最終章:婚約者は躊躇しない
書類、書類、時々面会、書類、書類。
日常業務の合間に歴史収集を続け、読破した本の数はここ一年で数倍にまで膨れ上がった。令嬢としての振舞いなど忘れたようにナノは過去を求め続け、化粧ですら最低限だ。
定期的な祭りなどにも顔を出さず、彼女が行き来するのはハヌマーンの執務室や面会用の部屋や私室だけだ。
食事はハヌマーンから許可を貰って執務室で摂り、彼も彼女と共に食事をする姿が侍従達の間に広まっている。王が求めた時だけはハヌマーンは家族同士で食事をするものの、その時でも彼女は一人執務室で食事をしていた。
無駄を極力省いたことで時間は手に入っている。それでも、彼女自身はまったく足りないと思わざるを得ない。どれだけ情報を集めても、どれだけザラに近付いても、結局触れることが出来ないのであれば満足など出来はしないのである。
しかし、それももうじき終わると彼女は解っていた。
成功するにせよ、失敗するにせよ、時が過ぎれば自分はこの世に存在しなくなる。先日ノインが書類に混ぜて知らせた情報通りなら、一週間後には遺産を起動させるつもりだ。
誰の許可も得ることは無いまま動かせば、不許可の遺産使用によって重罪に課せられる。失敗した場合は処刑され、王の慈悲を無視した形となるのだ。
申し訳ないと彼女は思っている。
王があの時ザラとの婚約を口にしなければ、ここまで生き長らえることは出来ていなかった。ベルモンド家の一族郎党が処刑された時、その列にナノも加わっていた筈なのだ。
だから王に感謝しているし、使えなくなっても傍に置いてくれていたハヌマーンにも感謝している。彼等の為であれば身を粉にしてでも働く覚悟はしていた。
これからする事は彼等に対する裏切りである。実際に表明してあるとはいえ、それでも隠れて遺産を動かすのだから。
この件について知っているのは三人だけ。会議の場において明確な立ち位置を示した者達だけが味方であり、それ以外の面々はある意味敵と呼んで差し障りない。
適当に何時ものような動作を続けながら、彼女は的確に準備を整えていった。
三人はハヌマーン達に怪しまれている。そんな状況で準備をしようとすれば、ある程度の危うさを漂わせておかねばならない。
我々は必ず向こうへの移動を決定させる。その意志を前面に押し出しつつ、なるべく正道であるかのように装いながら何かに紛れさせて金や道具を集めていた。
ナノには市井の間で暮らしていた頃がある。金の無い極貧生活が如何に心苦しいものであるかを知っているからこそ、三人を困らせない程度の資金を用意するのは当然だ。
校長の座も秘密裏に別の人間に移してある。彼女の成した事で他人に迷惑を掛けないよう、可能な限り彼女の掲げる目標に賛同する人間を上に推薦しておいた。
ハヌマーンの味方も増やしてある。例えナノを含めた三人が消えたとて、ハヌマーンの勢力が弱まることは一切無い。
寧ろ逆に、彼の力は増していく。本人は根っからの貴族を嫌悪しているが、利用の仕方によっては力となる。本来貴族同士の繋がりは相互利用によって成り立ち、感情論による繋がりは滅多に無い。
ハヌマーンはその滅多に無い出来事で勢力を築いたものの、それだけでは足元を掬われてしまうだろう。
彼女は教師としての席を廃したが、最後まで教師だった。今のハヌマーンに足りないものを考え、与えようとしていたのである。
「ナノ様!!」
「……はぁ」
そんな準備をしている中で、目下最大の悩みがあった。
私室の扉を力強く押し開け、入って来る人間。冒険者として現在はランク七に到達したランシーンは彼女が使う机に両手を叩き付け、上半身を彼女に傾ける。
「ナノ様が考えていることは解っております。 どうかザラ様捜索の旅に私も連れて行ってください」
港街のギルドは今や各ギルドと多くの接点を持っていた。
ザラが最初に変化を与え、健全化が進んだギルドに昔のような諍いは殆ど無い。ある程度の口論はあるものの、そこで止まる程度。当時を知る人間からすれば生温くも感じてしまうもので、されど多くの人間がそれを是としている。
冒険者は何時死ぬかも解らない。外獣によって死ぬこともあれば、誰かの恨みを買って殺されることもある。その内の片方を潰せるのであれば、大人しくした方が無駄な金を使わずに済む。
明確な規律が設定され、新人教育制度が導入された新たな施設は日夜冒険者を誕生させる。そこで一定の強さを獲得してから世に出され、明確化されたランク定義によって強さも定まっていくのだ。
港街の纏め役はギルドマスターであるが、実際の纏め役はナナシやバウアーの二名。ランシーンは王宮への繋ぎ役として重要視され、本人の強さも相まって慕う人間も増えている。
過去と比較して、今の彼女は幸福だ。不自由を感じる暇も無く、次から次へと成さねばならない事がやってくる。それは多忙ではあるが、同時に嬉しい悲鳴だ。
己が成せばそれだけギルドの状況も変わっていく。良い方にも悪い方にも変わり、その差配の一部に確かに彼女は関わっている。遣り甲斐という意味でなら、正しくそうだ。
彼女は遣り甲斐を感じていて、とても現実に満足しているようであった。ナノもそう思って何も言わなかったのであるが、ランシーンはそうなれた原因を確りと覚えている。
他の誰でも彼の男が居たからこそ、全てが良い方向に動いた。なればこそ、恩返しをしたいと考えるのも当然。
それが二度と戻れぬ地であろうとも、彼に再会するのであれば是非も無し。調整は必要ではあるが、王宮の繋ぎ役を別の人間に変えることも難しいことではない。
「本当に行けるかはまだ解らないわ。 次の会議までに彼等を納得出来るだけの材料を揃えない限り、遺産は封印されるでしょう」
「嘘ですよね?」
ナノの言葉に、ランシーンは即座に言葉を告げる。
そのあまりの早さに一瞬硬直するも、柔らかな微笑を浮かべてナノは何故と返した。彼女の言葉は一般的に見れば普通であり、不自然と呼べるものはない。実際に彼等を納得させられる材料を揃えない限り、最終決定権を持っているハヌマーンが頷くことはないだろう。
その材料も一応は集めている。無駄となるのは確定なのでそこまで力を入れていないが、ある程度納得させられるだけのものは用意していた。
それを使う前に不正利用が起きるのだが、ランシーンに教える訳にはいかない。
不確定要素は含めたくはないのだ。ランシーンから情報が漏れるようなことが起きれば、三人の末路は一つになってしまう。
「ナノ様のザラ様に対する執着は並ではありません。 あの御兄妹もそうですが、諦めるなんて端から考えてはいないでしょう。 それなのに以前と比べれば貴方様は落ち着いています。 使えるかどうかも解らない状況で落ち着く程、貴方様の不安は小さいものでしたか?」
「貴方、存外失礼な物言いをするのね。 私じゃなかったら不敬だと言われかねないわよ」
「ザラ様の婚約者ですから。 その程度は許容するでしょう?」
ランシーンは的確にナノの心情を見抜いている。
確かに、彼女は当初の頃と比べれば幾分か落ち着いていた。未だ不安気な表情を仕事中はしているが、それが嘘であることもランシーンには御見通しである。
剣士として、彼女の感覚は常人よりも鋭い。鼓動の落ち着きや不自然な動作を僅かでも感知すれば、あらゆる動作に違和感が生まれてしまう。
誰でも出来ることではない。上位に位置する人間だからこそ、その違和感は確り違和感として残ったのだ。常人であればそのまま心配されるだけだが、ランシーンは見逃さない。
故にこの戦いの軍配は最初から決まっていた。――ナノは溜息を吐き、その表情を真剣なものに変える。
「まったく……。 一度聞いたら戻れないわよ?」
「覚悟の上です。 恩を返し切れるまでは、あの方を私も諦めたくはありません」
ナノと同様に真剣な顔を表に出すランシーンに一枚の紙を差し出す。その紙に彼女は筆を走らせ、秘密の情報を記し始める。
ナノは今回の時間逆行を成功させねばならない。その為ならば何でも利用するし、何でも裏切る。
絶対に辿り着くのだ。焦がれた男に触れ合えるまで、彼女の足掻きは止まらない。――ならば、彼女は間違いなく躊躇しないのだ。