第1幕 -7
逃げようと試みるも身体が全く動かなかった。
恐怖のせいなのか、それとも奴、アリエーテがそうさせているのかは分からない。しかし何もかもが凍りついてしまったかのように俺は呆然とアリエーテを見つめるしかなかった。
奴はありとあらゆる闇を取り込んで、背に漆黒の翼を生み出す。その重々しいほどの闇は身に纏う布の中に収められていたとは思えないほど雄々しく、見るものを萎縮させる。悪魔はそれを見せびらかすかのように大きく広げてみせた。1つ羽ばたいただけで会場が揺れるくらいに巨大な翼。何とも言えぬ美しさをたたえていて、何故だか目を奪われてしまう。
圧倒されて身動きの取れない俺を軽々と抱えた悪魔はそのまま壇上へ向けて飛び上がった。
自身の身体が宙に浮いていることを感じながら、眼下に広がる客席を見て息を呑む。
観客は皆それぞれに、全く異なる異形の姿かたちをしているではないか。つまり、この会場にいるのは俺とサラさんを除いて全員悪魔だったというわけだ。
俺のことを見上げて笑う悪魔たちは俺たちの行動を完全に催し物として楽しんでいるかのように感じられる。
華麗に壇上へと降り立ってみせたアリエーテに会場から再び拍手の嵐が沸き起こった。呑気にもアリエーテはその声援に答えるかのように手を振ってみせている。情けなくも腰を抜かした俺は壇上に降ろされてからも床にへたり込むしかなかった。
明るい壇上に照らされて、状況が把握できないまま俺は観客の注目を一心に集めているようで。客席の方を見ればサラさんの青ざめた表情がはっきりと見て取れた。
『はい、皆さん。ゲストのアツヤ、タカハシです!拍手〜!』
俺へと向けられる拍手。その拍手にも劣らないほどの声量で彼女がアリエーテを怒鳴りつける。
「貴方! 図ったのね!? 」
『人聞きの悪いことを言わないでよ、サラ。アツヤは君にとって今から最高の協力者になるんだから』
「彼、篤也さんはこの件に全くもって無関係なの! 私たちの私情に勝手に巻き込まないで!」
『でもサラ。君の心構えは彼の声がなければ絶対に変わることはなかったはずだよ。それに彼は俺たちが想像しているよりも多くのことを知ってしまっている。現にアツヤは君を止めに来たからこうして今ここにいるんだ。そうでしょ、アツヤ?』
そう言って俺に言葉を求めるアリエーテ。俺はサラさんに目線を向ける。怒りに満ち溢れながらも俺のことを不安げに見つめる素振りを見せている。彼女をこれ以上心配させまいと俺は震える声で叫んだ。
「サラ……さん! こんな馬鹿げたこと辞めてください! 悪魔と契約すれば今度は貴女が国から追われることになる。君が思っている以上に政府の悪魔対策部門はこちらにも早く手を回してくるはずだ! そうすれば、君の夢も簡単に潰えてしまうかもしれない。悪魔なんかの力に頼らずとも俺が協力します、だから考え直してください」
『残念だけど、それは無理だよアツヤ』
間髪入れずにアリエーテが俺に言う。
『サラは1度契約を了承した。この了承は取り消せるものではない。だけどこのまま俺が提示する代償さえ受け入れればポルタ座を復興させられる。その願いはサラも、そしてアツヤ、君も望んでいたことなんだろう? ならそれで良いじゃないか』
「駄目だ!こんなの人間のやることじゃない。悪魔に頼るだなんてそんなの絶対に駄目だ」
『こっちは協力してあげる立場だっていうのに、随分散々な言い様だね。でも良く考えてみて。この街の状況下でどうやってポルタ座を復興させようって言うんだい? ポルタ座は忌み嫌われている。その根底を覆さない限りポルタ座を復興させるなんて夢のまた夢の話だよ。それは人間業では限りなく不可能なことだ』
それに、とアリエーテは頭の骨をこくんと傾げるように動かした。
『アツヤ、君には成したい夢があるそうじゃないか。言ってごらんよ』
俺は歯を食いしばる。思うこと全部がこいつには筒抜けだというのか。
確かにそれはポルタ座が復興しなければ成し得ない夢であるに間違いない。この夢は現状況下で望んでしまったら、彼女の願いとぴったりと一致してしまう。何としても彼女の悪魔契約を阻止したい今、それを自らの口から言うことだけは避けたかった。
しかし案の定、悪魔は全てお見通しらしい。
俺が固く口を閉ざしている様子を見て、アリエーテは声高らかに言ってのける。
『サラ、どうやら彼は話せる状態ではないみたいだ。代わりに俺が教えてあげよう。アツヤはずっと君に憧れてポルタ座を目指していたらしい』
サラさんがはっと悲しげな表情を浮かべて、そして俺を見る。俺はアリエーテにこれ以上何も言うなと懇願した。しかしそれを聞き入れるわけがない。
『アツヤが今ここにいるのも、ポルタ座へ入団するつもりだったからだ。悲しいね、自身の夢のためにこの街へはるばるやって来たというのに、目標にしていたものはすっかり消え失せていた』
アリエーテに囁かれ、俺の目からは自然と涙が溢れ出てくる。これも悪魔の力なのか、どうしようもなく悲しさが込み上げてきて。俺は両目からただただ涙を零しながら、これ以上彼女に暴くのはやめてくれと頼み込むことしかできない。
アリエーテはサラさんに向けて静かに諭す。
『サラ、君のことを10年も焦がれて追いつこうと努力してきた若者がここに確かに存在している。彼の思いを無下にしていいのかな』
言いわけないよね。そう言わんばかりに悪魔は彼女へと投げかける。
サラさんは俺とアリエーテを交互に瞳の中に映していた。
彼女は苦しそうに、しかし優しくその言葉を紡いだ。
「……分かった。アリエーテ、私への代償を教えて」
俺は悲痛な声を絞り出して叫ぶ。
「駄目だ、こいつの口車に乗らないで、絶対に」
篤也さん。
サラさんの優しく俺を静止する声。思わず言葉を切ってしまう。
「心配させてしまってごめんなさい。そしてポルタ座のことを今までずっと愛してくれていてありがとう。その言葉が聞けただけで私はどれだけ救われたか」
サラさんは微笑んだ。そして壇上へと向けてゆっくりと歩き出す。
もう声は出なかった。彼女の決意は固い。今から俺が何を言ったとしても彼女は決して揺らぐことはない。
心做しか満足気なアリエーテ。俺は涙に濡れた目をその憎い悪魔へと向けた。何て非道なやつなんだ。人間の常識では想像がつかないほどにこの生き物はありとあらゆる手段で人の弱みに漬け込んで、そして意のままに差し向けようとする。悔しいが俺では到底適わない。失意のあまり項垂れる。
サラさんは壇上に繋がる階段へと足をかけた。
「さあ、アリエーテ。私にその代償を」
サラさんは最後の1段をゆっくりと上り終え、その舞台上へと足を踏み入れる。
――はずだったのだが。
彼女の身体は気がつけば後ろに飛ばされ、宙に浮かんでいる。起こっている事象に全くもって理解が追いつかない。
ゆっくりとその現象は俺の目の前で展開された。
彼女が舞台に立とうと試みた時、張り巡らされた膜に跳ね返されたかのように彼女の身体は後方へと突き飛ばされる。もちろん膜なんて存在しない。しかし彼女が壇上に足を踏み入れたその瞬間、彼女を弾き返さんと、空間がぐにゃりと波打ったように思えてならなかった。
彼女が空間に投げ出されるのと同時に、俺のすぐ横にいたはずのアリエーテは瞬時に彼女の背後に回り込む。その身体が床へと落ちる前に、サラさんの華奢な身体を受け止めた。
アリエーテに後ろから抱きかかえられたまま、彼女は震える声でその悪魔に問うた。
「……どういうことなの、アリエーテ」
『どういうことって、どういうこと?』
とぼけたようにアリエーテはサラさんに聞き返していた。それに食ってかかれるほど、彼女は強くはなかった。
アリエーテはそれを分かっていて、わざと追い詰めるかのごとく平然とした調子で彼女の次なる言葉を待っているのだ。
「……これが私に対する代償なの?」
目に涙を溜めながらアリエーテに訴えるサラさん。しばらくの沈黙の後、その悪魔は彼女にその言葉を突きつける。
『ポルタ座が本当の意味で繁栄するまで、ステージに立つことを許されない。それがサラ、俺から君に要求する代償だ』
容赦なく言い渡され、愕然とする彼女の目からは大粒の涙が溢れて止まらない。
まさかこんな結末が待っていようとは。俺は絶句する。
こんな要求、誰だって易々と受け入れられるわけがない。これでは糧を全て悪魔に奪われたようなものだ。
俺が焚き付けるようなことを言わなければ、彼女はこんな目に合わずに済んだのだろうか。
泣き崩れるサラさんを喪心状態で見つめることしかできない自分にどうしようもなくやるせなさを感じてならなかった。
失意の底で悲しみに暮れる人間とは対照的に、一部始終を見守る悪魔の観客たちは拍手喝采だ。
彼らはこの代償を大いに喜んでいる。サラさんにとってのこの状況は、もはや死よりも重くのしかかる苦しみにほかならない。悪魔にとって最上級の餌になってしまっている。
『いっそ清々しいほどの嘆きだね、サラ。俺はこんなにも君が綺麗な涙を流してくれて、とても嬉しいよ』
悪魔は足取り軽く再び壇上へと戻ってくる。
『そんなサラと、そしてそこにいるアツヤ。実はまだ話は終わってないからね』
アリエーテは続いて俺のすぐ横まで歩み寄ってきた。
『何で俺は、君を今ここに導いたと思う? アツヤ』
その悪魔は俺に向けてもあの、深い青色をした薔薇を1輪差し出した。
『……俺と契約するのは、彼女だけじゃない。君もだ、アツヤ』
「……え?」
何を言っているんだ、こいつは。開いた口が塞がらない。
1人の悪魔に対して、2人の人間の契約者。
そんなことが可能なのか。それほどまでにこのアリエーテという悪魔は高等な力を備えているとでもいうのか。
状況を飲み込めていないと察したのか、アリエーテは俺に向けて話し始める。
『さっき君は言っていたね。いずれこの国の政府機関はきっと悪魔を炙り出しにかかる、と。確かに最近俺たちに対抗する手段を駆使する人間の輩が出てきたって聞いたことはあったんだ』
アリエーテは俺の肩に手をかけた。
『そこで俺は考えたよ、アツヤ。1人の人間に対して1人の悪魔。一般的なこの契約方法の場合、片方の存在が知れた場合、芋づる式にもう片方も炙り出されてしまう。だけどもし、これが悪魔1人に対して、2人の人間が契約者になったとしたら、どうなるだろう。結果的に契約にかかる力が2人の人間それぞれに分散されることになる。それぞれに干渉する力が半減するわけだから従来よりも悪魔の存在が探知されにくくなるはずだ。なおかつ君たち2人も政府に追われるリスクが減る。人間と悪魔、双方にとってこれは前代未聞であることには違いない。でもこれってつまりは革命とも言えるよね』
「それって」
俺はこの後、彼が言わんとしていることを悟った。
これは自分の意志に反している。心が悲鳴をあげた。そんな俺の気持ちを弄ぶかのようにその悪魔は楽しげに明るい声を出す。
『もう準備はできているんだ。俺はサラと、そしてアツヤ。2人の血でここに呼び出されたんだからね!』
ひらりとどこからともなく青い薔薇の花びらが舞い落ちてきた。その花びらはここに辿り着くまでに幾度となく目にしてきたもので。実際に確認しなくても分かる。俺の血がこびり付く花びらは、アリエーテの手の中に収まった。
俺は自身の頬の傷に軽く指を触れた。気のせいか鈍い痛みが走る。
『君に求める代償は既に施しているよ。自身の意志と関係なく悪魔と契約させられる。そしてステージ上に上がることができないサラに代わって、ポルタ座の舞台で演者を勤め上げる。それが君に課せられた代償だよ。夢が叶って良かったじゃないか、アツヤ』
事の重大さに思考がついていかない。そんな俺に畳み掛けるように悪魔は話を続けていく。
『ポルタ座には今、演者のアツヤ1人と舞台に上がれないサラ、便宜上支配人とでもしておこうかな。2人しか構成員がいない状況だ。 演者1人ではとてもじゃないけど演劇は成り立たない。君たちはまず舞台を構成する上で必要な劇団員となる人物を探して、誘い入れなければならない。つまり舞台公演をする上で必要な人材を揃えなければいけないってことだ』
そこで俺は考えた、とアリエーテは自信満々に言う。
『俺の力を最大限に活かし、かつこの少ない人数でポルタ座を再生していくには何をすれば良いか。そしてなおかつ人が苦しむ様を最大限に楽しむにはどうしたら良いか!』
表情が全く読み取れないと言うのに、何故こんなにも嬉しげな様子が伝わってくるのだろうか。人の不幸を喜ぶ典型的なはしゃぎっぷりに、怒りを通り越してもはや呆れ惚けるしかない。
『……でもそれはおいおい話すとするよ。楽しみは後に取っておいた方が良さそうだから』
アリエーテはひと呼吸置くことにしたらしい。話したいなら今話せば良いのに。とことん掴みどころがない。
ただ、悪魔の考えることだ。きっと不安を煽って人の苦しみを長く味わいたいとかそんなところの理由なのだろう。見え透いた魂胆に屈するわけにはいかない。
悪魔が嬉々として語る思わせぶりな話を頭の中から追い出して、改めて置かれた状況を黙考する。
サラさんの代わりに俺が演者としてこれからのポルタ座の運命を担わなければいけない。これが今の自分にとってどれだけ重圧なことか。ろくな演者経験もないまま、いきなり目指していた大舞台に立つことになるなんて。悪魔の施しでなければ千載一遇の大好機だと思えたものを。夢すらも悪魔によって踏みにじられたかのように思えて悲しくなる。
でもこうなってしまった以上、ここで俺が引き下がろうものなら彼女、サラさんは永遠に大好きなポルタ座の舞台に立てなくなってしまう。
幼かったあの日、舞台の上で歌い踊り、演じることを楽しんでいた彼女に心を射抜かれた。ずっと憧れて、追いかけて、この街に来ることを決意して。
そんな彼女の残酷な運命は俺でなければ変えられないんだ。
もう答えは出ていた。やるしかない。
そんな様子を伺っていたのか、アリエーテが口を挟んできた。変わらず飄々と軽い調子だ。
『そんなに怖い顔をしないでよ、アツヤ。せっかくなら運命共同体は多い方が楽しいよきっと』
無理やり勝手に契約させておきながら、アリエーテは少しも悪びれる様子がない。
『まあ、俺がそう思うのは群れることでしか心の安寧を保てない羊だからなのかもしれないけれど』
「ひつじ……?」
俺は聞き慣れない単語に首を傾げてみせる。
これには純粋に驚いたようで、アリエーテは詫びを入れてきた。
『ああ! そうだった、君たちが住むこの地域では羊は珍しい生き物だったね』
そう言うが早いかアリエーテはご丁寧にも自身の元となった生き物についての説明を始める。
『俺は人間の世界にも実在する、羊という草食動物を司る悪魔だって言い伝えられているんだよね。このアリエーテという名前もこことは別の場所の言葉で羊を意味しているんだ。羊という生き物は群れで行動をするんだけど、俺自身もそんなに大きな力を持っているわけじゃない。でも多くの力を従えることができるから、単独で行動する悪魔――例えば野蛮な山羊なんかよりも器用なことはできるつもりだよ。こんなに優しい悪魔、そうそういないと思うんだけどなあ』
どの口が言うか。俺は心の隙を付いてこようとする悪魔を睨みつける。
あまりの剣幕だったのか、僅かながらに悪魔はたじろぐ素振りをみせていた。
『これから長い付き合いになるんだからさ、サラ共々仲良くしていこうよ、アツヤ。俺もこう見えて舞台観劇、結構好きなんだよ。演劇座を復活させるためにこれから皆で頑張るだなんて夢があるよね、本当に』
本当に腹の底が見えない悪魔だ。酷く極悪非道な代償を言ってのけたかと思えば、人間に対して同情する姿勢を見せる。
蓮太郎が言っていた。悪魔は契約した人間には従順に付き従うと。これがそういうことなのだろうか。でもこの場合、アリエーテの気まぐれによるもののようにも感じられる。
『これからは君自身の夢も、そして彼女の夢もアツヤが背負っていくんだ。舞台上に立てるのは君しかいないからね!』
表情が見て取れたなら、きっと満面の笑みを浮かべているであろう、そんな声色で話すアリエーテ。
この悪魔ときたらとことん非道なことを俺に突き立ててくれる。これでは彼女の夢を横取りしたようなものだ。彼女に恨まれても仕方ない状況である。
『彼女は結果的にそういった代償を背負うことになるわけだけど、サラと一緒にポルタ座を復興する夢を追えるんだよ。いずれアツヤがもっと実力をつけて、ポルタ座が完全に復興する日が来たらきっと舞台上で2人並び立てるその時が来るよ。俺、楽しみだなぁ』
こいつ、とことん調子が良すぎる。
人の弱みに漬け込んで、嘲笑うだけ嘲笑った後に、人間の夢に擦り寄ろうとして。実に信用ならない。
そんなアリエーテを無視して俺は舞台上から降りる。そしてうずくまるサラさんの目の前で俺もしゃがみ込んだ。
「……サラさん」
力なく声をかければ、彼女はゆっくりと顔を上げる。
涙で濡れて、充血した瞳。目の下を腫らし、頬を赤く紅潮させているが、少しずつ落ち着きを取り戻しつつあるようだ。というよりも、こうなってしまった以上、抗う気力も残っておらず、酷く憔悴しきっているというのが詳細だろう。実際俺もそうだから。
「ごめんなさい。こうなったのは俺のせいだ。俺がここに来なければこんなことにはならなかった」
内心さぞ怒っているに違いない。俺は相応の罵倒すらも覚悟して彼女に謝罪する。
しかし俺の考えに反して、彼女は静かに首を振っただけだった。
「……篤也さんのせいじゃない。元を正せば悪魔に協力を請おうとした私が悪いの。私が軽率に復讐なんて望んだことが1番の過ちだった。このまま私が表舞台に立ち続けて、ポルタ座の座長に成りえたとしたら、きっと母親との確執は避けられない。万が一そうなった場合には、もしかしたら心のどこかに残る母への復讐心がまた燃え上がってしまうかもしれない」
サラさんはひと呼吸置いて話を続ける。
「どうにもならないこの状況の中で私も少し考えてみたんです。確かに私自身、舞台に立てない現実をまだ受け止めきれていません。どうしようもなく悲しく、悔しい」
彼女の目からまた一筋涙が流れていく。
「でもこうなってしまったら、今私にできることをやるしかない。浮かんできたのは、ポルタ座の存在意義と、私の本当にやりたいこと。それを再確認した時、復讐という浅はかな考えに取り込まれないように、もっと自分を客観的に見つめ直すべきだと思ったんです」
涙を拭った彼女は笑顔だった。
「だからこれはきっと、良い機会なんだって考えることにします。 いつまでも悩んでたらそれこそアリエーテの思う壷ですからね」
落胆しながらも、とことん前向きな彼女に俺は感嘆の息を漏らす。どんなに躓くことになったとしてもサラさんはなおも先を見続けている。
そんな彼女の夢を託されるのだ。サラさんをきっと必ず絶望のその先の世界へと連れ出してやらなければいけない。2人の夢が叶わなくては真にポルタ座が復興したとは言えないだろうから。俺も決意を固めなければ。
そう意気込むよりも先に、サラさんが俺の名を呼ぶ。
「篤也さん。巻き込んでしまった手前、大変心苦しいのですが、今はポルタ座のためにここまでしてくれる心優しい貴方を頼らざるを得ません。どうかポルタ座のために力を貸してください」
サラさんは俺に向かって深々と頭を下げてきた。消え入りそうなほどの弱々しい声。拒む理由などなかった。
俺はそんな彼女の目の前に手を差し伸べる。
「ポルタ座を復興させて、そして言いたい放題言ってくれるあの悪魔に一矢報いてやろうよ」
――あの子は今、ひとりぼっちなんだ。
脳裏に焼き付いた蓮太郎の言葉。
もう彼女を1人きりになんてさせない。
ポルタ座にあの日のような賑わいが戻ると信じて。誰からも愛される演劇座への復活を願って。
そして彼女が笑顔で舞台に立つその日を夢見て。
彼女は顔を上げて、俺が差し伸べた手を瞳の中に映す。
一瞬驚き、照れ笑いを浮かべた彼女は俺の手をとる。俺たちは微笑み合った。
そんな人間2人の結託を面白く思わないアリエーテはわざとらしく俺たちの間に割り込む。
『……あのさぁ、いい感じなところ申し訳ないんだけど。まだとっておきの話、終わってないからね』
アリエーテはサラさんの方へと向き直る。
『時にサラ、君は気にならないかい? アツヤに君の運命を任せられるだけの実力が果たしてあるのかどうか』
サラさんはむっと顔をしかめて言い返す。
「少なくとも貴方のような酷い悪魔よりは信用できるわよ」
先程から思っていたのだが、何となくサラさんはアリエーテに容赦がない気がする。悪魔だから邪険に扱っているというのもあるのだろうが、それだけでなく、妙な近しさすら感じられるのだ。まるで昔からアリエーテと顔馴染みであったかのように。
この悪魔は俺の知らない彼女のことを知っているのだろうか。それを考えると何だか胸の奥がちくりと痛んだ。悪魔に嫉妬しても仕方がないのだが。
アリエーテはそんな彼女の悪態を気にする訳でもなく、今度は俺に問いかける。
『じゃあ、アツヤ。君は知りたいだろう。どうしてサラが悪魔に頼らざるを得ないほどにポルタ座が衰退してしまったのか。あの日、ポルタ座に何があったのか。彼女は何を思って自らの母親に対して禍々しい復讐心を抱かなければいけなかったのか』
俺ははっと反応してしまう。それは確かに知りたいことではあったから。
サラさんが即座にアリエーテを止めようとする。
「人を誑かすのはやめて、アリエーテ」
『誑かすだなんて人聞きの悪いこと言わないでよ。俺はアツヤに事実を見てもらおうとしているだけ。事の真実を理解してもらえている方が今後サラにとっても都合が良いはずだよ。それにアツヤにしてみても、これから幾度となく向き合う世界を知れる良いきっかけになると思うんだけどな』
さあどうしようか。アリエーテにそう投げかけられた気がして。
横を見れば彼女もまた困惑の表情を浮かべて俺を見つめ返してくる。悪魔の手には乗りたくはないが、しかし真実を知りたい気持ちが勝ってしまう。この状況では当然といえば当然か。
俺は気持ちを落ち着かせるため1度だけ息を吐く。そして奴に向き直った。
「分かった。俺に真相を教えてくれ、アリエーテ」
アリエーテは肩を震わせる。まるで嬉しさのあまり笑いをこらえているかのように。
『アツヤ、君をここまで導いて良かったよ! 君で良かった』
そう言うと、アリエーテは1人壇上へと舞い戻り高らかに宣言する。
『皆さん大変お待たせ致しました! これより公演を始めさせてもらいます』
その声を待っていたかのように会場中の悪魔たちが一斉に歓喜の声を上げた。大きな音に驚いたのか、びくりと身体を震わせるサラさんに咄嗟に寄り添う。
『さあ、アツヤ。主役は君だ。こっちにおいで』
アリエーテは俺に向かってそのおぞましい腕を伸ばす。
この手を取った先には何が待っているのだろう。
差し伸べられた手を取るか否か迷いをみせていれば。
不意にサラさんが俺の左手を握ってきた。吃驚して思わず彼女の方を見てしまう。
「……私は篤也さんのこと、信じています。信じてここで見守っています。舞台の上のその先で、どうか真実を見てきて」
そう言い残すと彼女はゆっくりと俺の左手を握っていた手を離し、後ろに下がる。
目の前に広がる舞台。ずっと夢見ていたポルタ座に今、俺は立とうとしている。
俺は舞台下、アリエーテの目の前まで歩み出た。そして意を決してその黒い腕に手を伸ばす。
握り返された手は酷く冷たかった。熱を帯びないそれに引き上げられた俺はその舞台上へと改めて足を踏み入れる。
俺はアリエーテの隣に並び立った。
舞台の下で待つ彼女の思いも共に心に宿して。
照明が俺たちを照らす。背後には2つの影が伸びた。
『さあ! ショーの始まりだ!』
開演の合図が鳴り響く。
演劇館ポルタ座の幕が再び上がった。
視界が見えなくなるほどの眩しい光に包まれて。
俺はアリエーテと一緒に演目の世界の中へと潜り込んでいく。
この先、何が待つのだろうか。期待と不安に心が震える。
悪魔に負けぬよう、前だけをただひたすらに見据えようと心に誓った。
彼女に託された思い。それを果たすまでは絶対に立ち止まってはならない。
俺は顔を上げる。
今、自分に課せられた役を演じきるために。