最終章:見えざる射手
水真猿の頭部があった箇所には赤い刀身があった。
炎を固めて刃と化したようなソレをワイズバーンは想像し、そして彼の持った想像に一部の間違いはありはしない。
真に正しく刀身は炎を固めたものだった。高密度の炎を収束させ、遥か遠方まで刃を伸ばしたのである。
それを成したのはやはりネルだ。マグマを放った場所から一歩も動かず、彼は離れた位置にある水真猿の首を的確に狙った。敵の動きが止まるのを待ち、マグマを放ち終えた瞬間から刀身に炎を宿し続けていたのである。
それによって彼の周囲は溶け、傍に普通の人間が居れば今頃は地面と同じ末路を辿っていた。誰もが彼に近付けず、誰もが彼の起こした熱量に畏怖を覚えたのだ。
シャーラ達は無事に脱出したとはいえ、遠目からその光景を見ることは出来る。
正確には見るではなく感じるだが、とてもではないが圧倒的な焔は太陽の光の下に居てもなお輝きを放っていた。さながらもう一つそこに太陽があるような錯覚を抱き、信心深い人間は揃って膝を折って祈りを捧げる。
水真猿の首から大量の血が噴き出す。
噴き出した血は刀身に触れることで蒸発するものの、逃れた部分が地面やワイズバーン本人を真っ赤に染め上げた。唖然とした顔で皺の寄った顔を背後に向け、そこに居る一人の男を彼は見る。
無理だと断言した言葉に嘘は無い。刀身を消失させて悠々と歩く様は、誰も見た事がない絶対強者。
ノインの攻撃は正しく常套の範囲に収まっていた。真に恐ろしいのは歩く男で、ノインは言ってしまえばまだまだ化け物の範囲に足を踏み込んではいなかったのだ。
実際は違うとはいえ、ここまでの格差を感じてしまえばそのような結論に行き着くのも無理はない。
猿の身体が崩れ落ちる。それに合わせて手からワイズバーンは転げ落ちるも、それによって生じた痛みを彼は一切感じない。
ただただ、全てを唖然と眺めていた。
剣群を追加で発生させたノインも、目前にまで迫るネルも、全てに対して防御も逃走もせずに眺めていたのである。
心神喪失。表現として適切な言葉を胸中でネルは抱きつつ、目の前で崩れ落ちている老人を見た。
少し前までは自信に溢れた相貌は崩れ、服も装飾品も全て血塗れだ。その血を拭うような真似もせず、水晶玉は光を失って地面を転がっていた。
転がる水晶玉はネルの視界に入り、彼は迷わずそれを足で踏む。
全力を込めた一撃は、剣の炎も用いたことで呆気無く割れた。武器のような強度を求められていなかったのか、酷く簡単に壊れてしまった水晶玉は破片となって役目を失う。
「言い残すことはあるか」
「…………」
ワイズバーンは何も言わない。
自我すら最早遥か彼方に置き去ってしまったのだろう。拘束したとて今の彼は何の抵抗もせずに捕まるに違いない。
その様を見て、ネルはただ溜息を零した。此度の主導者であるのは歴然だが、これではあまりにも情けなさ過ぎる。まだまだ足掻くと想像していた未来は存在せず、全てを諦めた姿はただの老人だ。
力の無い老人を甚振る趣味をネルは持たない。同様に、ノインも何の力も無い老人を甚振る趣味はない。
「ノイン、何か縛るものを。 生き残った以上、此処で殺すことはしない」
「解りました」
縄を求めて姿を消したノインを視線だけで見送り、さてどうしたものかとネルは考える。
正直に言えば老人を殺し、ザラを追いたいのが本音だ。何処に行ったのかも解らぬ状態ではあるが、戦闘痕を追えば自ずと両者が戦っていた場に辿り着けると思っている。
生死についても然程問題視していない。ザラならばあの猿は倒せると信じて、自力で戻ってくるともネルは予測していた。
故に処理すべき問題は、この老人についてである。
ベルモンド家は将来、ザラの花嫁であるナノを産む。未だ片鱗すら無い未来ではあるものの、それを歪めることは彼には憚られた。
此処でワイズバーンを殺すのは簡単だ。実際にノインは殺そうとしていたし、死んでナノが居なくなってしまったとしても致し方ないと二人は思っている。
ナノの存在は大事ではあるが、かといって戦いの場で不殺を行うのは難しい。ナノ本人も自分の為に困難な道を進んでほしくはないと、早々に未来を潰すことを選ぶのは容易だ。
「お前を殺すかどうかを選ぶのは王家に委ねよう。 お前自身は死ぬだろうが、お前の一族は生き残るかもしれない」
「…………」
老人から言葉は無い。しかし、一瞬だけ身体が揺れた。
自分の死に対してか、家族に対してか。どちらかは解らないまでも、此処で殺したとしても大きな問題にはならないのではないかともネルは予想している。
ワイズバーンは高齢だ。子供を作れるだけの体力は無い。そして、ベルモンド家は表向きは非常に国を想っている。
国家の為に鉱山資源を守り通していると思われている彼等は国からの信頼厚く、今回のこともワイズバーン本人の暴走だと言ってしまえば切り捨てることも不可能ではない。
そして、そんなベルモンド家に嫁がせようと考える家が無いとはとてもではないが考えられなかった。
次代に己の役目を任せるのであれば、早い段階で後継ぎは残したいと考える筈。ならば、もう既に次の当主は用意されているだろう。
そして、その次の当主がナノへと血脈を繋げる。
故に、未来への血は消えてはいないのではないかと推測していた。
それがネル本人だけの予想であるのは確かだ。何の根拠も無い推測だけでは、とてもではないがこの段階でワイズバーンを殺す選択肢は取れない。
だからノインが縛る物を待って――――背後から突如何かを感じた。
咄嗟に横に跳ねて回避をするも、背後から感じたものの正体は一筋の閃光だ。その閃光が通る先に居たのは、ワイズバーン。
彼の頭部を吹き飛ばし、そのまま近くの建物に激突して閃光は消える。
老人は驚く顔を浮かべることもなく、そのまま仰向けに倒れた。直ぐにネルが状態を確かめるも、額を貫通した傷を見るだけで即死であることが伺い知れる。
「兄様!? 何やら音が聞こえましたが――」
「気を付けろッ。 ……何か居るぞ」
剣を構え、襲ってきた方角に険しい顔を向けた。
ノインはネルの顔を見て、即座に疑問を放棄して剣を無数に出現させる。
彼が険しい顔を浮かべる時点で余裕の無い事態が起きたことは明白。ネルにとって想像の外にある出来事が起きたのであれば、それはノインにとっても想像が付かなかったことである。
死体となったワイズバーンにノインは一瞬だけ目を向けた。驚く顔も浮かべずに虚ろな瞳を空へ向けた様は、魂の抜けた人形が如く。
もう生きていないのは解っていた。だが彼女が意識したのは、額を貫通する攻撃だ。
弓では難しい。かといって針のようなもので刺すには距離を縮めねばならない。一度でも接近すればネルが勘付くであろうし、しかし彼は気付くことはなかった。
遠距離で、貫通するような攻撃力を持ち、傷跡は歪ながらも円の形をしている。
どう見たとて、それが尋常の攻撃ではないは間違いなかった。だからネルは最大級に警戒しているのだろう――――もしかすれば、同様に時を超えた者からの攻撃かもしれないと踏んで。
次の攻撃を警戒した彼等だが、その攻撃がやってくることはなかった。ただただ息苦しい無言が続き、それは静まり返った戦場を訝しんだシャーラ達が様子を確認しに来たことで終わりを迎える。
最後まで二人は警戒していた。最後まで何かがあると二人は考えていた。
だが、如何なる目的で攻撃を行ったのかが解らない彼等には、見えざる射手が姿を消したことを知る術は無かった。