溶解液
鉄錆の臭いも充満せず、ましてや腐臭の臭いも存在しない。
だが、確かに紫のヤドカリを撃破しようとした人間達は居た筈だった。ザラが敵の攻撃を引き受けている間に移動手段である足を破壊してもらう予定だが、その予定そのものが一瞬で文字通り溶けて消える。
口から湧き続ける泡からは黒い溶解液は出ず、発射したのは背負っていた竜の顔の甲殻から。
それも弾丸のように一瞬ではない。一筋の線となって冒険者達を襲った溶解液は警戒をしていても決して簡単に避けられるものではなく、ましてや冒険者それぞれの質は均等ではなかった。
避けられる者も居れば避けられない者も居る。
盾を犠牲にその場から離れた者や俊敏に回避した者達は突然の攻撃に汗を拭き出し、回避出来なかった者達は総じて何も残さずに黒い液体と同化していった。
阿鼻叫喚すら残さない。
正しく人間が生きた痕跡を消す攻撃に、改めて相手が尋常ではないと認識した。
少なくとも、これで溶解液が出せる箇所は二ヶ所。他にも隠している穴が存在すれば、迂闊に近付くのは死を招くだろう。
加え、相手はそれを理解しているのかゆっくりとした足取りを崩さない。
ただ一直線に街へと向かう様は、さながら動く要塞そのものだ。それを攻略しようとするのならば、やはり危険は犯す必要が出てくるだろう。
ザラは突然の溶解液に一瞬、思考が空白に染まる。次いで湧き出るのは、明確な怒り。
誰も死なさない選択肢を取ることは出来ない。それを選択した時点で叶う事など絶対に無いのだ。
夢物語は夢物語だからこそあらゆる希望が叶う。
そして、それを夢想した時点で叶う道理は最初から無い。あったのならば、既に世界は平和になっているだろう。
生きている限り、何らかの悪意は自分に向く。
それを理解して、だがどうして納得せねばならないのかと彼は内心で絶叫を上げる。
只人を護る。それは騎士としての使命であり、故にその命を理由無く摘み取る存在は許されない。
腕の鈍痛は健在だ。攻撃しても彼の筋力では関節すら切断は難しいだろう。
ならばと、足は前に。
――何処から攻撃が来るのか解らないのならば、相手の全方向を警戒するッ!
何処か一部分だけを気にするのではなく、全身を警戒する。
何処から発射されても回避は出来るように速さを一段階落とし、なるべく飛び跳ねる行動をしない。
跳ねればそれが隙だ。例え死神の鎌が横切ろうとも、絶対に跳ねてはならない。
走り始めたザラに向かって溶解液が発射される。後方の直線的な攻撃ではなく、種類としてはやはり弾だ。
身体の構造的にそれ以外は出来ないのだろう。
視界で捉えられるか否かの瀬戸際で身体を左右に振り、時折跳ねた液体の一部が服を僅かに溶かす。
その下にある特注の金属板ですら容易に溶け、いとも簡単に素肌を晒すことになった。
大剣の一撃でも貫通しない頑丈な金属板だが、溶解液にそんな事はどうでも良いのだろう。
殺傷力の面ではこの溶解液の方に軍配が上がる。この液体の前では如何なる盾も防具も意味を成さないのだと結論を弾き出し、一発一発に過剰な程の注意を注ぎながらヤドカリの周りを駆け抜ける。
次第に彼が走り抜いた周辺には液体の水溜まりが生まれ、土も草も溶かして平坦な地面を作り替えていく。
最初は小さい範囲の地面が、最終的には増え続けた溶解液に地面が耐えられないとばかりに一気に形状を変えていった。
だが、それでも彼の動きに変化は無い。
進むべき道が多少困難になった程度。接近し過ぎず、その上で叫ぶ。
「誰かッ! この隙に足をッッ!!」
注意は今も彼に向いている。背後にも回る事で甲殻から溶解液が放たれるが、その攻撃すらも彼を捉えられない。
だが、跳ねた液体が彼の外套に当たる。何の防護も施されていない外套は一瞬で溶け、肌に付く前に彼はそれを脱ぎ捨てた。露となったその相貌は――冒険者の殆どが予想外なものだ。
身長の低さからもしやとは考えていた。だが、世の中を巡れば背の低い人物も居るからと彼の年齢をまったく考慮していなかったのである。
今初めて、その相貌が見えた。見えてしまった。
青年らしさとは無縁の、まだまだ幼い相貌。雄々しき声によって最大でも青年程度だと思っていたその顔は、まだまだ大人が庇護せねばならない程に若い。
そして、その若い少年がこの場の誰よりも率先して前に出ていた。
一撃でも命中すれば即死の空間で、確実に服や金属板を溶かしながらも他の冒険者達が攻撃してくれると信じている様に、誰もが胸に火を灯す。
一度目は失敗した。相手の攻撃は未だ途切れず、既に身体の質量以上に溶解液を吐き続けている。
この溶解液が何処で終了するかも定かではない。――――だが、少年を見よ。
今この瞬間において、少年は何処までも冒険をしている。未知の相手を前に絶対に仕留めようと犬歯を剥き出しにして走り、諦観からあまりにも離れ過ぎていた。
やれるはずだ。生きているのなら。
全身から発するその言葉に、冒険者の誰もが一度は止めていた足を動かした。
「弓持ってる奴は負傷者の回収に専念しろ! 小回りの効く奴はあの子供と一緒に攪乱! 大物持ってる奴は足を切れェ!」
諦め、何もしないのでは冒険者として失格だ。
自分達は目の前で足掻く少年よりも経験を積んでいる。その力でもって難敵を撃破せず、どうして冒険者などと声を大にして叫べるのか。
ランク六――ウッディの声は全員に届いた。
その言葉を合図に全員が動き出し、遠距離武器を持っている者以外は敵へと殺到する。
最初に前に出るのは片手剣使い。重い装備を纏わず、ザラ同様に重要箇所だけを護る装備は速さを求める現在において非常に有用だ。
目視で完全に捉えた訳では無いものの、件のヤドカリの溶解液の飛び方は理解出来た。
あのヤドカリそのものに予測して液を撃ち出すことは出来ない。速さは尋常ではないものの、立っていた場所を狙うのであれば回避は然程難しさはなかった。
「……ッ、硬いな」
だが、それで相手の懐に飛び込んで刃を叩きつけても、片手剣ではヤドカリの殻を破壊出来ない。
これは関節を狙っても同じ。やはり何処を破壊するにしても、身軽な装備ではこのヤドカリの足を止める事は不可能だ。
瞬間、刃を叩きつけた片手剣使いの元に鋏が迫る。
薙ぎ払いの要領で放たれた攻撃を跳ねることで回避するものの、その目の前にはヤドカリの頭部。
既に液体を吐き出す準備をしており、それを見た片手剣使いの表情は青褪めた。
だが、発射されるよりも前にウッディはヤドカリの懐に飛び込む。背負った状態から大剣を一気に振り落とし、右足の根本を更に一本切断した。
途端にバランスを喪失した身体が右に沈む。そのお蔭で発射された液は片手剣使いから外れたものの、僅かな液体が無意識に構えていた盾に付着する。
溶ける音と共に盾には無視出来ない大穴が開いた。
まだまだ完全に使い物にならなくなった訳では無いとしても、それでもこの大穴で防御をするのは難しいだろう。
棍棒で殴られればその穴を中心に一気に割れる可能性がある。ならばと、片手剣使いは盾を早々に捨て去った。
新たに根本を切断された所為でその部分から液体が漏れる。
左側の足は健在ではあれど、右足は残り一本。これでバランスを維持させるのは不可能であり、どれだけ力を込めても右側の足一本で支えられる重量ではない。
必然、ヤドカリは動作を停止。鋏を警戒するように空中で彷徨わせるものの、それ以外では特に何か行動を起こす気配は無くなった。
後は自然に溶解液が抜けるのを待てば良い。鋏の脅威は健在であるものの、一切の行動が出来なくなった生物など何も捕食出来ずに飢えて死ぬだけだ。
「よ。 お前さんよくやるな、感心するぜ」
「ありがとうございます。 そちらも足の破壊、お疲れ様です」
「おう。 後は、まぁ様子見だな」
「ええ――何?」
警戒をする必要はあるものの、これで終わり。
誰もがそう思った。ザラも、ウッディも、それ以外の誰もが溶解液を回避出来る程度の距離を取って安堵の息を吐いていたのである。
しかし、ヤドカリとて生きているのだ。生物の生きようとする意思は決して生半可なものではない。
左足と右足が動く。交互に土を掘り返し始め、その身体を地面内部へと潜らせる。
させるものかと冒険者達が向かうが、接近させぬと鋏を左右に振るって足を止めさせた。
最終的にその身体は全て消え、僅かな地響きだけを残すことになる。何処に行ったと誰もが視線を左右に動かし続けるも、件のヤドカリが出てくる気配は一切無かった。
まさか逃げたのか――いいや、そんな都合の良い出来事が起きる筈も無い。
「下ッ、!?」
ザラの真下から一瞬だけ地響きが鳴った。
身体を反射で真上に跳ね上がらせ、そんな彼を追いかけるように竜の甲殻が口を開けて地面から飛び出す。
口内には既に液体の姿。今から発射するのは誰がどう見ても必然であり、距離を取ってしまったが為に身体をずらせることも不可能。
ザラは目を見開いた。驚愕と焦りに支配された頭に、一切の勝機は思い浮かばない。