逃走か、闘争か
あの場所に滞在していた時間は然程長くはなかっただろう。
だが、緊張感のある時間は体感時間を狂わせた。長く、引き延ばされたような時間は俺の精神的余裕を削るには十分な時間である。
結局、元の宿に戻った頃には疲労困憊となってベッドに転がることになった。
まだまだ陽は昇ったままで、これから活動をしたとしても特に問題は無い。それでも、もう寝てしまいたい欲求に誘われるくらいには疲れていた。
そんな様をナノは目を丸くして見ている。普段から疲れた姿を見せる事はあるものの、ベッドに突撃するような素振りはこれまで一度も見せてはいなかった。
何か重大な問題が発生していると思われるのは自然であり、そしてこの重要案件を隠す必要は彼女には無い。
「何かあったの?」
「ええ。 ギルドマスター殿から貴方の捜索に関する依頼書を見せられました」
その言葉だけで彼女は息を呑む。
だが、それだけだ。決して叫び声を上げることも、慌てる事も無い。
彼女とてその辺は考えていた筈。俺以上に彼女の存在は消したいだろうし、冒険者達に捜索させることは自然なこと。
息を呑んだのは、想像以上に早い段階で依頼書がギルドマスターに送られたからだろう。
ベッドに腰掛け、貰った依頼書を彼女に見せる。そこには先程と同じく、ランクも報酬も書かれていない酷く情報量の少ない紙があるだけ。
その紙を受け取り、次に彼女が言いたい事は解っていた。
「どうして具体的に何も決まっていないの?」
「貴方様以外にもあの家について怪しんでいる方がいらっしゃったということです。 ギルドマスターは貴方様の家に何やら因縁があるようでして」
この依頼書は未だ正式に決定されてはいない。
もしもランクとして決めるとすれば八以上であり、貴人捜索の依頼は相当にギルドから信用の置かれている人物でなければ受けられないことになっていた。
そして、この街は一度八以上の冒険者を招集する事に失敗している。それを理由として受けるのは難しいと告げていて、ベルモンド家もその点は納得していた。
つまり、表立って冒険者は彼女の存在を探す必要が無い。例え探し出したとしても無報酬で、最悪の場合は証拠隠滅を兼ねて暗殺されていただろう。
直ぐにはナノ本人に被害が及ぶことは無い。そう告げると、彼女は安堵の息を漏らす。
「でも、因縁って何なのかしら」
「それは私にも何とも。 本人も言葉を濁しておりまして、少なくとも浅くはないのでしょう」
人が秘密にする理由は様々だが、本人からすれば重大な物である面が強い。
だが、少なくともベルモンド家の人間を嫌悪しているのは確かだ。でなければ邪魔をする筈も無く、もうこの段階で彼女は捕まっていただろう。
味方であるのは間違いない。安易に信用する訳にはいかないので警戒はして然るべきだが、こんな木端な冒険者に対してあんな嘘を重ねるだろうか。
世の中には慎重に慎重を重ねる人間も居る。あのギルドマスターがその性格であれば、彼もまた黒となってしまう。
居場所は最早割れている。であれば、するべきは次に向けた逃走だ。
疲れた身体を引き摺って地図を開き、ナノと一緒に次の場所を決める。
「我々が居るのはこの位置です。 そこから身を隠して移動するとなると、必然的に森を通過する必要が出てきます」
「この辺り一帯は海と草原ばかり。 身を隠すにはまったく向いていないわね。 決行するにしても夜の中で行かないと出てきた瞬間に発見されるでしょう」
「問題は夜間でも活動する外獣が居ることです。 私達では夜目が利きませんので松明かランタンは必須となるでしょう。 お金は掛かりますが閃光虫を使う手もあります」
夜間で活動する事の問題は多い。
中でも最大の問題は目が見えなくなることだ。それがあるだけで様々な緊急事態を引き起こし易く、それ故に人々は陽が落ちたと同時に眠りにつく。
そんな夜間で活動するとしたら松明は必需品だ。それかランタンを使うしかなく、戦闘に発展するとなればどちらも邪魔になり易い。
その問題を解決する手段として光を放つ虫の存在が居るのだが、購入費用が特に高いのである。
繁殖が難しく、寿命も短い生物を大量に用意するのは至難の業だ。僅かな失敗で死ぬ虫であるからこそ、その希少性は計り知れない。
個人的に言えば夜の内に活動したくはない。――なので、早々にこの話を打ち切る方向に舵を切る。
「……なんですが、流石に予想されていました。 早々にギルドマスターから釘を刺されましたよ。 莫大な報酬とこの街専属の冒険者になってくれないかという提案と共に」
「それはまた、随分と強引な手段に出たわね」
ヤドカリ撃破に最も貢献したのが俺であるというのが、あの戦いに参加全ての冒険者の共通見解だ。
ギルドもそんな冒険者達の意見を取り入れ、俺にほぼ全ての報酬金が支払われている。お蔭で最初から持っていた金貨の凡そ三倍にまで資金が膨れ上がり、追加で武器を購入しても懐は痛まなかっただろう。
だが、良い事もあれば悪い事もある。
ギルドマスターは俺がナノについて詳しく知らないと見るや、比較的早めに話を打ち切ってくれた。
その代わりに将来有望な冒険者を街に常駐させるべく、専属冒険者としての地位を俺に提案してきたのだ。
それに伴い、俺のランクは専属冒険者の最低ランクである四にまで上がる事になる。
これは破格と言える提案であり、かなり無茶な内容であるとも取れた。
彼女の強引だという言葉に俺も頷く。ランク一の人間を四にまで上げるなど、誰かに妬まれる可能性が極めて高まる。
「ギルドマスターからの話で知ったのですが、何処の街も高位の冒険者を派遣してくれなかったそうです。 あの場での最大ランクは六で、当初は敗北の可能性の方が高かったとか」
「成程ね。 だから、呼びつけられるかどうかが不安定な状況を払拭すべく将来有望なあんたを専属にしたがったと。 その為ならば、私という不確定な存在が居るのもお構いなしなのね」
或いは、そうする事で彼女の動向を把握するのが目的なのかもしれない。
二人は同時に行き着いた結論に溜息を零す。少なくとも、今後この街に居続ければ厄介事は起こり続けるだろう。
それを踏まえた上で残る理由があるかと聞かれれば、彼の答えは否の一言。
ランクそのものが向上するのは悪い話ではない。しかし、それによって自身が自由に場所を移動出来ないとなれば専属という文字は厄介なだけだ。
専属となった事で与えられる特権も決して素晴らしいとも言えない。
地道に稼いで達成することを最良とする俺にとって、この案は即刻蹴っても不思議ではなかった。
だが、直ぐには話を断ってはいない。最初は直ぐに否と告げたかったものの、彼女と何の話し合いもしない状態で決めるのはどうかとまだ完全に断ってはいなかった。
「私なら無しね。 余計なしがらみは後を考えて不要よ」
「そうですね、私も求めてはいません」
互いに出したのは同じ結論。話を断る方向に進み、徐々に逃げる支度をするべきかと緩やかに進むべき道を決め始める。
二度目の移動は何時になるかは定かではない。かといって、それで何も準備しないのは無しだ。
その時が来れば何時でも逃げられるようにと、俺達は頷き合った。
本拠地とするには不味い材料が揃い過ぎてしまっている。俺達は、俺達の出自を知らない街で活動をするべきだ。
彼女は未だ真実を知らない。別れはまだ暫く先のようだと、俺は別の事にも意識を向けていた。
――どうか、この話題があの二人に届かないように。