第1幕 -1
咲き乱れる純白の花々が風で小さく揺れていた。
今にも雨が降り出しそうな曇天の下では、その白はあまりに眩しすぎて。
静寂に包まれる庭園の中、不意に現れた女性の姿を認めて息を呑む。
一目見て、確信した。
目の前で首を傾げる彼女は紛れもなく、憧れ、焦がれ、追いかけ続けたその人だったから。
10年前の誕生日。
家族みんなで観劇した演劇館ポルタ座の舞台。
そのステージ上で歌い、舞い踊る1人の少女に心を奪われた。
大勢の観客の前で、与えられた役を堂々と演じきった彼女に対して深い感銘を受け、自分も演者としてポルタ座の舞台に立ちたいという夢を抱いた。我ながら無謀な夢だとは思ったが、その思いは消えることなく膨らみ続ける一方で。
教わる相手も手段も思い付かず、全て独学で勉強した。憧れの地に再訪する今日この日まで、演劇に対してとにかく無我夢中だった。
より早く自身の力を伸ばすためには、目指すべき舞台の近くで多くの経験を積まなければならない。学んでいくうちに思い立った俺は、3年という期限内で夢を掴むことを条件にポルタ座に赴いた。
しかし、夢見た場所にあの頃のような活気はなく――。
現実を受け入れられず、呆然と立ち尽くしていたちょうどその時、彼女が目の前に現れたわけである。
改めてその憧れの人の姿を、瞳の中に映してみれば。
彼女の雰囲気、佇まい。
あの時と何ひとつ変わってはいないように思えて。
胸の奥がじんわりと熱くなり、またひとつ涙が零れる。
まさかこの場所で再び相まみえることができるだなんて。思いがけない出会いに心が追いつかなかった。
「……どちら様?」
彼女の淡い栗色の髪がふわりと風になびく。
髪色よりも少し色の深いふたつの瞳が俺を見つめていた。思わず見とれてしまう。
視線がかち合えば、彼女は少し気まずそうに目線を落とす。
それもそうだ。見知らぬ青年男性が自身の目の前で涙をぼろぼろと流しているのだから。怪しいことこの上ない。
我に返り、慌てて涙を拭う。
眉間に皺を寄せた彼女は、俺に対して再び問いかけた。
「……どちら様ですか」
その声は震えていた。冷たい目線が向けられる。
これは――、完全に不審者を見る目。鋭い眼光が突き刺さり、思わず顔をひくりと引き攣らせた。
彼女は手に持っていた高価そうな傘を恐る恐るこちらに差し向ける。
「……何処のどなたか存じ上げませんが、お引き取り願えますか」
傘の先端を突きつけられた俺は慌てて弁解した。
「待ってくれ、俺は怪しい者じゃない!」
「人の所有地の庭先でわんわん泣いている貴方がどうして怪しくないように見えますか!」
彼女は震える声で叫ぶ。
確かにこの状況、非があるのは間違いなく俺の方だ。しかしこのまま誤解されてしまうのも困る。思わず大声で反論した。
「俺は、ポルタ座に用があるんだ!」
今にも傘を振りかぶろうとしていた彼女はその動きをピタリと止めた。怪訝そうにこちらに目線を投げかけてきて。
彼女は次の言葉を待っている。そう悟った俺はひと呼吸置いて改めて問いかけた。
「……ポルタ座は?」
答えなんて最初から分かっていたけれど。聞かずにはいられなかった。
彼女は目を泳がせ、焦ったように呟く。
「もしかして、観客の方ですか?」
頷いてみせると少し警戒心を解いたのか、傘を持つ腕を下げ、彼女は気を落ち着かせるようにして、ゆっくり息を吐いてみせた。
そしてほんの少しだけ躊躇う素振りを見せた後、決心ができたのかゆっくりと口を開き、そして言葉を紡いだ。
「ポルタ座なら、数年前に閉館しました」
彼女が身に纏う空色のワンピースが風ではためく。その服の色は、現状この街では見られそうにない蒼色をしていると感じた。
この街の曇天が晴れることはあるのだろうか。分厚い雲に覆われた頭上を見上げ、そんなことをふと考える。
彼女に目線を戻せば、今にも泣きだしそうな顔をしていて。
辛いことを言わせてしまった自覚はあった。俺は咄嗟に非礼を詫びる。
「……この街には久しぶりに来たんだ。幼い時に見たポルタ座での演目が忘れられなくて」
彼女ははっと息を呑み、濡れた眼をこちらに向けた。
夢半ばでステージを降りることになってしまった彼女の心境を考えると胸が酷く痛む。
この荒れ果てたポルタ座を見て、心苦しく思う気持ちは、いちファンである自分よりも演者であった彼女の方が計り知れない程大きいものであるはずだ。
数年の時が経っているとはいえ、辛いことを思い出させてしまった。自分の立ち居振る舞いを猛省する。
「素敵な時間をありがとう。機会があればまた見たかったよ」
泣き腫らした顔で言っても格好がつかないが。でもあの時一目惚れした演者の彼女を前にして、結果的にこうして感謝を伝えられて良かったと思う。
きっと俺は彼女にとって、とある日、とある公演のいち観客に過ぎない。彼女が幼少期に出会った俺のことを覚えているなんて奇跡もあるわけがない。
でも、それでも良かった。
あの日、彼女と目が合った偶然だけは、ずっと思い出の中に残るだろうから。
彼女は顔を歪めていた。歪んでいても綺麗な顔だった。幼少の頃よりもずっと美しくなった姿をもう舞台上で観ることができないだなんて。こんなに悔やまれることがあるだろうか。
俺の言葉を聞いた彼女は涙を堪えながらこちらに向かって深々と頭を下げる。
あの日ステージでお辞儀をする幼い彼女と重なって見えた気がして、俺の目からもまた一筋涙が零れ落ちた。
気がつけば、彼女に拍手を贈っていた。
たった1人の手を叩く音は、広いポルタ座の庭先では風の音にかき消えてしまう。
咄嗟の行動に彼女も一瞬驚いたような顔をしていたが、それでも嬉しげに微笑んでくれる。きっと彼女からしてみれば、観客に対する愛想笑いをしたに過ぎないのだろう。
それでも彼女はこんな自分に笑顔を向けてくれた。最後まで夢を見させてくれるのだ。
彼女の心持ちは一流の演者以外の何者でもなかった。
俺からの拍手を一心に受け、やがて顔を上げた彼女は先程の無礼を謝罪してくれる。
「……まさか、閉館してこんなに経つのに観客の方が来てくれるとは思わなくて。申し訳ありません」
彼女は俺の横に並び立ち微笑みを零す。
「嘘だと思うかもしれないけれど、私たち演者って観客の方が思うよりもこう、直接感想を頂くことって中々なくて。無礼な振る舞いの後でお恥ずかしいのですが……。心からお礼申し上げます。ありがとう」
面と向かってお礼を言われて、ますます気恥ずかしさが増してくる。
憧れた演者とこんなに直接話ができる日が来るなんて。奇跡としか言いようがなかった。
こんなことになるなら、ファンレターも書いてくるべきだったか。スターを目の前にして、往年のポルタ座ファンの血が騒ぎ立つが、ぐっと堪えて、胸の奥にしまい込むとして。
話もそこそこに俺たちはポルタ座を見上げた。
その姿は10年前と比べれば確かに寂しく感じられる。
しかしそこに堂々と立ちそびえる威厳は以前と少しも変わっていない。
名残惜しくポルタ座を見つめていれば、彼女が控えめに声をかけてきた。
「あの、私、サラと言います。貴方は」
驚きのあまり即座に彼女の方を向いた。憧れの人からまさか名前を聞かれるだなんて。果たして動揺を隠しきれているだろうか。
突然の個人的青天の霹靂に平然を装いつつ、内心を悟られぬよう静かに自身の名を教えた。
「篤也……です」
「あつや、さん」
噛み締めるように呟いた後、サラと名乗った彼女は俺に向き直る。
「篤也さん。私、ポルタ座での演技を楽しんでくれた貴方に会えて良かった。もしまたポルタ座の舞台で役を演じることができる、そんな日が来たら――!」
彼女は意を決したように口に出す。
「また見に来てくださったら嬉しいです!」
決して叶うことのない願い。
それにも関わらず彼女は震える声ながらも笑顔でその言葉を口にした。その言葉を紡ぐことがどんなに彼女を苦しめていることか。気の利いた言葉をかけようと試みるが、きっと何を言っても彼女を傷つけてしまう。
俺はただ微笑んで頷くことしかできなかった。
しかし彼女の眼はどこか先を見据えているような気さえして。
彼女はまだ舞台に上がろうとしている。諦めてなんかいない。
不思議とそんな感情がひしひしと伝わってきて。
ああ、この人の隣を俺は目指していたというのか。
自分の浅はかさを悔やむ。
この人の隣に並び立つにふさわしい演者になるには一体どれだけの経験を積んで、どれだけの決意を持たなくてはいけないのだろうか。
少なくとも今の自分では遠く及ばないと感じた。
『自分も役者を志していて、貴女の隣に立つのが夢で――!』
そんなこと、口が裂けても言えるわけがない。
自身の未熟さがこれ以上ないくらい、やるせなかった。