Ray of Light(4)
今回短いです。
(1)
赤い月が空高く昇り、煌々と輝いていた。
人気のない裏路地で盛りのついた雌猫が喧しく鳴き喚く。
その鳴き声に誘われ、どこからともなくやってきた雄は二匹。
当然の如く、雌猫を巡っての争いが始まる。
静寂が降りていた筈の闇の中、猫達の威嚇し合う声が一帯に反響した。
次いで、古い石畳の地面を駆け回る音、日に焼けて色褪せた石塀に飛び移る音。
屋外に置かれた様々な物にぶつかる音がひっきりなしに続き、喧嘩は収束するどころか益々激しくなっていく。
猫達が暴れ回っている一画からそう遠くない場所――、人が住んでいるのかさえ怪しい、廃屋に近い建物群の一つ――、厳密に言えば建物と建物の隙間では、女が一人、血だまりの上に倒れ、息絶えていた。
肌の露出が目立つ服装、女から漂う匂いのきつい安物の香水、派手な化粧から察するに、路上で身を売る娼婦なのだろう。
外出禁止の勅令が出ているにも関わらず、仕事に出なければならない程に生活が困窮していたのかもしれない。
冷たくなりつつある躯は口、鼻、耳……等、身体中から大量の血を噴出させた惨たらしいものだった。
ドブネズミを手で力一杯握り潰したような、誰もが目を背けたくなる躯を一人の男が眺め続けていた。
「やはり、『受け皿』にすら成り得ませんでしたか」
針金のような身体は微動だにせず、長い黒髪に隠れた赤い瞳には何の感慨も映されていない。
浮浪者にも見え兼ねないみすぼらしい風貌に、この娼婦も始めは貧乏くじを引いたといいたげに横柄な態度を取っていた。
ところが、鬱陶しく伸びた前髪の下の美しい顔立ちを認めるなり、娼婦は態度を一変。
彼の内心の嘲りなど気付く由もなく、随分と尽くしてくれただけでなく料金まで安くさえしたのだ。
全く、顔の良し悪し程度で心証が変わるなど、浅はかな。
『お兄さん、良ければまたアタシを買ってよ』
『僕の受け皿となれたら、いいですよ』
『は??何よそれ』
間抜け面を浮かべての問いに、彼は答えなかった。
次の瞬間、娼婦は吐血し、鼻、目、耳からも鮮血が迸る。
彼は表情一つ変えることなく躯から背を向ける。
去り際に長い詠唱を小さく口にすると共に、黒髪は瞳と同じ赤色へと戻り、血だまりから炎が発生した。
赤々と炎が躯を焼き尽くしていくのを背に感じながら、振り返ることすらせず。
喉の奥からせり上がってくるものを押し戻すように飲み下す。
咽頭から咥内にかけて錆びついた鉄の味が拡がっていく。
それでも薄い唇の端から一筋の血が流れ出てきた。
顎まで伝う血を親指で拭い、にやりと頬を歪めて笑う。
『半陰陽の魔女の父親は、あの暗黒の魔法使いらしいですよ』
先程の娼婦と出会うより更に数時間前、立ち寄った数軒の酒場で意味有り気に吹聴して回ってやった。
その時の酔っ払いどもの顔ときたら!
娼婦同様、外出禁止令に背いてまで酒場に立ち寄るなんてロクな輩じゃない。
何か面白いことでも仕出かしてくれれば――
声を上げて笑いそうになるのを噛み殺す。
猫達の諍いも収まりそうになく、絶えずこだましている。
赤い髪を風に靡かせ、吸い込まれるように深い闇の奥へと彼の姿は消えていく。
彼の姿と共に炎も消えれば、躯は骨一つ残らず灰塵になり、夜風に吹かれてさらさらと空へ流れていった。
(2)
壁の至る所に壁鏡が設置された部屋でリヒャルトは席に座していた。
一〇帖程の広さの室内の壁一面に鏡が、壁に沿って長机が設置され、各鏡ごとに人一人座れるだけの間隔を空け、仕切りで隔てられている。
五十一年前まで王族の居城だった元帥府の敷地内には、城以外にも多くの建造物が未だに残され、軍の所有施設として大いに活用されている
リヒャルトが今いるこの場所も、かつては王族お抱え劇団の役者が出番を待つ控室であった。
大勢の役者が化粧や着替えを行い、ごった返していただろう室内で、リヒャルトは一人、眼前の壁鏡に映る自身と向き合っていた。
豪奢な飾緒、派手な色合いの襟章の台布、粉飾が施された袖のカフス。
普段と違う正装姿とは裏腹に、冴えない顔色、くすんだ薄青の光彩、目の下に深く刻まれた皺や青い隈。
白金の髪の色味も白さが増し、この数日の間で一気に老け込んだような気がする。
北部司令官クレヴィング少将によるクーデターの余波で、暗黒の魔法使いイザークが復活。
クーデターに甥ユリウスが加担し、内通者を身の内に入り込ませていたことへの釈明等も含め、リヒャルトの心身を確実に蝕んでいた。
「閣下、そろそろお時間です」
フリーデリーケの呼びかけが扉越しに聞こえた。
すぐに席を立ち、無言で扉を開く。
「全員、大講堂に揃ったのか」
「はい。各将軍方、魔女方は勿論、新聞社等報道機関の記者方も揃いました。国営ラジオ放送局の録音準備も整っています」
「そうか」
短く応じ、部屋を出て薄暗い廊下へと出る。
フリーデリーケも後に続く。
これからリヒャルトは控室の上階にある大講堂にて、国軍幹部及び、国家資格を取得した魔女達、各報道陣を前に、緊急会見を行う。
更には、この場に召集できない各地方司令部の幹部、資格取得者の魔女、上層部以下の士官、下士官、更には一般国民に向けての宣言とするため、国営ラジオで会見の様子を放送されることになっていた。
大勢を前に会見をラジオの電波に乗せて語るなど、幾度となく経験しているのに。
今更緊張をするなんて有り得ない、有り得ない筈なのに。
廊下を進む足取りがいささか重く、動きも固い気がする。
何を恐れているというのか。
情けないにも程がある。
「閣下、少しお待ちください」
急に呼び止められたことで我に返り、振り返る。
「失礼致します」
頬を撫でるようにフリーデリーケの両手が添えられた。
形の良い唇から詠唱が呟かれ、瞬く間に濃黄色の光が頬から顔全体を包み込む。
眩さに眉を顰め、目を瞑ること十数秒。
閉じた瞼から僅かに漏れ入ってくる光が消え、目を開ける。
「ポテンテ少佐」
「ご確認ください」
フリーデリーケの掌はすでにリヒャルトの頬から離れており、胸ポケットから取り出された折り畳み式の小さな鏡を手渡された。
鏡を開いて顔を映し出せば、くたびれきった顔付きから生気溢れる若々しい顔付きに変化し、髪の色も艶も戻っていた。
「危機に瀕した国に不安を抱く者達を前に、あのような御顔では不安を余計に助長させるだけです」
「……そうだな……」
「情けない顔も見せてはいけませんよ」
思わず苦笑を漏らせば、すかさず厳しい言葉が飛ばされてくる。
ふっと肩の力が抜け身体が軽くなり、止まっていた二人の足は再び動き出した。
「少佐」
「はい」
「礼を言おう。非常に助かった」
「勿体なき言葉、身に余ります」
続いてある言葉を告げようと口を開きかけ、思い直して閉じる。
今ここで言うべき言葉ではない。
全てが終わり次第、改めて告げることにしよう。
リヒャルトは表情を引き締め、歩調をいくらか速めたのだった。




