラは彼にとって引けない場面で死力を尽くしてこそ力量が跳ね上がるのだ。
力、ただ力。小手先の技術など無用と際限無く進化した先にあるのは、暴力の化身だ。
そして、その一片を僅かでも見せた以上はノインに勝てる道理は無い。
ネルもヴァルツも、ザラの変質速度がノインを上回っているのは理解していた。
最初は完全に呑まれていたノインの攻撃が最初に綻びを見せ、次に一時的な崩壊を生み、更に拮抗にまで及ばせた。
「解らないッ!――何で!?」
「ッ、ラァ!」
であれば、次に見せるのは完全な崩壊。
ノインの望まぬ鍔迫り合いをザラは引き起こし、そのまま力だけで彼女を弾き飛ばす。
刀身は度重なる激突で罅を走らせ、反対にザラの剣には罅の一つも無い。質で言えばノインの方が上であるものの、細い剣は酷く脆い特徴を備えていた。
全てを受け流せなくなった以上、どちらが先に砕けるのかは解り切っている。
弾き飛ばされた身体は尻餅を付き、起き上がる前にザラは切っ先を彼女に向けた。実際に殺すつもりは無かったとはいえ、傷付けるくらいは平気でするだろう。
今更ノインが傷を多く負ったとしても気にはしないが、貴族の男は一般的に傷だらけの女は好かない。
これから先、ノインには政治的な理由で結婚をしなければならない時もある。
その時に己の剣での所為で破談にならないよう、ザラは感情を小刻みに爆発させながらも剣ばかりを攻撃していた。
どうしたって家族に対しては甘くなってしまうのがザラだ。
特に目の前の兄妹達を傷付ける事を彼は是とは出来ない。劣等感や嫉妬の原因が目の前に居るとはいえ、暴走するだけの心の弱さをザラは持っていなかった。
「――俺の勝ちだ」
息は荒い。
全力を出し切ったと、剣を地面に突き刺して杖代わりに寄りかかる。
まだネルという相手が居るものの、身体は鉛のように重い。勝てたには勝てたが、同じ力量の相手と連戦を続けるだけの余裕は皆無。
前回では勝てなかった相手に勝てたという喜びはある。そのお蔭で一気に劣等感も嫉妬も減った。
だが、今はそんな事もどうでも良い。
今直ぐに寝てしまいたいのだ。そんな気持ちを押し殺し、剣に体重を乗せながら視線はネルに向いていた。
「ああ、お前の勝ちだよザラ。 流石だな」
「世辞は止めてくださいネル兄様。 ……今回の戦い、最初から殺し合いであれば負けていたのは俺でした」
「そうだな。 お前の本気が出てくるまでは時間が掛かる。 その間に速攻を決めれば、お前の首を取るのも容易いだろうさ」
ネルの言葉は全て事実だ。
感情の蓄積には時間が掛かる。どれだけ剣撃を重ね合っても、そこに何の感情も乗っていなければザラの成長には一切繋がらない。
反面、それは現時点での話でもある。これからその地力を上げていけば、時間を稼ぐことも不可能ではない。そして、ザラには十分伸びしろが残されているのだ。
だからと、ネルは自身の内に灯り始めていた戦意を消した。今此処で連れ戻す為に全力を掲げる必要は無い。
「負けました――嗚呼、負けました」
二人の会話の中に倒れたノインの言葉が混ざる。
夜空に向かって放たれた独り言は何処か物悲しい。敗北し、一番上の兄は矛を収めた。
それが示すのは失敗の二文字。連れ戻せず、このままザラをこの街に放置する事に他ならない。
あの頃のようには戻れないのだ。それが悲しくて――けれども、こんな出来事があったからこそザラは己の道を見つけ出せたのだとも理解している。
例え悲しくとも、笑顔で送り出すべきだろう。今度は失踪という形ではなく、祝って外に送るのだ。
「……もう二度と、ザラ兄様は家には帰らないのでしょうね」
「……ああ、あの家は俺を捨てた。 ならば戻れる筈も無い」
「私達が居てもですか? 忘れろなんて言葉は聞きませんよ」
「解ってる。 だが、それでも俺を忘れてこれからは過ごしてくれ」
それでもノインの口からは恨み言めいた文句が出てしまう。
それは本意ではないのに。胸の中に湧き出る暗い感情は、どうしてもザラを責め立ててしまう。
だが、ザラはそれを否定しない。お前が俺に対して怒っているだなんて、そんな事は当たり前だと何処か清々しい気持ちで受け止めるのだ。
その態度がますますノインの暗い感情を増幅させる。
解っていない。ザラはまるで解っていない。――――そして、ノインもこの感情の意味を正確に理解していない。
「何時か、また会いに行きます。 あの家と真正面から張り合えるくらいに強くなって、それから今度こそ戻ってきてもらえるように勝負を挑みます」
「……良いよ、それでお前が満足してくれるなら」
兄妹の会話だ。
そんな当たり前の事実に、何故だからザラは涙が出る程嬉しかった。
当たり前のように交わせている。何も我慢せずに昔日のように言葉を送り合い、漂う空気は平穏そのもの。
今度会っても彼女とは戦うだろう。だが、それで良い。
仕合う兄妹が居たって良い筈だ。これもまた家族愛故に。
「おいおい、次は俺の番だろ。 お前は一回負けたんだから後回しだ」
「酷いですわネル兄様。 折角の語らいの邪魔をするつもりですの?」
「一般的に淑女の語らいが剣というのは非常識だぞ。 なぁ、ザラ」
「ええ、そうですね。 次はネル兄様としましょう」
広場に三人の小さな笑い声が響く。
その光景をヴァルツが温かく眺め、胸に一つの誓いを刻む。
ノインは語った。ナルセ家と真正面から張り合える女になると。それはつまり、あの両親に対して真向から己の意見をぶつけるようになるということ。
それがどれだけ厳しいかは言うまでもない。国内において最強の群として存在する二つの騎士団の頂点に君臨していたあの二人は、正しくその実力も並ではないのである。
まともにぶつかった所で敗北は必至。ヴァルツ本人が挑んだとしても勝てるかどうかは半分半分。
それでもやると宣言した。
無謀上等。愚者結構。――ならば、ヴァルツがやるべき事も決まって来る。
「……さぁ、御三方。 もう夜も深いですし、宿に戻りましょう。 明日には帰るのですから、遅れるようでしたら叱られますよ」
「解っています。 さ、ノイン。 掴め」
ネルの差し出した手をノインが取り、身体を起こす。
負傷そのものは軽微だ。ただし、身体を駆け巡る倦怠感の所為で上手く歩けはしない。
ネルが彼女に寄り添い、歩き始める。出来ればザラと共に宿屋に戻りたかったが、それをしては朝の時刻にもう一つの騒ぎが起こることだろう。
休憩をしたお蔭である程度マシになった身体を引き摺るようにザラも自身の宿に向かう。
「それじゃあ――またな、ザラ」
「ええ、また会いましょう」
背中同士で言葉を交わす。
別れの挨拶は有り得ない。今一度会うと決めた以上、また何処かでとそのまま帰路を進んだ。
それが果たして何時になるかは定かではない。一年後かもしれないし、十年後かもしれない。
ただ、一つ言えるとしたら何事も準備というのは時間が掛かる。歯車が狂うにも時間が必要であり、大きな変化は年単位の流れがあるものだ。
新たな波は五年後。この街で始まる。