平民を求める貴族
早い時間に戻ってきた俺は幾つかの視線を受けながら宿屋へと戻る。
硬い木製のベッドの上に件の女性を寝かせ、一先ずは無事に戻って来れたかと息を吐く。
目覚めるまでは此処に居る必要があるだろう。起きた後もいくつか尋ねなければならないし、少なくとも放置をするという選択肢は存在しない。
剣を引き抜く。血に濡れた武器には生物の脂が張り付き、このままでは錆びてしまうだろう。
早急に布で脂を落とし、鞘に付いた土汚れも落とす。一年以上も振るい続けたからこそ、この剣が汚れに塗れてしまう姿を見たくはない。
薬草採取までの残りの時間は後二日。その間に彼女が目覚めてくれないのならば、危険を承知で彼女を置いてあの森に潜るしかない。
貧血状態の彼女が何か出来るとは思えないが、それで油断出来る筈も無し。
遺産の中には死ぬ寸前の状態から回復する物もあるという。彼女がそれを持ち歩いているようには見えないものの、遺産の形なんて千差万別。見えない形になっていると考えても不思議ではない。
結局、これからどうするのかの具体的な形なんて彼女が起きねば始まらないのだ。
ゆっくりするという行為に、俺は慣れていない。鍛錬に鍛錬を重ね、痛みと隣同士でいたからこそ、落ち着いた空間というものは酷く焦らせた。
自分が成長出来ていない時間は恐ろしい。それがずっと続いてしまうのが、震えてしまう程に我慢出来なかった。
落とすモノを全て落とし、時間が空けば筋肉トレーニングだ。
身体は資本とはよく言ったもの。確かに身体は仕事をする上で絶対に必要な要素の一つだ。
「……う、ん」
この日、彼女が起きるまでの間はひたすらに筋トレに精を出し続けていた。
何年もし続けたお蔭で身体が何処まで耐えられるかは解っている。故に加減をしながら、かつ限界までを見極めて行うトレーニングは楽しさしかない。
そんな時に彼女の声が聞こえ、トレーニングを中断させる。
うっすらと目を開き、周囲を確認するその様子は正常なもの。直ぐに意識を覚醒しないのは、それだけ貧血が酷かったということだろう。
その様子を見つめていると、彼女の視線とぶつかる。
唐突に視界に入った俺の姿に、彼女は目を丸くして上体を勢いよく起こした。
「あ、あなたッ……一体何者ッ!」
「何者かは説明出来ません。私は偶然貴方が怪我を負っている場所を通り掛かり、救出しただけですから」
「怪我? ……そうか、私はあの森の中で」
「ええ。 傷の形からして、刀剣類によるものだと思います。 何者かに追われていたので?」
「…………」
切り裂かれたと表現する通り、彼女の傷は誰かに斬られたような傷だった。
少なくとも動物では切り傷を作るのは難しい。乱暴で強引な傷口が出来るのが精々だ。知能を持った外獣であれば刀剣類による傷も頷けるが、それほどの外獣が居た場合この街は既に滅んでいる。
故に、人的な被害によるものだと結論を付けて彼女に質問をした。
それに対し、彼女は顔を俯かせる。何かがあったのは明白であるが、その何かはきっと彼女にとってかなり重い内容だったのだろう。
であるならば、それをわざわざ知ろうとするのは失礼が過ぎるもの。
「……解りました、此方も素性を明かさなかったのですから何も聞きません。 家に連絡を送りましょう。 貴方は貴族でしょうから、直ぐにでも使用人が迎えに来る筈です」
「――来ないわよ」
「……?」
何も聞かず、家の場所だけでもと尋ねた俺の行為を彼女はきっぱりと切り捨てた。
俯かせていた顔を上げ、再度俺を見る。先程と変わらぬ暗い顔をしていなかがらも、瞳には憤怒の炎が見えていた。
一目見て、それが決して良い方向の炎ではないと解る。
「私がこうなった原因は家の連中よ。 だから便りを送っても殺し屋が来るだけだわ。 お前はいらない子だってね」
――その言葉は、形は違えど俺も経験したことだ。
その違いと言っても、殺されかけたかそうでないかの違いだけ。俺も失踪せずにいたら彼女と同じような結末を迎えていたかもしれない。
彼女の存在がどのようなものかは不明だ。だが、同情出来ないものではない。
何か言葉を掛けようと思ったが、しかし彼女の目が慰めを求めてはいなかった。憤怒の炎は暗く、復讐に燃えているのは明々白々。
このまま放置したとしても彼女は何かしらの方法で生き永らえる。どうしてそう思うかは定かではないものの、しかし頭の何処かがそれを確信していた。
黒く長い髪に紅蓮の瞳。僅か九年とはいえ貴族社会に居た俺はしかし、他の貴族と会った機会はない。
故にその特徴的な部分を見ても何処の貴族かは解らなかった。
「これからどうするおつもりで?」
「そうね。 あの家の連中には何時か復讐してやるつもりだけど、先ずは生活を安定させないとこのままじゃ餓死だわ」
「そうでしょうが、貴方は貴族ですよね? 身元証明に必要な物が無ければ仕事に就くのは難しいですよ」
「そんなの解ってるわよ、馬鹿にしないで。 一先ずは冒険者をやるか、娼婦にでもなるしかないわね」
「……あの、貴方貴族ですよね?」
積極的過ぎる。
俺にとっての基準がノインであるが、だからといってここまで貴族令嬢が平民生活に積極的になるなんて普通では考えられない。
俺の問いかけに、令嬢は口の端をつり上げて笑みを形作る。
どう好意的に見てもその顔からは深窓の令嬢は想像し難く、さながら悪女だ。その顔を見れば誰だって関わりたくないと思うだろう。
彼女の境遇は同情するだけの余地があるが、かといって本人が然程悲観的になっていない。
寧ろ逆に離れられて良かったと表情が語っていた。そういった意味では、彼女の現状は決して悪い方向に進んではいないのだろう。
「そうだわ! あなた、今人を募集していない?」
「その先は予想出来るので前もって言っておきますが、一緒に行動するのは不可能ですよ。 これでも冒険者ですから」
「そんなに小さいのに?」
「冒険者に年齢は関係ありませんからね」
身長の問題は今後も抱えるだろう。もっと年を重ねれば身長も問題無くなると思うのだが、今この瞬間はもう仕方ないと答える他に無い。
彼女はそのまま部屋の周囲を見渡すが、そこに嫌悪の色はまるで無い。
元から平民になる事を狙っていたのかと思う程順応性が高く、この分ならば冒険者になっても薬草採取で生活出来そうだ。
「兎に角、貴方は女性です。 安易に娼婦になる道を提案しないでください」
「なによ、生活出来なければ結局死ぬのよ。 身体は資本でしょ?」
「病魔に侵されますよ。 苦しんで死にたくはないでしょう」
「それは……そうだけど」
彼女だって安定的に暮らせるならばそれに越した事はないのだ。
今は彼女自身の資金が無く、就業の為に必要な資格も無い。緊急性が高い故に、なるべく直ぐに資金を手にする方法を挙げただけなのだろう。
此処で彼女を見捨てた場合、俺に何も不利益は齎さない。そして見捨てなければ、俺に多大な不利益を齎すだろう。
合理的に判断するのならば、このまま彼女を外に放置すべきである。
――――だが、それをした時点で騎士として失格なのは言うまでもない。
師ならば此処で資金を提供するなり、安定して働ける職場を探してくれるだろう。俺にそれは出来ないし、自分自身にだって絶対的な余裕がある訳では無い。
「――解りました。 此処で会ったのも何かの縁です。 貴方が安定して暮らせるようになるまで、資金の提供をしましょう。 勿論、無理の無い範囲でですが」
「本当!? 有難い限りだわ!」
具体的な事情は解らない。もしかすれば嘘を吐かれているのかもしれない。
それでも、騎士として助けなければならないと心が訴えていた。