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光双のポルタ  作者: もものふ
14/14

第2幕―4

俺はポルタ座の門を前にしてあんぐりと口を開く。半ば信じられない光景が目の前には広がっていた。

サラさんたちの悶着を盗み聞きした後すぐに会場へと戻った俺だったが、どうやらチケットをその場に落としてきたらしい。戻る訳にもいかず観劇を諦めた昨日(さくじつ)の失態を噛み締めながら、改めてポルタ座に赴いたところだった。

呆然と立ち尽くす俺の姿を認めて、一人の男が駆け寄ってくる。


「お客さん! 一体全体どういうことだい? 昨日劇中で何があったんだ!?」


観劇券配りの男だった。思わず身を引いてしまうほどに詰め寄られて俺は顔をしかめる。こちらの方がその理由を聞きたいぐらいだ。

男は目を輝かせながら語る。


「今朝仕事に出てみれば、観客達が門の前で列なしていたんだ。俺一人じゃ捌ききれねぇと踏んだ団員が臨時で券配りを雇いやがった! お客さん、悪いけどあんたの券はもうないんだ。何時ぶりだろうな、ポルタ座の観劇券が完売するのは!」


興奮した様子で男は俺の背中を痛いぐらいに叩いてきた。臨時収入が期待できる! と声高らかに拳を突き上げる男性の表情は昨日と打って変わって信じられないくらいに晴れ晴れとしている。

開け放たれた門からポルタ座内部の様子を伺えば、庭園には確かに人が溢れかえっており、まるで十年前のあの賑わいを思い出させてくれる。昨日までの物寂しい雰囲気は微塵も感じさせない。とてもじゃないが信じられない光景だ。会場へ続々と入場していく観客達。まるで操られているかのように規律正しく列が形成されていた。あまりにも整いすぎたその光景に異様な不気味さを感じてならない。

その時、肩を叩かれる。振り向けばまだあの男がにたにたと俺を面白そうに見つめていた。彼は猫なで声で俺に囁く。


「お客さん、お客さん。いつも来てくれてたあんただけに、とっておきの情報だ」


男は俺の目の前に本日公演分の観劇券を差し出してきた。怪しげな笑みをたたえる彼に向けて、問いかける。


「さっき観劇券は完売したって……」


「特別に! いつも欠かさずポルタ座を応援してくれてるお客さんの分、取っておいたんだ。しかも前列真ん中、特等席をね」


俺ぐらいになればこれくらい造作もないことよ! 男は得意げに胸を張る。

俺は不審に思いながらも差し出されたチケットを見つめながら、男に言う。


「……お代は」


「昨日みたいにタダで! って言ってやりたいところなんだけどさ、何せこの有様だからなぁ」


勿体ぶる素振りを見せながら、彼はにんまりと笑って三本指を立てて俺の顔の前に突き出した。


「さん……?」


「お客さんには特別だよ! 普通の客だったら五はいるよ」


「さん……ってことは元値の三倍でってことですか!? そんなの馬鹿な話が……!」


そう言いかけたところで、男の表情がずっと消え失せた。観劇券を持った手を引っ込めて、凄みのある目線を向けてくる。


「ああ、そうか。君の目に止まらなかったのなら残念だ。誰か別の人に譲ってあげるとしよう。しかし残念だ。このチケットは貴重だったのに。ああ、残念」


まるで壊れたラジオのようにぶつぶつと途切れ途切れに言葉を零しながら、男はふらふらと門の中に消えてしまった。

異様な気味の悪さに思わずぶるりと身を震わせる。昨日までの物悲しい雰囲気も寂しさを感じてたまらなかったが、今日のポルタ座の方が異様だ。

賑わいを見せるポルタ座を背にして、俺は仕方なくその場を離れる。このポルタ座はおかしい。狂っている。

街中へと足を運んでもその異様さは変わらない。裏路地では金券売の男がポルタ座の観劇券を高く売りつけている。券を買えなかった客が多数群がっていた。あまりの騒ぎに街を行き交う人々の波からはしばしば怒号が湧き上がっている。中には隙を見て観劇券を奪い取る奴もいるじゃないか!

ポルタ座が繁栄すること。それは俺にとってももちろん嬉しいことだ。たくさんの人に自分の好きな物を認めてもらえる、こんなに嬉しいことがあるだろうか。

しかし多くの人に認められることと誰もが笑顔になれることは、どうやら同義ではないらしい。

街で横行する高額な金銭売買や観劇券の奪い合い、道のど真ん中で始まる白昼堂々の大喧嘩。

――こんな光景、サラさんが見たら一体どう思うだろう。

胸がぎゅっと締め付けられる。自分の事のように悲しくてならなかった。

ふと、昨日目にした悪魔『カプリコルノ』の姿が脳裏に浮かぶ。

少しずつ、確かに物語の歯車は狂い始めていた。



翌朝。吐く息は白い。まだ太陽の光も登らない時間にも関わらず、ポルタ座の門に沿うようにして観劇券の販売列が伸び始めている。

何としても今日の公演を観て、悪魔らの陰謀を暴かないと。そう意気込んだはいいものの、あまりの盛況ぶりに思わずたじろいでしまう。

しかし朝早くに列に並び始めた甲斐もあってか、席種はともかく、何とか会場内には潜り込めそうな順番につくことはできた。寒さに耐えて、観劇券を購入することができたのは並び始めてから3時間後のことだった。

苦労して手に入れた観劇券を大切に握りしめ、意気揚々と会場に入場する。

人手不足で『ファンファーレ』の公演が難しくなったポルタ座がその数年後に発表した作品、それが本日の演目の『アリアの独唱』だ。

アリアの独唱には原作があるため、俺も内容自体は知っているものの、演劇としてみるのは初めてだった。

アリアという女性の希望と絶望を書いた話で、その心情の揺れ動きは文章で読んでも息を呑むほど。運命に翻弄される女性の心が狂い、崩れていく様は一流の女優でなければ表現できないだろう。

つまり言ってしまえば主役の一人芝居。主演女優が名演技を行えば成り立ってしまう舞台とも言える。

様々な劇団で公演されているが、どこも小規模経営、もしくは経営が傾き始めた演劇団体が上演するというのは舞台ファンの間では有名な話。

アリアの独唱を演目に選んだこの時代のポルタ座は事実上、斜陽化寸前に違いなかった。

会場に貼られたポスターを眺めながらぼんやりと考える。煌びやかでありながらもどことなく汚れを感じさせる女性の絵。まるでこれから落ちぶれていくであろうポルタ座を描いたかのようだった。

しかしそれを否定するかの如く、会場はうるさいぐらいに賑わっている。ファンファーレを上演していた当時では考えられないくらいに騒がしくて、残念な程に品がない。ポルタ座の厳かな雰囲気が霞むじゃないか。顔をしかめる他なかった。

今日の座席はというと、懐かしいあの日と同じ、2階のバルコニー席だ。ポルタ座の2階席は見通しが良い。逆に悪魔の企みを発見するのには好都合だと思う。

――ただ、飛んだハズレくじを引いたようだ。


「……すみません。会場内は飲食禁止ですよね?」


もう我慢の限界だった。開演数分前だというのに耳障りな咀嚼音をさせながら飯を食う客。努めて和やかに声をかけ、注意してみたのだが。


「あ? んなもん知ってるよ。こっちは高い金払ってるんだよ。始めの方ぐらい飯食ってたって良いだろうが。すぐ食い終わるよ」


飯粒を飛ばしながら大声を出す男。あまりの剣幕に思わず押し黙ってしまう自分が情けなくて悔しい。

それが俺の右隣で起こった出来事。左隣はといえば、女性客同士でお喋りに花咲かせているようで。


「……もう公演始まりますよ?」


そう一声かければ、女性二人は顔をしかめ、蔑みの表情を浮かべる。俺のことを一瞥した後、何事も無かったかのように会話を再開させていた。

――なんなんだ!? このポルタ座は!!

これが演劇を見に来た客の態度か? もうすぐ舞台の幕が上がるというのに!

開いた口が塞がらない俺を嘲笑うかのように上演開始の知らせが重く鳴り響く。

両隣の咀嚼音と話し声は止まらない。それどころか会場中至る所で観客たちのざわめきが増す一方だ。それは演目に対しての期待であるのか。それとも公演が始まらないことに対しての苦情の意なのか。どちらにせよ、観劇の礼儀を知らない客が大勢いることは間違いなかった。

怒りに身を震わせること数分、もう席を立とうかと思った瞬間。

照明の光が彼女に降り注ぐ。二階の席からでもその姿ははっきりと見て取れる。あれは間違いない、サラさんだ!

どうやら今日は弟が出演する公演ではないらしい。弟の体力面も考えた日替わり体制なのだろうか。

サラさんはポスターと同じ色の淡い黄色のドレスを身にまとっている。サラさんが現れただけで舞台上がたちまち華やかになった。僅かながら動きが強ばっているように見えたのは気のせいだろうか。久々の客入りの多さに緊張しているのかもしれない。しかしその心配も杞憂に終わった。歌い始めた瞬間、圧倒される。幼い頃よりも堂々と、それでいて伸びやかな声。落ちぶれていくポルタ座とは対照的に彼女は確実に成長していた。この何年もの間、きっと血のにじむような努力をしてきたのだろう。

特に、まるでぱっちりと目が合ったかのような錯覚を覚える目配せの仕方は、いち演者を志す者として流石としか言いようがなかった。二階席にも関わらず、何度も目が合ったような気がしてならないのだ。視線だけで人を射抜くことの出来る役者は中々いない。

サラさんの演技に舌を巻く。数年でここまで演技力を伸ばせるものなのか。サラさんが才能の塊だとはいえ、俺も見習わなければ。自身の勉強のためにも次はどんな表現を見せてくれるのか、期待に胸を踊らせていたが。その熱願はすぐに打ち砕かれることとなる。

先程まで煩わしい咀嚼音を立てていた隣の席の男が舌打ちをする。


「……聞いてらんねぇな」


そう言って立ち上がった男は先程まで食べていた飯の残飯を席に置いたまま、会場から出ていってしまった。呆気に取られていれば次は左隣の女性客たちが話し声の声量を超える大きさで一言。


「全然聞こえないんだけど! 声もっと張りなさいよ!!」


「昨日の演技はどうしたの!? こっちはお金払って見に来てるんだけど?」


くすくす笑いながら次々に大声で野次を入れる。

気がつけばそんな声が会場の至る所から上がっていて。

すぐさま視線をサラさんに戻す。気丈に演技を続ける彼女の集中力に息を呑んだ。

演技を止めることなく、サラさんはひたすらに役に徹していた。この物語の主役、アリアを自身に憑依させたサラさんには、この醜い観客たちの姿は見えていないのかもしれない。

こうなった以上、いち観客の俺には今できることは何も無い。固唾を飲んでこの状況を見守るしかないのだ。もどかしさを押し殺して、祈るように俺はサラさんを見つめる。どうか、最後まで無事に。

しかしその時だった。

何かがサラさんめがけて、舞台上に投げ込まれた。床に叩きつけられた衝撃でそれは音を立てて割れる。遠くからでよく見えなかったがあの衝撃音から察するに、投げ込まれたのは酒の空き瓶――。

さすがのサラさんも、演技中にまさか自分めがけて物が飛んでくるとは思わないだろう。ぷつりと集中の糸が切れる音がした。

かかとの高い靴を履いていたサラさんはぐらりと体制を崩す。投げ入れられた酒瓶は粉々に割れ、彼女の下には無数のガラスの破片が散らばっている。二階からでも照明に照らされた鋭利な輝きははっきり見て取れた。

このままでは倒れたら確実に――。


「サラさん!!」


思わず叫び声を上げて立ち上がってしまった。この状況の中で俺を咎める人など誰もいない。しかし雑音に紛れた俺の声はきっとサラさんに届くことはないだろう。

彼女が前のめりに転倒していくかのように見えたその瞬間、ふっと会場が暗闇に包まれる。明かりが落ちる直前、何者かがサラさんを抱えるように舞台袖に消えたように見えたのは気のせいだろうか。

辺りの観客たちは急に視界が見えなくなったことで酷く動揺していた。その状況は真っ暗な空間の中で視覚としては確認できないものの、鬼気迫る観客たちの騒ぎ声から、間違いなく会場内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化している。

出口に向かって一目散に駆け出す観客たちの押し合いに巻き込まれる。身体が潰され身動きが取れない。我先に身の安全を確保しようとする身勝手な行動。観客の各々が叫び喚く声。こんなに耳障りな大合唱は初めてだ。

収集のつかない混乱の最中、ひしめき合う会場を律するかのように、突如として舞台上に一筋の光が降り注ぐ。出口付近で揉み合いになっていた観客たちは一斉に舞台上へと目線を動かした。

そこに立っていたのは、サラさん、によく似た――。

アリアの姿で現れた『彼』がひとたび口を開けば。

一瞬の静寂に包まれた後、会場全体がどよめきで揺れた。

比較したくはなかったが、確かにサラさんよりも澄み渡り、それでいながら耳に心地よい声質、しかししっかりと耳の奥まで届く叫び声。言葉が胸に突き刺さる。

『心を動かされる』とはきっとこういう時に言うのが正しいに違いない。あまりの衝撃に鳥肌が立って仕方がなかった。

先程まで我先にと出口へ直行しようとしていた観客たちは、何かに取り憑かれたかのように彼の姿を見つめていた。観客たちの視線を一心に集めていた彼は、にこやかに笑う。その声はよりいっそう大きいものとなる。遠くまで、遠くまで、響き渡り、


――そして。




それは突然だった。


声が、無くなった。静寂に包まれる会場。

瞬間、彼の目が大きく見開かれた。苦しげな呻き声と共に彼の口から真っ赤な鮮血が吹き出される。観客はそれをただ呆然と見つめる他なかった。

荒い呼吸でうずくまった彼に覆い被さるかのようにひとつの黒い影が舞台上に降り立つ。

天井へと伸びきった雄々しい二本の角が鈍く光る。アリエーテよりも長身で、舞台上に降り立つとよりその体格の大きさが際立つ。

その悪魔、カプリコルノは静かに呟いた。


『時間だ。代償をいただこうか。まずはひとり、お前からだ』


血を吐き倒れるサクを見下ろした後、悪魔は舞台上に広がった血溜まりに自身の漆黒の腕を伸ばす。手のひらに彼の血が染み込むと同時に、彼の腕も赤黒く発光する。まるで彼の血を腕から吸い上げているようにも見える。

サクの血を取り込んだカプリコルノは自身の背から二つの翼を勢いよく広げた。鋭利な枝状に伸びるそれは客席にまで到達する。その翼は壁を這うようにして広がり、会場の内装を次々に破壊していった。

窓ガラスの割れる音。ガラス片が観客たちに降り注ぐ。いちばん最初に我に返った女性客の大きな悲鳴で、会場の時間は再び動き始めた。

大勢の人間の惑い、恐怖、絶望。観客たちが動揺し、泣き喚く様子をカプリコルノは舞台の上から満足そうに眺めていた。

今のところ観客たちに手を出すつもりは無いようだったが、いつ襲いかかって来てもおかしくはないほどに、赤い眼光を鋭く光らせている。

外に逃げようとする観客たちの波に巻き込まれそうになりながらも、俺は必死に座席の陰に身を隠す。この話の結末が見えない。この物語の終幕を見届けない限り、俺は永遠にこの世界から抜け出せなくなってしまう。何も知り得ないまま、会場から追い出される訳にはいかなかった。

人の波に揉まれ、気がつけば二階のバルコニー席の最前列付近にまで押し流されてきたようだ。観劇をするならば絶好の位置、言わば神席。しかしいつあの悪魔に襲われるか分からない今、この状況では嬉しくも何ともなかった。

人の流れが徐々に収まりつつあるところで、恐る恐る辺りの様子を伺う。カプリコルノは? サクは? そしてサラさんは? 一体どうなったんだ?

座席同士の僅かな隙間から舞台上が見える。

剣幕激しくカプリコルノと向き合うサラさんの姿と、そこにもうひとつの影。

黒い闇を身にまとい、サラさんを守るようにカプリコルノとの間に割って入るのは。

俺たちの運命を歪めた、憎くて憎くてたまらない、もう一人の悪魔の姿。


(アリエーテ……!?)


こんな時にふと、サラさんとアリエーテがもともと顔見知りであったかのような距離感だったことを思い出す。人間と悪魔でありながらどことなく打ち解けた様子に今更ながら合点がいった。二人はもう、この頃から関わっていたんだ。サラさんがガラスで怪我することなく立っていられるのも、きっと倒れる直前にアリエーテが暗闇に紛れて助けたからなのだろう。

そしてアリエーテが無駄に勿体ぶって話さなかった真意をようやくここで理解した。この物語の中での、アリエーテの役どころは、今、この世界の中で生きる彼自身だったのだ。

アリエーテは初めからサラさんと、そしてポルタ座と共に物語を歩んでいた。だからアリエーテは観客としてポルタ座の舞台を眺めたことが無いと言っていたのか。

アリエーテは同じ悪魔だとはいえ、非情なカプリコルノとは何かが違うのかもしれない。今、目の前に見えるアリエーテからはこの状況を何としてでも打開しようとする気迫を感じる。まるでカプリコルノを同族とではなく『敵』と見なして、壊されたポルタ座を守ろうとしているように思えてならなかった。

混乱の最中、観客達の注目が集まらない舞台上で、演目の第二幕が開演されようとしていた。

会場内の観客を概ね外へと追い出したカプリコルノに向け、讃えるように拍手を贈るのは、サラさんの母親のアンナだった。乾いた音が静かな会場内に反響する。ゆっくりと舞台袖から我が子達に歩み寄るアンナの姿は、舞台の上に立つにはそぐわない、全身黒一色のドレスワンピースだった。落ち着いた雰囲気の帽子には顔を覆い隠すようにベールが降りており、その表情を伺うことは難しそうだ。

アンナは声を張って、サラさんに言い聞かせるように話す。


「ご覧なさい。これがサラ、貴女の演技がもたらした結果よ。貴女の散々な演技にお客様が逃げ出してしまったわね」


くすくすと肩を竦めて笑うアンナ。下唇を噛み締めて、サラさんは涙をこらえているようだ。アンナの棘のある言葉にアリエーテが吐き捨てるように言う。


『アンナ、君の性格の悪さは全く相変わらずだね。君は理想が高くて向上心がある。きっとその心持ちがポルタ座を繁栄へと導いたのだろう。評価せざるを得ない。……でも自分の娘をこんなにも虐めて楽しいかい?』


それを聞いたアンナは吹き出す。


「悪魔にまさかそんなことを言われるとは思わなかったわ! アリエーテ、貴方、とっても優しい悪魔さんなのね。サラにお似合いだわ!」


余程面白かったのか、笑い声が漏れる。ひとしきり笑った後、アンナの表情は途端に歪む。


「……サラ。貴女を見ているとね、昔の私を思い出すの。昔の、何も出来なかった私を見ているようで嫌な気持ちになるわ。ここまで登りつめるまでにどれだけの涙を流して、どれだけの苦渋を味わったか。この世界では努力は報われない。身をもって感じさせられた。百の努力より、一の才能が簡単に花開く世界。そんな世界なんて、辛いだけ。……だから私は、才能を持ったサクに賭けてみようと思ったのよ。なにもサラを虐めている訳じゃない」


そう言うと、アンナはサラの頬に優しく手を添える。


「だからね、できればサラには演劇を諦めて欲しかった。演者になっても才能がなければ辛いだけ。私がいちばんそれを知ってるの。サラがもし、役者以外の道に進むと言ってくれたならば……。そう心の底から願った日もあった。貴女が役者を志さなければ、きっと私はサラの夢を心から応援できたのかもしれない」


アンナはサラから離れると、カプリコルノの隣に並び立つ。


「だからね、私は私の夢をサクに託すわ。ポルタ座で見たかった夢を、掴みかけた栄華を。今度は私の力で手に入れてみせるわ」


そう言うと、アンナはサラの方へと手を伸ばす。


「……サラ、私と一緒に行きましょう。サクがきっと、私達の夢を叶えてくれるわ!」


サラさんは戸惑いの表情でアリエーテをちらりと見る。母親の手を取るべきか、それとも――。


『君がしたいようにすればいいさ』


彼の言葉を聞いたサラさんは、しばらく俯き、自身の考えをまとめているようだった。やがて顔を上げたサラさんは真っ直ぐに母親を見つめる。そして口をゆっくりと開いて。


「私も夢を諦めたくない。自分の力で叶えたい。だからお母さんとは、一緒に行けません」


サラさんに、もう迷いは無かった。きっとアンナも娘の答えを予想していたのだろう。ふっと溜息をついてサラさんに向き直る。


「……そう言うと思ったわ。それじゃあ、お別れよ。サラ」


母の言葉は冷たくありながらも、微かに震えていた。

アンナがカプリコルノに耳打ちする。それを合図だと捉えた山羊の悪魔は背に生えた翼を大きく広げた。その黒い影は真っ直ぐに天井に向かって飛び上がる。はるか上空へ向けて放たれた闇はポルタ座の屋根をも貫いて、淡い空へと弾け飛ぶ。

その闇は突如として雷雲を呼び込み、街の空一面が黒く染め上がる。吹き抜けになった会場内へ一気に大雨が降り注いだ。

天空の急激な変化に気を取られていれば、アンナの姿はもうそこには無く。

サラさんとアリエーテにも一瞬の隙が出来る。それを見逃さないカプリコルノは、目にも止まらぬ速さで気を失ったサクに掴みかかる。咄嗟にサラさんも飛び出し、弟の片手を引き寄せようとするも、やはり悪魔の腕の方が早かった。一瞬にして黒い闇がサクの身体にまとわりつき、雨水で広がった血溜まりの中へと引きずり込んでいく。消えるサクを追いかけてサラさんも必死に右手を伸ばしたが、間に合わない。カプリコルノもろともサクは赤い海へ沈んでいく。サラさんの行き場のない手が空を切って。


ポルタ座の劇場内に、雨音が反響する。


雨に打たれながら、サラさんはその場から動けずにいた。今の今まで弟が倒れていた場所を呆然と見つめて、静かに涙を流している。アリエーテは背後で黙って項垂れるサラさんを見守っていた。


――もう、見ていられなかった。


俺は逃げるように会場を後にする。

家族との決別を余儀なくされ、自分が輝ける唯一の場所は、悪魔によって壊されてしまった。

俺が今までサラさんにかけてきた言葉は、なんて浅はかなものだったんだろう。彼女のことを何も知らずに上辺だけの夢物語を語っていただけの自分の言動が恥ずかしくて、情けなくて堪らなくなった。

俺は酷く、無知だ。サラさんのことも、ポルタ座のことを何も分かっていなかった――。

思いをめぐらせ、おぼつかない足取りでゆっくりと歩みを進めた。ポルタ座の出口にやっとの思いで辿り着く。

雨足は弱まることを知らず、鋭い稲光が天空を駆け巡る。

辺りを見回せば、一目散に逃げたはずの観客達は皆、ポルタ座周辺に留まっていた。残飯を残して早々に席を立った男も、サラさんに野次を飛ばした女性客達も。その場に立ち尽くしている。あの悪魔を一目見れば、なるべく遠くまで逃げようと考えるはずだ。不思議に感じながら人々の表情を伺う。

観客達は皆、同じ方向を不安げに見つめている。ポルタ座に広がる庭園のその先。その視線の先をゆっくりと追いかければ。

ポルタ座の真横には川が流れている。

川幅も広く、普段であれば穏やかな流れで、小型の運送船や屋形船も多く往来していた。ポルタ座周辺の水路は特に活気のある、いわばこの街の水上貿易の玄関口だ。ポルタ座はそんな川の港を臨む高台に位置している。

――その川が、今にも氾濫しようとしていた。

短時間のうちに降ったとは思えない程の雨量。押し寄せる濁流が陸地に迫り寄る。水の勢いが堤防を超えたら最後、ポルタ座はおろか、低所に位置する市街地まで、残らず飲み込まれてしまうだろう。

ふと蓮太郎が言っていた言葉を思い出した。


『悪魔との契約代償として、天災が起こることもある』


背後、ポルタ座の上空で、天地を裂くように雷が落ちる。あまりの地響きに、陸の孤島に取り残された観客達は恐怖のあまりにその場に座り込む以外になかった。

地鳴りの衝撃で水面から持ち上がった屋形船がポルタ座の庭園に乗り上げて木々を押し倒す。このままではあと数分で川べりも決壊してしまう。

この世の終わりのような光景。空は淀み夜のように真っ暗で、雷鳴が鳴り続けている。

自分が焦がれ、憧れ、追い求めていたポルタ座の真実。悪魔が裏で手を引いていただなんて、誰が思うだろうか。

泣き叫び、死すら覚悟して身を寄せ合う家族の姿、自暴自棄になり周りの観客に当たり散らす者。

今俺が演じている、名も知らない人物は、当時、この光景を見て何を感じたことだろう。何度も足繁く通うほどに愛してやまなかったポルタ座が天災を呼び、人々を悲しませる原因となっている。

このやりどころのない気持ちは何処にぶつけたら良い?

アリエーテは言っていた。この物語で鍵を握っているのは、『俺』なのだと。

この悪夢のような物語を終わらせるためには、演じている『彼』の言葉を正しく紡がなければならない。

例えそれが自分自身の心と違っていたとしても。最後まで演じ切ること、それが役者の使命だ。

演目を正しい結末へと導かなければ。

これは、サラさんとポルタ座が前に進むための物語。

鋭い稲光と共に雷鳴が破裂する。荒れ狂う水面を見つめて、俺は静かに決意した。


――終演の時が刻一刻と迫る。

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