才媛
一ヶ月。
それだけの期間が既に流れている事実に、我が事ながら非常に驚いている。
決して衝動に任せた訳では無い。決して無計画であった訳でも無い。だが、あの両親は家の汚点を潰す為に全力をあげるだろうとも考えていた。
その為、此処に住みたいと思ってはいても実際は上手くいかないだろうと心の何処かで不安を抱えていた。
実際はどうだ。まだたった一月程度だが、逆に言えばもう一月。
親や兄妹が迫って来る気配は微塵も感じ取れず、今も平穏無事に冒険者として生活してこれている。
薬草採取の仕事も終わらせ、更に追加で二つか三つ程度の仕事を達成した俺の懐は決して貧しいものでは無くなっていた。
だが、俺の居る宿屋には同居人のような人間が居る。
黒髪赤眼の女性。年齢で言えば間違いなく俺よりも年上の彼女は、突然親から捨てられたにも関わらず平民としての暮らしを楽しんでいた。
彼女との共同生活によって出費は格段に増えている。これまでは一人分の食費で良かったものが単純に二人分になったのだ。冒険者としての報酬金だけでは貯金は難しく、されど彼女自身俺の報酬金に頼り切ることを是とはしなかった。
彼女が冒険者として活動するのは不可能だ。それは彼女の身体の細さや、本人が身を護る術を知らないという情報を聞いた事で此方も把握している。
その上で金を稼ぐとなれば、やはりどうしても普通の方法では無理だ。――だが、彼女はその無理を自身の知識でもって解決させた。
「今日も凄い人気でしたね」
「まぁね。 やっぱり何処でも教養は必要よ」
彼女が始めた事は満足に学園に行けない子供達を対象とした教育だ。
名を偽り、髪を切り落とし、その髪を売った金で機材を用意してこの街で子供達が多く居る区画に向かったのである。
この間、僅か三日だ。あの衝撃的な出来事を体験しても、彼女は塞ぎ込む事無く確り生を求めていた。
己が受けた教育をそのまま子供達に教える事で将来の役職を安定させ、国単位で文明を発展させる。
そんな事は考えたことも無かった。だが同時に、実に貴族らしい考えだとも思ったのだ。
就職をすれば嫌でも計算や文字が必要となってくる。それを利用しない職は皆無と言っていいかもしれない。
最初の時点では、それで金を稼げるようになるまで時間が掛かると二人で考えていた。
教室の存在しない場所で、粗い紙を用意しても教育には金が掛かる。
それは世間一般の常識であり、貴族でも無言で首を縦に振るものだ。金貨を何百枚と積む事も日常で、当たり前ではあるが平民にそれを用意することは出来ない。
もしも無料で教育を施そうとするのなら、それは詐欺師であるだろう。
彼女が初めて行った際には子供は一人か二人程度で、その子供達も決して真面目に聞いている訳ではなかった。
それが変化したのは二週間が経過した頃。俺が仕事を終えて戻った頃に、彼女は複数人の子供に襲われていた。
実際はじゃれ合っていただけであるが、それでもスカートを捲るような行為は女性的にはまったくもって喜ばしいものではないだろう。
「まさか作法講座が有効だったなんて思わなかったわよ……」
「まぁ、子供達にいきなり計算を教えても退屈するでしょうしね」
彼女は子供達の行為に酷く激怒した。遊びも抜きに、子供達の親に文句を言われるのも覚悟で説教をいきなり始めたのである。
その後に最低限の作法を教え、結果的にそれが成功した。
暫くした後に子供達の親が現れ、彼女に向かって感謝を告げたのだ。普段から暴れん坊の気質を持っている息子が女の子に対して少し程度でも優しくなったと。
人の口に壁は立てられない。一度でも良い噂が流れれば、自然と自分も自分もと子供に作法を教えようとする親は続出した。
だが、彼女にも限界がある。一度に教えられる人数に制限が掛かるのは自然なことで、それでも教えて欲しいと願う親達は彼女に金や食料をあげ始めた。
「これで銀貨十枚。 中々に良い結果だわ」
「既に私よりも稼いでますね。 流石です」
「貴方が助けてくれたお蔭よ。 最近は依頼の無い日に護衛役もしてくれるし、迷惑を掛けてばかりね」
「構いませんよ。 それに、お金もいただいていますから」
まだ俺自身のランクが低いのもあるが、稼いだ額は彼女の方が上だ。
最近は人が増えた事で彼女の注目度も上がった。冒険者ギルドでも彼女の話題が出る事も度々あり、中には彼女の美しさに惚れている人間も出てきている。
これが僅か一ヶ月などと、到底信じられるものではない。驚異的な成果を叩き出す彼女を見ていると、どうして捨てられたのかが俺には一切解らなかった。
だが、何も良い結果ばかりが俺達に与えられた訳ではない。
これだけ有名になれば彼女を殺したと思っている実家の人間が探しに来る可能性も否めないし、現に貴族の従者らしき人間も複数発見している。
その度に俺が記憶しているのだが、今の所は彼女の知る人間は居ないらしい。
「私は明日仕事に向かいますが、ナノ様はどういたしますか?」
「様は止めてって言ってるでしょ、フェイ。 ……明日はお昼まで作法講座で、そこから先は計算ね」
「解りました。 一応ですが、警戒の為にナイフの携帯をお願いします。 出来れば別に護衛を雇いたいですが……」
「そんなお金は無いし、誰かを雇う気は無いわ。 知っているわよ、冒険者がこっちに色目を向けているの」
「……ご存知でしたか。 貴方は美しいですからね、どうしても視線を集めてしまいやすいです」
「そういう御世辞は止めて頂戴。 本当ならもっと砕けた口調で話して構わないんだからね? 貴方が普段はそういう口調ではないのも知っているのよ」
「善処致します」
こうして宿屋で一緒に寝るのも自然となった。
最初は別々の部屋にする予定だったが、当の彼女がそれを拒否して一緒の部屋で寝ることになったのだ。
ただしベッドは彼女が使うようにと説得し、俺自身は自前の道具が入った麻袋を枕にして寝ている。
最初はやはり硬い床の上ということで慣れなかったが、野宿と比較するれば屋根があるだけマシだ。女性と一緒の部屋は初めてではあるものの、緊張感は明日への英気を養う気持ちで無事に薄れてくれた。
一ヶ月という期間の中で俺達の距離は縮まっただろう。だが、忘れてはならないことがある。
俺と彼女の関係性は一時的なものだ。安定すれば別れると決めている以上、過剰に深くなる必要性は無い。
寧ろ外套が脱げない状況は決して良いとは言えなかった。
脱げるのは公衆浴場に立ち寄った時くらいなもの。彼女が俺の外套の中身を気にしているのは解っているが、だからといって安易に脱ぐつもりはなかった。
「それでは明日の準備に向けて少し買い物に出ます。 遅くなると思いますので、そのまま寝ていても構いません」
「解ったわ。 それじゃあ、ね」
宿から出て、足はそのまま市場へ。
夕方になるまでまだ時間はある。そろそろ無くなりかけていた保存食を買わねばならず、既に契約している依頼書の日数的にそろそろ始めねばならなかった。
依頼は畑を荒らす猪の駆除。数が二十と多く、このままでは作物が出荷出来ないとのこと。
怪我の可能性が薬草採取よりも高い為に報酬は高く、猪そのものは少しでも武器の扱いを理解していれば罠と併用して平民が殺す事も出来る。
今回の依頼人は老夫婦だ。作業中は家の中に居てもらい、その間に全てを撃破するつもりである。
途切れることなく依頼があるのは良い事だ。被害に遭っている者からすれば迷惑極まりないだろうが、それによって生活が成り立っている以上は一概に全員が平和になれば良いとは言えない。
「おいおい、聞いたか。 外の森でかなり危険な奴が出てきたってよ」
「どれくらいだよ? 既に依頼書は出ているのか」
露店を物色していると冒険者の声が聞こえてくる。
内容は不穏そのもの。外の森といえば、俺が初めて薬草を採取したあの森だ。あそこには外獣が存在していたものの、強いと思うような相手は居なかった。
そんな森で冒険者が噂するような敵が出現したのなら、余程の強敵なのだろう。
「ギルドの判定は八だそうだ。 少なくとも、この街じゃ一回も見たことは無いランクだぞ」
「八!? おいおい、この街にそれに対抗出来る冒険者が居るのかよッ」
「居る訳無ぇだろ。 今ギルドはランク五や六に調査を進めてもらいつつ、他の街から人を呼んでるよ」
「だが、そう簡単に貸してくれるか? ランク八って言えば、単体で街を堕とせるくらいだぞ」
「こればっかりは解らん。 だが、この街が交易に必要な街であるのは事実だ。 何処かが手を挙げるのは間違いないだろうよ」
ランク八。その言葉に何も感じないと言えば嘘になる。
だが、今の俺には何の縁も無い話だ。そのまま買い物だけを済ませて、再度足は宿に向いた。




