第二話 不穏
午前中の授業が終わると、愛実は大きな袋と水筒を持って空き教室に向かった。空き教室の椅子に腰かけ、水筒の暖かいお茶を啜ってぼうっとする。しばらくして沙羅がやってきた。沙羅の小テストは午前中行われると聞いていたが、その結果は訊くまでもない。この世の終わりのような表情が全てを物語っていた。
「あれ、意外。沙羅が追試なんて」
「一点……あと一点……」
沙羅は同じ言葉を地縛霊のように呻きながら歩いてきた。愛実はもう一つのコップにお茶を注いで沙羅に渡す。
「円錐……円錐滅ぶべし……」
沙羅は気分の浮き沈みが良くも悪くも激しいのだ。普段はのんきな印象すら与えるほどの明るい少女であるが、一度突き落されるとこのありさまなのである。コップを握りしめながら愚痴を言う様はまるで酔いつぶれた居酒屋の客である。もっとも、二人ともそういう光景はテレビでしか目にしたことはなかった。
「ああうん、図形はほんと厳しいよね……とりあえずお昼にしない? お仕事の話も聞かないと」
「うぃっす……」
愛実が弁当の蓋を開けた。それを覗き込んだ沙羅の表情が別人のように変わった。
「おお、昨日のトンカツまだあったのか……! ゲン担ぎは失敗したけど、それでもトンカツは美味しい……!」
「うまい事言うね」
おそろしいほどの早さで調子を取り戻した沙羅に、愛実は笑いかけた。
「そういえば、依頼来たよ。一崎さんのとこの猫探し」
沙羅は自分の住んでいる管理人室で探偵事務所を開いており、愛実はその助手、というか雑用係をしている。探偵事務所の雑用、そして沙羅と浅葱の朝の世話を条件に、愛実は家賃免除でマンションの一部屋を借りているのだ。愛実は携帯のSNSを開き、「業務用」という銘打たれた、沙羅と浅葱のグループを見た。日中の探偵事務所は浅葱がいて、家事をこなしながら依頼を受けているのだ。
人探しではなく猫探しだが、こういう探偵らしい依頼は珍しく、沙羅は目を輝かせた。依頼がめったにないわけではないが、舞い込んでくる依頼といえば飼い犬の散歩や家事手伝いがメイン。なんでも屋の域までなり果てている。人の不幸を喜ぶ訳ではないがこういう依頼だとテンションが上がるのが沙羅である。
放課後、管理人室もとい探偵事務所に愛実、沙羅、浅葱、そして依頼人の一崎という老婆が応接間のソファに腰かけていた。テーブルにはメモ帳と白紙のままの依頼報告書、緑茶とどら焼きが上がっていた。
一崎は三人に何度も頭を下げ、何枚かの写真を取り出した。この写真で件の猫の全身の模様が分かるようになっていた。好物だというエサと、エサの時間に猫を呼ぶための鈴も手渡された。
「ごめんね沙羅ちゃん、愛実ちゃん。迷惑かけて……」
一崎が申し訳なさそうに何度も頭を下げる。
「いつもお世話になってますから。ほんのお返しですよ。じゃあ手続きのほうはお願いね、浅葱」
「はい、沙羅。いってらっしゃいませ」
事務は浅葱。実働部隊は沙羅と愛実。役割分担は徹底している。
二人はコートを羽織って街に飛び出した。日はすでに暮れかかっている。
「茶トラの猫で名前はブチ……赤い首輪、ね。一般的に茶トラは臆病でのんびりした性格だし、一崎さんの家からはあまり離れてないかも」
彼女曰く「名探偵モード」に入った彼女は愛実から見ても印象が変わる。幸か不幸か、ペット捜索についてだけで言えば腕前は警察並である。
「人を探すなら人の気持ちに、猫を探すなら猫の気持ちに、って昔からいうからね。猫の気分になるよ、愛実」
「ニャ―ニャ―言いながら探して、上手くいった試しがないんだけど……まさか猫の格好しろ、なんて言わないよね?」
「はははまさか、そんなことを言うわけが、ははは。ところでこれ愛実の秘密兵器ね」
沙羅が愛実に服らしきものを手渡す。「萌え萌え猫耳大作戦☆」その文字列が目に入った愛実は即座にコスプレ衣装を叩き落とした。
「ああっ、折角の衣装がっ」
「遊んでないではやく見つけるよ、時間ないんだから。」
仕事モードになっても、沙羅は沙羅であった。愛実は衣装の泥を落とそうと躍起になっている沙羅を振り返ることなく歩き出した。
「あの、あたし一応所長で愛実の上司なんだけど。愛実?」
沙羅はそう言って愛実に追いすがった。
それから二時間。猫は見つからず、二人は途方に暮れていた。追い打ちをかけるように天候は急変し、雨粒がぽつぽつと落ちていたいつもは口を開けば無駄話の飛び出していた沙羅も口数が減っている。
二人のスマホには、浅葱からの伝言で「一崎さんが心配してるから戻ってきた方がいい」という旨のメッセージが残されていた。
「冗談じゃない! 絶対に見つけて帰るんだから!」
液晶を割らんばかりにスマホを握りしめ、諦めそうな様子から一転、沙羅は奮起した。
「いつもおいしいお菓子くれるお得意様だから?」
「そう! ……違う! お婆さんの気持ちに答えなきゃいけないからに決まってるでしょ!」
「気持ち?」
「そう。気持ち。そもそも、探し物っていったら交番でしょ。どっからどう見ても胡散臭い探偵事務所なんかには来ないわ。それでもここに足を運んでくれるってことは、私たちの力を信頼してくれるか、最後の望みをかけてきてくれるかのどっちかでしょ。そういう人たちの思いに応えないわけにはいかないの」
沙羅は依頼は必ず成し遂げる、という強い意志を持っていた。調子に乗りやすく、落ち込みやすい沙羅。それでもその信念の強さは愛実も誇りに思っており、愛実たちからの憎めない印象を形成していると言っても過言ではなかった。彼女のまっすぐさが、相麻探偵事務所のそこそこの評判を作ってきたと言っても過言ではない。
そんな信念を背負った少女が、勢いを増した雨の中走り出す。愛実も慌ててその後を追った。
「……このあたりね」
急に沙羅が立ち止まり、呟く。声色には絶対の自信がにじみ出ていた。
「え?」
あまりに唐突な言葉に、愛実はただ訊き返すことしかできない。
「最近猫探しがなかったからね、随分変わってる」
「どういうこと?」
「野良猫の縄張り。飼い猫って野良猫の縄張りには入らないっていうでしょ? 喧嘩にならないように」
「前に聞いたような、聞いてないような……ってまさか、今までそれを見るために町内一周?」
「そうそう。しばらく猫探しはしてなかったから、だいぶ勢力図が変わっちゃったけどね」
愛実は目の前の少女の行動力にただただ舌を巻いた。
「今までいくつペット探しをしてきたと思っているのかな?」
「ねえ、それって自慢? 自虐?」
「ぐっ……で、目星をつけたのがここだから……」
沙羅は図星を突かれたような声を出すと、目の前の側溝に躊躇せず飛び込んだ。泥水が撥ね、沙羅の靴や服を汚すが気にすることはない。ちなみに選択は浅葱の役目である。そして、老婆がえさの時間に猫を呼ぶときに使うという鈴と、猫の大好物であるというおやつを持ち、鈴を鳴らす。すると、弱々しい鳴き声を上げて飼い猫が姿を現した。すかさず沙羅は猫を抱き上げる。
「全くもー、お婆さんを心配させるもんじゃないぞー、こんにゃろー!」
二人は一崎の家に向かい、猫を届けてから帰宅した。一崎は逆に申し訳なくなるくらいに頭を下げて礼を述べた。
愛実は沙羅、浅葱と夕飯を食べ、皿洗いをしていた。沙羅は泥水で汚れたため夕飯前に入浴を済ませており、パジャマ姿で居間でくつろいでいる。浅葱は沙羅の髪を櫛で梳かしている。
「今回は見つかってよかったものの、もうこんな無茶はしないでください。」
「大丈夫よ、だいたい浅葱は心配しすぎなのよ……くしゅんっ」
「風邪ひいたじゃないですか。」
「分かったってば、浅葱。今日は早く寝るから……。」
沙羅の表情には明らかに疲労の色が見えている。それでも満足げに、彼女は紫色の液体の入ったワイングラスを傾けた。それを見た愛実が目を丸くしてそれを取り上げた。
「未成年の飲酒は法律で禁止っ!」
「何すんの! 風邪引いたらアルコールを流し込んで消毒するのが一番って親戚のおじさんから聞いたからやろうと思ってたのに!」
「とりあえずその人には脳味噌のアルコール消毒が必要だね!」
「しかもただ気分だけでもやろうと思っただけだって! いくらなんでも浅葱が私がお酒なんか飲むの許すわけないでしょ!?」
「どれどれ……? ただのブドウジュース……。全く、紛らわしいことしないでよ……。とりあえず洗い物済んだから、今日は帰るね。」
「悪かったって。」
グラスに口をつけ、酒でないことを確認した愛実が、がっくりと肩を落とした。
愛実が掛けてあったコートを手に取ったとき、テレビのニュースが流れた。事務所の近所で不審な殺人事件が相次いでいる、という
旨を告げていた。三人はニュースにくぎ付けになる。
「……気を付けてよね、愛実。」
「そこの階段を上ってすぐなんだから、大丈夫。」
背中越しに愛実と沙羅はもう一度視線を交わした。そして、まだ冷え込む夜の中へと歩き出していった。
愛実は真っ暗な部屋のドアを開けた。殺風景な部屋が、気温と相まって寒々しい印象を醸し出す。
「殺人事件……。私たちが出しゃばっていいところじゃないよね。お巡りさんの足手まといにしかなんないだろうし。」
そのままシャワーを浴びて、ベッドに入る。放課後歩き回ったこともあり、彼女も相当疲れていた。襲い来る睡魔に抵抗することもなく、ぐっすり眠った。
同時刻。照明のついておらず、闇に溶け込んだ一軒の住宅で、月明かりが異形の怪物と一人の男を照らし出した。怪物の名はアンドラス。床には夫婦と息子と思しき三人の遺体が血に染まっていた。部屋の隅に子供が一人、物陰で見つからないように息をひそめながら震えている。右手には、相麻探偵事務所の名刺がまるでお守りのように強く握られていた。
「ははは……お前最高だよ、こんな派手にやってくれんのか!」
男はまるで新しい玩具を手に入れたばかりの子供の用に無邪気に笑った。悪魔アンドラスは、契約者の男の声に反応して視線と殺気を彼に向ける。
「待て、待てって! ほら、お前が殺すのは俺じゃない。」
男は札のようなものをアンドラスに向ける。するとアンドラスは殺気をおさめ、再び棒立ちの状態に戻った。
「ふう。コイツをくれた司祭様には改めて礼を言わないとな。さて、今日のところはこんなもんか。」
男はまるで魔王の城を滅ぼした勇者のように、凱歌でも歌い出しそうな堂々とした態度で悲惨な殺人現場を後にした。