Shadow Boxer(5)
(1)
――時、同じ頃。中央の王都――
深夜にも関わらず、リヒャルトは一人執務室で書類の山と向き合っていた。
昨夜の襲撃事件を受け 軍上層部の者達や副官のフリーデリーケから『しばらくの間は警備の強化と共に表立った公務は控えられますよう』と注進を受け、一日中籠っていたのだが。
正直な所、デスクワークが好きではないリヒャルトには苦行そのものでしかない。
右腕を負傷しているため、ペン先を紙面に走らせるのも捺印を押すのも、少しばかり動きが鈍くなる。
内務の補佐役達までが警備の人員に回されてしまった以上、仕方のないことだとは一応は納得してはいる、つもりではある。
(……しかし、結局の所、また魔法を駆使しての襲撃を掛けられれば、警備など意味をなさなくなるのだがね……)
結局、最終的に頼りになるのは己自身の力のみ。
机の右側に立て掛けた、ブロードソード型の魔法剣を横目でちらっと確認する。
「失礼致します」
扉を叩く音と凛とした声と共に、書類を抱えたフリーデリーケが中に入ってきた。
「元帥。これで本日最後になります」
「あぁ、ありがとう」
少し疲れた顔をしつつ、リヒャルトは口元に笑みを浮かべて書類を受け取る。
「それと……」
「うん??」
「こちらはベックマン中将からお預かりしたものです」
「ベックマン中将から??」
フリーデリーケがもう一つ、小脇に挟んでいた大判の真っ白な封筒をリヒャルトに手渡した。
手にした封筒の厚みや中に収められた物の感触から、リヒャルトは嫌な予感を覚える。
「これは、もしかして……」
「中将の親戚筋の女性だそうです。『元帥も三十五となられたのだから、いい加減所帯を持つべきでしょう。いつまでも独り身では半人前に見られますし、国家の統治者としての示しが国民につきません』と仰っておられました」
ふぅぅー、と、リヒャルトはため息を吐き出し、左手で額を押さえながら、封筒から中身を引き出すことなくフリーデリーケに突き返した。
「中将には大変申し訳ないが……、私は生涯妻を娶る気はなくてね……。君もよく承知している筈だろう??」
リヒャルトは困惑しきった顔付きでフリーデリーケの切れ上がった群青の瞳を見上げる。
封筒を受け取ったものの、フリーデリーケは黙ったままでいる。
「魔力と引き換えに生殖能力を失った私との間では、血を分けた我が子を望めない。それでは妻に迎える女性が余りに不憫だ」
「……了解致しました。では、それとなく理由を考えて丁重にお断りを入れておきます」
「別に、私が今口にした理由をはっきりと伝えてくれてもいいのだよ」
「……いえ、それは」
フリーデリーケが珍しく口籠る様子に、リヒャルトは己が失言を述べてしまったことに気付く。
「……すまない、少佐。少々度を越した発言だったよ。君との付き合いはかれこれ十七年と長いからなぁ。つい昔のように調子に乗ってしまう。許してくれ」
「いえ……。私は大丈夫ですから、お気になさらないで下さい」
毅然と答えるフリーデリーケに少し安堵したのか、リヒャルトの表情があからさまに緩む。
「ところで元帥。話は変わりますが」
二人の間の湿っぽい空気を払拭すべく、リヒャルトの執務机の上、空のカップをソーサーごと手に持ち、淡々と話題を切り替える。
「北部に向かわせたアストリッド殿達の代わりに、誰を東部の視察に送るつもりでしょうか。シュネーヴィトヘン殿が留守の間の方が、何かと都合が良いのでは??」
「うむ、私も君と同じ意見だ。それともう一つ考えているのは……、兄上、ギュルトナー少将には気付かれないよう、視察と言うより密偵……、を送り込む。東方司令部ではなく、ロッテ殿の居城に、だ」
「東方司令部ではなくて、ですか」
「あぁ、そうだ。だから、今回の視察はイーディケ一人に任せようかと思う」
「確かに……、彼女には適任の役ですね」
「承知してくれるだろうかね??」
「……彼女のことですから。それに元帥の命を断れる筈などありません。明日にでも動いてくれるよう、指示を出しておきます」
フリーデリーケはリヒャルトから返された封筒を小脇に抱えて茶器を手に、背を向ける。
扉まで進み、ドアノブに手を掛けたフリーデリーケの後ろ姿を見送りながら、「……君には苦労ばかり掛けるね……」と、リヒャルトがぽつりと呟く。
フリーデリーケはリヒャルトを振り返り、片眉を少し、持ち上げてみせる。
「今更ですよ、元帥。謝罪されるくらいでしたら私の苦労に応えて下さい」
僅かに苦笑を漏らし、フリーデリーケは「失礼致しました」とリヒャルトに告げ、執務室から退出したのだった。
(2)
センフェン山の峰から吹き渡る風がひょうひょうと音を立て、夜の世界をすり抜ける。
風で流された雪が窓を叩き、氷の放つ冷気が窓硝子を曇らせてゆく。
ひんやりと冷えた空気と静まり返った室内、すぐ頭上では自分を抱きかかえるアストリッドの寝息が聞こえてくる。
深い眠りに落ちたアストリッドとは違い、ウォルフィは暗闇の中、青紫の隻眼を爛々と輝かせては神経を研ぎ澄ませていた。
いつ何時、エヴァかシュネーヴィトヘン、もしくは二人掛かりで寝込みを襲撃してくるか。
ウォルフィ自身が持つ魔力は決して高くないが、変化魔法の解除方法だけは、先日のゾルタールの一件でアストリッドから教えられている。
緊急事態に陥ったとしても、瞬時に元の姿に戻れるだろう。
ならば何故、アストリッドによって猫に変化させられた時、変化魔法を解除しなかったのか。
自分が猫化したことにより、油断したシュネーヴィトヘンが何らかの動きを見せるかもしれない、と踏んだからだ。
今の所はアストリッド同様、シュネーヴィトヘンも眠ってしまったが、睡魔によって意識が奪われないようにウォルフィは耐えず気を張り続けていた。
そんなウォルフィなどお構いなしに、眠りながらアストリッドは、もぞもぞと身じろぎをし始めた、かと思いきや。
「えへへぇ……、もうお腹いっぱいぃ……」
そう寝言を漏らした次の瞬間、ぶいん!とウォルフィの身体を大きく振り上げ、ベッドの外へと放り投げた――
ウォルフィの身体は宙を飛び、右から左へベッドを越えて氷の床へと落下。
咄嗟に受け身の姿勢を取り、無事に着地、できたかと思ったものの、氷の床の上で肉球は非常に滑りやすい。
当然、つるりと足を滑らせ、見事に転倒してしまった。
起き上がろうにも肉球のせいでつるつると床を滑り続け、立ち上がることすらままならない。
やっとのことで立ち上がり、慎重な足取りで長椅子の方へ移動しようと――
「ここに入れば??」
声に釣られ、振り向き様にすてんと転んでしまう。
苛々しつつ、氷の床に伏した状態でベッドを見上げてみる。
いつの間にか目を覚ましたシュネーヴィトヘンが、ベッドに横たわったまま掛布を捲り上げ、中に入るよう促している。
よく見ると、バスローブ姿ではなく白いシュミーズ一枚だけしか身に付けていない。
陶器よりも白い肌や豊かな胸元を曝け出したしどけない姿から、ウォルフィは徐に視線を逸らす。
「断る」
姿こそ猫であるが言葉は話せるため、きっぱりと誘いに断りを入れる。
「いくら長毛に覆われていても、あんなところで寝たら寒いに決まっているわ。その姿じゃ氷の上をちょっと歩くだけでも随分と苦労しているみたいだし」
「余計なお世話だ」
ふん、と鼻を鳴らし、何度も足を滑らせながらウォルフィは身を起こしている。
「私は親切で言っているだけ。それに、私も寒くてよく眠れないから、毛布代わりになって欲しいのよ」
「人を何だと思っている。そんな下着姿で寝ていたら寒くて当然だろう」
「バスローブは寝ている間に肌蹴やすいから嫌なのよ。そうかと言って、服を着て寝るのも、服が汚れてしまうのが嫌だし」
「そんなの俺の知ったことじゃない」
尻尾をピン!と高く上げ、ウォルフィは頑なに固辞してみせる。
「相変わらず、頑固で強情な人ね」
シュネーヴィトヘンは呆れたように呟き、一言小さく何かを唱える。
一瞬にしてウォルフィの身体は、氷の床からシュネーヴィトヘンの両腕の中にすっぽりと納まっていた。
「今すぐ放せ」
爪を立てて抵抗しようにも短く切られているため(引っ掻かれないようにするために、アストリッドがイメージの中でそう設定した)、腕の中でもがきにもがいて抵抗する。
「ちょっと……、暴れないで頂戴。アストリッド様が起きてもいい訳??この状態を見たら何て思うかしらね」
「…………」
途端に、ウォルフィは動きをぴたりと止める。
嵌められたか、と気付き、己の失態に恥じ入りたくなった。
彼の気持ちを知ってか知らずか、シュネーヴィトヘンは彼を抱く腕の力を強め、更には頬や胸、脚までぴったりと押し付けては抱え込んでくる。
甘い吐息が耳元に掛かり、弾力と張りを持つ柔らかな胸や寒さで固くなった乳首、絹のように滑らかな二の腕や太股……、と、男の本能を少なからず刺激する感触が薄い布越しに直に伝わってくる。
「余りくっつかないでくれ」
「寒いのよ。身体が温まってきたら解放してあげるわ」
「…………」
「言っておくけど、猫の姿だからこうしているだけよ」
「…………」
シュネーヴィトヘンが暖を取りたいがために、自分をベッドに引き込んだのも一つの事実だろう。
しかし、自分の身柄を拘束する為とも考えられるし、単なる嫌がらせの可能性も充分有り得る。
どんな理由にせよ、何て間抜けで下らない状況なのか。
ただ、シュネーヴィトヘンはウォルフィが変化魔法を解除できることを知らない。
なので、彼女が何らかの動きを見せた時、いざとなれば変化魔法を解除させて取り押さえることは可能。
元の姿に戻った時点で攻撃されるだろうが、アストリッドが目を覚ますまでの時間稼ぎくらいにはなる筈だ。
とりあえずは彼女が眠ってしまうか、解放してくれるかしない限り、ここから抜け出せそうにないな、などと思考を巡らせている間にも、シュネーヴィトヘンの唇から規則正しい寝息が聞こえ始めた。
そう言えば、寝つきはかなり良い方だった……、と遠い記憶を思い出したウォルフィは拍子抜けしつつ、彼女を起こさないよう、そっと腕の中から抜け出そうと――
「…………ヤスミン…………」
今し方、シュネーヴィトヘンの唇から漏れた寝言。
ヤスミンとは、シュネーヴィトヘン、否、リーゼロッテが好きな花の名で、女性の名前にも用いられる。
誰か知り合いの名だろうか。
ウォルフィ自身もどこか聞いたことのある名のため、一瞬引っ掛かりを覚えた。
(だが、俺には一切関係のないことだ)
シュネーヴィトヘンを起こすことなく、無事に彼女の腕の中から解放されたウォルフィは、再びアストリッドの傍へ寄り添うようにしてその身を丸めたのだった。
さりげなく地雷が設置されました。
長らく続いたコメディ(なのか何なのか、意味不明ですが)パートは終了します。




