親愛なる貴方へ
身体は本調子ではない。
だが、心は酷く逸っている。今直ぐにでも鍛えたいと叫び続け、しかし同時に現状を正しく理解しろと別の俺が囁きかけた。
強くなる切っ掛けは得ている。その為に全力を注ぐのは当然だ。やらない理由など無く、故にこそ現在兄妹二人が居る状況は苛立たしくもある。
彼等が外に出るのは把握済みだ。それが今日であるのは確実で、そんな状況で俺も外に飛び出せば鉢合わせにならないとは楽観的に考えられない。
模擬戦が終わった後は自然と解散の流れとなった。本当はバウアーから御飯の誘いがあったものの、ナナエから安静にするべきだという意見と共に宿屋に戻る事になった。
代わりに高級店の保存食を貰ったが、それを食べるのは仕事の時だけだ。
勿体ないとは思うものの、逆に食べねば保存食でも腐る。
保存食に割く経費が安くなったと考えて、俺は宿屋の扉を開いた。
時刻は既に昼を指している。気絶していた時間を含め、あの模擬戦場で滞在していたお蔭で時間の流れは酷く早かった。元より基礎鍛錬をする以外無いのだから、時間の流れが長くなるのは必然だっただろう。
それよりも昼食だ。この宿屋の昼食は決して良いとは言えないが、それでも炭ではない。
今日の食事はコーンスープにパンとサラダ。冒険者としては少ないと言わざるを得ないが、だからといって冒険者の腹を満たすだけの食事をこの宿屋が提供出来る筈も無い。
今日も器の限界まで入れ、古ぼけた机に置いて椅子に座る。
「あの……すみません」
さぁ、さっさと食べてしまおう。
未来は決して暗くないと思った俺の耳に、別の人の声が入った。この宿屋は決して会話など無いというのに、珍しいとしか言い様が無い。
はいと短く顔を上げ――固まった。
外套で顔を解り辛くしているが、綺麗に輝く白の髪は闇の中でもよく映える。
この時間はもう森に行っている筈だ。なのにどうして、この声が今此処に居るというのか。
よくよく見れば、全体を覆うような赤の外套は高品質だ。俺の持っている凡百の物と比べ、整っているような印象を覚える。
「人を探していまして……お尋ねしても構いませんか?」
「え、ええ。 構いませんよ」
答え、外套の持ち主は対面の椅子に座った。
食事を持ってくる気配は無い。昼食は他で食べたのだろうと当たりを付け、雑に食事を行う。
声は知っている。その髪から誰であるかも予想が付いている。だからといって、まだ完全に確定であるという訳では無い。
無難に受け流せ。彼女の欲しくない言葉を与えれば、それで下がってくれる。
「この近辺でザラっていう男の子を探しているんです。 お名前に聞き覚えはありますか?」
「……さぁ、知りませんね。 ご家族ですか?」
「ええ。 私の兄でして、失踪してしまったんです」
「それは……」
外套で顔を隠しているとはいえ、彼女の声は暗く重い。
そうさせてしまったのは俺だ。罪悪感が胸を刺激するものの、じゃあ帰ろうとは思わない。
帰れば殺されるだけ。折角成長の鍵を発見したのだから、態々死にに行くつもりは無い。
ただ否の言葉を吐くだけでは怪しまれるだけ。世間話のように話し、慰めて帰せれば上出来といったところだ。
「責任は私にあります。 あんなに話もしたのに、私はまったく気付かなかったんです。 両親もあの人には冷たくて、探す気配は一切有りません」
「何があったんですか? 話を聞いてみる限り、余程の理由だと察しますが」
「才能です。 私達の両親は才能を最重要視していて、それが兄には有りませんでした。 だから軽視して、冷たく暗い場所で過ごさせたんです。 でも、あの人は私の前では何時もと変わらない姿を見せていました。 何時も通り、優しい顔で一緒に紅茶を飲んでいたんです。 私に劣等感を抱いている筈なのに」
知られていたのか、とは思わない。
俺のやった行いなどあの両親が気付かない筈が無い。協力者として師匠を巻き込んだのを看破して、そこから真実が流れたと判断するべきだ。
他に話した相手も居ないしな。そう考えるのが自然だろうし、更に帰りたくない理由が出来てしまった。
兄妹が真実を知った時、俺は怒り狂うか同情するかのどちらかだと考えている。怒り狂えば殺されるだろうし、同情すれば連れ戻そうとするだろう。
それくらいの考えだったが、実際に同情されると何とも複雑だ。
以前までならば俺と二人は対等だった。その均衡が崩れ、まるで上から見下ろされている気分になってしまう。
目の前の彼女が実際にそう認識している訳ではないのは承知の上だ。
それでも、雨に濡れた子犬を見るような瞳は俺の僅かばかりの矜持を刺激してくれる。
止めてくれ、そんな言葉を吐くのは。
俺達は何時だって対等だった。それは失踪しても変わらないと思っていて、でも実際は確かに変化していたのだ。
今の彼女は違う。何処がどうであると断言は出来ずとも、直感が訴える真実を俺は素直に認めた。
対等な関係なんてたった一つの理由で崩れる。俺が切っ掛けを作り出してしまったからこそ、あの関係性は崩壊してしまった。
もう元には戻れない。これは俺が起こした事態であり、外れた歯車が新たに嵌まる事も無い。
綺麗な思い出は永遠に過去になったのだ。それを飲み込み、その上で俺は彼女を無視する。
「私は、ネル兄様は、本当に何も解っていなかった。 真にやるべきは他にあったのに、そこから逃避してただ鍛える事しかしていなかったのです」
「――成程。 御話の全容は見えました。 さぞ、お辛い思いをしたでしょう」
「いいえ、いいえ、辛いのはザラ兄様です。 私達の苦しみなんて一山幾らの些末モノ、並ぶなどとはとても思えません」
「その顔ではどちらもきっと変わらないと思いますよ。 苦しみに優劣は存在せず、悲嘆に価値があるかどうかなど誰にも解りません。 貴方の抱えている感情は、決して一山幾らのモノではない」
感情に価値を付けられる人間は居ない。
これは幼い自分が持つ拙い持論だが、共に同じ人間であるならば感情そのものの価値は同じだ。
俺の方が苦しい、私の方が苦しい。どちらも互いに優劣を競っているが、客観的に見ればどちらも一緒なのである。
だからこそ、彼女が自身の感情を塵屑だと断じるのは納得出来なかった。
俺に対する同情以上に、彼女が自分を卑下する事を認められなかったのである。
その言葉に、初めて彼女の表情は変わった。驚きを露にしたような顔は昔日に見たものであり、何だか懐かしいものを感じて外套の内側で笑みを形作る。
そうだとも、彼女に暗い顔は似合わない。常に丁寧で、冷静で、前を向いているのが彼女だ。
「……そう言ってくれますと、感謝の限りです。 あまり他の方からはそのような言葉を頂いたことが無いもので――本当に」
「――――」
花のように彼女は柔らかく笑った、気がした。
だが、そう認識した筈の俺の背中には極大の怖気が走る。今直ぐ逃げろと全身が告げ、無意識に腰に差していた剣に手を添えていた。
なんだ、何を感じた?
疑問に思うと同時、彼女は自分の手を外套へと持っていく。そのままゆっくりと己の外套を外し、漸くその顔を見せた。
俺の予想通りに彼女の顔には笑みが浮かんでいた。狂い咲きと言わんばかりの笑顔を。
瞳に愛を乗せ、頬を染め上げ、目前の何かに酔っている彼女をまともだと認識する人間は居ない。
俄かに騒ぎ始めた室内で、彼女はそんな事などお構いなしとばかりに身を乗り出して外套の上から俺の頬を撫でた。
それが酷く恐ろしいと感じたのは、決して間違いではない。
「やっぱり、私が欲しい言葉をくれるんですね。 そんな貴方だからこそ私達は一つになって仲良く暮らせたんです。 ……ねぇ」
――ザラ兄様。
告げた言葉には、恋人に向けるような甘さが籠っていた。
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