消える背中
一日の終わり。
静寂の広がる夜の世界で、何かの物音が聞こえたノインが目を開く。
誰もが寝ている時刻。今日も今日とて必死に鍛錬を積んでいた彼女は深い眠りの中に居たが、普段とは異なる現象が起きた故にその差異によって彼女は目覚めたのだ。
殊更意識を集中させていた訳では無い。普段通りに眠り、しかし鍛え上げた直感が彼女に覚醒を促したのである。
いきなり目が覚めた理由を、彼女はまったく解らない。
予定には何も入っておらず、本日も早朝と同時に動き出して家の外周を走る筈だった。
もう一度寝ようとするも、一度覚醒した意識は中々消えはしない。暫くはベッドに潜り込んだままだったが、再度聞こえた物音が剣の音であると判明した瞬間に身体を起き上がらせる。
夜も深まった時刻。この時間で誰かが剣を振るっているのならば、その理由はあまり良いものではない。
盗賊が入り込んだか、暗殺者が侵入したか。警備を担当していた者が気付き、騒ぎとなったのであれば家族全員が一度集まるべきだろう。
ノインが真っ先に向かったのはザラの部屋だ。兄の中では最も話す機会が存在し、そして頼りになる男の筆頭として彼女は考えている。
それは単純な力によるものではなく、どれだけ相互に思考を繋げられるか。
己の放った言葉を理解してもらえるかどうかは非常に重要だ。それを結婚の理由として挙げる女性も存在する。
互いに自分の事しか話さないか、互いに無言となる空間なんて誰だって居たくはないだろう。
それ故に、ノインは一番最初にザラの部屋に向かった。
屋敷の中でも端も端。ザラ自身が自主的に移動した部屋は貴族が住むには不便な程の狭い一室であり、本来であれば物置として活用する筈だった場所を改造している。
その扉は貴族らしく、重厚な印象を与えるダークオークのものだ。決して金による無理矢理な華美さを出すものではない屋敷は、彼女の好きだった場所だ。
控え目にノックをする――――しかし、返答は無い。
ドアノブを回して中を恐る恐る見てみると、そこには酷く殺風景な部屋があった。
普段使いの白いベッドに、貴族として見れば非常に小さいクローゼット。飾りは一つも無く、真実機能一点張りを貫いた部屋の有様に、ノインは即座に異常に気付いた。
「――なんで、こんなに何も無いの?」
何も無い。家具も、飾りも、剣もない。
此処にはザラ・ナルセを示す証拠が一つも存在していなかった。まるで最初からそんな人物など存在しないかの如く、彼の痕跡は抹消されている。
その事実に肌が総毛立った。胸に去来する圧倒的な恐怖が湧き上がり、それを否定するように皆が集まるだろう父親の部屋に走る。
彼女の脚力は女性貴族の中では上位だ。幼い頃から鍛え続けた身体は、彼女の意志に応えるように力を与え続けてくれている。
時間にしては僅か。そもそも屋敷の中を走り回る事を想定していない以上、屋敷の周りを走るよりは目的地への到着までは短い。
今度はノックもせずにダークオークの扉を開けた。
その先にはノイン以外の全家族が集まり、眉根を寄せて何事かを話し合っている。
否。全家族ではない。ノインは部屋の隅々まで見て、一人だけその場に居ない事を理解した。
沸々と湧き上がっていた恐怖が加速する。短い距離を走ったとは思えない程に息は荒くなり、その異常に金の髪を持つ細身の身体を持った男――兄であるネルは真っ先に駆け寄った。
「ノイン、どうした。 何があった」
「ネル兄様……。 ザラ兄様の姿が見えないんですッ。 それに部屋から剣が有りません!」
ザラの剣はこの屋敷に来てから一度も交換していない。
だから、その剣がどんな物なのかを彼女を含めて全員が知っている。そして、ザラがその剣にどれだけの愛着を込めているのかも。
それが無い。そして、ザラの姿も存在しない。
加え、この騒ぎ。揃った情報の数々に、ノインは叫びたい思いで一杯だった。それを何とか瀬戸際で抑え込めているのは、一重に屋敷の頂点に君臨する二人が落ち着いているからである。
赤銅色の幅広いソファに座っている二人の男女は、暖炉の光を静かに眺めていた。
酷く短い金の髪。体格は非常に大きく、大木のように確りと座り込んでいる様には安定の二文字がある。
「ヴァルツを呼べ。 何が起きているかは、それである程度解る」
「賛成ですわ、あなた」
紺色の簡易なドレスのようにも思えるナイトウェアを着た女性は、背中にまで伸びた白い髪を普段通りに結わずに答える。
両者の眼光は鋭い。二人共に既に四十台となっているが、その場には跪いてしまう程の重圧があった。
普段でもこの二名は厳格な姿勢を見せているものの、流石にこの瞬間の時のような重さは無い。それだけ今回の出来事を重く見ているのだろうが、ノインとネルにはその内容が一切解らなかった。
予測は出来る。しかして、真実として確信するには明らかに不足だ。
その言葉に彼等兄妹達が生まれる前からこの屋敷に仕えていた老執事が、一度頭を下げて退出する。
ソファの前には小振りな丸テーブルが一つあった。
木製特有の薄茶色のテーブルの上には白いカップが四つ置かれ、今も湯気が立ち上っている。
「お父様、今何が起こっているのか教えてください」
重苦しさすら覚える圧の中で、しかし真実を一早く知りたいノインは呼吸を落ち着かせて言葉を紡ぐ。
そのノインに対して、彼女の父親であるネグルはゆっくりと視線を動かした。
何の感情の色も無い。ノインが父親と顔を合わせる度に見る無色の瞳が、この瞬間も維持されていた。
何故、とノインは思う。この瞬間に感情を見せないなど、ましてや自身の息子が関わっているかもしれないこの瞬間に、どうして一瞬も瞳に色を見せないのか。
「異変に気付いたのは私ではなくヴァルツだ。 今は様子を見に走ってもらっている。 そろそろ戻ってくると思っていたのだが、想定より時間が掛かっているようだな」
「……何故、そうまで冷静なのです。 ザラ兄様が此処には居ません。 攫われた可能性があるかもしれません」
「確かに、その可能性はある。 しかし、そうであるなら屋敷に近付いた時点で私かマリアが気付く」
「相手がお父様以上の手練れである可能性は?」
「それもあるが、流石にそこまで考えていてはキリが無い。 大人しく情報を待つのが無難だ」
ネグルは彼女の言葉に興味が無さそうに淡々と答えていく。
その様にはやはり、一度として感情の揺らぎは無かった。まるで想定の範囲内だと告げているようで、それがどうにもノインには苦手だ。
父親を父親として見れない。一年前のあの日からもその思いがあったが、あの日からますますノインはその思いを大きくさせている。
感情的になってほしい訳では無い。だが、それでも家族に向ける情のようなものはあってほしい。
暫くの静寂が続き、部屋の外から駆けてくる音がする。
何年も鍛錬を積んでいたノインは直ぐにそれがヴァルツのものであると解り、意識を父親から師へと移す。
「遅れてしまい、申し訳ありま――」
「ザラはどうだった」
入室しながらのヴァルツの言葉に、それを遮るようにネグルが言葉を放つ。
その言葉にヴァルツは僅かに目を細めた。刹那の時間しかその表情を見せなかったが、しかしてネグルにはそれで十分。
母親であるマリアも、ノインも、ネルも、父親にどういうことかと視線を向けていた。
しかし、それを説明する気はネグルにはないのだろう。ただ整然と事実だけを列挙するように言葉を紡ぎ、ヴァルツの逃げる隙を潰していく。
「お前とザラが何かをしようとしていたのは知っていた。 私の知覚範囲は屋敷全体。 夜に何事かを話し合っていたのも、私は知っているぞ」
「それは、ただザラ様の愚痴を聞いていただけです」
「いいや、あれはそういう言葉を飲み込むタイプだ。 それに、この騒ぎが起きる前にザラの気配が屋敷から消えるのも感知している。 ――――この騒ぎも、お前が準備したものなのだろう?」
今度こそ、ヴァルツの表情が変わった。
普段と変わらぬ真剣な相貌から、一転して怒りの相貌へ。雇い主である父親を前にして怒りの形相を見せる姿は、端的に言って真実を示していた。
「何故、それだけの事を理解していながらザラ様に何も言わないのですか。 才能が無いと告げたのは私の落ち度です。 ですが、だからこそ貴方は親の愛情を与えるべきだった」
「私が何もしていないと? 飢えない生活を、成長出来る環境を、競い合える好敵手を、それだけ用意して他に何を求める」
「そうではありません。 確かに、客観的に見るならばザラ様の生活は裕福だったでしょう。 だが、心までは裕福ではなかったッ」
ついに、今まで怒りの形相を浮かべていた男の声に怒りが含まれた。
熱い溶岩のように迸る言葉にはヴァルツの持つ正義が宿り、ネグルを敵として睨みつけている。
それを柳に風とばかりに流し、ネグルは静かに相手を見据えた。ヴァルツの露出した本音を聞き、その上で自身の本音をぶつけるべきかと言葉を練る。
「だから逃がしたというのか。 才能無き男を守る為に。 そんな事をしてもただ逃げる癖が付くだけだ」
逃がした。
その四文字に、ノインの思考が一瞬だけ空白となる。
今、何と父は言ったのか。逃がした?誰を?――自身の兄をだ。
自身に向けた疑問を、けれども鍛え上げた精神が残酷に答える。それを拒絶したくとも、目の前にはその元凶と兄の親が居るばかり。
限界にまで目を見開いた。それは、一番上の兄であるネルもまた同じだ。
両者共に手を握り締め、爪が肌を切り裂いても握り締め続ける。理解の追い付いた頭は恐怖の感情を怒りへと変換させ、その矛先は両親に向いていた。
「――やはり、貴方はそう思うだけなのですね。 この行為が如何にこの家を守る為なのかを、貴方はまるで理解していない」
親に殺されるだろうと、ザラはヴァルツに話していた。
その意味をヴァルツは今正確に理解し、同時に家族を守ろうと動いたザラに万雷の賞賛を送りたくなる。
ネグルという男は息子の真意を一切理解していない。彼が逃げたのは才能が無いと告げられたからではなく、己の嫉妬心から家族を守る為に逃げたと言うのに。
真実、ネグルという男は父親として失格も失格だった。王宮騎士団としての輝かしい栄光を持ち、万人に賞賛される才能を持ち、けれども親としての才能が欠落している。
そして、それは妻であるマリアもまた同じ。腹を痛んで生んだ自身の子共に対して一切の愛情を見せないその姿勢は、母親失格だと言われても何も言えないだろう。
「ザラ様が三流で良かった。 あの方は姿を除いて一部も貴方達から何も受け取らず、優しく成長してくださった。 ――これはネル様もノイン様も一緒です」
怒りを込めていた眼差しに優しい色が差し込む。その目はネルとノインに向けられ、その視線に確かな愛情を感じる。
「ほう、ならどうしてあれは逃げた」
「決まっているでしょう。 己の嫉妬心によって家族を殺してしまうだろうという可能性を潰す為ですよ」
事の核心。
その部分に足を踏み入れたネグルの言葉に、ヴァルツは呆気ない程簡単に真実を話した。
それを聞き、ノインの瞳からは自然と涙が流れた。その時の兄の心情が彼女には解ってしまって、兄であるネルは殺意でもって両親を睨む。
昔からザラは家族の愛というものを気にしていた。どうすれば両親はもっと俺達に対して笑い掛けてくれるのだろうと世間話の中で持ち上がる事が多く、その度に自分達が両親が納得するだけの強さを持てば良いという結論に辿り着いていた。
友愛を求め、協力こそを素晴らしいと訴える。それによってネルもノインも、兄妹という存在の大事さを理解させてもらえた。
五歳の頃だ。修行の一環として山の中で大猪を倒せという指示をヴァルツからもらい、三人は協力しながら死ぬ気で大猪を打倒した。
罠を張り巡らし、有利な環境を構築し、敵の弱点を見定める。
その果てに打倒し、三人は巨木の上で夜空を見ながら雑談として自身の夢を語っていた。
『俺は将来、王宮騎士団で出世するよ。 夢はでっかく副団長だ!』
『そこは団長じゃないのか?』
『何言ってんだよ、ネル兄様が団長になるに決まってるじゃないか。 そんで、俺が副団長。 ノインは民主騎士団の団長になって、俺達で騎士団を率いる』
『権力の集中著しいですよね、それ。 私としては協力関係を構築し易いから良いんですけど』
『俺も良いと思うぞ。 だが先ずは、あの両親達が認めるだけの力量を手にしなければな』
『勿論、父上や母上にも納得してもらうさ。 そんで、立派になった俺達を見てもらうんだよ。 こんなにも二人の子供達は成長したんだってな』
理想だけを前に置いた話だった。
そこに至るまでの過程を無視した、子供が作り上げる都合の良い内容しか含まれていない。
だがそれでも、熱があった。輝きがあった。忘れもしないザラの熱い言葉に、ノインが将来の目標として民主騎士団の団長を選ぶくらいには刻まれている。
そして、それはネルも一緒だ。三人一緒に騎士団の頂点を手にして、皆で協力して生きていく。
これまでも、これからも、その目標に変化は無い。例え三流だと言われようとも、それでも必ずザラは副団長として立てると二人は根拠も無く確信していた。
そんな兄妹の中で一番夢を語っていた男が、一番にその願いとは反する行動を取っている。
自身の夢を放り捨て、ただ愛する家族の為にと醜い心を封印しているのだ。
追いかけねばならないと、ノインは胸で決めた。
追いかけて、追いかけて、例え拒絶されようとも追いかけて。五歳の頃のように純粋に語らえるあの瞬間を取り戻さなければならないと、ノインは決めた。
「ヴァルツ様。 ――ザラ兄様は何処に?」
「……残念ながら、それをお答えする事は出来ません。 あの方の行先は生涯語らぬと決めています」
――我が剣にかけて。
誓いを意味するその言葉に、師の本気を見た。どんな拷問を受けても口を開けぬと決めたその眼差しに、ヴァルツとザラの関係が師弟としてのものだけではないと理解させられる。
夜は深まっていく。最早眠れぬような状況で、ヴァルツとネグルは静かに向かい合っていた。
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