悪夢
「――朝?」
見続けていた悪夢から意識が浮上する。
瞼に刺さる太陽の光を感じながら上半身を起こし、直後全身に走った激痛に呻き声を漏らす。
目を開いて周りを見てみると、そこは俺が日常的に泊まっていた宿だ。中には誰も居らず、自分は今硬い木製のベッドの上で寝ているのだと気付いた。
右腕に視線を向ける。夢の中では無くなっていた腕は、此方では無事に付いていた。
白い布で全てを覆われ、痛みが抜ける気配は無い。だが、あの溶解液を浴びて無事に元の形が残っていただけ奇跡としか言い様が他に無かった。
思い出せるのは、戦闘中の所まで。途中で意識を喪失した為に現状の理解が出来ず、しかし動き出すのは明らかに不味いと身体が訴えていた。
これだけの怪我を負ったのは初めてだ。
鍛錬の最中でも骨折が精々で、それが歪に繋がる事は無かった。山の中での実戦においても死ぬかもしれないと考える事は多くあったものだが、それが怪我に繋がったことは無い。
痛みそのものに耐性はある。だから激痛が走っても周りが安全であれば冷静で居られるのだが、何も解らない状態では不安も抱えてしまう。
そんな俺の直ぐ近くで、扉の開く音がした。
顔をそちらに動かすと、ナノが扉を開けている姿。此方に顔を向けて、直ぐに目を見開いた。
叩き付けるように扉を閉め、此方に駆け寄る。――――そして、そのまま抱き締められた。
「ナノ様……?」
俺の問いかけに、ナノは何も答えない。
ただただ嗚咽を漏らし、彼女は泣くのみ。それだけ俺を心配してくれたということだろう。
別れる間際もあんな約束を交わしたし、例え四肢が無くなっても彼女はこうして喜んでいたに違いない。
ただ生きてさえいれば。その思いが爆発しているのを、今は解る。
彼女が離れるまでの間を好きにさせ、漸く嗚咽の止まった彼女が抱き締める行為を止めた。此方に向ける顔は赤く染まっていて、目元は涙で腫れている。
それに対して、俺の心には罪悪感だけが湧き出ていた。
「その、申し訳ございません」
「……良いの、生きててくれたんだから何も文句は無いわ。 今はどう?」
「身体中が痛いですが、このくらいなら慣れていますから大丈夫です。 ちなみに私の状態を知っていますか?」
「此処に運ばれた段階で既に傷の手当は全部終わってたわ。 重症も重症、腕の切断も考慮に入ってたそうだけど、高位冒険者が惜しみなく貴重な薬を使ってくれたお蔭で無事よ。 痕は残るそうだけどね」
「そうですか。 後でその人に感謝しに行かなくては」
「本人は礼は不要だって言ってたわよ。 後、何でか知らないけどあんたに感謝を送りたいとか言ってたわ」
最後のナノの言葉に疑問符が浮かぶが、一先ずはある程度自分の事については理解出来た。
右腕は布が巻かれているものの、今後の活動に支障は無いらしい。薬をくれた冒険者は礼は不要と言っていたが、それでも言葉だけでも送りに向かいたい。
痕は残るそうだが、既に身体のそこかしこには傷が残っている。恐らくかなり酷い痕が残るのだろう。
だが、動かせるのならば一切問題無い。後は痛みが抜けるのを待てば、自然と状態も改善されるだろう。
身の安全は一先ず解決された。
ならば残るは、あのヤドカリめいた怪物のみ。足を複数落とし、背部の溶解液の発射口に傷も付けたから確実に付け入る隙はあった筈だ。
それでも、相手はまだ潜る方法が存在している。
「例の外獣はもう討伐済みよ。 私が見た時は足と腕を全部斬り落とされてる姿だったわ。 元は蟹だったのね」
「ヤドカリが近かったですね。 ……そうか、倒してくれたのか」
あの鋏も足も全て斬り落とした上で止めを刺してくれたのだろう。
であれば、もう何も気にする必要は無い。この討伐結果により、彼等のランクも上昇した筈だ。
特別報酬も出ていることだろう。怪我人も死人も出てしまったが、冒険者であれば何処でそうなるのかは誰にも解らない。
だが、それで納得するような自分ではなかった。
もっと強ければ、もっと準備を整えていれば、この怪我人も死人も居なかったのではないだろうかと考えてしまう。
そう思ったとしても現実は変わらない。しかし、そう思わずにはいられないのだ。
才能の無さが恨めしい。己の力で道を切り開けない事実が、どうしようもなく劣等感を刺激する。
どうして、どうして俺に剣の才能が無かったのだろうか。
他の兄妹と同じ才能が自分にあれば劣等感に悩まされることもなかっただろう。
剣という言葉で、自分の愛剣を思い出す。あの溶解液の中で最後に手放してしまった剣は、最早この世には存在していない。
何せ貴重な鉱石も使っていない普通の鉄剣だ。あの溶解液の前ではまったくの無力のまま消失しただろうことは間違いない。
周囲を見渡しても件の剣は何処にも無かった。その事実に、どうしてか酷く寂しさを覚えてしまう。
幼い頃から、あの剣はずっと傍に居た。無茶な振り方をして欠けてしまっても、何度も修理に出してもらって使い続けた。
もしも半分に折れてしまっても、俺はその剣をナイフに加工して使い続けただろう。
それくらいには愛着を持っていたのである。
「剣が無く、怪我も酷く、色々酷い状態になってしまいました」
「でも生きてるじゃない。 大事な物でも無くなることはあるものよ。 それを引き摺るよりも、前を向いていた方がずっと人間的だわ」
「そう、なんですかね」
確かに、ナノの言い分にも一理ある。
どれだけ大切にしていても、何処かで失くす事もあるだろう。この世界の中でそれを取り戻すのは難しく、砂漠の中で砂金を見つけるのと同じくらいには見つからないに決まっている。
であるならば、と無くなってしまった剣に心の中で別れを告げる。
俺が初めて剣を持ってから、既に五年。何時も傍にある剣が居なくなるのは寂しくて、何だか泣きたくなるような気持ちになるが、それを一々気にしていても女々しいだけだ。
泣く必要は無い。心の中で感謝を送り、俺は気持ちを無理矢理にでも切り替えた。
その気配を彼女も感じて、一度咳払いをする。先程の柔らかな態度が真剣なものに変わり、何か別の出来事が起きたのだと理解させられた。
「もう良い? それなら、あんたに一つ話が来ているわ」
「話?」
「そう。 相手はこの街のギルドマスター。 何でも今回の戦いの立役者であるあんたと話をしたいんだって」
「立役者なら他の冒険者の方がずっと適任では?」
「私に聞かれても知らないわよ。 ま、傷が治ったら一度ギルドに行くのをオススメするわ。 基本的に午後であれば時間を取れるそうだから、それくらいの時間に尋ねれば良いと思うわよ」
ネルの言葉は最後まで真剣そのものだった。
本人は気楽に言ったが、実際には何かがあると思っている。俺も彼女の真意に同意して頷いた。
一応戦闘の準備はした方が良い。この街の武器屋で武器を買い、最悪街を離れる事も考慮に入れるべきだ。
ギルドマスターからの話が何なのかは幾つか予想を立てられるものの、それが正解だとは思えない。
一体どのような話が飛び込んでくるのだろうかと考えていると――ふと視線を感じた。
「あの……何か?」
「そういえばあんたの顔を見たのってこれが初めてだなって思ったのよ。 意外と良い顔してるじゃない」
頭を触ると、そこに何時もの外套の存在が無い。
そういえば、戦闘の最中に消失してしまった。これでは知っている人物が見れば一発で解ってしまうだろう。
「私は好きよ、そういう顔」
微笑みながら告げられたその言葉に、俺はどう反応すれば良いのかと苦笑せざるを得なかった。