序章 -1
10歳の誕生日。
両親に手を引かれ、少年はこの街1番の大通りを悠々闊歩していた。
いつもであれば、身に纏うのが躊躇われる格式高い衣装も、今日ばかりは様になっているように感じられて、気分が高揚する。
ひとつだけほんの些細な不満点を上げるとするならば、母親が勝手に選んだ取っておきの一張羅のサイズだ。悲しいことに、丈が合っていない。
着慣れないせいか、シャツもズボンもだぼついて動きにくいことこの上なかった。普段愛用している和服の着心地を恋しく思う。
動けば動くほど折り畳んだシャツの袖口は、徐々に元通りになっていく。思わず顔をしかめた。
しかしこれから起こるであろう出来事を想像すれば、服のことで不快に顔を歪める時間すら惜しく感じられて。少年は不満を無理やり頭の隅に押しやった。
見慣れない辺りの情景をひとつひとつ目の中に移す度、特別な日なのだという実感がじわりじわりと湧いてくる。ますます少年の心は軽やかに跳ねていった。
それは繋がれた両手からもしっかりと伝わってきて。
きっと今日は大人も子供も心躍る日なのだろう。
幼心ながらも少年はそう確信した。
回りを歩く人々もきっと目的は同じだ。和、洋、思い思いの正装で全身を固めた彼らの姿を眺めれば、不思議な感覚が込み上げてきた。
非日常の世界へと迷い込んだようでそわそわと気分が落ち着かない。
そんな様子を見かねた母親が少年に声をかけ、向かう先を指差した。
それを見れば誰だって感嘆の息を漏らす。
例外なく少年もまた、驚きと感動のあまり声を上げた。
突如として現れた城のような建物。
この街でも1、2を争うほど巨大な建造物ながらも、細かな装飾があしらわれたその風貌はあまりにも現実からかけ離れていて。その外観はまるで異世界の物のように感じられる。
異国の空気を纏うこの建物こそ、自分たちの目的地。
人々はその事実だけで、これまでに味わったことのない高揚感を覚えるのだ。
少年は父親に問いかける。
建物の前にそびえ立つあの扉はいつ開くのか、と。
黒塗りに緻密な彫り物が施され、その外観だけでも立派な美術品にも思えるそれはまだ固く閉ざされていた。
まるで、城を守る強固な大門のようだ。
少年は率直に感想を述べてみせる。
すると父親は朗らかに笑い、そして少年に教えてくれた。
ここは沢山の夢を見せてくれる場所であるということ。
この門は普段少年達が住んでいる世界と夢の世界を隔てている扉なのだということ。
そして異国の地では、この扉のことを『ポルタ』と呼ぶのだということ。
やがて扉の前に2人の男が並び立った。その人物達もまた、異国の空気を感じさせるような扮装をしている。紺色に金色のボタンが輝くその服は威厳と誇りを感じさせた。衣装とお揃いの色をした帽子を目深に被り、門の前に堂々と立つその姿の毅然溢れる態度たるや。少年の心はますます高鳴った。
時間が経つにつれ、門の前に人々が集まってくる。今日というこの日に、建物の中に入ることを許された『観客』達だ。
扉を守るかのように配置された2人の男のうち、1人が手首に巻かれた腕時計を確認する。つられて少年も父親にせがみ、父親の懐中時計を見せてもらった。時計の針は間もなく正午を知らせようとしている。回る針全てがてっぺんを指し示したその瞬間だった。
男達が扉の両脇に規律正しく並び立ったかと思えば、ゆっくりと扉が開いていく。人々の群れから歓声が上がった。
どこからともなくファンファーレが鳴り響き、青空に色とりどりの風船が飛び立つ。壮大な演出に圧倒された少年の口はぽっかりと開いて塞がらない。
その様子を見た少年の両親は顔を見合わせてくすりと笑い合ったのだった。
『演劇館 ポルタ座』
この国の都よりずっと離れた片田舎の中心街に突如として現れた娯楽の場。異国を思わせる見た目の建物の正体は大衆演劇座であった。
老若男女誰もが楽しめる演劇を、をモットーに。
演者たちは観客を楽しませるために自らの力を磨き合った。
その評判はたちまちのうちに都まで届くことになる。
いつしかポルタ座には腕の確かな演者が集まり、連日選ばれた観客のみが観劇を許される、特別な場所になっていった。
少年の父親は、我が子の10歳の誕生日にこの高尚な舞台演者たちを見せてやりたいと心に決めていた。志の高い演者たちの熱の入った演技は、目にした誰もが心を打たれる。
若干10歳、これから自分の生きる道を選択していくことを考えれば、いい刺激になるのではないだろうか。
今日という日、この演劇を家族全員で観るために。
少年の両親は未来ある我が子への投資は惜しまなかった。少しでも何か心に響くものがあればいいと期待して。
……というのはあくまで建前で。本音を言えば少年の両親の方がこの演劇座で観劇を楽しみたかったのだった。
実を言えばこの少年、家を出る直前まで気乗りせず、心の中で両親に対して、途切れることなく文句を呟いていた。
事実、自分のために滅多に行くことの出来ないポルタ座の入場権利を得てくれたことには感謝している。10歳の少年であっても、ポルタ座で観劇することがどれだけ大変なことかは理解できていた。あの場でスターの演技を目にしたとなれば学校でもてはやされるに違いないだろう。実際に観劇したというクラスメイトの話は未だ聞いたことがない。しばらくの間、間違いなく休憩時間はポルタ座の話題で持ちきりになり、自分はその中心人物となる。少年は確信していた。
しかし、残念なことに少年は舞台観劇に興味がなかった。長時間じっと座っているのも苦痛だろうし、つまらなかったら寝てしまうんじゃなかろうか、いや、きっと眠りに落ちてしまう。不安要素が多いことに、少年の心はどんよりと沈む。
折角の誕生日、息子のことを本当に考えてくれているのであれば遊園地の方が嬉しかった。少年は誕生日当日まで小言を言い続けたのだった。
そんな息子の暗く沈んだ気持ちを両親は敏感に悟っていた。息子のこれからのためにも、そして自分たちのためにも何としても気分良くポルタ座に出向きたい。
観劇当日、出かける前に母親は少年に言い放った。
「ポルタ座で観劇した後、百貨店でパフェを食べましょう」
その言葉を聞いた瞬間、少年の目はたちまち輝いた。
というのも、当時、百貨店でパフェを食べるだなんてイベントはそうそう起こるものではなかったからで。少年の家は回りと比べて確かに裕福ではあったものの、街に出なければそういった物珍しいものを目にすることもない。ましてや百貨店もパフェも少年にとって初めての出来事だった。大型百貨店の方が少年にとっては夢の国のように思えたし、異国の菓子など滅多なことがなければ口にできない。
少年は街に出ることに俄然乗り気になった。
さらに畳み掛けるように、父親が少年に耳打ちする。
「移動は馬車ではなく、列車で行こう」
耳を疑った。この時、長距離の移動手段といえば馬車が主流で、列車はここ最近都の方で開通したばかりだと聞いていた。噂ではなんでも箱が人を乗せて動くのだという。想像がつかない。
父親の話では、ポルタ座のある地方の街でも試験的に短距離間での走行が開始されたらしい。列車と言っても、路面をゆっくりと移動するものらしいが、それでも少年の心は高鳴っていた。
少年は足取り軽く家を飛び出していた。
心の中の小言の数々はどこへやら。不思議と相乗効果でポルタ座への期待も跳ね上がっていた。これからきっと、非日常的な1日が始まるに違いない。これは凄い誕生日になる。少年の心は頭上に広がる青空のように晴れやかだった。
扉が開くと同時に、ポルタ座の演者たちがゲストを出迎えに飛び出してきた。軽やかなステップを刻みながら、舞台の幕はもう上がっているんだと言わんばかりに。ゲストたちをその世界へと引き込んでいった。
とある演者の女性は、気品溢れる老夫婦の前でくるりと回り一礼し、無駄のない動きでポルタ座の中へと案内していく。
メインダンサーと思わしき男性の華麗なタップダンスに足を止める大勢の女性客たちの姿もあった。きっと人気のある演者なのだろう。多くのファンを魅了する理由もわかる気がする。少年は遠巻きにそのダンサーの演技を見て納得した。
様々なゲストが多種多様な演出を受けている光景に目を奪われていると。
まあ、と母親が声を上げ、少年の肩を叩いた。ふと見れば、自分と同い年くらいの幼い女の子が目の前に立っていた。どきりと少年の心が高鳴る。
ふわりとスカートの裾を上品に持ち上げ、丁寧にお辞儀をしてみせる少女に少年も思わずぺこりと頭を下げた。
そんな2人の微笑ましい立ち振る舞いに、少年の両親は満面の笑みをこぼす。この時間をずっと切り取ったまま、残しておけるのなら。どんなに幸せなことだろうか。
少女は少年に小さなカードを渡してきた。見れば異国の言葉が書かれているようで。
意味が分からず首をかしげていると、少女はにこりと笑った。
「『ポルタ座へようこそ、楽しんで』」
きっと、カードに書かれた言葉を教えてくれたのだろう。少女はもう1度一礼すると、ポルタ座の中へと消えていった。
父親に顔が赤いぞ、とからかわれる。そんなことは無いと反論するも、少年の胸の内は穏やかではなかった。
生まれて初めて、あんなに綺麗な女の子を見た。
異国の人形のように整った顔立ち、ぱっちりと開かれた目。淡い桜色の唇。
自分はとんでもない世界に迷い込んでしまったらしい。気づけば少年はものの見事にポルタ座の演出に心を射抜かれてしまっていた。
子役の子かしらね、と母親が呑気に口にする。子役であんなにも魅力的なのであれば、他の演者は一体どんなにすごい役者たちなのだろう。
少年のポルタ座への期待は最高潮に膨れ上がっていった。