最終章:狂気故に愛である
それは、ある日の夜だった。
王宮内の一室にて四人の人間が集まっている。二人は厳しい面持ちを隠さず、もう二人は無表情を張り付けて対面で座っていた。
入口には侍女が二人立っている。両名も空気のように沈黙を貫き、室内は恐ろしさすら孕む静寂に支配されていた。
「今日、此処に呼んだのは秘密裏だ。 誰も知らず、誰も漏らすことはない。 侍女達も私の手の者だ」
厳しい面持ちをしている人間の一人、ネグル・ナルセは低く声を発する。
今日此処に集まっている事実を王族の誰もが知らない。ハヌマーンの部下達も知らず、勿論騎士団関係者達も無関係だ。現在は誰もが寝静まった夜中で、例え何が起きたとしても対処するには時間が掛かるだろう。
ネグルが話し掛けた相手であるネルとノインもそこは解っている。事前にネグルの手の者が二人に手紙を渡し、用意された一室に来ていた。
入った瞬間にはネグルとその妻であるマリアが質の良いソファに座り、静かに待っていたのだ。
ノインには二人が何の用で此処に集めたのかが手に取るように解る。それはネルも一緒で、故に四人全員が建前を述べる必要が無い。
忙しい時期だ。引退したネグルも護衛の一環として王宮内で自領の書類業務に精を出し、万が一の事態に備えている。
「陛下には捜索の中止を願い出た。 今はそんな真似をしている時期ではないし、態々あれを探す必要は何処にもない」
「父上、ザラは今や貴族の間でも英雄と呼ばれています。 彼の功績によってナルセ家が更に注目されているのは周知の事実。 そんな時に中止などすれば、何と言われるか御理解していますか」
「確かに注目はされている。 しかしそれは決して良い事であるとは言えない。 ……我々は王族を守護し、どの勢力にも加担しないことでこれまで衝突を抑えてきた。 だが、ザラはそれを無視してハヌマーン様の勢力に加担している。 それも筆頭と呼んでも過言ではない程にだ」
ナルセの家は不干渉を掲げていた。
何処の王子の味方もせず、王族の生命が脅かされれば矢面に立ってその身を守る。それが歴代のナルセ家が徹底した貴族社会との関り方で、実際にそのお蔭で不必要な衝突を避けることにも成功していた。
結婚相手も政略以外の方法で選ぶことが許され、マリアという人間と結婚することも出来ている。――だからこそ、歴代のナルセとは異なる接触を是としたザラにネグルは否を突き付けた。
それはナルセの家名を持つ人間のするべきことではない。貴族社会と呼ばれる怪物犇めく海を泳ぐには、なるべく関りを少なくして最低限を維持するだけで良いのだ。
それ以上に接触し、何処かの貴族の味方をするようになれば、最終的に待っているのは他の貴族との衝突である。
戦うだけで全てが解決するのであればナルセ側にとって問題は無い。だが、貴族の戦い方と呼ばれるものはもっと弁舌を尽くした腹黒いものだ。
毒を仕込み、子息子女を脅しの道具とし、利権を利用して、更には美貌すらも一つの武器として栄華を求める。
貴族の生活は平民にとって羨望するものだが、貴族として一度でも生活した人間であれば決して羨むべきものではないと覚ってしまう。
さながら真鍮に金鍍金を施したが如く、煌びやかな生活は表だけ。裏側の醜さをよく知っているからこそ、ナルセはそれを嫌悪した。
何たる愚かさ、何たる醜さ。とてもではないが見ていられない。
「最早我々が貴族社会に深く参入していくのは避けられない。 その過程で無数の人間が我々に群がるだろう。 良からぬ企てをする人間も増え、その対処に一々奔走しなければならないのだ。 ――それがどんなに時間の無駄となるか、お前達にも解るだろう?」
「…………」
ネグルの言葉には一理があった。
ネルもノインも厄介な貴族を見て来たが、関わるだけでも面倒だと思っていた。己を磨くのではなく他者を引き摺り落とすその姿は、成程醜いと言わざるを得ない。
そして、そんな連中にいくら言葉を尽くしたとしても届くことは無いのだ。喚き、更なる策を行使し、説得する人間すらも破滅させて贅を手に入れる。
誰が関わりたいと思うのか。誰だってそのような危険な人間達と同じ組織に属したくはないであろう。
ネルはそれを聞き、一度目を閉じる。父親の言葉を反芻して、それでも彼の軸は揺らがない。
「だからザラに殊更冷たくしたのですか。 騎士として大成出来ず、存在そのものがナルセ家の弱点となり得るからと」
「……否定はしない。 私の才を受け継がなかった者があの世界を生き残れるとは到底思えん。 せめて殺してやるのが、最後の慈悲だ」
「貴方の息子なのですよ! 守るのではなく殺すのを慈悲とするなど、それが親のやることですか!!」
「他の貴族であればもっと酷な扱いをする」
「それは他の人間の価値観です! 我が家の価値観ではない!!」
机を叩き、珍しく激昂した声をネルは放つ。
他者の価値観に惑わされず、己の価値観でもって全てを決めるべきだ。常識と倫理を弁え、愛と勇気を持ち続けた者こそが人間である。
己の子を殺すことを是とする人間を、ネルは親とは認めない。
自分達だけが生き残ることだけを願い、行動する人間をネルは同じ人間だとは認めない。自己保身に走っている時点で、結局ネグルのやっていることは他の貴族と一緒なのだ。
忘れるなかれ。忘れるなかれ。忘れるなかれ。――お前は何の為に生きて、何の為に騎士になることを望んだ。
最初の頃、ネルは兄弟に対して然程関心を寄せてはいなかった。それは純粋に自身の技量を磨くことに専念していたからであり、父親の期待の応えたかったからだ。
それによってノインと衝突し、結果として初めての兄妹の語らいは剣によるものになった。勝者はネル本人であったものの、その後にザラと二人で話をしてから彼の視界には別のものが入るようになったのだ。
――ネル兄様は、人形のような生活をしていて楽しいですか。
衝撃だった。己は意志を持っているのだと思っていた心に、その言葉は今も確かに響いている。親の期待に応えるだけではなく、真に胸に宿った夢の為にお前は走っているのかと聞かれたようだった。
だからこそ兄妹二人の有り様は新鮮で、半ば引き摺られるような形で三人一緒に過ごすことも増えていく。一緒に訓練をすることも増え、一緒に食事を摂ることも増え、ザラを中心として兄妹は兄妹として固まった。
そこに親の意志は無い。あるのは、ネル本人の意志だけだ。
騎士になりたいのは二人の輝く目を見ていたかったから。人々を守ると宣言する弟の背に、確かな憧れを抱いたから。
故に親の言葉に彼は傾かない。絶対深度に到達した想いの前では、親の言葉はあまりにも軽い。
されど、そんなネルであっても重いものを抱えている人間が隣に居る。これまでは沈黙を続けていたノインは、一度途切れた会話の中に差し込むように言葉を放つ。
「どうあっても、父上はザラ兄様を認めはしないのですね」
「当然だ。 あれを私達の子供として見るには、あまりにも欠如した部分が多過ぎる」
「それは母上も同じですか」
「……あまり何かを言うつもりは無かったけれど、そうね。 ネグルの言葉に私は同意します」
瞬間、無の表情に亀裂が走る。
その亀裂は弧を描き、笑みの形へと歪に変わっていく。その笑みが向く先は、当然ながら彼女の両親だ。
無垢な輝きは狂気の色に染まり、割れた笑みからは嘲笑が響いた。何処までも何処までも他者を嗤うその様は、悪女であっても裸足で逃げ出すような恐ろしさを内包している。
室内全体に狂気と殺意が流れ込んだ。広い部屋であるというのに一瞬で全てを染め上げ、あまりの悪感情に侍女達も顔を青褪める。
そこに、ナルセ家の令嬢の顔は無い。
あるのは、一人の男に想いを寄せる女の顔。唯一無二の男の為に深みを目指す、愛に狂った騎士だけだ。




