破綻の芽
脱走するまでの準備は三週間。
それまでの間も俺は放置され続け、兄妹達からは心配され続ける。唯一の違いは頻繁に師が遠目で此方を見るようになっただけで、それ以外についてはまったくの日常だ。
日課の鍛錬を行い、残りの時間は情報集め。普段であれば更に鍛錬を過酷にさせても良いのだが、それで身体を壊して脱出不可能な状況になるのだけは勘弁願いたい。
完全に見捨てられ、既に一年が経過していた。九歳の俺の身体は年相応に成長し、しかしどうしても子供であるのは隠せない。
こんな状態で冒険者登録を行おうとすれば舐められるかもしれない。だが、俺が他に金を手にする方法は無いのだ。
ただ愚直に剣だけを求めた当時の俺に、他の道はまるで見えなかった。それに家の決まりの所為で他の道を模索しようとしても否定されただろう。
徹頭徹尾騎士としての道だけを求められ、劣るようであれば無駄であったと切り捨てられる。
その事実に怒りが無いとは言えない。何故そうするのだと両親を問い詰めたい気持ちはあるし、拳が固くなってしまうのも常だ。
しかしそれでも、俺を育ててくれたのも事実。その恩だけは絶対に否定出来ないから、最近は鍛錬以外の準備にも全力だ。
両親は俺が何をしていても、それが家の恥に繋がらないのであれば問題は無い。執事もメイドも特に命令されていなければ告げ口もしないだろう。己の保身目当てという部分は否定出来ないので、可能な限り普段通りを貫いているが。
俺の行動について一番気にするのは兄妹だ。
あちらは常に予定が入っているから中々鉢合う事は無いものの、しかし絶対ではない。
何かの拍子に遭遇する事はあるし、最近も情報集めで本を漁っている最中に兄に出くわす事があった。向こうは何かを言いたげだったが、それを俺は意識して無視しながら退出したのである。
情報は欲しい。けれども、優先度というものがある。俺が無理にあの場に居続けていれば、絶対に兄は何かを発言していた筈だ。
それはきっと退出しろという言葉で、その言葉は未来の当主のものである。
そんな言葉を兄に言わせたくはなかった。だから俺は一端情報を集めることを止め、将来無くなるだろう自分の私物を集めて深夜に師に売りに出してもらった。
「金貨十枚。 これだけあれば質素な生活で二年は大丈夫でしょう」
「有難うございます。 ……こんな事をさせてしまってすみません」
「構いませんとも。 少しでも手伝えることがあれば、何時でも言いに来てください」
師は本当に、誰にも何も言わなかった。
両親や兄弟にも何も言わず、普段は俺達が繋がっているとは思わせない程度の態度で過ごしてくれていたのである。それがどれだけ有難かったは言うまでも無く、恩返しが出来れば最優先で行うつもりだ。
やるべき事は他にもある。脱出経路の選定や、今来ている服とは別の平民用の服が欲しい。
これに関しては実際に家族達が視察で外に出ている隙に行えたが、それでも師の協力が無ければ達成不可能だったろう。
やはり家から出るのは難しい。練習として深夜に抜け出してもみたのだが、監視の目が多く存在している所為で何時発見されるか解ったものではない。
昼であれば尚更発見される可能性が高まる。やはり、ここは夜の闇の中で動くしかないだろう。
「――ザラ兄様」
「……ノイン」
ある日のこと、廊下で歩いていた俺の背後から綺麗な少女の声がした。
振り返れば、そこにはよく見る少女の姿。白一色の膝まであるスカートに、白と青がメインの上着を着た彼女は俺の妹だ。
此方に向かって優しく微笑む顔は贔屓目抜きで綺麗である。可愛いというタイプではなく、純粋に綺麗だと褒め称えたい顔は中々見ないものだろう。
後数年もすればきっと彼女を求めて争いが起きる。腰まで伸ばした白髪と紅玉の如き輝きを放つ瞳に神秘性を感じる者だってきっと外で出てくるだろう。
何せ既にメイドの間では彼女の容姿は人気だ。あんな顔に生まれたかったとまで言われる美貌が、今は俺だけに向いている。
だが、それは本来有り得ない事だ。無視しなければならず、そもそもこうして会うのも本来は許されない。
「ノイン、俺と話すのは――」
「今はお母様もお父様も外に出ています。 少しだけでも、どうかお話する事は出来ませんか」
絶対に話をするべきではない。
それでも、心配気な彼女の赤い瞳に否とは言えなかった。そのまま彼女の後ろを付いて行き、彼女の調度品の少ない部屋の中へと入る。
この家の住人が皆そうであるのだが、調度品の数があまりにも少ない。
客室には相応の物が置かれているものの、俺達は常に鍛錬や知識の吸収を優先していた所為で自室はどれも貴族の中では寂しいくらいだ。
反面部屋は広く、作られた当初はもっと家具が置かれる予定だったのだろう。足の先端が上向きに曲がった白く小さなテーブルに、男性が座るにはやはり小さい同色の椅子に座って、彼女は紅茶をメイドに頼んでいた。
縁が金色に染まっている白いカップは彼女のお気に入りだ。ノインは気に入った相手に対してのみそのカップを使い、そうではない人間にはただの白いカップを使っている。
「ミルクティーです。 どうぞ」
湯気の立ち上るミルクティーに口を付け、思わず感嘆の息を漏らした。
両親から見捨てられてから一年。紅茶を飲む頻度は劇的に減り、最近は水ばかりを飲む毎日だった。
これからの生活の中で甘い物を飲める機会は無くなるだろう。例え出来たとしても、ゆっくりと何の不安も覚えずに楽しめるとも思えない。
だから、まるで最後の晩餐の如く俺はその紅茶を楽しんだ。二度と忘れるものかと思いながら、出来ればこれが最後でなければと叶わない願いを思いながら。
「その、最近はどうですか? 普段は姿が見えませんでしたから」
「……変わらないよ、ノイン。 何時も通りに鍛錬を積んで、何時も通りに本を読んで、その繰り返しさ。 才能が無いって言われても諦めきれなくてね」
「――ッ」
本音はそうではないが、皆の前ではそういう事にしている。
何の淀みも無いように出てきた言葉に彼女の眉は悲し気に歪められた。それが俺に境遇に同情したからだと解っているが、それでも胸に嫉妬が出てきてしまう。
長い間彼女と一緒に居るのは避けるべきだ。会話をさっさと済ませて、この気分を吹き飛ばす為に剣を振るうとしよう。
「そんな顔をするなよ。 確かに悲しくないとは言わないが、自分の才能がこの程度だっただけの話。 無茶の範囲を知れたんだから有難い話さ」
「ですがその所為であの人達はザラ兄様を切り捨てましたッ。 それは絶対に許されてはならない事です!」
彼女の持っているカップは揺れている。その目には怒りの炎が灯り、方向は両親達に定まっていた。
驚くべきは、彼女の両親への呼び方だ。俺も兄もノインも、全員が両親を母や父と呼んでいた。
だが、今彼女はあの人達と呼んでいる。それが指し示す意味を考え、別の懸念が浮かび上がった。
ノインは両親を嫌っている。それはもう、自分達の両親だとは思いたくない程に。何か切っ掛けがあればノインは刃を抜き、殺してしまうかもしれない。
兄妹愛が原因であるならば、それを防ぐべきは俺だ。此処から居なくなると決めた以上、少しでも居なくなった後の心配事を減らしておきたい。
「あの人なんて言うなよ。 どれだけ嫌っていても、母も父も親であるのは事実だ。 育ててもらった恩を俺はまだ捨てちゃいない」
「何故です!? 既にネル兄様はあの人達を見限るつもりです。 我々の未来の為にも、あんな親など居ない方が良いに決まっています!」
「落ち着け、ノイン。 誰が聞いているかも解らないだろうに危険な事を話すな。 兄様にも直ぐにそういった真似をしないように伝えておけ。 俺は現状を妥当だと判断している」
才能が無い奴が当主になるなど有り得ない。
これは親も俺も共通の認識だ。一人息子しかいないのであればそうなっても仕方無いが、こうして兄妹が居る以上は優れた者が当主に立つのは正しい。
両親に対しての怒りを持っていても、そう決めた意志には賛同出来る。見限るという行為も、俺が変に当主になろうと考えさせない為の手段と考えれば納得出来るものだ。
だが、それで安心すれば良い彼女の顔は暗い。三人全員が幸せになれないのを認められないと顔には書かれていて、それでは将来苦労するだろうなと苦笑してしまった。
「ザラ兄様はお優し過ぎます。 普通であれば納得出来ないと直談判をしても不思議ではないでしょうに。 ……私達は何日も何日もあの人達と話し合いをしましたが、一向に首を縦には振ってくれませんでした」
「父がそんな簡単に前言を撤回するものか。 母だってそれは同じだろう。 元は互いに騎士団のトップをしていた二人が決めた以上、その意志は硬いさ」
王室直属の王宮騎士団と市井の者達が心安らかに眠れるように警備を行う民主騎士団。
その二つにおいて、王宮騎士団のトップを務めていたのが父だ。母はもう片方であり、民主騎士団は王宮騎士団の下部組織に当て嵌まる。
厳格と正義を掲げる二つの組織は貴族達のあらゆる誘いを断る権利を保有し、もしも誰かに肩入れして悪事を働くような事があれば即座に処刑される厳しさを持っていた。
その組織のトップをしていたからこそ、親であっても自分達の子共達を厳しく見てしまうのだろう。
他の貴族であれば甘やかされて育つ者も居るのに、俺達は一度だって満足に遊ぶ事も無かった。
堕落は絶対に認めない。その意志の元育てられ、同時に騎士として活躍出来そうにないから試験から落とされるように捨てられた。
たったそれだけ。本当に、たったそれだけなのだ。
自分達がそうした事をきっとあの二人は自覚している。その上で、俺が憎んで何かをするかもしれないとも考えているだろう。
それで実際に騒ぎとなれば、ナルセ家の恥となるのは必然。
何かしらの準備を整え、殺そうとするのは目に見えていた。それを兄妹達はまだ解っていないが、何れどこかで気付いてしまうかもしれない。出来ればそうなるのは俺が居なくなった後にしてほしいのだが、人生何が起こるか解らないものである。
「兄様は当主となる前に王宮騎士団に入る。 お前も民主騎士団に入って女騎士として民衆を救うんだ。 それだけに集中して、俺の事なんて忘れてしまえ」
「無理ですよ。 私達がどれだけの間一緒に居たか解っている筈です。 特にザラ兄様は私とネル兄様を和解させてくれたでしょう? その恩を生涯忘れるつもりはございません」
「また随分と昔の記憶を引っ張り出してきたな。 あれは俺が嫌だと考えただけで、恩を売るつもりは無いぞ」
「それでも構いません。 私達は三人で一つです。 誰が欠けても完璧にはなりませんし、なりたくもないんです。 ――それをどうか、御理解ください」
「………………」
俺が居ても二人の足手纏いになるだけだ。
そう言葉をミルクティーと共に飲み込み、短く返事をした。彼女は俺の言葉に素直に柔らかな笑顔を向けてくれて、その顔を直視することは出来ない。
傍にある窓に視線を移していると、耳に馬車の音が聞こえてくる。今この家で馬車の音が聞こえてくるとしたら、それは間違いなく両親の帰還だ。
即座にミルクティーを飲み干し、ノインの部屋から出ようとノブを掴む。
だが出る前に彼女が俺の袖を掴み、一瞬でも早く出ようとした俺の身体を静止させた。
何だと視線を背後のノインに向けるも、止めた本人の顔は酷く真剣だ。
「ザラ兄様には私達が付いています。 ですから、どうか頼ってください」
――俺の脱走がバレてしまったのかと胃が引き締まる。
彼女は真意を告げず、ただそれだけしか言葉を残さなかった。何とか解っているよとだけ言えたが、後少し時間に余裕があれば俺の顔から鍍金が剥がれていただろう。
意味深な言葉だ。一体何処から漏れたのかを考えてしまい、足は他から見れば異様に早かったかもしれない。
これは非常に不味いことだ。それを解決するにはどうするべきかを考え、自室に置かれたカレンダーを見て覚悟を決める。
このまま疑心暗鬼な状況が続けば、俺の準備は完璧とはならない。何処かで対策を講じられ、脱走を阻止されてしまうかもしれない。
そうなるくらいならば、先手必勝を取るまで。奇襲は戦闘を優位に進める為にも必要だ。
「――明日に出るか」
師に話を通す必要が出る。そう決めた俺の身体は軽やかに動いた。