第1幕 -2
今にも雨が降り出しそうだ。
サラさんと別れた俺はトランクを抱えて、とある広場のベンチに腰掛けていた。
辺りでは子供たちが噴水の周囲で声を上げながら追いかけっこをしている。それをぼんやりと眺めて、深い溜息をつく。
ポルタ座だけが、静かだった。
街はこんなにも賑やかで、活気に満ち溢れていて、笑顔に溢れているというのに。あの扉の中だけが、まるで時が止まったかのように静寂に包まれていて。風が悲しげに花々を揺らしていて。
ポルタ座は何故衰退しなければいけなかったんだろう。こんなことになるのであれば、意地を張らずにもっと早くにこの街を訪れるべきだった。今更考えても仕方がないことなのだが、それでも悔やんでも悔やみきれず。
思えば自分はポルタ座の演目を1度しか観ていない。それでポルタ座を知った気になっていたのだ。
自分の至らなさに叫びだしそうになるのを必死に堪える。
純真な子供たちからは、何度も興味本位で指を指された。
「あのおじさん、ひとりで何してるのー?」
「こら、あまりジロジロ見ないの!」
子供の手を引く母親からの冷ややかな視線に耐えながら、俺は天を仰ぐ。
相も変わらず青空が覗きそうにないくらいに分厚い雲。余計に気分が落ち込んだ。
そんな大人がベンチで1人項垂れているのをよそに、周囲で騒いでいた子供たちが突然、一斉にとある方向へ嬉々として走り出した。その声はとても楽しげで。
あまりの騒ぎに思わず頭を上げて、彼らの向かう先に目線を移せば。
目を見張った。子供だけでなく、広場中の老若男女、誰もがそれに注目している。
流石に気になって、トランクを片手に、重い腰を持ち上げた。
なんだろう、この高揚感は。
信じたくはなかった。
自然と足がそちらに向かっていく。街ゆく人々、皆がそれを見上げていて。
この胸の高鳴りを、俺は確かに知っていた。
時代は繰り返される。
代わりなんて、いくらでも現れる。
ポルタ座はもうこの街には不必要な物なんだという事実を、突きつけられた。
中央に時計塔が備わった、巨大な板状の看板が人々の目線を釘付けにしている。
よくよく見れば、数十枚の独立した細かい板が集まって1つの大看板となっているようだ。
様々な店や場所の宣伝広告が所狭しと書かれていた。さながら街の大掲示板と言うわけか。
目を凝らしてその個々について見てみれば、老舗の呉服店の宣伝であろう文言であったり、幼い頃パフェを食べた百貨店の特売の知らせなども書いてあった。それだけでなく町内の運動会の日程やら、駅の列車の発着時間等。なるほど、生活に必要な情報も網羅されている。
しかしそれだけでこんなにも人が集まる理由が分からない。確かにこれほど大きな大看板は印象にも残るし、注目を浴びるのも分かるような気もするが。
首を傾げていれば、時計の針は今まさに正午を示そうとしていた。
軽快な音楽が流れると同時に人々はその時計台の周りに集まっていく。俺もその人混みの中に身体を滑り込ませた。
運良く見やすい位置を取ることができた。この場所からであれば看板が全面に良く見える。
音楽が鳴りやんだと同時に、観衆の目線は大看板の前に立った1人の男に注がれた。
「皆さん、今日という日にお集まりいただき、誠にありがとうございます」
拡声器を片手に堂々とした立ち居振る舞いだ。人前に出ることに慣れているようにも感じられる。舞台演者としてステージに立っても様になるような風貌と声質。
その証拠に俺のすぐ近くにいた2人組の女性も今この瞬間、顔を赤らめながらその男性の魅力について語り合っている。
演者を志す俺でさえもひと目見て、この男性の隣には並び立ちたくはないと思ってしまうぐらいに、彼の波及力は凄まじい。彼程に存在感のある人間はそういないだろう。初めて見えたにも関わらず、思いがけず目を奪われてしまうほどに彼は魅力的に感じられた。
「ご紹介に預かりました、私、電気館最高責任者、南條至と申します。本日は我が電気館の更なるステージをご覧下さい」
電気館。
聞き慣れないその言葉に俺は様々な思いを巡らせる。一体何が始まろうとしているのだろう。
南條と名乗ってみせたその男が言い終えると同時に、大看板が音を立て始める。辺りの人々からどよめきの声が上がった。ここにいる観衆の誰もが今から始まる出来事に胸を踊らせている。
――まるでポルタ座を訪れたあの日のように。
大看板はからくり仕掛けになっていた。
広告が書かれた小さな板が突然動き出し、少しずつ個々に分かれていく。順々に規則正しく回転し始めた歯車の軋む音が耳に心地良い。広告面とは逆側の真っ白な表面が現れれば、再び広告板は1つの大きな板状へと姿を変えていった。
大看板が動きを止め、一面が白くなったことを確認した南條は再び拡声器で観衆たちに呼びかける。
「準備は整いました。皆さん、しばし電気館の新たなる試みをお楽しみください」
暗い曇天の空の下、気がつけば固唾を呑んで目の前で起ころうとしている出来事を見守る自分がいた。
しばしの沈黙の後、一筋の光が大看板の白い画面に映し出される。それと同時にまるで日常の一部が切り取られたかのような物語が板上で展開されて。
『白い画面の中で、人が動いている』
率直な感想はまさにそれだった。
もっと複雑な、様々な感情が押し寄せたのもまた事実。しかしあまりの衝撃に開いた口が塞がらない状態で。
冷静になって注意深く眺めれば、幻影としてそれが大看板に映し出されているだけのことなのだが、まるでそこにその人物が実在しているかのような錯覚を覚えた。
酷く動揺した。こんなもの、見たことがない。
そういえば、1度聞き知ったことがあった。
都会では今、演劇やら喜劇を記録として切り取り残して、何度も見返すことのできる技術が発明されたと。その技術のおかげで、人々の娯楽価値観は大幅に広がりを見せたと聞いたことがある。
しかしそれは劇場の暗がりの中で静かに見るものであり、こういった屋外で見るものではないはずなのだが。
大都会から離れたこの街で、何故こんな最先端技術を披露できるのか。
この南條至という男が束ねる電気館という組織の技術力が計り知れないものであるということが、このたった1度の催しで、いとも簡単に証明された。
辺りから感嘆の声が上がる。目にしたことがない出来事に、信じられないと言わんばかりに人々からは拍手喝采が沸き起こった。
この場で展開されている事象に解説を入れるように南條が拡声器片手に話し始める。
「今まで電気館では、大都より取り寄せたフィルムを元に、様々な映像作品を所有会場にて皆様に提供してきました。大都より距離のあるこの街でも可能な限り最新作をお届けできるよう、我々電気館の部員一同は努めて参りました」
南條は映写される板面の様子を伺いながら更に続ける。
「大変ありがたいことに電気館は連日好評を頂いております。しかし1日あたりに上映できる回数と、席数に限りがあるため、現状では少数のお客様にのみ作品提供できている状況です」
そこで、と南條は言葉を切る。この場所からでは目視で良く確認はできないものの、どうやら部員に指示を出して別のフィルムを映写機に取り付けさせているようだ。
すると画面に映された人物の幻影は消え失せ、白い画面に文字が浮かび上がった。今までの電気館の取り組みが大看板の一面に分かりやすく映し出されている。騒がしい屋外という状況下で、南條の声だけではなく視覚でも内容を理解できるのは大変ありがたい。
「より多くの方々にこの素晴らしい作品たちを贈り届けたい。そう考えた私達は会場だけでなく、この大画面で作品提供を始めることに致しました」
広場に集った人々の群れが驚きと喜びでどよめく。南條は更に続けた。
「確かに屋外での提供は我が電気館の最高設備下でご覧頂くよりも、感覚的に劣ってしまうところがあるかとは思われます。しかし皆様に今まさにご覧頂いたように、この大画面で多くの皆様と楽しさを共有できること、この点については屋外視聴の最大の利点であると私は思うのです」
南條の説明としては以下、電気館での上映会に参加するためには従来通り抽選方式をとること、その抽選で漏れた人々は優先的に屋外での視聴権利を得られること、また上映についての料金が電気館で視聴する場合の料金よりも安価になることなどを上げた。
説明を終え、南條は事の結びとして言葉を発する。
「数年前のとある出来事を境に、この街では青い空が見えなくなってしまいました。当時をご存知の方々については心苦しく思うところもあるかとは思いますが、私はそんな街の難点を少しでも優位であるように見せていきたい。この街のいち居住者としても、微力ながらこれからも街の発展に貢献していけたらと考えております」
言い終えると同時に広場中から歓声が沸き上がった。あまりの声量にぎょっと肩がすくむ。その勢いに怯んでしまい、逃げるようにして人混みを離れた。
民衆の声援に笑顔で手を振り応える南條。この街での圧倒的支持率に、外部出身の俺はついていけない。
広場の端でその騒ぎを呆然と眺めていれば。
「君、他所出身?」
背後から自分へ向けて不意に投げかけられる問い。その声の主を求めて思わず振り返れば、自分と同い年ぐらいの青年がそこに立っていた。
こくこくと頷いて見せれば、青年は俺の隣に並び立つ。
汚れた作業服姿、ボサボサな髪の毛。自身に頓着が無さそうな出で立ち。
彼は南條に沸く広場の中心部を見つめ、目を細めた。
「僕もだよ。やっぱりこの街固有の文化にはついていけないや」
飄々とした様子の青年への反応に困りつつ、どういう言葉を投げかけようかと悶々としていれば、俺の心配もよそに彼は一方的に話し続けた。
「僕も所謂、出稼ぎ労働者だからさ。電気館なんて入れた試しがない。最も、お陰様で娯楽事なんて考える暇がないほど仕事で毎日忙しいし、1度も入ろうとしたことなんてないんだけれどね」
どこか電気館に対しての嫌味に聞こえたような気もして、俺はおずおずとその理由を尋ねてしまった。
すると苦笑とも取れる乾いた笑いを発して、彼は遠くを見つめる。
「あのからくり、僕が作ったんだ」
しばしの沈黙の時間。
その後、俺は実に間抜けな声を口から漏らした。
「あれを?」
先程まで動く人々を映していた、あの大看板を指差す。
「そう、あれ」
「あの、がしゃんがしゃん面が分かれる大きな看板を?」
彼は思わず吹き出した。
「何、その表現! でも、そうだね。あの大看板を設計したのは全部僕だ。あの看板を設計する時、電気館から自身の計画に賛同するように契約書に名前を書かされた。実質俺もあの集団の一員だよ。まあ、志云々よりも給料が良かったから引き受けただけなんだけど。政府公認の高額収入源」
さすが出稼ぎに来ているだけあって、貪欲な精神の持ち主である。心の中で感心していると青年は再び俺に質問を投げかけてくる。
「君は何をしにこの街へ来たの?」
「え?」
「何か決意を持ってこの街に来たような身なりだと思って」
確かに周りと比べれば、きっちりとした洋服に身を包んで、帽子まで被ってしまっているこの身なりは普通ではない印象を受けるかもしれない。何か重要な取引をしに来た、そんな決意が滲み出ていると彼は俺に向けて言う。
「ポルタ座を目指していたんだ」
次は青年が目を白黒させる番だった。
「ポルタ座って、あのポルタ座?」
彼は広場奥にちらりと見えるポルタ座の建物上部を見やる。俺はこくりと頷いた。
「ポルタ座って言ったって、あの演劇館はもう数年前に……」
「今日、それを知ったよ。情けない」
思い出したら気分が重くなってきた。重々しく溜息を漏らす俺に、彼も気まずそうにしている。
大看板を目の前に喜びの声を上げる観衆を遠くに眺めながら、吐き捨てるように言った。
「この街にはもう、演劇館は必要ないんだってことを見せつけられた気持ちだ。こうやって新しい文化に取り込まれていくっていうのも、また時代の在り方なのかもしれないな」
気付けば見ず知らず、今初めて会った人間に愚痴を零してしまう自分がいて。
「生身の人間が演じてこそ、感じる何かもあると思うんだけどな」
「それは僕も同じ意見だよ」
ふと顔をあげれば、至極真面目な顔をしている彼がいた。気を使わせてしまっている。それと同時に文明の象徴とも言えるあのからくりを作った張本人を前にして、批判とも取れる発言をしてしまったことを悔いる。
「ごめん。君の発明を悪く言った訳ではないんだ。あれもまた時代の在り方なんだっていうのは充分理解している」
気にしてないよ、と彼は首を横に振った。
このままここにいれば、彼にまた無礼なことを言ってしまう。
この街の文明発展に嫉妬し、それと同時に時代の波に乗れなかったポルタ座にやるせなさを感じている自分がいて。
人様に醜態を晒すのも、これ以上迷惑をかけるのも耐えられなく思えた。この場から一刻も早く立ち去ろうとする。
しかし彼はそんな俺を気遣ってなのか、後ろから声を投げかけてきた。
「これからどうするんだい」
どうしようか。全く考えていなかった。
家から許された期限は3年間。それまでは帰らないと決めていたが、まさかこんな状況、誰が想像しただろうか。
こうなってしまっては俺がするべきことは決まっている。
「……家に戻るよ」
両親にしてみれば、息子が家を継いでくれるならばこれほど嬉しいことはないだろう。今まで俺の事を育て、こういった無茶な申し出にも関わらず温かくこの街に送り出してくれた両親には心から感謝している。非常に残念だが、こうなってしまっては家を継ぐことが1番最善なことなんだと諦めがつく。
青年はそんな様子の俺を見て気の毒に思ったのか、1つの提案をしてみせた。
「あそこからだったらきっとポルタ座が良く見えると思う」
彼が指差す先は今沸きに沸いている大看板の遥か上空、中央部分にそびえ立つ時計台だった。
「登っていいの!?」
話に食い付く俺に向かって、青年は悪戯っぽく笑った。
「本当は時計や看板の点検の時にしか入らないし、ましてや観光客なんて入れた試しがないんだけどね。良いよ。特別に管理人の僕が許可する」
俺は青年に頭を下げる。嬉しかった。今の気持ちのままこの街を後にしたらきっと心残りになる。さぞかし今の俺の目は輝いているに違いない。
「ありがとう、ええと」
名前を聞こうとしどろもどろになっていれば、彼は楽しげに笑う。
「田島蓮太郎だよ。好きな風に呼んで」
「髙橋篤也。俺も好きに呼んでくれていいよ」
間髪入れずに自身の名を名乗って見せれば、蓮太郎は優しげに微笑む。
「出稼ぎに来てからこうやって同年代の人と話すことって中々無かったから嬉しいよ。何だかもう友人になったみたいだ」
友人。その響きに胸が高鳴る。少しはこの街に来た甲斐があったかな。
蓮太郎との出会いは、かなりの収穫のように感じられた。