第2幕 -2
もうすぐ演目上演の時間が差し迫っているということで、ポルタ座敷地内の盛り上がりは最高潮だった。巨城を守るかのようにそびえる大きな門もこの当時は漆黒の輝きを放っている。
備えられた大庭園で演者が客人達への歓迎の出し物を行うのもポルタ座の恒例行事、伝統だ。
今では見られないその光景に思わず視界が涙で滲む。
『あれ、アツヤ。もしかして泣いてるの?』
「な、泣いてない! そもそもなんでお前はここまでついてきてるんだ」
俺の顔を覗き込んでくるアリエーテは、どうやらこの後も同行するつもりでいるらしい。
『舞台俳優初心者のアツヤくんのこと、心配してあげてるのにその言い方、酷いよねぇ。初演にヘマ起こされたくないからついてきてあげてるんだけど。むしろ感謝して欲しいよ。まあ、ここで失敗されちゃうと俺も元の場所に帰れなくなるし、仕方なく?』
棘のある言い方にむっと顔をしかめる。とどのつまり、見張りか。
『ま、それもあるけど。俺、実はポルタ座の客席で演目観るの、初めてなんだよね。今日の演目は確かファンファーレだったよね? ポルタ座屈指の名作!』
そういえば、アリエーテは舞台観劇が好きだと言っていた気がする。この様子だけ見れば、俺と同じ。ただの熱狂的な観劇愛好家そのものだ。
何だか自分をポルタ座に連れてきてくれたあの日の父親の熱心な語り口と重なって見えてしまう。
こんな奴なのに少しだけ親近感を覚えてしまった自分が情けなくて、静かに溜息をついた。
『アツヤ、早く中に入ろう。もうすぐ舞台が始まっちゃうからね。君の上着の左内ポケット、そこに今日の観劇の券が入っているはずだから』
促されて上着の内側を漁れば、ぴらりと1枚だけ券が入っていた。
アリエーテの分の観劇券は見当たらない。俺は周りには見えていないからこっそり劇場内にも入れるんだ、と自信満々で入場口に並んでみせる。しかし。
『……あれ?』
彼は一向に中に入ってこようとしない。
不思議に思った俺は思わず立ち止まり、振り返る。
「何で入ってこないんだよ」
『いや、俺だって入りたいんだよ? でも、入れない。何だか、見えない壁みたいなので阻まれていて……』
拳で目の前に広がる透明な壁を叩いているアリエーテだが、俺にはなんら問題なく通れそうだ。
『……やっぱり駄目だ。俺はここを通れない』
見るも明らかにがっくりと肩を落とすアリエーテ。少しだけ気の毒に思えてしまって、思わず口を開く。
「他に入る方法はないのか? お前の力で見えない壁を壊してみるとか」
それを聞いたアリエーテはぎょっとした表情をこちらに向けてくる。
『……アツヤ。君、中々物騒な考え方をするね。提案はありがたいけどそれはちょっと難しい。そんなことをしたら台本通りにいかなくなるもの』
見えない壁を名残惜しそうに撫でて、アリエーテはポルタ座に背を向けた。
『……残念だけど俺とはここで一旦お別れだ。観劇、楽しんできて。終わったら出口で待っているよ』
重い溜息をついて、彼は一瞬のうちに姿を消してしまう。あまりの気の落とし方に土産のひとつでも買っていってやろうかと思ってしまったほどに。
アリエーテを見送ると同時に、開演の合図の音が鳴り響く。幼い頃はこの音に驚いていたっけ。
ロビーに取り残されかけた俺は、券を握りしめて席へと足早に向かう。
移動の最中に1つだけ、アリエーテの言葉を思い出して、僅かな引っ掛かりを覚える。
彼がこの場所に入場できない理由、彼はそれを『台本通りにはいかないから』だと話していた。
アリエーテは今日この日、この会場にいなかった。だからポルタ座の中に入ることができなかった。彼がファンファーレを初めて観ると話していたことからもその筋は通る。きっとアリエーテはポルタ座の外で登場人物である『別の誰か』を演じているのかも。
そう考えるとするならば、今この瞬間、俺の10歳の誕生日のあの日と同じ顔触れがこの客席内に完璧に再現されているはず。
――逆を言えば、会場の中に入れたということは、この日この場所にいた人物の誰かを俺は演じているということ。この手の中にある観劇券の席番号に座っていた人物こそ、今回俺の演じる役だ。
足早に会場内に入って自分の座席を探す。券に書かれた番号を見つけようと席に掘られた数字を熱心に見つめる。
――あった。自分の手持ちの券と座席番号を見比べてほっと息を吐く。あとは座席に座って開演を待つだけ。
ゆっくりと腰かけて、前に向き直る。
『――え』
目が点になる。席を探すのに夢中で今の今まで気が付かなかったのだ。
憧れてやまなかったポルタ座の舞台が目の前いっぱいに広がっている。この景色、夢にまで見た、
――最前列だ!!
驚きと感動と興奮、色々な感情が押し寄せてならない。こんなに素晴らしい席で、『ファンファーレ』を観劇出来るだなんて!
気持ちの整理がつかないままに舞台の緞帳が開いていく。
この舞台のいちばん初め。明かりが煌々と照らすのは、10年前からずっと憧れ続けてきた、あの日の彼女の姿。
目の前に現れた幼い日のサラさんは、俺の記憶と寸分違うことなく、凛とした佇まいで観客の視線を一心に集めている。
気がつけば俺の目にはひと筋の涙が伝っていた。
あの日のサラさんをこんなにも間近でもう1度見られたことへの感動。それと同時にこんなにも輝きと希望に満ち溢れていたポルタ座の未来の姿があんなに荒廃してしまっていることに対して悔しさが込み上げてきて。
これからの自分の未来がどうなるかなんて知るわけもない幼い日のサラさんは、舞台の中央で下唇を噛み締め静かに震えている。あの日、幼かった俺が2階席から観劇していても分かったぐらいの緊張感。最前列からのサラさんの様子は観ているこちらも気が気でなかった。回りの観客達もハラハラと息を呑んでサラさんを見つめるばかりだ。
ぴんと張り詰めた緊張の糸を振り切るかのように彼女は右足を前に振り出し、力強く舞台の板を踏む。半歩前に身を乗り出したサラさんが初めて言葉を発する。
透き通った、心地の良い声色で台詞を紡ぐ。今その演技を改めて観劇すれば、この後登場するメインキャストに到底及ばない実力であることに間違いはなかった。こっそりと周囲の様子を伺えば、期待外れな様子で残念そうに眉をひそめる客も見受けられたから。
しかし俺にとってサラさんの演技は何よりも特別だった。大勢の観客の視線を一身に受け、震える自身を律して演じ上げたこの『ファンファーレ』という演目。彼女の演技に心を打たれて、俺はこのポルタ座を目指したのだ。それは今も変わりない。
やはり、と言うべきなのか。サラさんの出番が終わる頃にはすっかり放心状態で。その後の話の内容のことは頭から抜け落ちてしまうのも、皮肉なことに10年前のあの日と全く同じだった。
それほどまでにこの日のサラさんは自分にとって特別な存在だったのだ。
『……アツヤ、大丈夫? いや、大丈夫そうには見えないね』
ポルタ座の出口前で俺のことを見つけたアリエーテ。開口一番に心配されてしまう。
戸惑いながらアリエーテが差し出してきたのは真っ白な絹素材のハンカチ。どうしてこの悪魔がこんな上質な物を持ち歩いているのかが謎でしかなかったが、今はそんな余裕はない。
涙やもろもろでぐちゃぐちゃになった顔を、純白の布で拭う。そんな様子の俺を見たアリエーテは顔を引き攣らせた。
『……お願いだから、後でしっかり洗って返してよね』
こくこくと首だけ動かして肯定の意を伝える。
『で、どうだった? 久々に観るポルタ座の舞台は』
「感動なんて言葉で言い表せるものじゃない!」
俺のあまりの声量と熱量にびくりとアリエーテの肩が跳ねた。とめどなく溢れ出るファンファーレの感想をアリエーテにぶつける。その話を面倒くさそうに聞き流しつつも、適当な相槌をうってくれるこの悪魔は存外良い奴なのかもしれないと密かに思ってしまったことは、コイツには絶対内緒だ。
『……随分と満喫出来たようで。良かったねアツヤ。俺も観たかったなァ』
若干皮肉めいたアリエーテの物言い。その白けた態度にはっと我に返った。
「ご、ごめん。つい興奮しちゃって。喋りすぎた」
『いや、別に。俺はいつも特等席で観てるし、いいんだけどさ。あまりにもアツヤが楽しそうだったから、何だかとってもつまらなくて』
人の苦しむ様を見るのが生きがいの悪魔ならではの着想に唖然とする。
しかし、それよりも引っかかったのは『特等席で観ている』という言葉だ。それについてアリエーテにそれとなく聞いてみれば。
『……ん』
アリエーテはずいと自身の右手を俺に向けて差し出す。
「……何?」
『何って、俺にお土産だよ。無いの? じゃあ残念、教えてあげられない』
俺は間髪入れずにアリエーテの手に紙の包みをどさりと置いた。驚いたようにその包みと俺の顔を交互に見比べるアリエーテ。僅かながらその表情に期待の色が見て取れた。開けてみろと言わんばかりに俺は自身の顎をくいと動かす。
『……アツヤ。全く、君って奴は!』
包みの中を覗いたアリエーテはお手上げだと言わんばかりにふっと息を吐く。
「ファンファーレ初演版復刻パンフレット、ファンファーレ再演版パンフレット。ファンファーレの主人公のひとり、アルフレッドが使うガラスペンのレプリカのセット。ちなみに各公演で10セットにしか付属していないガラスペン対応の特別インクも手に入れてある。勿論、自分用にもう1セット購入済だ」
『……君ほどの熱心なファンは中々いないよ』
「だろうとも」
胸を張る俺にアリエーテは嬉しそうに包みを抱きしめる。
そして俺たちは固い握手を交わした。
正直悪魔と友情が生まれることは信じがたかったが、アリエーテも中々なポルタ座ファンのように思えた。劇場内に入れなかった彼の至極残念そうな表情を考えれば、彼もいちファンなのだと容易に察しがつく。
種族をも超える友情。やっぱり共通の趣味というものは急激に心の距離を縮ませる力があるのかもしれない。
「約束だ、詳しく教えてもらおうか」
努めてにこやかに、アリエーテに問いかける。先程の言葉の引っかかりは未だつかえて取れない。
アリエーテは思わせぶりな表情でにやりと口の端を上げてみせた。
『やだ』
言うが早いか、その悪魔は右手の指をぱちんと鳴らす。
「え?」
俺が間の抜けた声を漏らせば。
瞬間、周囲一帯が絵の具を滲ませたかのようにじわりと揺らめき、暗闇に消えてしまった。ポルタ座も、今の今までそこら中で談笑していた観客たちも、黒く塗りつぶされていく。
何が起こったというのか。黒い空間の中には俺とアリエーテのみが取り残される。暗いはずなのに、アリエーテの姿だけは不思議とはっきりと見て取れた。
『今に分かるよ、アツヤ。これからが本番だもの』
「これからが本番って、どういうことだよ!?」
震える声を悟られないよう、アリエーテを真っ直ぐに見据えて尋ねる。冷や汗が止まらなかった。広がる闇に吸い込まれそうになる。
恐怖の気配を感じたのか悪魔は満足そうに微笑んで、ゆっくりと口を開いた。
『アツヤは賢い。俺が今教えずとも、今度会う時にはきっと全てを理解できているはず。この世界の仕組みを、ね?』
くすりと笑う彼は、黒一色の空間に俺だけを取り残し、一瞬にして消えてしまう。
……俺が渡した土産もろともだ。
それと同時に、頭を強く殴られたかのような衝撃が走る。あまりの鈍痛にぐらりと身体が傾き、ふっと意識が飛ぶ。薄れゆく意識の中で、俺は気がついてしまった。
――俺が命を賭して買い込んだ自分へのポルタ座土産が。俺が今の今まで大切に抱えていた戦利品が! どこにもない! 嘘のように消えているじゃないか!
気がつきたくなかった事実に愕然とする。ショックどころの騒ぎではない。
先程まで観ていたものは幻覚だというのか。
全て嘘だったというのか。
やはり奴は正真正銘、悪魔だった。
ポルタ座が好きだという俺の気持ちを易々と利用して、余りにも非情。惨すぎる。一体あいつは何を企んでいるというのか!?
悪魔と人間との間に友情は生まれることなんて、やっぱりあるわけがないんだ。少しでも期待した自分が馬鹿だった。
――次に会ったら、覚えてろよ!
心の中でアリエーテへの悪態をつきながら、俺は意識を手放す。
この時の俺はまだ知らなかった。
サラさんとポルタ座が抱えた痛みの重さも。
悪魔はびこる地獄の舞台上で、自分の課された配役に絶望を抱くことも。
この時には全く、分かるはずもなかったんだ。