第2幕 -1
ゆっくりと目を開いた。
快晴、真っ青に晴れ渡る空。
群れなして滑空する真白な鳥達、羽ばたきの音。
街並みは賑わい、人々の表情も笑顔で満ち溢れていて。
――ここは、どこだろう。
辺りをゆっくり見回す。どこか見覚えのある景色。にわかに信じ難い現象が自分の身に降りかかっているような気がしてならなくて。これは夢だろうか。否、夢な訳がない。
俺はさっきまで荒廃したポルタ座の地下にいたはず。そしてそこで出会ったアリエーテという悪魔と半強制的に『契約』をさせられたはずだ。
彼に導かれて、俺はポルタ座の舞台に演者として立ち、そして、それから――。
気がつけばここにいた。
俺はこの場所を、この日を知っている。記憶の糸を必死にたぐり寄せる。
眉間に皺を寄せてその場に立ち尽くしていれば、背後より僅かな衝撃を受けた。わあ、という高い声色から察するに、どうやら子供がぶつかってきたようだ。
振り向いて、愕然とする。
「こら、駄目でしょ! ちゃんと前を見て歩かないと。ごめんなさいね、お怪我はありませんか」
子供の母親に大事ないか問いかけられる。目線を逸らして曖昧に返事をすれば、俺の反応に女性は怪訝そうな表情を浮かべた。しかしそれもほんの僅かな一瞬。すぐに自分の子供に、このぶつかってしまった『お兄さん』へと謝るように促していた。
礼儀正しく頭を下げてくる子供ににこりと微笑んでみせれば、それを許しととらえたのだろう。その家族はすぐさまその場を後にして、目の前の建物へと向かっていく。
彼らが去ったのを見届けた後に俺はすぐさま路地の端へと退避した。暗がりの中でしゃがみこみ、うずくまる。冷や汗が止まらない。
見間違うはずがなかった。
あの子供は紛れもなく、10歳の俺自身だ。
そして今日この日は、家族でポルタ座の観劇に訪れた、俺の誕生日。自分に壮大な夢ができた記念日。
『――鋭いね、もう気づいちゃったかぁ』
確かに聞こえた、憎い悪魔の声。
思わず声の方へと振り返る。あの禍々しい姿を探すも中々見つからない。漆黒の出で立ちは真昼の明るい街並みにそぐわないはず。目立って仕方がないだろうに。
辺りを見回し息を潜めていれば、途端にふっと視界が遮られる。
『俺はここだよ、アツヤ』
どうやら背後から手で目隠しをされているらしい。アリエーテの腕を振り払うべく、俺は自身の目を覆い隠す彼の手に掴みかかる。
しかしその感触は思い描いていたものとあまりにも違っていた。その容姿を目の中に入れた時、思わず悲鳴のような声を上げてしまう。
男性とも女性ともとれる、不思議な声質。確かに自分の後ろから聴こえた声はアリエーテの声そのものだった。
だがポルタ座で見たような、影のように真っ黒でゴツゴツとした質感の彼の腕は何処を探しても見当たらない。俺の記憶とは真反対の、色白で華奢な、それこそすぐにでも折れてしまいそうな、か細い人間の腕を俺は掴んでいたのだ。
目の前にいるのは、俺よりも少しだけ小柄な少年ただ1人だけ。
『何その顔、傑作だなぁ。そんなに吃驚した?』
平然と呟いた彼はきょとんと目を丸くする。
陽光できらきらと光る髪は今までに見た事がない色をしていた。絹のように柔らかそうで、色素の薄い金とも銀ともとれる色合い。溜息が出そうなくらいに美しかった。
そのしなやかな髪にも負けずとも劣らず印象的だったのが頭部の両側に携えられた雄々しい角だ。前に彼が話していたことから、羊と呼ばれる生き物のものだと推測される。この角だけは先程までのおどろおどろしい姿のものと変わりない。
瞳の色は空の色をそのまま切りとったかのような爽やかな色合いだが、どこか淀みを感じてならなかった。細い腰や手足はぴったりとした黒い衣で纏われていて、柔らかそうな素材で作られた白い貫頭衣をすっぽりと被っている。この辺りでは目にすることのない珍しい服装だ。
「……アリエーテなのか?」
『そうだよ。別にあの格好でも良かったんだけど、こっちの方が人間みたいで良いでしょ』
先程の骸骨頭に黒い布を纏っているよりかはまぁ、確かに人間らしい。
「……しかし、何と言うか」
見れば見るほど美形に化けたものだと思う。こいつが悪魔だなんて誰が信じるだろうか。
今までに見てきた誰よりも目は大きく、睫毛は長く、まるでおとぎ話からそのまま出てきたような風貌。非現実的な架空の人物のようにさえ感じられる。
それとも俺が知らないだけで、外国の人間は皆、整った容姿なのだろうか。
まじまじと観察していると、アリエーテはにやりと口角を上げて笑みを浮かべる。
『えぇ、なになに? 綺麗で可愛い俺の事、もしかして見とれちゃってるの? いやぁ〜、照れるなぁ!』
「……何も言ってないけれど?」
顔を歪めて即、否定する。するとアリエーテは途端に不機嫌そうに頬を膨らませた。今までの骸骨頭では全く表情が伺えなかっただけに、あまりの百面相ぶりに内心驚きを隠せない。調子に乗っているのか、それともむしろこちらが素のアリエーテだというのか。
『アツヤの為を思って、より人間に近い格好にしたのに。そんなに嫌そうな顔をされると傷つくんだけど』
そう言うと、アリエーテは俺の腕を無理やり引っ張り路地裏から引きずり出す。よろめく俺を気遣う素振りもみせず、あの悪魔はポルタ座へと向かう人混みの中に紛れてしまう。
『早くしないと、おいていくよ!』
「ちょっと待て、あんまり騒ぐと目立つだろう!?」
『大丈夫! 実はね、アツヤ以外に俺のこと見えてる人はここにいないんだ。……むしろ目立ってるのはアツヤの方』
大声を出した後にふと我に返る。酷く嫌な予感。こいつが他の人間に見えていないのだとすれば。
辺りの人々の、まるで怪しいものでも見るかのような視線。ざくざくと俺に突き刺さっていた。
その状況を楽しんでいるアリエーテは笑いをこらえきれていない様子だ。羞恥に身を震わせながら、俺はアリエーテを無視して路地を進んだ。
街ゆく人々にはアリエーテが見えていないのか。人間に化けたとはいえ、道理でこんなに奇抜な彼の姿に気がつかないわけである。頭から角を生やした奇天烈な格好の奴なんて、人の多いこの街では注目の的になること間違いないだろうに。
『ごめんごめん、あまりにも面白かったから、つい』
俺の歩みに追いついたアリエーテはまだ笑い足りないようで、発した声が上ずっている。そんな彼に冷めた目を向けながら俺は小声で話す。
「お前の姿かたちなんて、正直どうでもいいんだよ。で、ここは何処で、俺達は今どういう状況なんだ? 今日は俺の10歳の誕生日、ポルタ座の公演を見に行った日だろう?」
『全く、冷たいなぁアツヤは。 演者たるもの、もう少しユーモアに理解が無いと、成長していかないよ?』
拗ねるアリエーテは口を尖らせる。こいつ、相当調子に乗っているな?
すると俺の気を読んだのか、アリエーテは強引に身を寄せてきた。
『仮にも俺達、契約を交わした仲じゃない。運命共同体だもの、もっと仲良くしていこうよ。ねぇ?』
異様な馴れ馴れしさに居心地の悪さを覚える。顔をひきつらせながら俺は足を早めた。
「仲良くする気があるなら、今、俺の身に降りかかっている怪奇現象について分かりやすく説明してもらいたい!」
せっかちだなぁと小言を漏らすアリエーテだったが、頃合とみたのかついに状況解説を始める。
『君が思う通りだよ。今日は君が初めてポルタ座を訪れた日。サラと初めて邂逅した日でもあるよね。俺達は今日というこの日に入り込んで、いち登場人物となって行動しているんだ』
「いち、登場人物……?」
そう、とアリエーテは自慢げに胸を張る。
『俺には悪魔の群れを統率出来る力があるんだ。この世界にいる君以外の人物達は皆、今日この日に存在していた『登場人物』に姿を変えている悪魔達なんだよ』
「じゃあ、俺の家族に化けているのも、悪魔……?」
『そう。完成度高いでしょ?』
あまりの再現力に理解が追いつかない。
早くも話から脱落しかける俺の様子を見て、アリエーテはにやりと笑う。想像を超える説明を展開させるアリエーテの底意地の悪さが伺えた。
目を白黒させる俺が話の根本に達するまでに時間がかかると踏んだのか、彼は早くも核心を零した。
『俺達は今、ポルタ座の舞台の上にいる。これは紛れもなくあの日を再現した、いち舞台演目なんだよ。このお話は大多数の悪魔達の力を借りて上演されているんだ。そしてアツヤ、君もこのお話の登場人物の1人だ。この話を展開させて、君には物語を最後まで導いて欲しい』
ちなみに、とアリエーテは耳元で囁く。
『最後の結末まで演じきらなければ、俺達はここから出られない。永遠にこのお話の中の登場人物として終わりのない世界を彷徨い続けるんだ』
ぞくりと背筋が寒くなる。冗談じゃない。俺の反応のひとつひとつをアリエーテは楽しんでいるようだ。
『君は今回、中々のキーマンに選ばれたみたいだよ。君の行動次第でこのお話の結末は変わってしまう。正しい結末に導けなければ、この話は終わらない。責任重大な役柄だ』
至極真面目な顔をして語るアリエーテ。どうやら彼には俺のやるべきことが既に分かっているとみえる。
「……俺はどう動けばいいんだ」
『それは自分で考えるんだね! 俺は正解を簡単にネタばらしするほどのお人好しじゃないよ。だって、俺、悪魔だもの』
俺の困り果てる様子に、けらけらと面白そうに笑うアリエーテは文字通り『悪魔』そのもので。機嫌が悪くなりそうな俺を見兼ねてなのか、彼はすかさず、そっと耳打ちをしてくる。
『まあ、今回は初めてだし特別大サービス。ヒントをあげようか。物語の鍵はズバリ、サラにある』
「サラさんに?」
「……今、サラがいるところって何処だろう」
俺は目の前に立ちそびえる城を見遣る。アリエーテもにやりと口角を上げた。気がつけば、俺の足は自然にポルタ座に向いていて。
『――さあ、いよいよ幕が開くよ。きちんと見ていてよね、サラ』