第八話 生命線
大鎌の一撃を受けた怪物が痙攣を続けている。それが無意味と知っても、再び立ち上がろうとしているようだが、怪物には指一本動かす力も残されていなかった。次第にそのわずかな抵抗すら止み、あとには醜悪な肉塊が残った。
ようやく事態を察知した沙羅が勢いよく立ち上がり、愛実のもとに駆け寄る。
「愛実!」
呼び掛けには答えない。昏い眼は足元に横たわる死骸を見下ろしている。
沙羅は両手を背中に回して強く抱きしめ、もう一度彼女の名を呼ぶ。声を、心を絞り出すように。
愛実は沙羅の呼びかけに焦点の合ってない目で応え、ふっと微笑む。そして沙羅の腕の中に力なく倒れ込んだ。
「ねえ、大丈夫!?」
崩れ落ちた愛実の向こう側から、愛実の代わりに応える声があった。
「大丈夫だ、死んでねえよ、一応はな」
その声は先ほど沙羅が耳にしていた、聞きなれない声だった。
「……あなたは、一体――」
夕焼けの逆光の中、赤い光と黒い闇の中に、異国風の少女が佇む。外見の年齢は彼女たちと違わないはずであったが、赤い切れ長の目はルビーのような怜悧な美しさとともに血塗られたナイフのような危険さ、煉獄の炎を映したような諦観を感じさせた。
「とりあえずずらかるぞ。腰を落ち着けて話がしたい。いい場所はないか?」
沙羅の体中が、異彩を放つ少女に警戒信号をがなり立てる。目を逸らし、虚空を走らせる。やがて覚悟を決めたように少女に向きなおった。
「……そうね。あなたには助けてもらったし、あなたのことも知りたい。でもその前に、迷惑ついでに一つ付き合ってくれない?」
沙羅は返事を待たずにポケットからスマートフォンを取りだす。その様子を、少女は不思議そうに眺めていた。
意識を覚醒させた瞬間、愛実は胸と首に走る激痛に呻いた。随分と眠っていたようだ。おそるおそる薄目を開ける。目の前に見慣れた親友の顔が映る。次の瞬間、遠慮のない抱擁、というより締め技が彼女を襲った。
「い、痛い、痛い……」
「ご、ごめん、つい」
彼女のか細い訴えに気付いた沙羅が慌てて腕を離す。その頬には涙が伝っていた。
「……ごめんね、心配させたみたいで」
「私のせいだよ、愛実……」
「……大丈夫。生きてるから」
視線を落とす沙羅を愛実が慰めた。
「ああ。生きてる。そのままだともうじき死ぬけどな」
紅い瞳の少女の声。愛実の注意は即座に引き付けられる。少女は食卓に足をかけて座り、ワインのボトルを逆さまにして、残りの数滴を名残惜しげに味わっていた。
「あなたは、さっき助けてもらった……あの、名前を訊いてもいいかな?」
そう問いかけられた少女は目を細め、愛実の爪先から頭を、値踏みするように見やった。
「ベルゼブブ。アタシを知る連中はそう呼ぶ」
「ベルゼブブって……あのベルゼブブ?」
悪魔ベルゼブブの名は、愛実も知っていた。ただあまりの唐突さに、彼女はただオウム返しに訊き返すことしかできなかった。
「あのベルゼブブってのが何か分からねえが、多分そのベルゼブブだろ」
「……はあ。そのベルゼブブ、ですか」
「ただ、その名前はアタシをバカにするために付けた名前だから、呼ぶな」
そういわれてみれば、ベルゼブブ、という名が出るたびに、彼女の額に皺が刻まれている、そんな気がした。
「じゃあ、本当の名前を教えてよ」
「それが分かれば苦労はしないっての」
苛立たしげに、勢いよくビンを机に置いた。
「つまり、記憶喪失ってこと?」
「そんなわけだ。そこで、お前に取引の話がある」
「取引?」
「アタシの記憶と力を取り戻す手助けをしてもらう」
「……何をすればいいの?」
「アタシがここにいるってことは、他の悪魔共もこの辺りにいるはずだ。そいつらの中に、アタシの記憶と力を奪ってった野郎がいる。そいつをブチのめして取り返す。ただ、ほとんどの力をもってかれてるアタシが戦うには、誰かに憑依しなきゃなんない。そこで、だ」
ベルゼブブと名乗る少女はそこで勢いよく愛実を指さしてみせた。愛実はきょとんとして、突き出された人差し指を眺める。
「アタシの契約者として戦ってもらう。なに、お前にも見返りはあるからさ。願ってもない、生き返るチャンスなんだからな」
「生き返るも何も、私は今――」
「いや、死んでる。死ぬ間際、お前の命を契約の対価としてアタシに捧げた。要は死んだのをだまくらかしてるようなもんさ」
蜘蛛の糸にでもすがるような思いをばっさりと断ち切られ、文字通り愛実は生きた心地がしなかった。あの怪物は、あの傷は、悪夢であってほしいと心の片隅で願う気持ちがあった。楽観的な自分を真横から殴られたような気分であった。
「……分かった。私が生き返るには、どうすればいい?」
「確証はねえ。アタシが力を取り戻したとき、権能かなんかでアンタを生き返らせることができるかもしれない、ってだけだ」
「権能? あなた、女神様なの?」
「今となっちゃ記憶の端くれもないが、そうだったらしい。アタシの目的はその姿、本当のアタシに戻ること。ただそれだけだ」
疑う気持ちがなかった訳ではない。出会ったばかりの見知らぬ少女に、悪魔だ神だと本の中の世界の言葉を投げつけられ、挙句の果てには自分は死んでいるという。ただ、その少女が願いを口にする時、粗野な言葉の端に無垢な真摯さが、子供の見る夢のような純粋さが見え隠れしていた。彼女を信じるには、それだけで十分であった。愛実の両手が、ベルゼブブの右手を包み込む。ベルゼブブはびくりと小さく跳ね上がった。
「……何だ」
「頑張ろう、一緒に」
「……ああ」
ベルゼブブが乱暴に愛実の手をふりほどく。だがその表情は、心なしか少し和らいでいた。
二人は、戦いの渦へと身を投げることになる。その渦は、死で満ちていた。