Red Red Red(9)
今回から時間軸が、過去編→現在に戻ります。
前半、残酷な拷問描写が出てきますので、苦手な方はご注意ください。
(1)
――東部国境沿いの街スラウゼン、東の魔女シュネーヴィトヘンの住む居城にて――
ごつごつとした黒と白、薄茶、灰色の不揃いな形の石と煉瓦を組み合わせた、四方の壁と天井に囲まれる、暗い地下室。
目立った扉はなく、代わりに天井から床まで伸びた鉄格子の柵と、人一人がどうにか入れる程度の狭い出入り口が設置されている。
一〇帖にも満たない、そう広くない室内には、家具調度品などの生活用具は一切置かれていない。
名実共に牢獄を思わせるこの部屋の真ん中――、天井から吊り下げられた鎖で両足首を、両腕も後ろ手で拘束され、上半身を縄できつく縛られた状態で逆さ吊りにされた男の姿が。
上半身は裸、下半身は軍服のズボンに裸足というあられもない姿を晒しているこの男は、昨夜リヒャルトの暗殺に失敗した男だった。
男の目の前には、真っ白なガーゼ素材のドレスを纏う黒目黒髪の美女――、シュネーヴィトヘンが鞭を手に、男を容赦なく打ち据え続けていた。
シュネーヴィトヘンがしなった音を立てて鞭を振るう度、男の背中や胸、腹は赤く腫れ上がり、やがて皮が捲れて血が滲み、肉まで剥き出していく。
男の両足の甲から打ち込まれた、太く長い鉄釘は足の裏まで貫通し、飛び出した釘の先端には火を灯した蝋燭が立てられている。
残忍な拷問に加え、リヒャルトに魔法剣で刺された肩の傷の状態が悪化しており(おそらく一切の手当てを受けていないのだろう)男はすでに虫の息。
それにも関わらず、シュネーヴィトヘンは顔色一つ変えることなく、鞭を振るう手を決して休めない。
怖気が立つほどの嫌悪に駆られながら、従僕契約を結ぶために口づけまでしてやったというのに。
与えた魔力に到底見合わない為体振りに、この男に対してシュネーヴィトヘンは殺意を募らせる一方であった。
「ロッテ殿」
錆びついた鉄格子がギギギギ、と、不快なまでに軋んだ音を立てて開く音が、部屋内に響いた。
ようやくここで、シュネーヴィトヘンは鞭を振るう手を止め、声の主を振り返る。
彼女の背後――、頬に息が掛かる程近くに、開襟襟の軍服を着た五十前後と見られる男が立っていた。
白髪混じりのプラチナブロンドにアイスブルーの瞳、加齢による皺やたるみで衰えてはいるものの、恐らく若い頃は中々に整った顔立ちをしていただろう事が伺える。
だが、所詮は初老に差し掛かった中年であり、本来は澄み切っていた筈の光彩の色も濁っている。
決して加齢のせいだけではない、この男の心の有り様が目に映し出されているのだ。
「ここは私の居城よ、ギュルトナー少将。いくら自由に出入りできるよう許可したとはいえ、勝手に地下にまで散策に来ないで頂戴」
シュネーヴィトヘンはさりげなくヨハンの身から距離を置き、冷たい鉄面皮で厳しく咎めた。
「ロッテ殿。私はただ、部下の不始末を謝罪したく思い、貴女を探していたのです」
言うが早いか、ヨハンは徐にシュネーヴィトヘンの足元に跪いてみせる。
「折角ロッテ殿がリヒャルトめの暗殺に協力して下さったと言うのに、この者は……。暗殺に失敗しただけでなく、かすり傷程度の怪我しか与えられなかった。きっとリヒャルトは近い内、東部に視察の者を送り込んでくることでしょう……。魔法への嫌悪の情が強く、腕の確かな者を選んだつもりでしたが……、誠に申し訳ありませんでした」
ヨハンは、拷問を受ける男の無能さを強調しながら、深々と床に頭を擦りつけて謝罪する。
シュネーヴィトヘンは、許すでも憤るでもなく、醒めた目でヨハンを見下ろしている。
ヨハンは彼女の機嫌を窺うように顔をそっと上げ、黒い瞳を覗き込む。
卑屈さを見せつけるヨハンに、一瞬だけ目元に皺を寄せるも、シュネーヴィトヘンは変わらず冷ややかな視線を落としている。
何も言わないシュネーヴィトヘンに構わず、ヨハンは足元まで拡がるドレスの裾をさりげなく捲りあげ、汚れ一つない白い靴先に口づけようとした――、が、直前で「汚らわしい」と、顔を思い切り蹴飛ばされてしまった。
床に転がされ、痩せた白い頬に黒い靴跡を付けられても尚、ヨハンは憤るどころか、むしろ恍惚とした目でシュネーヴィトヘンを凝視し続ける。
仮にも東方軍最高司令官である男の、情けなさを通り越した変態的な行為。
シュネーヴィトヘンの、ヨハンへの嫌悪感は益々持って募っていく。
出来ることなら今すぐ息の根を止めてやりたいけれど、この男にはまだまだ利用価値があるので耐えねばならない。
必死で平静を保ちつつ、先程鞭打っていた男に視線を移すと、いつの間にか息絶えたようであった。
「私に対して本当に悪いと思っているのであれば……。少将、直ちにこの役立たずの死体処理を行って頂戴」
「この、私が、ですか??」
顔のみを上げて反問するヨハンに、シュネーヴィトヘンは手にしていた鞭を投げつける。
「少将、あくまで私は貴方のお手伝いをしているだけ。その気になれば、私は貴方一人くらい、いくらでも消すことができるのよ??最も、貴方が弟君から元帥の地位を奪い、私に東方軍の全権限を委ねた暁には……」
シュネーヴィトヘンは一旦言葉を切り、ゆっくりと含みを持たせて続ける。
「貴方を私の従僕として囲ってあげる約束でしょ??そうすれば、貴方は不老不死に近い肉体を持ち……、時には私に好きなだけ触れられるわよ」
シュネーヴィトヘンは鉄格子に捕まりながら、のろのろと起き上がるヨハンに蠱惑的な流し目を送りつける。
しかし、立ち上がったヨハンが自分に近付いてくる前に、するりと出入り口から外へと抜け出してみせた。
「少将。国も私も思い通りにしたいのならば、相応の働きをしてみせなさい」
それだけ言い残すと、拷問室と同じ材質の石壁で作られた廊下を歩き出す。
壁に設置されたガスランプのお蔭で、拷問室と比べれば多少は視界が明るくはなる。
しかし、やはり地下深くに作られた以上、どうしても薄暗さやじめじめとした不気味な空気を完全に取り払う事は難しい。
細かい石の並び方や曲がりくねった長い廊下は、まるで大蛇の身体のようだと思いながら、地上へ上がる階段を目指して歩いていると――
『おやおや、まさか、かのヨハン・ギュルトナー少将まで籠絡したとは』
皮肉気な声と共に、シュネーヴィトヘンの背後が淡い虹色に光る。
光の中から白い顔がぼう、と、浮かび上がってきた。
(2)
「あら、生きていたの」
立ち止まったものの、シュネーヴィトヘンは振り返ることなく、背後の白い顔にそっけなく話し掛けた。
白い顔――、確かに死んだ筈の、暗黒の魔法使いことイザークが、ゆっくりと彼女の背中に近付いていく。
「貴女は何ともつれない御方ですね」
「目に涙を溜めて胸に縋りつき、貴方の生還をむせび泣いて喜んで欲しいの??そういうのは西のナスターシャにお願いすれば??私に求めたところで無駄よ」
「いやはや、確かに貴方の仰る通りです」
シュネーヴィトヘンの冷たいあしらいに、イザークはわざとらしく肩を竦めてみせる。
「私に失言を述べた事に??それとも、ナスターシャが泣いて喜んだこと??」
「どちらに対してでもですよ」
「……つまり、貴方はナスターシャの治癒魔法で一命を取り止めたって訳なのね。残念なことだわ」
「えぇ、お蔭様で。治癒魔法に掛けては、ナスターシャ様の右に出る者はおそらくこの国には存在しないでしょう」
イザークは、最早暴言とも取れるシュネーヴィトヘンの発言の数々に怒りを示すどころか、むしろ喜々として話し続ける。
「本当にそれだけかしらね。血の半分が悪魔なだけに、生命力も他と比べて異常に強いのではないかしら」
「さぁて、どうでしょうねぇ」
顔に塗りたくったドーランが崩れるのもお構いなしに、イザークは赤い瞳を大きく見開き、唇を捻じ曲げてニヤニヤと笑っている。
ゾルタールの旧研究所でウォルフィに眉間を撃ち抜かれたイザークは、所謂『仮死状態』に陥っていただけだった。
シュネーヴィトヘンが予想したように、イザークに流れる悪魔の血の影響は、魔力よりも生命力に関しての方が非常に強かった。
通常は即死する筈の状況に追い込まれたとしても、他者から強力な治癒魔法を掛けられさえすれば簡単に生き返ることができる。
勿論、仮死状態で長時間放置されていたとしたら、彼は間違いなく死を迎えていただろう。
今回イザークが一命を取り止めたのは、アストリッド達が瞬間移動で消え去った直後、彼女達と入れ替わりでナスターシャが瞬間移動し、すぐに治癒魔法を掛けてくれたからである。
「言っておくけど、あの男〈少将〉には指一本足りともこの身に触れさせていないわ」
「ほう、それは意外な!いえ、風の噂では少将は貴女に入れ込むあまり、東方軍の全権限を譲渡するとまで考えているとか何とか……」
「否定はしない。でも、あの男は私の美貌というより、私の力を必要としているだけ」
「リヒャルト・ギュルトナーを討ち取り、元帥の地位に就くために??成る程、成程!だから、貴女に東方軍の全権限を渡す代わりに……」
「それで用件は何なの??くだらないお喋りをしに来ただけなら帰って頂戴。迷惑だわ」
「そんなに怒らないで下さい。折角の美貌が台無しになりますよ。まぁ、貴女の場合、怒った顔もまた美しいのですが」
「どうでもいいわ。それよりも用件を」
「仕方のない方ですね。貴女の探し人の居場所をようやく突き止めたのです」
ここで初めて、シュネーヴィトヘンはイザークを振り返った。
黒曜石の瞳と赤い血の色の瞳と視線が絡み合う。
「それで、彼女は今どこに」
「これまた意外な場所にいましてねぇ」
「勿体ぶらずに、さっさと早く教えてくれない??」
シュネーヴィトヘンのひどく苛立った声に急かされ、イザークは『彼女』の居場所を口にする。
「……まさか、あそこにいるとは……」
「どのように動かれますか??」
シュネーヴィトヘンは右の親指の先を唇に押し当て、しばし逡巡してみせる。
イザークは面白いものを見るような目つきで、彼女が口を開くのを待っている。
「元帥への攻撃は一旦中止ね。少将は適当に説得するとして、こっちの案件の方が私にとっては重大だもの」
「了解しました、リザ様」
シュネーヴィトヘンは短く詠唱を唱えて拳銃を出現させると、イザーク目掛けて発砲した。
イザークは動揺する素振りを見せなければ避けることもせず、弾は彼の左頬を掠めて行った。
「その名は呼ばないで頂戴」
尖った声で忌々しげに吐き捨てるシュネーヴィトヘンに、イザークは頬から血を流しながら笑って返す。
「了解しました。シュネーヴィトヘン様」
嫌な含み笑いをしてみせると、イザークは再び姿を消した。
(……あの男、何をどこまで知っているのか……)
不快気に片眉を擡げ、イザークが姿を消した虚空を睨み付ける。
あの白塗りの魔法使いは聞きもしないのに、あちらから勝手にペラペラと様々な話――、主に彼がこの国で引き起こしてきた事件や関わる人々について鬱陶しい程に喋ってくる。
そうかと思えば、時々こちらにとって有益な情報もさり気なく流してくるのだ。
だから、完全に話を聞き流すこともできない。
ゆえに、イザークが何故か半陰陽の魔女に異様に固執していることに気付いてしまった。
理由まで考える気には到底ならない。
まさかと思うが、白髪隻眼の従僕と自分との過去を知っており、揺さぶりを掛けているつもりなのだろうか。
だとしたら、何と愚かな、と、思わず嘲笑を漏らす。
二十四年前、スラウゼンの大虐殺を行った自分の目の前に現れた彼に容赦なく銃口を突きつけられた。
半陰陽の魔女との関係に嫉妬心を燃やし、反射的に攻撃魔法を仕掛けてしまった、浅はかな自分が悪いのだけれど。
彼が守るべき対象は最早自分ではなくなった、と、悟った瞬間であり、あの時、ほんの僅かに残されていたリーゼロッテ、リザとしての自分が死んだ瞬間でもあった。
以来、半陰陽の魔女と顔を合わせれば自動的に彼の姿も見かけるが、どちらともに他人の振りを通している。
誰よりも深く愛し、子まで成し得たというのに――、行き場のない嘆きで人知れず涙に暮れた夜も数知れずだったが、それも遠い昔の話。
彼と自分は決して結ばれることのない運命だっただけのこと。
あの子も、血塗れと揶揄される大罪人の実母よりも、情に厚く誰からも慕われるかの人物に養育される方が確実に幸せに決まっている。
この世の何者も私は信じない。誰も愛さない。
信じられるのは我が身一つだけ。
「だから……、私は力を高めたい。そのためには、あれが必要なの」
あれを手にしている筈の彼女の行方をずっと探し続けていた。
「今度こそ逃がさないわ」
シュネーヴィトヘンは唇をきゅっと引き結ぶと、ようやく辿り着いた薄暗い階段を静かに昇っていった。




