最終章:兄は兄であるが故に
炎を背中に宿す巨躯。
他の三体と色を除けば同じ姿をした猿は、雷が抜けてもその場に残り続けた。
追う必要がないからか。雷真猿が人間には解らぬ方法で伝えたからか。――真実は、真猿であっても見逃せぬ強敵が目の前に居たからである。
真猿は間違いなく強者だ。長い時間で培われた生存方法はあらゆる敵から遺産を守り、場外を除けば勝利を掴んできた。
自信も自負も確かにある。しかしそれでもなお、目の前の人間には最大の警戒を求められた。
炎真猿が見つめる先に居るのはネル。炎を刀身に宿し、大地を炎の色に染め上げた男は真剣な表情で剣を構えていた。動く素振りは微塵も無く、さながら彫像が如く。
その姿に隙は無かった。その姿に殺される未来を見た。
何故だと、僅かな理性が猿に疑問を抱かせる。その疑問故に動かず、それはそのままワイズバーンに懐疑の目を向けさせた。
「何をしておる。 此処に居るのはお前よりも遥かに弱き者ぞ。 容易く殺してしまうがいい」
ワイズバーンの強気の言葉に、それでも炎真猿は動かない。
命令を無視された事実にワイズバーン本人は少々の驚きを抱くも、手に握った水晶玉に力を入れた。炎の赤が妖しく輝き、それに合わせて猿本人は呻き声を漏らす。
猿は抵抗しながらも戦闘体勢を取り、ついにネルへとその牙を向けた。
両腕を大地に叩き付け、地面の亀裂を埋めるように炎が下から湧き出す。湧き出した炎は波となってネルを含めた人間全員に襲い掛かり、戦闘の術を持っている者は慌てて左右に逃げた。
しかし、此処に居るのは決して戦闘技巧者だけではない。普通の人間も居るし、もしも波を回避しても鉄壁の所為で広がらずに街にまで被害が出てしまう。
そうなれば帰す予定の首都の民も死ぬのは必定。ネルに回避は許されず、つまりは此処で食い止めなければならない。
それ以外にザラが求めた未来を手には出来ないのだ。――ならば、それを成せば良い。
「炎に炎をぶつける? ……はは、面白いな」
炎に水をぶつけるのであれば有り触れてはいたが、炎に炎をぶつけたところで勢いが増すだけだ。
誰しもが考えないことであり、謂わば常識である。なら、その常識を破壊する域で炎をぶつけ合えばどうなるというのか。好奇心も混ぜて刀身に力を入れ、波に負けぬ獄炎を溶け出した地面から出現させる。
粘性を伴ったその炎は、火山にあるマグマだ。水のようにマグマは炎とぶつかり、二つの境界線には尋常ではない熱量が発生する。
その境にもしも居れば容易く身体を溶かされるであろう。死ぬことも理解出来ないままに。
二つの攻撃は見事に拮抗し、押しも押されぬ膠着状態を作り上げた。距離を取っていた者達は総じて喜びを露にするも、シャーラを含めた鋭い感性の持ち主は直ぐに察する。
「……あの炎でどれだけ持ち堪えられるの?」
炎を炎で防ぐ。成程、それが出来るのは凄いし素晴らしい。
だが、持続出来なければ遠くない内に押し負ける。赤く染まった目で猿は更に自身から炎を放ち、マグマを押し流してやろうと力を増した。
勢いが増せばその分だけマグマの方が負ける。必然的な結果に、ならばとマグマの量を増やしながら周囲に居る者達に叫ぶ。
「全員逃がせ! 鉄門を討伐者達で開けて民から脱出させるんだ!!」
炎神からの命に討伐者は弾かれたように動く。
強引に鉄門を開き、人々は開け放たれた場所から一目散に外へと逃げていく。少なくとも、この場から非戦闘員が居なくなれば受け続ける必要も無くなる。
未だ静観を続ける他の猿に関しては、既にノインが攻勢を掛け始めた。
剣群が遥か頭上で煌めき、一斉に落下する。自重落下に任せた剣の雨は、容赦無く猿を含めてワイズバーンも狙う。
水晶玉を握り、青の猿をワイズバーンは操る。口から水の泡を生み出し、その泡をワイズバーンの頭上に展開。緑の猿は小規模の竜巻を起こして全員に命中する剣を外に飛ばす。
ノインは舌打ちをしつつ、街内へと潜む。
視界は常にワイズバーン達を捉え、何時如何なる時も剣を射出することを忘れない。数に限界があるものの、彼女は惜しむことをせずに大群を差し向ける。
その度に緑と青の猿が防御に回り、ワイズバーンを傷付けることが出来ない。
時に空中から、時に真横から、時にワイズバーンの目の前で。彼女が視認している限り、剣の射程に限界は無い。
いっそ内臓に直接出現させれればと思うも、それだけは今の彼女には出来ないままだ。生物的な接触点があると剣の生成は行えず、どれだけ接近したとしても僅かな隙間が生じる。
普通の相手であればそこで終わりだが、猿達の感覚は鋭敏だ。時には未来予測をしているのではと思わせる程の正確さでワイズバーンの間近に出現した剣を腕や足で弾いている。
だが、同時に解ったこともあった。猿達は操られてはいるものの、その行動は本意ではない。
喜んで従っているのではなく、強引に身体を制御されている。本来は肉体の持ち主こそに権利がある筈だが、その権利をワイズバーンが現在奪っているのだろう。
そして、故にワイズバーンは絶対に守られていなければならない。
精神的に、肉体的に、全てが十全でなければ何処かで歯車が狂う。彼自身もそれを自覚しているからこそ、猿二体という過剰な程の安全措置を施していた。
この戦いにおいてノインが頼れる戦力はネルとザラの二人だけ。つまり三人であり、にも関わらず猿の数は四である。
一人分の欠けがある以上苦戦は必至だったが、前提として防御に回す者が含まれていれば不利にはなり得ない。
ワイズバーンはネル達を神と思わず人間だと思い、絶対に勝てないだろう相手を呼び出した。――――それはつまるところ、兄妹の強さを過小評価したことになる。
ノインの胸には煮え滾る激情があった。出来ることならばネルのように正面から戦い、真正面から下したいと思いはしても、現状では許されない。
「舐めたな、侮ったな、馬鹿にしたな、見縊ったな。 ……殺してやる」
敬愛する兄達を下に見るのはノインにとって最大の禁忌だ。
それだけは触れてはいけない。それだけは許してはいけない。燃える家に油を注ぐように、彼女の怒りは際限なく高まり続ける。
ネルもそれは一緒だ。これで十分だと判断された事実に、ノイン程ではないにしても怒りがある。
外獣の能力は確かに高い。生命の危機は今も感じているし、これ程の危機感を覚えたのは彼の中でも初めてだろう。猿よりも強い人間は現代に存在していたが、彼等は総じてネルに対して友好的だった。
ネルに近い存在で、且つ強者。その点で考えると、確かに命の危機を覚えても不思議ではない。
だが、この程度と思う心も彼にはあった。遺産を守護する強者ではあれど、ヴァルツのような高嶺を猿には抱かないのである。
全員が避難するのを見届けた後、これまで以上の炎で猿の攻撃を押し切る。
急激な量を流し込まれたことで猿も慌てて炎を増すも、限界はある。大海が如く巨大な波を生み出しても、ネルの発する圧倒的なマグマの前では負けを認めざるを得なかった。
炎真猿が負けていく光景を見ていたワイズバーンは、そこで初めて驚愕を覚える。
相手は特殊な力を持った人間の筈。長い間守護者として君臨していた者の前では敗北すると決め込み、その現実が音を立てて崩れようとしている。
限界を超えてでも炎を出し続けろと命令を発するも、勢いが付いたマグマはもう止まらない。
ワイズバーンに出来るのは青と緑の猿を操って自身を脱出させることだけ。猿の掌に乗ったワイズバーンは炎真猿を犠牲にすることを決め、他の二体と一緒に鉄壁へと急いで向かった。
されど、その道を遮るように数百の剣群がワイズバーンを囲む。
「――急いでいるのでしたら、隙間の一本くらい出来ますよね?」
「小娘ェ!!」
建物の隙間からそっと姿を現したノインに対し、ワイズバーンは悲鳴を上げることしか出来なかった。