現代:そして彼等の父は見上げた
喧騒に支配される街中を二人の人間が歩く。
普段の装いを変え、髪の色すらも茶色に染めた風貌は人の波の中でよく馴染んでいた。
馬車を使わず、二人は予め決めておいた店に入る。飲食店特有の涎が溢れる匂いを二人は無視し、やってきた店員に個室を頼んだ。
片方は水が、片方は酒が。料理も並んだ後に店員は個室から姿を消し、残るは客である彼等だけとなる。
水を手に持ったハヌマーンは口を付け、嘗ての味に平民時代を思い出す。貴族らしい礼儀作法を身に付けたものの、ハヌマーンが好む味はやはりどうしても平民時代に食べていたものに集中する。
逆に酒を飲んだネグル・ナルセは眉を顰めた。直ぐに酒の入った器を脇に除け、今度は盛られた料理を口に運ぶ。
大味極まりない味は根っからの貴族であるネグルには合わなかったようで、ナイフやフォークが進む速度は遅い。その様を仕方がないと苦笑し、彼は握っていたナイフとフォークを机の上に置いた。
「御話があるとのことでしたので、王宮からは離れた場所を予約しました。 お味は悪いと思いますが、これでも平民達からすれば上等な食事です」
「ああ、いえ、不味いと思っている訳ではありません。 何分年ですので」
机の上に並ぶ料理には油が多く使われている。最早老人の域にまで届きかねないネグルでは受け付けない物ばかりだ。
「……そういえばそうでしたね。 此処は冒険者がよく使う飲食店ですので、どうしても重い食事になってしまいます。 ですがその分、誰にも聞かれたくない秘密話をするには都合が良い」
「他にも選択肢があったのでは?」
「あるにはありましたが、今は御昼時ですので」
ハヌマーンの顔は笑みで固定されている。しかし、ネグルにはその顔が笑みには見えなかった。
突然の移動に、配慮の無い料理。場所を変えるべきではないかという意見は言外に却下され、ネグルの求めた場所とは正反対の位置に今は居る。
そして、そうされるだけの理由をネグルは理解していた。ザラとの関係が深ければ深い程、それに比例する形でザラ達の親に対する憤りが増す。
これはある種の意地悪だ。決して目の前の人物が激昂しないと解った上で、これは行われた。
もしも激昂すれば、それはそのまま器の小ささを見せることになる。所詮この程度笑って流せないようでなければ、満足する話など出来る筈も無い。
致し方無し。文句を口にするよりも、ネグルは最初に考えていた言葉を口にする。
「――お話は他でもありません。 ザラ達に関することで御座います」
ザラの二字に、ハヌマーンの顔から笑みが抜けた。
感情の色を感じさせぬ相貌は、ネグルをして不気味に感じてしまう。互いに無の表情で交渉することもあった彼でも、目の前の成人一歩手前のハヌマーンの考えていることは完全には読めない。
ザラについての話題はこれまで意図的に避けられていた。王宮内でも外でもそれをハヌマーンの前で行うことは禁忌とされ、ランシーンを含めた実際にザラと話をしたことがある者達は余計に彼の名前を表に出していない。
それを敢えて出す。その言葉の意味は重く、選択を誤ればネグルの人生は更に暗雲に支配されるだろう。
既にナルセの家は王家に嫌われていると言われてしまっている状態だ。これ以上に悪い状況が続けば、家名が消失する危険を背負うことになりかねない。
彼も妻も動じた素振りを見せないが、それが虚勢であることは明らかだ。何等かの方法で追い込んでしまえば、彼等は間違いなく保身の為に動き出すだろう。
「あの子等の現在を知る術は最早有りませぬ。 別の方法を用いて過去への道を探っているのは知っておりますが、仮にそれをすればどうなるかは貴方様が一番よく解っているでしょう」
「ふむ……貴殿が私の考えに口を挟むのはこれが二回目ですね。 どちらもザラ殿絡みだ」
「我々の間にあるものはそれしかありませぬ故。 あの者が居なければそもそも話をすることも無いでしょうな」
「確かに。 私達は私的な間柄ではないですからね」
ネグルが言いたいことはこの時点で明らかだ。
現状、ハヌマーンの打ち立てた方策は上手くいっている。数年前であれば存在していた侮蔑の眼差しも消え、邁進すればする程に更に彼の評価は向上していくだろう。
誰も彼もが、それが何時崩れるかも解らぬ脆い土台の上にあると知らない。完全な崩壊が訪れる時期をハヌマーン本人も知らず、それでも必ず訪れると確信していた。
それを初めて別の人間に言われたのだ。このままではハヌマーンが現在座る地位が崩れると。
過去を想う人間は多い。それが良いものであればある程、振り返る回数は多くなる。そして過去に引き摺られ、足元の地面が無いことを知らずに一歩を踏み出すのだ。
その一歩を踏み出さないようにするには、今を見るしか方法は無い。
「まだまだ貴方様は御若い。 他国から縁談の話も多く舞い込み、陛下も貴方様を特別視しています。 ――如何に素晴らしい過去があろうとも、過ぎ去った記憶が与えてくれるものは所詮慰めだけ。 そろそろ、幸福を掴む為に前を向くべきではないかと私は思います」
「……それは貴殿が言うべき台詞ではないと私は思いますよ」
「承知しております」
承知している。――だが、後悔はない。
ネグルの目は雄弁に語っている。己のやっていることは正しいことで、何も間違ってはいないのだと。
その目を持った者がザラを捨て、子供達の暴走を招く原因となった。大切な者達を失う引き金の一つは、間違いなくネグルとネグルの妻にある。
不快を感じながらその気持ちを流す為に水を飲んだ。されど、その気持ちは増すばかりで消えはしない。
ネグルは真っ当なことを口にしている。このまま何時見つかるかも解らぬ遺産を探すより、彼等を忘れて新しい出会いに幸福を覚えるべきだ。
寂しい気持ちになったとしても、慰めてくれる誰かが居れば不幸なだけの人生にはならない。
それはネグル本人も当て嵌まるのだろう。口にした言葉に嘘は無く、節々から隠しきれない悲しみが宿っていた。
「私が才無き者を見放すのは、この世界があまりにも弱者に対して残酷であるからです」
「残酷……」
「何者も届かない無双の才。 私はそれを見て、その才を発揮して起きた出来事を知っております」
過去を思い返すように、ネグルは天井を見上げて瞬きをした。
「大型の外獣が現れ、当時の我々は全滅寸前でした。 少しでも犠牲を減らす為にと私を含めた数人が残りましたが、それでも碌に時間は稼げずに敗北。 残るは私だけとなった時、一人の新米騎士が私の命令を無視して戻ってきました」
その騎士はネグルの静止の声を無視して、一人で外獣に立ち向かった。
そして驚くべきことに簡単に敵を倒した。これまでの犠牲は何だったのかと思う程に呆気無く外獣は倒れ、新米騎士はネグルを背負いながら何度も謝罪していたのである。
実力を隠していた、命令無視をどうしてしたのか……言いたいことは多々あれど、それを凌駕してネグルはあの新米騎士の振舞いに魅せられた。
剣の一振り、身体の動かし方から観察眼の鋭さ。
新米騎士は十三歳だった。それほど若い時分からネグルを凌駕する実力を持っていた騎士は暫くの後に貴族と衝突し、騎士団を辞めて何処かへと消えてしまった。
「夢を追うのは解ります。 届かぬものを目指す姿勢は輝かしく見えるかもしれません。 ……ですが、彼等がどれだけ努力を重ねても天下無双には遠く及ばない」
才能が無ければ強者になれない。元々の素質が高くなければ窮地で死んでしまう。
だから才無き者に人権は無いのだ。だからザラを弱き者だとネグルは決めたのだ。――それが世界の真実故に。