Shadow Boxer(1)
(1)
薪を拾いに行かなきゃ駄目なの。
竈の火を炊き続けないと、せっかくのスープが冷めてしまう。
家で、家族が、寒さに震えながら、待ってるから。
『竈の火が消えないだけの薪を拾って来い!拾ってくるまで絶対帰ってくるな!!』
父ちゃんは仕事から帰ってくるといつもお酒を飲んでいる。
酔っ払うと怒りっぽくなって母ちゃんやアタイ達を殴るの。
父ちゃんはとってもとっても怖いから、言いつけを守らないといけないから。
あぁ、でも、もうお日様はとっくに沈んじゃった。
お空は真っ暗な闇にぱっくり飲み込まれちゃった。
お腹、すいたなぁ……。
父ちゃんも母ちゃんも、兄ちゃん達も姉ちゃん達も、弟達も妹達も、皆ご飯食べ終わったのかな。
スープの一口だけでも、パンの一欠けらだけでもいいから、アタイも食べたかったな。
ねぇ、薪に使えそうな小枝なんて、一本も落ちていないよ。
全部、雪の中に埋まっちゃってるのかな。
両手で雪を掘っては探してるのに全然見つからない。
とっても冷たくて痛かった筈なのに、慣れちゃったのかな。
父ちゃんの赤ら顔みたいに真っ赤になってくだけで、アタイの手はもう痛くも何ともなくなっちゃった。
姉ちゃんのお下がりのブーツ、穴があいてたみたい。
だって、靴下までぐちゃぐちゃに濡れちゃって、すごく気持ち悪い。
それもこれも、みーんな、雪のせいだよ!!
雪さえこんなに沢山積もってなかったら、アタイ、こんな遅くまで外に放り出されなくて済んだのに!
あと少ししたら、ベッドに入らなきゃいけない時間なのに。
だんだん眠たくなってきちゃった……。
でも、父ちゃんに怒られるのは嫌だし、本当にどうしよう……。
殴られるだけならいいけど、家の中に入れてもらえないかも。
疲れたよぉ、眠たいよぉ……。
ねぇ、ちょっとだけ、ちょっとだけなら、ここで寝ちゃってもいいかな。
ほら、積もった雪って、何だか上等なベッドみたいにふかふかしてるんだもの。
なんて、そんなお高いベッドで寝たことなんか一度もないけど。
あ、でも、歩き回って疲れちゃったから、ひんやりしてるのが逆に気持ち良いなぁ……。
アタイ、いつかはこの雪みたいなベッドで寝てみたいなぁ……。
ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ……、と、言い聞かせるように呟いている内に、猛烈な睡魔によって呂律が回らなくなっていく。
程なくして、少女の榛色の大きな瞳は、ゆっくりと瞼を閉じていったのだった――
「……エヴァ様??」
自分のものではない、焦茶色の長い髪が頬に触れ、薄氷を思わせる薄青の瞳が上から覗き込んでいる。
氷の壁に囲まれた自室に置かれた、上等な作りのベッドの上。
裸で仰向けに横たわるエヴァの上に、同じく裸の男――、従僕のディートリッヒがのしかかっていた。
「エヴァ様、集中して下さい」
心ここにあらずと言った体のエヴァに、ディートリッヒは彼女の痩せた頬を撫でつつ窘めてくる。
「ちゃんと『気』は送り続けているんだ……、抜かりなくな!魔力注入が出来ていれば問題ないだろう??」
我に返るなりエヴァは、不機嫌も露わにディートリッヒをあしらおうとする。
「私が貴女を独占できる唯一の時間なのです」
「はん!よくもまぁ抜け抜けとそんな台詞を!!」
せせら笑うエヴァに構わず、ディートリッヒは彼女を強く抱き寄せる。
たかが従僕への魔力注入するための行為でしかないのに。
必要以上に甘い言葉や態度を示すディートリッヒに鼻白む一方、内心悪い気もしないではない。
シーツの波間に拡がるアッシュブロンドの髪が、身体と共に揺れ動く。
ギシギシとベッドが軋む音を聞きながら、遠い、遠い過去の情景を打ち消すため、エヴァは最も信頼する従僕への魔力注入に集中し始めた――
約九十年前、北部の寒村に生まれたエヴァは、病弱ゆえに肌が青白く、小さく痩せ細った子供だった。
貧しさゆえに北部中心街の娼館に売られ掛けた時も、仲介役の人買いから買い付けを拒否される程で、両親、特に父からはよく役立たず呼ばわりされていた。
白い悪魔と呼ばれる、強い吹雪が渦巻く真冬の晩、口減らしで外へ放り出されたのも致し方ないこと。
寒さと空腹と睡魔に襲われ、豪雪に埋もれて死を迎えつつあった筈のエヴァは、今もまだこうして生きている。
生かされたからには、二度とあのような目に遭わずして生きていきたい。
そのためには力が必要だ。
力を得る為にはこの際手段など選んでいられない。
「エヴァ様」
「分かっている!ディートリッヒ、私に指図をするな。お前は黙ってただ動いていればいい!」
厳しい言葉と裏腹に、エヴァはディートリッヒの首に腕を回し、ニヤリと唇を捻じ曲げて笑い掛ける。
その唇に自身の唇を落とすと、ディートリッヒは幾らか動きを速めたのだった。
(2)
――北部国境沿いの街リュヒェムの入り口――
他地域の国境沿いの街同様、防衛上、リュヒェムも城郭都市化しており、街の入り口には灰色の砂岩で作られた頑強な大門がそびえ立っていた――、少なくとも四十五年前までは。
四十五年前、当時北部国境に侵攻していた隣国エリッカヤの軍、防衛でリュヒェムに駐屯していた北方軍及び街諸共、エヴァが全て氷結化させてしまったからだ。
エヴァが魔法で具現化した氷を溶かすのは、例え地獄の業火を持ってしても不可能に近い。
更に、免罪と引き換えにゴードンから北部の国境防衛を任命されると、エヴァは己の拠点となったリュヒェムに年中雪を降らせた。
ゆえに、リュヒェムは季節に関わることなく常冬の状態にあった。
「はっくしょいっっ!!」
暖気が保たれていたリヒャルトの執務室から、粉雪混じりの寒風が吹きすさぶ北の地へと到着した途端、アストリッドは盛大なくしゃみを寒空の下で響き渡らせた。
目の前の氷結化した大門からも、冷んやりと冷気がそこはかとなく漂ってくる。
実際の季節は春の只中だというのに、染み入る寒さは流石常冬の街と言われているだけのことはある。
口元に宛がっていた手を、さりげなくウォルフィの、襟と袖口、裾がヒョウ柄マフの黒いロングコートに擦り付けようと――、したものの。
「自分のでやれ」
ぴっしゃん!と小気味良い音を立てて手の甲を叩かれてしまった。
アストリッドはすごすごと大人しく手を引っ込め、着ている灰緑色のモッズコートのポケットからハンカチを取り出して手を拭いたのだった。
すると、二人の背後からクスクスと忍び笑いを漏らす声と共に、微かに地を踏み鳴らして近づいてくる気配を感じた。
「お久しぶりですね、アストリッド様」
鈴を転がしたような、若い女の声に釣られて振り返る。
白いドレスの上に、白い毛皮のコートを羽織った、黒目黒髪の美貌の魔女、シュネーヴィトヘンことロッテだ。
「ロッテ様―、お久しぶりですー!!」
両手を上に掲げてしきりに振り回し、アストリッドははしゃいだ声を上げてシュネーヴィトヘンの元へと駆け寄っていく。
「すみません、ロッテ様。もしかしたら、自分達がここへ来るまで、随分とお待たせしてしまいましたか??」
「いいえ、そんなことはないわ。私もまだつい先程この大門前に到着したばかりなのです。なので、お気になさらないで」
子犬のように纏わりつくアストリッドに対し、シュネーヴィトヘンは穏やかに微笑んでは彼女の言葉に相槌を打っている。
(パッと見)美少女と嫋やかな美女が並んで親しげにする様は、他の者の目には大変麗しい光景に映るものだろう。
しかし、この場にいる唯一の第三者、ウォルフィには、互いに笑顔を向けつつ腹を探り合っているとしか捉えられない。
とりあえずウォルフィは、関心なさそうな素振りで二人から目を逸らす――、振りをして、視界の端では二人の動向を注意深く観察していた。
「ところでロッテ様。貴女ならお気付きになっていると思いますが……」
アストリッドは目の前の氷の大門に向け、右の人差し指を差してみせる。
「えぇ、大門の周囲に張られた結界のことね」
承知している、と、シュネーヴィトヘンは首肯する。
「自分から私達を呼び寄せておきながら、結界を解除させていないのは一体どういう了見なのかしらね。エヴァ様の性格上、解除し忘れているとは考え難いですし……」
「あぁ……。もしかしたら、自分達の力をからかい半分で試すために、あえて結界を破らせようとする可能性も……」
「……有り得そうだわ」
シュネーヴィトヘンは軽く肩で息をつく。
吐き出した息が白い靄と化し、宙へと流れていく。
「でも、結界を破るためとはいえ、下手に手を出したら……。それを逆手にとり、不利な状況に追い込まれるのが目に見えるようだわ」
「ですよねぇ」
「そうかと言って、全く何もせずにいつまでも待ちぼうけさせられても、時間の無駄でまた問題ですね」
アストリッドとシュネーヴィトヘンは顔を見合わせ、どうしたものかと互いに逡巡する。
二人に続き、少し離れた場所に立つウォルフィも、何か良い策がないものか思案し始めた、矢先。
いつになく真面目な顔でうんうん唸っているアストリッドの鼻先が、ピクピクッと微かに反応を示した。
まさか――、偶然にもアストリッドの鼻先が動くのを目撃したウォルフィの脳裏に、非常に嫌な予感が――
「あー!!!!」
突然、大声で叫んだアストリッドに、シュネーヴィトヘンはビクッと肩を震わせた後、思わず彼女を見返した。
「ヴルストの匂いがするー!!!!」
えっ、ヴルスト?!と、呟くシュネーヴィトヘンに構わず、アストリッドは氷の大門へと一目散に駆け込んでいく。
「アストリッド様!結界が張られているのに危険だわ!!」
「……あの、大馬鹿……」
露骨なまでに眉間に深い皺を寄せて口角を引き下げ、ウォルフィは主の愚行を阻止するべく後を追う。
だが、あくなき食欲に突き動かされるアストリッドを引き留めるのは、いくらウォルフィといえど至難の業。
そのまま氷の門柱を破壊しかねない勢いでアストリッドは突進し、門のすぐ手前まで近づいた――
バチィィッ!!!!
「うぎゃん!!!!」
高圧の電流に感電したような音。
アストリッドは冷たい地面へと弾き飛ばされて派手に転倒。
ううぅぅ、と地に這い蹲りつつ、顔を上げると――、汚物を見るような目つきでウォルフィが上から見下ろしていた。
最早何も言うまい、と、ウォルフィはモッズコートのフードを雑に掴み、地に伏したままのアストリッドをズルズルと引き摺っていく。
「ちょ、ウォルフィ……、その手を放してください……」
「…………」
「た、確かに、リュヒェムの街中から、焼き立てのヴルストの匂いが漂ってきたんですって……」
「………」
「幻臭じゃないですってば……。だから、放してくださ……」
「黙れ、この救いようのない大馬鹿」
「なっ……!」
この期に及んでも、ジタバタもがいて抵抗するアストリッドを完全無視し、ウォルフィは氷の大門から引き離していく。
ヴルスト~、ヴルスト~、とまるで呪詛でも唱えているような、おどろおどろしい低い声で呟く主と、下手な殺人鬼よりも凶悪な目つきで主を地に引き摺り回す従僕。
この異様な光景の一部始終全て見ていたシュネーヴィトヘンは、頬や口元を引き攣らせながら、さりげなく一歩ずつ二人の傍から後退していた。
そして、この二人と行動を共にすると決めたことに、若干後悔の念を抱き始めていたのであった。
「おー、本当に三人共来ちゃったんだねぇー」
大門の方からアストリッド達へと、間延びした呑気な声が飛び込んできた。
声に釣られ、ウォルフィに引き摺られるアストリッドも引き摺るウォルフィも、二人から距離を置いていたシュネーヴィトヘンが揃って振り返る。
「いやぁ、遅くなって悪いっすー。エヴァ様に言われて、あんた達をうちの宮殿へ案内するために迎えにきたんだけどさぁ」
二つの氷柱の間には、串に刺さった極太のヴルストを齧っている長い黒髪の小柄な青年、もとい、エヴァの従僕の一人、ズィルバーンがニヤニヤしながら立っている。
ズィルバーンの登場によりウォルフィの意識がそちらへ向かい、フードを掴んでいた手の力がほんの僅かに緩んだ隙を逃さず、アストリッドはフードを引っ張って素早く起き上がる。
すぐにウォルフィがもう一度フードを掴もうとするも、時遅し。
虚しく空を掴んだのみで、主の姿はすでに消えていた。
「ヴルストー!!!!」
はぁっ!?と面喰うズィルバーンに向かって、アストリッドは猛突進していく。
「うぎゃん!!!!!」
案の定、またもや結界に弾き返されるアストリッド。
もう勝手にしろ、と、そっぽを向いて助けにすらいかないウォルフィ。
「あー、もしかして、これが食いたかった訳??」
最後の一欠けらを串から齧り取り、地面に転がるアストリッドを見下ろすズィルバーン。
更に一歩後退するシュネーヴィトヘン。
粉雪混じりの北風と共に、何とも言えない微妙な空気が辺り一帯を流れていった。




