現代:全てを無くしても人は生きていく
雨が降っていた。
人通りは少なくなり、昼にも関わらずに店を閉める場所もある。物流が狭まった状態では満足のいく買い物など出来る筈も無く、そそくさと残った物で一日を過ごしていた。
それはナルセ家でも変わらない。侍従達は姿を消し、家の中は伽藍洞が如くに静まった場所の方が多い。
唯一音がするといえば暖炉の音と衣擦れの音。足の長い丸テーブルの上には騎士団員が遠征時に用いる水筒が二つ並び、質の高い柔らかなソファに男女が座っている。
ネグル・ナルセ。マリア・ナルセ。
双方共に過去において英傑として名を馳せた者達であるが、今やそれに見合うだけの格は無い。重圧は消え、表情に厳しさは無く、あるのは一株の寂しさだけ。
誰もこの家に来ることはない。王により正式に貴族としての籍を失った彼等を味方する者は居らず、逆に二人を嘲笑う者の方が多いくらいだ。
ナルセ領は王領となり、その管理は今後ハヌマーンが行うこととなる。
正確にはハヌマーンの部下として活躍しているランシーンに貴族位と共に与えられるのだが、表向きはハヌマーンのモノだ。
ザラ達が生まれた場所として彼等に関係した者達が管理をすると譲らず、二人が過ごす屋敷には今後ランシーンが住むこととなる。
生まれにより彼女は元々貴族位だったので、今一度貴族として活動することに否は無い。
育ての親とも言えぬ父親から余計な干渉をされるであろうが、そのことも加味してハヌマーンが最終決定権を握っている。これでも万が一にもランシーンの家族が勝手に何かをしようとも、その時点で王領で悪事を働いたとして捕縛される。
ナルセ領は人の少ない長閑な場所ではあるものの、食糧の生産には向いていることは既に解っていた。強さだけに拘る領地運営を切り替え、ハヌマーン達は飢える者が一人でも居ない国を作る為に農地を量産する予定だ。
「……さて、そろそろ出ようか」
「ええ、あなた」
ネグルの低く静かな声にマリアの落ち着いた声を出す。
どれだけ失ったとしても、両名に悲壮感は無かった。寧ろこれもまた良しと酷く心は穏やかで、手荷物をある程度揃えた段階で二人は家を出た。
翌日には専門の清掃業者が二人の痕跡を消すだろう。残るは綺麗に整えられた屋敷だけだ。
売る価値も無いと二人に与えられた二頭の老馬に荷物を乗せ、二人は寝静まった夜の道を進む。夜空とマリアが持っているカンテラだけの世界は暗く、鍛え上げた感覚が無ければ目的地を目指すことも出来ない。
そもそも、二人に目的地と呼べるものはない。最早捨てられたのだから、二人が今後何処へ行こうとも誰も関与しないのである。
前を行くネグルの背を見て、マリアは一瞬だけ笑った。なるべく聞こえないようにしたものの、ネグルに聞こえない筈もない。
「どうした?」
「いえ。 これであなたも漸く落ち着けるのですね」
マリアの言葉にネグルは一瞬だけ呆けた顔をした。
だが、理解に及んだ瞬間に普段とは異なる顔を浮かべる。長い時間の中で消失していた苦笑は酷く人間味に溢れ、幾分か若く見せた。
「お前には辛い思いをさせるな」
「構いませんわ。 それに私は別に政略結婚で嫁いだ訳ではありませんのよ? あなた自身に嫁ぐつもりで来たのですから、家が無くなった程度で幻滅などしませんもの」
「強いな、普通の婦女子は絶望の一つでもするものだが」
「私が普通ではないのはあなたも御存じでしょう? それに昔から庭で紅茶を飲むのは好きではありませんの」
彼女の言葉に嘘が無いことをネグルは知っている。
昔から彼女は身体を動かすことを好いていて、厳しい騎士団にも進んで参入した。普通の婦女子が騎士となるには問題であったが、その点は普通ではないマリアだ。
最速で技術を盗んで自身の力に昇華し、並み居る者達を全て打ち倒した。その実力に嫉妬した者も多くいたが、総じて彼女は興味を示さずに終わらせてしまったのである。
当時の彼女を示す言葉に一番適切なのは――冷酷無慈悲。
ノインのように隠す真似をせずに堂々と屑を屑と断じ、弱者を切り捨てて強者のみを優先した。その結果として彼女が居た部隊における負傷者は多く、殆どの騎士からは死神とも呼ばれていたのだ。
そんな彼女が恋をした相手がネグルであり、最初に愛を伝えたのもマリアである。
当時の状況を思い出したネグルはついつい笑い声をあげ、それが夜空に響き渡った。マリアはそんな彼のことを暖かく見守り、久方振りに腰に差した剣に手を添える。
「確か、告白しながら剣を向けてきたな。 王宮内での私的な決闘は御法度だというのに、そんなことなど知るかとばかりに私に勝負を仕掛けた」
「結果はあなたの勝ち。 私は呆気無く地面に転がされましたね」
二人の逢瀬は常に戦いだった。
戦って、分析して、生傷と血の絶えない日々を送っていたのである。その過程で実力は上がっていたが、ネグルにとってはあまり心休まらない日々であった。
それでも苦痛とは感じなかった。彼女はあまりにも突然勝負を仕掛けてくるが、その動きや楽し気な笑みに魅了されていた。
三年。それが二人の逢瀬の時間であり、親同士で結婚の締結がされるまでの時間だった。
正式に婚約者になったマリアは不似合いな当主の妻を演じ、慣れないながらに人々が夢想する甘やかな行為にも手を出した。その時の彼女は、何時も何時も顔を赤くしながらも不安を抱いていたのである。
本当にこれが普通なのか。己は何か不手際をしていないか。剣を持たないというのは、これほどまでに胃に悪いのか。
「あなたにとっても私にとってもこの状況は望むべくでしょう。 ――息子達にはついぞ理解されませんでしたが」
「まぁ、一般的に私達のような思考は異端だ。 しかし、ザラのような子が生まれるとは想像していなかった」
二人の話題は甘やかな日々から息子達に変わる。
本当にあの三人の中でザラは二人に似なかった。実力も、容姿も、そして思考までも。一部分のみを切り出してもその違いは明瞭であり、ここまで似ていないものかと二人は瞠目した。
ネルは容姿も実力も父親寄りとなり、ノインは容姿も実力もマリア寄りになっている。生まれた子供が完全に二人の資質を引き継ぐ訳ではないが、それでも二人の血が入っているのは事実。
にも関わらず、彼は兄妹のような強さはなかった。容姿も二人のようにとりわけ高い訳でもなく、中途半端と表現しても良い。
考え方も平和的だ。繋がりを尊ぶが故に、二人には彼の思考がまるで理解出来なかった。
融和は人が人である限り不可能だ。どんなに仲が良くなったとしても、切っ掛け一つで簡単に関係性と呼べるものは崩壊する。
二人には強さという純粋な指標があったが故にブレなかったが、ザラはそれとはまったく異なる方法で繋がりを作った。
その異常、その異端。あまりにも不自然に過ぎることで――だからこそ排除を選択したのだ。
例え自身の子であろうとも、弱者であるのならば生きている資格は無い。
絶対の強さこそを天秤とし、冷徹に思考された結末がソレを選んだ。だが、蓋を開けてみればザラには他にはない曖昧とすら表現出来る才能を持っていた。
困難に挫けぬ限り無限に強くなれる才。それは自身の強さと呼ぶ自己完結の世界と異なり、誰かと一時的でも繋がることで広がる世界だ。
どちらが強いかなど、ネグルには解らなかった。マリアにも理論的な理解には及んでも、本能的な部分で拒絶が浮かんだ。
人は異なる考えを許容出来ない側面を持つ。二人はその側面が強過ぎるが為に、最後には全てを喪失したのである。
「どうなるのでしょうね、彼等は」
「強くなるだろうさ。 それは俺が保証しよう」
見上げた星空は燦然と輝いている。時間が変われど夜空に変化は起きず、ネグルはそこに未来の三人を見た。