勝利の代償
――黒い液体が目の前に居た。
今に発射されそうな液体を前に、俺の身体は空中にある。どの場所に動こうにも、蹴れる場所が無い故に移動は一切不可能であった。
相手の攻撃はこの距離であれば直撃は必至。そのまま何もしなければ死体になるだけだろう。
どうする、と焦燥に染まったまま頭は案を模索し続ける。
武器を投擲。それでも苦し紛れに発射されれば頭程度は容易く溶かせる。
服を盾にするのも、防御力が無いも同然の段階でまったく時間を稼げない。他に使える装備品は無いかと腰を彷徨わせるが、速度を求めた結果としてまったく装備は存在しなかった。
使える物が何も無い。その事実が、どうしようもない結末を突き付ける。
何時の間にか周りの風景が灰色になっていた。速度が酷くゆっくりとなり、その分発射されるまでの時間が間延びされている。
死ぬと頭が認識した瞬間にこの現象が起きているのか、初めての経験故にそれは解らない。
だが、確実に死へと向かっていると解ってしまう光景は恐怖を加速させる。胸の中には泣き叫びたい気持ちが湧き起こり、思考を放棄させて暴れてしまえと頭の何処かが告げていた。
だが、それを放棄した時点で死ぬのは決まっているようなもの。愚かな選択を断固として否定し、最後の瞬間まで諦めてなるものかと歯を噛み締めた。
こうなれば、こうなれば。既に詰みも同然の状態で、それでも生きて帰ろうとするならば。
一瞬、剣に目を向ける。切っ先は欠け、このままでは突きをしても何も破壊出来ないだろう。
液体の発生源は口を開いた甲殻の内部。球体上の瘤のような場所から滲み出るように液体が流れ出ている。
このまま自然落下すれば、溶解液の弾が発射された直後に接触するだろう。ならば、そうなる前に攻撃を仕掛けて暴発に追い込む。
相手に痛覚があるのは解っている。そして、不意の一撃に遭遇すればどんな生物も慌てるもの。
頭を下に、足を上に。再度突撃のような形で落下速度を加速し、そのまま剣を振り上げる。
失敗すれば死ぬ。失敗しなくても無視出来ない傷を負う。
それでも、やらねばならない。生きて元の場所に戻る為には、こうする以外に他に無いのだから。
「……さらば!」
右腕を一気に振り落とし、甲殻内部の瘤を斬りつけた。
直後、ヤドカリの身体が激痛に震える。発射する余裕も失い、溶解液は発射されずにそのまま甲殻全体に広がった。
必然的に、斬り付けた俺の右腕にも液体がかかる。
熱を発するような激痛に絶叫をあげる前に、身体は地面に転がった。
慌てて右腕を地面に擦り付けて溶解液を落す。その度に激痛が発生し、喉から呻き声が漏れる。
激痛に耐える訓練はしていた。していたが、まだまだそれが生易しかったのだ。
まともな着地も出来なかった所為で身体中が痛い。誰かが駆け寄る気配を感じるものの、激痛の所為で満足に動くことも出来ない。
「おい! まだ生きてるか!!」
「な、ん……とか……」
「お前さんはもう下がっとけ! 後は俺達でも出来る――――こいつを下げろォ!!」
直ぐ傍にはヤドカリが居る筈だ。にも関わらず、冒険者達は自身の身を顧みずに救出に向かってきてくれたのだろう。
意識が朧気になっている状態で複数人に掴まれた感触を覚え、そのまま引き摺られていく。
今もなお激痛は消えない。溶解液を可能な限り落としても、そもそも何処まで溶かされたのかが判然とはしなかった。
出来れば見たいのだが、意識は今直ぐにでも消えそうだ。
耳もまるで何かを詰めたように聞こえ辛く、右腕は異常な程に熱い。反対に身体は冷たくて、もしかすればこれで死んでしまうのではないかと想起させられた。
頭を過るのは、家族の姿。思い出らしい思い出は兄妹とのものばかりで、両親との間に特別な思い出は一切無かった。
最初に武器を触った頃を思い出す。痛いと叫びながら師と剣を振るっていた頃を思い出す。
夢を持った記憶も湧き上がり、それを誓い合った夜も脳裏に過る。
あの純粋な頃に、自分はよくもまぁ大きな夢を掲げたものだ。正しく大海を知らない蛙であり、思い出したくもない恥ずかしい記憶だ。
意識が落ちる。暗闇の世界に閉ざされていく。次に目覚めた時に自分がどうなっているのかを不安に感じつつ、それでも身体は限界を超えて夢に飛び込んだ。
――現実の意識が、夢の意識に切り替わる。
まるで現実の延長線上に感じられる状態で、自分は何時の間にか広大な大地の上に居た。
「……ここ、どこだ?」
大地は乾き、草の一本も生えてはいない。
曇り空の影響で世界は薄暗く、遠くを見ても乾いた大地が何処までも続いていた。
試しに歩いてみるも、特に何も変化は起きない。腰に目を向けても剣は無く、溶けた筈の衣服は全て元通りになっている。
だが、その状態を自覚したからこそ右腕の喪失に気付いた。
顔を動かす。そこには、風で揺れ動く袖があるだけ。腕を動かそうとしても、肩から先が存在しない状態では意味が無い。
右腕の喪失は甚大だ。それだけで騎士生命の終了とも言える。
才能が無いと断言された身としては、腕の喪失は最早騎士を目指すのを止めろと言われたようなものだ。
これが夢の世界だと解っていても、衝撃を覚えずにはいられない。
足が止まる。これからどうしようと、子供のように立ち止まってしまった。
だが、この夢は更に俺を追い詰めたいのだろう。俯いていた俺の耳に足音が聞こえ、顔を上げるとそこには二人の見知った人間が居た。
白い髪の少女と輝く金の青年。
ノインとネルは自身の剣を引き抜いた状態で俺に向かって佇んでいる。その顔に普段よく見るような柔らかな微笑は無く、あるのは鋭利な刃物の如き眼差しだ。
あの家から失踪してから、既に一ヶ月以上が経過している。まだまだ諦めるには早過ぎる時間だが、だからといって突然家族が消えれば兄妹は何らかの反応を示すだろう。
それが激怒といった形であっても不思議ではない。いや、寧ろその方が自然だ。
『ザラ兄様、どうして居なくなってしまったのですか』
「それは……」
『ザラ、どうして居なくなったのか説明してくれ』
二人の声も本人そのもの。これが俺の夢であると理解していても、それでも責められているような感覚はどうしても抜けてくれない。
言葉が詰まる。その真意を話す訳にはいかないと口を紡ぐと、ネル兄様は一歩前に出た。
『訳を話してくれ。 それがどんなものであっても、俺達は受け入れる』
「……それなら、どうして剣を抜いてるんだ。 兄様」
『お前が自殺されるかもしれないと考えているからだ。 もしもの場合、その手足を斬り落としてでも連れて帰る――――ああ』
『そもそも、もうザラ兄様は武器が振れませんよね?』
残酷な言葉の数々に、胸が詰まる。
現実の兄妹ならば決してそんな事は言わない。そう信じたいのに、もしもを考えて直ぐに否定の二文字が口から出てはこなかった。
俺達は何時も一緒だ。どんな時でも一緒で居ようと誓い合って、だがそれを破ったのは俺である。
だから連れ帰る為に二人が俺を攻撃したとしても違和感は無い。無いからこそ、現実で同じ言葉を吐かれたら今よりも更に何も言えなくなるだろう。
身体はまだ震えない。それはこれが夢だと解っているから。
錯乱もまだしない。それはまだ現実になっていないから。
まだ現実に二人の影は無い。それだけが俺にとっての唯一の安定剤である。
胸の中で蓋をしていた嫉妬と羨望は、まだ抑えきれない程ではなかった。だが決して辛くない訳では無い。
俺達の間に言葉は無い。それが何よりも、現在という状況を示していた。