第七部:騎士が消えた日
崩れた大地の下にあったのは巨大な穴だった。
この付近にある全ての自然を飲み込む勢いの穴は容易く環境を破壊していき、直ぐに足元の地面も割れる。
割れた大地は穴に近付く程に更に崩れ、最後には細かい砂に変わって吸い込まれた。その砂が最後にどうなるのかなど、俺達ではまったく想像が付かない。
全員が穴の範囲から抜け出す為に跳ねる。
まだ完全に崩れる前の大地を蹴り、時折欠片すらも足場にして移動を続けた。だが、これまでの穴とは異なり吸引力が働いている。吸い込む力はこれまで体験がしたことがない勢いで全てのものを飲み込み、その所為でゆっくりとしか進まない。
何処の足場を使うのかに悩む時間は一瞬だ。それ以上を掛けてしまえば足場そのものが無くなってしまう。加え、一度でも足場が完全に消失すれば俺達の生命は保証されない。
足場に意識を向けねばならないが、上空からも妨害は発生する。
具体的には岩や木々で、俺達が向かう次の足場に降り注げば負傷は確実。
この状況で怪我を負うことは落下を意味する。最低でも足を潰されないことを条件に進み、俺や師は障害物を各々の手段で撃ち落としていった。
穴の発生地点は地中深く。空中に浮かばせる以外にも地中で起こせるなど、流石に予想は出来ていなかった。
空間が無ければ使えないと思っていたのだ。隙間の無い土の中に穴を展開し、強引に空間を作り上げるなど一体誰が予想出来るのか。
発生させた張本人たるアーサーは穴の縁で動かずに横たわったままだ。死んでいるのか生きているのかも解らない状況であり、今も動いているのであれば生きていると俺は見ている。
兎に角脱出だ。遠距離攻撃手段を持たないネル兄様を先に走らせ、俺と師で障害物を取り除く。
ネル兄様本人もそれに協力したい素振りを一瞬だが見せるも、此方が必死に首を左右に振ることで直ぐに前を向かせた。
議論している時間は無いのだ。少しでも早く穴から抜け出す為にも、今はアーサーの命よりも自分達の命だ。
「――ッぐ、ますます勢いが増した!」
「足場の落下も早まっています! 急いで!!」
「解っている!!」
最早敬語のけの字も無い。
焦燥が支配する中で懸命に進み、雷光の如き速度で帰り道を作り上げていく。厄介なのは足場の強度が思った以上に脆いことだ。
雷を浴びせれば簡単に障害物は砕けるも、身体から漏れたものでも破壊される場合がある。
その所為で体勢を崩すこともしばしば起き、想像を超える繊細さを要求された。雷を一部の隙も無い状態で全身に纏い、身体を焼く感覚を務めて無視しながら移動を繰り返す。
ゆっくりと、だが着実に。縁に近付き、そこで初めて穴が拡大を続けていることを覚った。
急速と呼べる程ではない。しかし確実に被害を増やしていき、最終的な規模が何処までいくのかが解らない。ネル兄様が先ず最初に着地し、次いで師が無事な地面に足を付ける。
残るは俺だけ。この分ならば十分に間に合うと――――そう思った直後に背後から殺意を感じた。
咄嗟に前ではなく横の足場に移動。目を動かせば、俺の居た地点に極太の針が通っている。その針は見知ったもので、何本も同じ物が俺目掛けて襲い掛かった。
アーサーの用意した巨人が持つ針だ。
肌から一定の距離までしか伸ばせない筈のそれを一体どうやってと目を向けると、首の無い巨人が自身から生えた針を引き千切って投げている姿が見えた。
そして、巨人の肩には既に動くことも不可能な状態のアーサーがへばりついている。
巨人が保有する脅威極まりない再生能力を限界まで酷使し、無理矢理繋げているのだ。ただしそれは一時凌ぎに過ぎず、肉塊のアーサーの全身からは今も血が流れている。
『アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァァァ!』
狂気に支配され、最早思考能力すらも持っていない。
あるのはただの殺意のみ。己をこんな惨めな状態にまで追い込んだ連中を生かしてなるものかと、死に行く身体に鞭を打ち続けている。
しかし、本人の意志とは別に巨人そのものの再生はまったく追い付いていない。
無事なのは繋がっている部分だけで、針を投げた場所から肉と骨が見えている。あれでは投げ続けている内に骨も残らなくなるのは目に見えていた。
だからこそ、俺が狙われている。
全員を殺すことを目的としつつも、殺し易い者から順番に狙うつもりなのだ。このまま逃げに徹すれば師も兄様も狙われないが、縁に辿り着けば三人全員が狙われる。
そして、死を前提として戦う者の力は尋常ではない。
針が異常に肥大化し、既に足場を多く巻き込みながら俺に集まっていた。回避を選択すれば縁に登る足場が壊され、そのまま足場に向かえば背後から針に刺される。痛みには耐えれるが、針の太さから判断するに命中すれば即死。
故に、もう俺の選択は決まったようなものだった。
必死に此方に手を伸ばすネル兄様を視界に収め、諦観の笑みが漏れる。
移動先を反転。迫り来る針達を僅かに残った足場を使って円を描くように避けていく。だが、避けられたと判断した瞬間には次の攻撃が迫り、縁へと辿り着くことを許さない。
アーサーは狂喜を顔に浮かべている。俺が逃げなかったことに、天にも昇る程の喜びを抱いているのだ。
この穴から脱するにはアーサーと巨人を繋げている場所を直接破壊するしかない。その頃にまだ足場が残っているかも解らないが、それでもやらねば俺に生は無いのだ。
背中から雷を放ち、襲い掛かる針達の中でも小さいものを撃墜させる。大きい物は軌道を僅かに動かす程度だが、それで十分隙間が出来上がった。
意識を落す。これまでの中で最も集中し、数十もの針の間を通過する。
狂ってはいても俺の行動は突飛なものだ。アーサーは一瞬だけ驚き、されど手を緩めずに今度は一番使い慣れている火で巨大な蛇を放つ。
しなる身体を予測するのは難しい。
しかも厭らしいことにこの蛇も足場を崩すことに重点を置き、移動先を制限している。穴の吸引力を無視した動きは生物的で、本当に炎の蛇が実在しているかのようだ。
触れるだけでも火傷は確実。大口を開けて襲い掛かる身体を落下中の小さな足場を使って薄皮一枚で避け、ネル兄様達とは正反対の方向に進む。
穴が発生している地点は丁度ネル兄様達とアーサーの中央だ。途中までは勢いを殺されることなく進めたが、敵に近付けば近付く程にやはり足は遅くなる。
その身体を雷を使って強引に進め、肉の焼ける音を聞きながら――――薄くなっていく意識を繋ぎ止めていくことが出来ていない。
触覚は最早殆ど死んでいた。自分が剣を持っているかどうかも定かではないし、視界は遠のいている。
倒せたとして、自分は果たしてどうなるのだろう。
そんな未来を深く考える余地さえ、今や残されていない。漸く足元にまで近付いた頃には疲労で足が上手く動かせず、されど巨人が両の掌から射出する針を渾身の思いで避けて跳ねた。
狙いは繋がっている部分。細く小さな肉の糸とも呼べるものへ、俺は剣を振り上げる。
その糸は呆気無く切れ、途端に巨人は糸の切れた人形の如く倒れた。
倒れる先は穴。巨大な肉の塊はゆっくりと身体を傾け、されど死体である筈の腕が最後に俺の足を掴んだ。
唐突に身体を引っ張られ、それに抗う力を俺は持っていない。足を掴む力は緩い筈であるのに、まるで万力で掴まれたように外れてくれないのだ。
足場達をその巨体によって破壊し、一緒に落ちていく。
景色がどんどんと遠くなっていき、周りを見渡せば最早足場らしい足場は見受けられない。
「―――――!! ――! ――――!!!!」
誰かの叫び声が聞こえた。
それが誰のものなのかは今の俺には解らない。度重なる回復と破壊によって摩耗した身体からは力が抜け切り、手を伸ばすことも出来ていなかった。
この穴の先に待つのは何なのだろうか。
永劫に続く空間なのか、何処か別の大地なのか。自分が生きていけるかも解らないまま、瞼は無意識に閉ざされた。
出来ることならば、どうか生きていたい。
贅沢を言うのであれば、兄妹達が近くに居る場所であってほしい。
最後の望みを胸に、身体は沈んでいく。沈み、沈み、沈み、沈み――――意識はそこで切れた。




