最終章:近く遠い場所
漂っていた意識が徐々に徐々にと浮上していく。
身体に流れる血を感じ、柔らかい物に触れていることを自覚し、意識は急速に覚醒へと近付いた。
目を開く。微睡みもない目覚めは酷く唐突で、新たに眠気が襲い掛かってくることもない。瞳は簡素な木材で構築されたあばら家を映し、上を見れば小さな穴が幾つも開いている粗悪な屋根がある。
寝ている場所は動物の毛皮で作られたベッドだ。理解したと同時に生臭さが鼻につき、身体が動く。
されど、その直後に全身に痛みが走った。動くことを拒絶したくなる程の激痛は過去最高で、生臭い布団が途端に最高級のベッドに思えてしまう。
そのまま碌に掃除もされていないベッドに頭を付け、先程までの記憶を思い返す。
穴から落ちた俺に意識は存在しなかった。助かる道理は何処にもなく、例え助かったとしても何かの異常が身体に起きてもおかしくはない。
自分の手や服を見る限り、身体はそのままだ。
痛みすらもそのままで、激痛から察する睡眠時間は恐らく一日か二日程度だろう。落ちた先で別の空間と繋がっていなければ無事ではいなかったであろうし、ならば先ず最初にすべきは場所の確認だ。
試しに一言二言口にしてみたが、喉は死んではいない。今から叫べば此処に運び込んでくれた人物が来てくれるかもしれないと考えるが、その前に粗悪な木の扉が開かれた。
入って来たのは黒髪の青年だ。特徴らしい特徴も無い青年は此方を見て、瞳を大きく見開く。
そのまま小走りで外に出て、罅の走ったガラスのグラスに入った水を持って来た。それを青年は無言で差し出し、急速に乾いた喉を自覚して水を飲む。
それは決して良い水ではなかった。後程体調が悪くなるかもしれないと思いつつも、それは間違いなく命を繋ぐ水だ。
全てを飲み干し、惚と息を吐く。
「あの、大丈夫ですか?」
落ち着いた所を見て、初めて青年は声を掛けてきた。
その声は想像以上に優し気で、普通の顔にも似合っている。そのまま伝えれば傷付けてしまうだろうが、戦う人間ではないだろう。
「ああ、すいません。 どうやらご迷惑をお掛けしてしまったようで」
「いえいえ。 ……ですがどうしてあんな場所に倒れていたのですか?」
「……失礼ですが、私は何処で倒れていましたか? 前後の記憶が実は無いようでして」
それは、と心配をより強めた瞳で青年は語る。
俺はこのあばら家の近くにある小さな湖に浮かんでいたそうで、他に回収出来た物は遺産である雷剣だけだ。
薬品は軒並み消え、衣服も勿論無事ではない。確認すれば解ることだが、上着も含めて全ての衣服に金属板は無い。あるのは本当に裸を回避するだけの最低限の機能だけだ。
近くで事件が起きたという話は聞かず、俺の身元を証明する物も一切無い。怪しい人間ではあるものの、青年は一人暮らしであることも相まって回収してくれたそうだ。
この家は青年が働いて貯めた金で作られた家だそうで、此処だけが青年の癒しの場所であるらしい。
「最近は奇妙な怪物が出てくるようになりましたし、そちらに騎士達が集中する所為で街の治安も随分悪くなりました。 お蔭で市民でも一定の武力を確保しないといけないんですよ」
「奇妙な怪物? 外獣ではなくてですか?」
「外獣? 何ですかそれは」
青年が俺を拾ってくれた理由は解った。
目の前の青年は純粋なお人好しで、最終的な被害も自分だけになるからと拾っただけだ。もしも悪人を救ってしまえば残酷な結末しか起きなかったが、存外この青年の運は悪くないのだろう。
そんな青年が口にした愚痴に今度は俺が反応する。
奇妙な怪物。そんな存在は外獣だと決まっているようなものだが、青年は酷く困惑した素振りを見せた。
まるで初めて聞いたような話だが、そんなことはない。外獣の名前も存在も世界中の人間が知っていて、意図的に隔離した状態でなければ絶対に耳に入る単語だ。
互いに困惑を滲ませ、どういうことだと思考に疑問が流れ込む。
もしかすれば、外獣の存在しない世界の果ての可能性はある。人間が開拓した大陸は数が多いが、地図で確認した限りでは全てではないと解っている。
であれば、俺が飛ばされた先は遥か彼方の国なのかもしれない。
痛む身体を抑え、強引に身体を起き上がらせる。
青年は必死に止めるよう告げていたが、自分の目で外の風景を一度見てみたかった。そんな俺の我慢に青年は肩を貸し、二人で扉を通って外を見る。
青年の住んでいる場所は大きな街の中だ。
ただし、街の中と言っても決して治安の良さそうな場所ではない。太陽が昇っているにも関わらず周囲は暗く、湿った空気が辺りに漂っている。
何の舗装もされていない道には糞尿が垂れ流され、当たり前の如く骨と皮だけとなった死体が転がっていた。
薄暗い道を歩く人間の恰好も決して上等な部類ではない。腰布一枚が多く、破れ放題の衣服が少々といったところだ。
間違っても自分が暮らしていた場所とは違う。スラムと呼ばれる空間は何処の国にも存在するものだが、このスラムは俺の知る場所の中でも最大だ。
「此処の、街の名前を聞いても構いませんか?」
「王都であるウラヴォスです。 今代の王様であるジョシュア・エーレンブルク様は自身の欲を満たすことだけに集中しているようで。 民の不安など二の次三の次ですよ」
「――エーレンブルク?」
その家名には聞き覚えがある。
いや、有り過ぎると言っても良い。何せその家名は、俺の知る王族の家名なのだから。
ジョシュア・エーレンブルクと呼ばれる人間を俺は知らない。しかし、この街で暮らす人間である青年は王の名前を常識的なものの如く語っている。
これがどういうことかと考える時間は一瞬だ。残酷的なまでの予測が脳内で瞬時に現れ、目を背けるなと突き付ける。
この予測を確実なものとするには青年に質問すれば良い。外獣を知らない事実に、俺の知らない王様の存在に、考えたくもない予測。
三つの疑問は、酷く簡単に紐解けてしまうのだ。
「一つ、質問をしても構いませんか?」
「ええ、どうかしましたか?」
「ジョシュア・エーレンブルク様は、確か第何代の国王だったでしょうか」
「……おかしなことをお聞きになりますね。 ジョシュア様は初代国王の御子息ではないですか」
全身に稲妻が駆け巡る。
遺産とは関係が無いものの、巡った雷は幻肢痛を全身に発生させた。思わず力が抜け、青年と共に身体をよろけさせる。
咄嗟に足に力を込めて転倒は防いだものの、青年はやはり危ないですよと俺を元の部屋に戻した。
だが、その声に返答を出せない。思考は常に弾き出された結論を教え続け、どうするのだと質問をぶつけている。それがどんなに困難な質問であっても、何処までも何処までも思考は厳しく追及するのだ。
結論は出た。――お前はもう、あの兄妹の元に帰ることは出来ない。
ハヌマーンにも、ナノにも、ランシーンにも、ネル兄様にも、ノインにも、俺は再会する手立てを喪失したのである。
確かに死は避けられた。その時点で既に奇跡と言っても過言ではない。
だが、空間の果てがこうなると誰が予想出来るのか。もしも予想出来る人間が居たとするなら、どうか俺を家族の元に戻してほしい。
時は古代。人々がまだ何も知らず、正体不明の生き物に怯えていた時代。
そして、愚かなる王による乱れた治世があったとされる最悪の時期だ。俺はあの穴を通って過去に遡り、如何なる道理か生き残ってしまったのである。
首都ウラヴォスは外獣の大進撃により滅び、その果てに人々は遺産を発見してその能力で滅びた首都を取り戻す。
悪政の王を倒し、外獣を退け、民衆の先頭を進む人間。
国家の王を長く続ける一族が生まれたのは、正にこの時代からだった。




