第一話 日常の終わり、闘いのはじまり
煉獄。清濁を問わずに、ただ呑み込む灼熱が辺り一面を蹂躙していた。
彼女の住む町の外れにある少し寂れた教会。炎はそれを嘲笑うように飲み込んでいく。ただそこにいるだけで体の芯まで焦げ付きそうな熱、火の粉、そして溢れんばかりの光。その中に一人の人間と二体の悪魔、向かい合って一人の人間と一人の悪魔が、お互いを見据えていた。
二人は、同じものを求めていた。正しいことを正しく行うための力。もう誰も理不尽という名の怪物に命を散らさないように、力を。しかし、もはや相容れることはない。
一人が、足を踏み出す。それを見て、もう一人はここに至ってしまった無念さに顔を背けるも、覚悟を決めたように顔を引き締め、毅然とした態度で向きなおる。
二人の、そしてニ柱の距離が少しずつ縮まってゆく。
二人が駆けだす。そして――
一段と寒さが増した日であった。太陽がようやく顔を出し始めたころ、マンションの一室でスマートフォンのアラーム鳴り響く。布団から左手がゆっくり伸びて、目覚ましを止めた。そのまま、獲物を捕らえた蛇のように形態を鷲掴みにした左腕をひっこめる。布団の中で一つ、大きなため息を付いてから、十和田愛実はのそのそと起き出した。ルーティンワークをこなすように顔を洗って歯を磨き、学生服に着替える。彼女の他にこの部屋の住人はいない。タイマーで作動する暖房が、辛うじて彼女の早起きを支えていた。
彼女の通う城南高校は、坂道を少し歩いた丘のような場所にある。始業時間を考えれば、やや早めの起床である。余程勤勉な学生か、朝のジョギングを日課としている学生なら早起きをしても不思議ではないが、それをするにはやや遅めの、中途半端な時間の起床である。もっとも、彼女は自分を勤勉な学生だと胸を張って言える自負はなく、朝から走り回ることなどもってのほかであった。
愛実には、朝必ず訪れる場所がある。それもまた、彼女の日常のルーティンに組み込まれているのである。
愛実はマンションのエレベーターを降り、管理人室の扉の前に立つと、呼び鈴を鳴らした。返事はない。呼び鈴を連打する。一切の遠慮というものが感じられない。
「はあー、またか」
愛実はまた一つため息をつき、家の鍵とは別のもう一つの鍵を取り出し、扉を開けた。ずかずかと中に入り、寝室のドアを勢いよく開けた。
「もう朝だよ、起きてよ沙羅」
寝室には二つ、布団が並んでいる。沙羅と呼ばれた女性は愛実に揺り動かされ、怠そうに返事をした。
「あと五分……」
「小テストがあるから早めに起こしてって、昨日言ったじゃん」
「うん……」
愛実に促され、相麻沙羅はまるでおもりを付けられた囚人のように、ゆっくりと起き出した。愛実は、もう一つの布団のほうを見やる。そして、沙羅の時よりやや遠慮がちに声をかけた。
「ほら、浅葱さんも」
「もう朝ですか……すみません」
このマンションの管理人で、愛実の一つ下の後輩である相麻沙羅。そして、家政婦として住み込みで沙羅の世話をしている、はず、の岬浅葱。二人は揃って朝に弱い。二人を起こすために、愛実は中途半端な早起きをしているのである。
二人が支度をしている間、愛実は台所に立ち、三人分の朝食と二人分の弁当を作っていく。慣れに加えて冷蔵庫の残りも把握していることもあり、手際よく調理は進んでいく。沙羅と浅葱が食卓につく頃には、朝食のメニューが顔を揃えていた。
「おはよー、愛実」
「おはようございます、愛実」
愛実は洗い物で濡れた手を拭きながら、二人に挨拶を返した。
「はい、おはよう」
三人で食卓を囲む。愛実はもっぱら、三食をここでとっている。それどころか、今では一日の大半をここで過ごしている。自室には寝に帰る程度でしか使っておらず、つい先日は通販で購入した漫画の届け先を管理人室、つまり沙羅の部屋に指定したほどである。
「ああ、あったまる……」
トマトスープを啜りながら沙羅が感嘆の声を上げる。
「浅葱さんが風邪気味だっていうから作ってみたんだけど、気に入ったようでよかった」
「ああ、気を遣わせてしまったらごめんなさい……」
浅葱が視線を伏せた。愛実は手を顔の前で振って否定してみせる。
「いえいえ、そんなの全然気づかいに入らないですよ。どっちにしろトマトは早いとこ使わないとヤバかったですから」
「まあでも、もし風邪引いても愛実が起こしてくれるし大丈夫だよ、ね、浅葱」
いつもと変わらない、のんきそうな沙羅。
「私が風邪引いたり病気して入院したりしたらどうするの……」
そんな沙羅を愛実がたしなめた。これもありふれた、日常の光景。
「そん時は看病してて遅刻したって言い訳できるじゃない?」
「私はアリバイ要因!?」
そんな会話をしていると、瞬く間に時が過ぎていく。
「そろそろ出ないと、ごめん浅葱さん、食器洗いお願いできる?」
のんびりした朝食から一転、愛実と沙羅が慌ただしく出かける準備を始めていた。
「分かりました」
「一応家政婦だからね、何もしないんじゃニー……ごめん」
沙羅が何か言いかけて、わざとらしく舌を出した。
「朝っぱらから浅葱さんに攻撃しないの!」
「ああ、否定はされないんですね……」
浅葱はそんなやりとりをしている二人を見送りながら、頭を抱えた。
二人は学生靴を履き、玄関を出た。すっかり顔を出した陽が、「相麻」と「岬」の表札、そして「相麻探偵事務所」の表札を照らしていた。二人が登校する頃には、時刻は始業の五分前であった。