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「うう……あんな大勢の人に見られてしまうなんて……あたし、もうお嫁に行けないよ……」


「安心して」と宝船は両手で顔を覆う彩楓の肩に手を置き、優しく微笑みかける。


「前に教えてもらった躑躅森さんの誕生日を考えるとあなたはまだ15歳だから、どちらにしても結婚はまだ出来ないわ」


「そういう問題じゃないよ!」


 彩楓は叫ぶ。宝船がボケて、彩楓がツッコミを入れるという図も中々珍しいものだ――そんなことを傍から眺めながら思っていると僕の幼馴染は溜息をついた。


「……まあ、見られたものは仕方ないよね。スパッツとかそういうのを穿いていなかったあたしが悪いんだし……でも、今からの季節を考えるとスパッツを穿くのって中々厳しいものがあるんだよねえ」


「それは分からなくもないけれど……でも、萩嶺君のような覗き魔もいるわよ?」


「おい、僕のことを勝手に覗き魔呼ばわりするのは止めろ」


「宝船さんの言う通りなんだよねえ」


「そして彩楓、お前もそれを肯定するんじゃない」


 どうして僕だけが覗き魔扱いされなければならないのだ。あの場で彩楓のパンツを見たのはおそらく僕だけではないだろうに。大体、あの場面においては意図的に『見た』のではなく、『見えてしまった』という表現が正しい。覗こうとして目の当たりにしたのではなく、偶発的に目の当たりにしてしまったのだ。必然的な結果と偶然的な結果は天と地ほどに似ても似つかないものなのである――そう、元々見えてしまっている下着と風でスカートが舞い上がって見えた下着ではどことなくお得感が違うのと同じだ。


 下着が見えなかった時でもお得だと感じてしまう時もある。それは、時々アニメや漫画等で用いられるスカートを下着が見えるか見えないかのギリギリのラインまで浮かび上がらせるという手法だ。最近では制作側がスカートを上げまくっているのにも関わらず下着が一向に見えないことから、そのキャラクターに『穿いてない』疑惑が浮上することもあるが、どちらかと言えば、僕はそのギリギリのラインで留められている方が好きである。


 …………。


 ん?


 はて、僕は何の話をしていたのだったか。


「てゆーかさ、そもそも外で今日みたいに戦ったり、動き回ったりしなければいい話じゃないかな? それに気を付ければスパッツ穿かなくても良さそうだけど、どうかな宝船さん」


「うーん、そこに気を付けられるのなら大丈夫そうだけれど……まあ、確かに夏にスパッツとかタイツを穿くのは結構億劫よね」


「お、おっくう?」


 小首を捻る彩楓にどこか申し訳なさそうな苦笑を浮かべて宝船は言う。


「えーっと……『面倒臭い』って意味よ」


「『面倒臭い』……あー、はいはい、なるほど。そう言えばそういう意味だったよね、うんうん」


「彩楓よ、知らない時は知らないって素直に言った方が良いと思うぞ」


「直斗は黙ってて」


 彩楓に睨み付けられた。その鋭い視線に僕は素直に従い、黙ることにする。そして、そんな僕達のやり取りを見ていた宝船はどこか気まずそうに依然として苦笑を浮かべていた。


「あ、そう言えば宝船さん」


「何? 躑躅森さん」


「急なんだけどさ、宝船さんのこと名前で呼んでもいい?」


「え? な、名前で?」


 その言葉の通りの急な彩楓の提案に宝船は少し驚いたような声を上げた。


「えっと……急にどうして?」


「いやー、宝船さんとは結構話したりとか一緒に帰ったりとか勉強教えてもらったりとか……色々してるのに、未だにお互いに名字で呼び合っているのは何か硬いかなー、って思っちゃったんだ。名字で呼び合っている内は……その、何て言うの?」


 若干頬を赤らめながら気恥ずかしそうに彩楓は言う。


「ずっと名字で呼び合ってたら……ほら、友達としての距離も離れたまま……って言うか何と言うか」


「……躑躅森さん」


「あ、いや、宝船さんが嫌ならいいんだよ? 名字同士で呼び合っててもあたしは宝船さんと友達だと思ってるし」


「嫌だなんてとんでもない。むしろ嬉しいわ。私って人付き合いとか苦手で、躑躅森さんみたいに、向こうからそういう風に言ってくれる人ってあまりいなかったから……」


 俯き加減で呟きながら微笑んだ宝船は顔を上げ、彩楓と向き合うと同時に満面の笑顔を見せた。


「だから、躑躅森さんの提案、本当に嬉しい」


「そ、そう? そんなに嬉しくされちゃうと照れちゃうな……えへへ」


 宝船の言葉を聞いて嬉しかったのもあるのだろうが、自らの言葉の通りに恥ずかしそうに彩楓は微笑む。


「でも、そうなると、私も躑躅森さんのことを名前で呼ばないといけないということよね……中々にハードルが高いわ」


「そんなに高いの?」


「ええ、それはもう、3776メートルくらい」


「3776……エベレスト級だね……!」


 エベレストではなく富士山な――とツッコミを入れようとしたが、会話に割り込むと次は拳が飛んできそうなので僕はそのまま2人のやり取りを見守ることにした。


「別にそんな気にしなくていいよ? 気軽に呼んじゃいなよ宝船さん――いや、璃乃」


「名前に加えて呼び捨て……流石は躑躅森さんね。私も頑張らないといけないわ」


 そう言って、宝船は一度深呼吸をすると、彩楓と向き合う。


「……さ……さや……」


 宝船と彩楓の間に流れる半ばどうでもいい緊張感――そして、まるで地上に出た魚の如く口をパクパクとさせていた宝船はその次の言葉を絞り出した。


「……さ、さやえんどう」


 どこから出てきたさやえんどう。


「あー、さやえんどう美味しいよねー」


 そしてそれに乗っかるのか彩楓!


 僕が呆れながら心の内でそうツッコミを入れていると先程の彩楓と同じように宝船は両手で顔を覆うと溜息をついた。


「ごめんなさい……もう一回チャレンジさせてもらってもいいかしら」


「全然オッケーだよ璃乃。璃乃なら大丈夫。璃乃ならできる。踏み出せばその一歩が道になるよ。迷わず行こうよ。行けば分かるさ。ありがとー!」


「ありがとう躑躅森さん……心なしか、躑躅森さんがどこぞの元プロレスラーに見えてきたわ」


「ほんとに? しゃくれた方がいい?」


「いや、そこまではしなくて大丈夫よ。それに、女の子がしゃくれた顔をするのはどうかと思うし……」


 それから、再び深呼吸を行った宝船は改めて彩楓と向き合う。生徒達の声で似ぎ合う教室の中、真剣な眼差しで僕の幼馴染を見つめた彼女はその口を開いた。


「………………さ、さや、か……」


 途切れ途切れに発せられたその言葉――しかし、確かに紡がれたその名前に彩楓は満面の笑みを浮かべると宝船に抱き着いた。


「璃乃! やったじゃん!」


「ちょ、ちょっと躑躅森さ――さ、彩楓。恥ずかしいわ、抱き着かれていることと、名前を呼び捨てで呼んだことの2つの意味で……」


「あ、ああ、ごめん。璃乃から名前で呼んでもらえたことが嬉しくてつい」


 苦笑を浮かべて宝船から離れる彩楓。今しがた、やっとのことで友達の名前を呼び捨てに出来た彼女の頬はどこか赤く上気していた。


「それじゃあ、璃乃。今度からあたしのことは『彩楓』って呼んでね」


「え、ええ、まだ慣れないから言い淀むかも知れないけれど……頑張るわ」


 言いながらお互いに嬉しそうに笑みを交わす宝船と彩楓。すると、不意に校舎に予鈴が鳴り響いた。


「それじゃあ、私は席に戻るわね。また後で、萩嶺君と……それから、さ、彩楓も」


「うん、また後でね、璃乃」


 お互いに小さく手を振り合い、宝船は自分の席へと戻っていく。周りが次の授業の準備を始める中、僕も同じく準備を整えていると、後ろから彩楓が話しかけてきた。


「ねえねえ、直斗。璃乃って、話してみると結構可愛いところ多いよね」


「うん? あー……まあ、そうだな」


 普段僕と会話しているあいつは毒舌しか吐かないからよく分からないが。


「そろそろ夏休みだし、もっと璃乃と仲良くなれたらいいなー。3人でどっか遊びに行っちゃう?」


「誘ってくれるのは有り難いけれど別に無理に僕を誘わなくてもいいんだぞ。ていうか、仲を深めたいならお前と宝船の2人で行った方が良くないか?」


「無理に誘ってるわけじゃないんだけどなあ。全く、直斗は捻くれてるんだから」


「何を今更、僕は昔からこういう性格だろ」


「まあね、もう慣れたけど。てか、本当に行かないの? プールとか海とか行っちゃうかもよ? あたしとか宝船さんの水着見れちゃうかもよ?」


「あのなあ、お前。僕がそんなものに釣られるわけがないだろ。日程が決まったらメールで送っておいてくれ」


「釣られてるじゃん」


 釣られてしまっていた。入れ食い状態である。魚並みの意志の強さしか持ち合わせていない僕なのであった。


「プールや海もいいけど、お前はインターハイもあるし、それ以前に補習もあるだろ」


「そうなんだよねえ。インターハイはともかく、補習は考えるだけで嫌になるよ」


「まあ、インターハイは僕にはどうにもならないけどさ。補習なら僕が教えられるところは教えるし、それに今回は宝船もいるから……まあ、頑張れよ」


「……あたし、直斗のそういうところ、何か好きだよ」


「はいはい、そりゃどうも」


「照れちゃって、直斗も璃乃も可愛いねえ」


 後ろから僕の背中をつついてくる彩楓。声色から振り返らなくてもにやけている幼馴染の姿が見て取れた。


「て、照れてねえよ」


「またまたー」


「照れてないって」


 彩楓の方を振り向かずに僕は言う。それから、机の中から目当ての教科書を発見した僕はやはり後ろを振り向かずにそれを机の上に出すのだった。



 ◆ ◆ ◆



「というわけで、夏休みはあたし達3人で海に行こう!」


「いやどういうわけだ」


 午前の授業が終了し、時刻は昼休み――この日、僕と宝船は彩楓に誘われて食堂へとやってきていた。昼休みはまだ始まったばかりであり、僕は菓子パンを、宝船は持参した弁当を食べ出したばかりのはずなのだが、既に彩楓の前には3つの空の食器が重ねられていた。その食器の上には確実に何かしらの料理が乗っていたはずなのだが、気付いたらどこかへと消えてしまっていたので、何の料理があったのかすら思い出すことが出来ない。


「勝手に僕の夏休みの予定を決められては困るな。残念ながら、今年の夏休みは冷房の効いた部屋の中でオタク趣味を思う存分満喫することになっているんだ」


「今年の夏休みは、って直斗毎年そんな感じじゃん。てゆーか、さっきはあたしと璃乃の水着に釣られてたじゃん」


「いやあれはだな」


「さっきはあたしと璃乃の水着姿を想像して鼻息荒くなってたじゃん」


「荒くなってねえよ。想像していたことは認めるけど」


「直斗の犯罪者予備軍」


「その呼び方は止めてくれ」


 せめて『変態』というワードでオブラートに包んでほしい。いや、そもそも『変態』という言葉自体がオブラートではないのだが。


「……幼馴染が犯罪者予備軍だと大変そうね」


「おいそこ、僕を犯罪者予備軍だという前提の相槌を止めろ」


 呟くように放たれた宝船の毒舌を僕は聞き逃さなかった。


「でも、私もどちらかと言えば萩嶺君の意見に賛成ね……私も好んで外に出る方ではないし、そもそも水着を持っていないもの」


「確かに……お前に合う水着って逆に探しても無さそうだよな」


「どういう意味よ」


「何でもないです」


 宝船に睨まれ、反射的に視線を逸らす僕。横目でこっそりと宝船の様子を伺うと彼女は自身の胸を両腕で抱えるようにして隠していた。やはり、自らの胸部装甲の儚さには自覚があるようである。


「水着を持っていないっていうのは別に一着も持っていないって意味じゃないわよ。海とかプールに行く用の水着がないって意味で言ったの。私だって水着くらい持っているわよ、スクール水着だけど」


「なるほど、スクール水着か。中学生の頃のだろ?」


「くっ……ば、莫迦にして……!」


 涙目でこちらを睨み付けながら拳を震わせる宝船。これ以上藪をつつくと蛇どころか龍や鬼が出てきてしまいそうだが、普段毒舌を浴びせられている僕のせめてもの仕返しである。


「ま、まあまあ、璃乃。落ち着いて」


 苦笑を浮かべて彩楓が宝船を宥めようとする。


「いいじゃん、スクール水着でも。世の中の男性の中にはスクール水着の方が魅力的に感じる人もいるって聞いたよ?」


「彩楓、それ何のフォローにもなってないわ」


「え、えーっと……あ、そうだ。今度一緒に水着を買いに行こうよ。あたし、宝船さんの水着選びたいな」


「本当に? それは助かるわ……学校指定以外の水着なんて買ったことないから、どういう風なものを選べばいいのか分からないし」


「まっかせといて!」と意気揚々と彩楓は宝船の手を両手で握り締めて言う。


「この水着オイスターと呼ばれたあたしに不可能はないよ!」


「それを言うなら『水着マイスター』な」


 『水着牡蠣』って何だよ。牡蠣が水着でも着ている様を言うのだろうか。誰得だよ。一体全体どこの層に受け入れられると言うのだ。


「そうだ、ついでに直斗も一緒に行こうよ」


「え? 僕も?」


 彩楓の思いがけない提案に僕は驚く。


「何でだよ、僕が付いていく意味ないだろ」


「あるよ、ありまくりだよ、ありまくりすぎて直斗の菓子パンを横取りしちゃうレベルだよ」


「遠回しに僕の菓子パンを要求してくるのを止めろ」


「だって、直斗も今までの夏はほとんど家にずっといたし、外出用の水着とか持ってないでしょ?」


「それこそ僕は学校の水着でいいんじゃないのか? お前達みたいに女子ならともかく、男子の水着は別に好んで見ようとする奴はいないだろうし」


「直斗はそれでいいかも知れないけど……何て言うか、一緒にいるあたし達が恥ずかしいって言うか。てか、直斗も恥ずかしいでしょ。学校の水着なんだし、名前とか書いてあるんだよ?」


「そう言えばそうだな……失念していた。名前入り水着を着ていくのは流石に恥ずかしいものがあるな……仕方ない」


「ならこうしよう」と僕は人差し指を立てて彩楓に提案する。


「2人で海に行って、遊んでいる姿を写真で送ってくれ。そうすれば僕は家に引き籠っていられるし、お前達は海で遊ぶことが出来る、一石二鳥じゃないか」


「あー……ん? 確かにその方がいいのかな? ん?」


「よし、そうと決まればそれで――」


「騙されちゃ駄目よ彩楓!」とここで会話に割り込んできたのは宝船だった。


「萩嶺君は自分だけがいい感じに得をするようにあなたを誘導しているわ!」


「……だ、だよね! ちょっと頭がこんがらがっちゃったけどそうだよね! 璃乃がいてくれて助かったよ……」


 言葉の海を漂っていた彩楓は宝船が出した助け舟によって救出されたらしい。ちっ、宝船め、余計なことを……。


「と、とりあえず!」と頬を赤らめながら仕切り直す彩楓。どうやら、僕に言い包められそうになったことが恥ずかしいようだ。


「直斗もあたし達と一緒に水着を買いにいくこと! 分かった?」


「分かったよ。行けばいいんだろ、行けば」


 観念して頷いた僕は封を開けたまま放置してしまっていた菓子パンを食べ始めた。宝船も風呂敷を解いたままだった弁当箱の蓋を漸く開ける。そんな僕達を眺めていた彩楓が不意に立ち上がった。


「あたし、何かまた注文してくる」


「え、まだ食べるの?」


 彩楓を見上げて驚愕の表情を見せる宝船。僕はいつものことなので特に驚かず、菓子パンを食べ進めていく。


「直斗と璃乃が食べてるところ見てたらお腹空いちゃってさー。というわけで、何か買ってくるねー」


 僕達にひらひらと手を振って、彩楓は食堂の受付カウンターの方へと小走りで駆け出した。彼女の姿は食堂に集まった生徒達の人ごみに紛れてすぐに見えなくなる。


「……改めて驚いているのだけれど、彩楓って本当によく食べるのね」


「まあな、僕はもう慣れたけど」


「ひょっとして……彩楓はよく食べるからあんなに……」


「人によって脂肪の付き方は違ってだな」


「わ、分かっているわよ。言ってみただけよ」


 言って、誤魔化すように箸で抓んだ卵焼きを口に運ぶ宝船。


 半分は本気だったな――横目で宝船を見ながらそう思った僕は最後の一口となった菓子パンを口に含む。それを咀嚼し、飲み込んだところで宝船が呟くようにこう言った。


「……楽しみね、海」


「そうか? 普通だろ。正直言って、僕はあまりモチベーション上がらないけど」


「普段あまりこういうことってないから、私のモチベーションは上がりっ放しよ。これって、いわゆるリア充がやるようなイベントよね? ていうか、リア充が集まる場所に行くのだから、リア充がしそうなことを予め下調べおかないと……」


「だからどこの隣人部だよ」


「今年の夏休みは色々と楽しくなりそうだわ」


 宝船は笑みを見せる。その表情には嬉しさや楽しさ――そう言ったプラスの感情が含まれているのが傍から見て分かった。


 気付けば、毎年の夏休みを家に引き籠ってオタクライフを満喫していた僕にとっては、いつもと違う夏休みを迎えてしまいそうな可能性に若干の不安を感じてしまっていた。出来るだけ無難に安定な道を進みたい僕にとっては、そういうイベント事は回避したいところだが――あれだけ彩楓から目の前で誘われて、この目の前の笑顔を見てしまっては今更断ることなんて豆腐メンタルの僕には不可能であった。


「……まあ、少しくらいなら大丈夫だろ」


 どこか自分に言い聞かせるように呟いて僕は2つ目の菓子パンの袋を開ける。それと同時に食堂の受け取り口の方から彩楓がこちらに向かってくるのが見えた。菓子パンを一口齧って宝船を――そして、彩楓の姿を視界に収める。リアル女子高生の水着姿が見れるかも知れないのだ。それだけでも多少普段と違う道を歩み、苦労する価値は――。


「……直斗」


 テーブルにカレーが乗った皿を置いて彩楓は言った。


「今、変なこと考えてたでしょ」


「…………」


 ……いやあ。


 今年の夏休みが楽しみだ。



 ◆ ◆ ◆



 翌日の朝、先に教室に到着していた僕と宝船のもとに朝練を終えた彩楓がやってきた。


「おはよー、直斗。それから璃乃」


「おはよう、彩楓」


「おう、おはよう」


 宝船と僕の挨拶の返しを受けながら彩楓は僕のすぐ後ろの自分の席に腰を下ろすと鞄から下敷きを取り出して自分を扇ぎ始めた。


「今日もほんっと暑いよね。クーラーまだつかないのかな」


「節電も兼ねて冷房が入るのは授業が始まってかららしいわ」


「えー」と椅子の背もたれに寄りかかり、憂鬱そうな声を上げながら彩楓は天井に埋め込まれたエアコンを仰ぐ。


「節電も大切だけどこのままだと先に脱水症状になっちゃうよ……何か飲み物買ってこようかな」


「そろそろ朝のホームルーム始まるから我慢しろ」


「えー……直斗、ちょっと時間を止めてよ」


「何を言っているんだお前は全く……仕方ないから10分だけな」


「え? 止められるの?」


「止められるわけねえだろ」


「直斗雑魚じゃん」


「理不尽すぎるだろ。ていうか、何で僕が時を止められると一瞬でも信じたんだお前は」


 そんなとてもどうでもいい会話をしていると、七々扇先生が教室に入ってきた。席を移動していた宝船を含め、クラスの担任の入室を目の当たりにした生徒達はそれぞれ自分の席へと戻り始める。


「はーい、お前等席に着けー」


 そう声を上げながら教卓に立った七々扇先生は全員が着席したことを確認すると目の前の席に座る宝船を見下ろした。


「よし、それじゃあ宝船、頼むな」


「はい、先生。起立」


 いつもの如く、宝船の号令によって席を立った僕達は次の号令で七々扇先生に向かって礼をしながら挨拶をし、最後の号令によって再度席に腰を下ろす。


「はーい、お前等おはよう。お前等、各教科の期末テストやり直し課題は終わってるかー? そろそろ終業式だから提出期限迫ってるぞー、まだ手を付けていない奴は早めにやるように。それから……ああ、そうそう。学校の近くで不審者っぽい奴がうろついていたっていう話だから、お前等気を付けるように。まあ、このご時世よくある話だとは思うけど、特に女子生徒は気を付けて、出来るだけ1人で帰らないようにすること。連絡事項は……まあ、それだけかな。よし、それじゃあ、宝船頼んだ」


「はい、先生。きり――」


「あ」


 再び号令をしようとした宝船の声を七々扇先生のその言葉が遮った。苦笑を浮かべた七々扇先生は宝船に向かって両手を合わせて謝罪のポーズを取る。


「ごめんごめん、宝船、それから皆も。1つ言わないといけないことがあったんだった。また忘れるところだったよ」


 その七々扇先生の言葉にクラスの至る所から小さな笑い声が漏れた。とある女子生徒が「先生忘れすぎーっ」という声を上げると更に教室内が笑いに包まれる。


「だからごめんって言ってるだろー、全く。今日は皆に嬉しいお知らせがある。まあ、サプライズみたいなものだ」


 『サプライズ』――その単語に教室内が少しざわついた。この雰囲気でクラスにお知らせを行うのだから、その『サプライズ』はきっと良いものなのだろう。そう予想しているであろうクラスメイト達は更にざわつく。


「サプライズって何だろうね、直斗」


「ん? あ、ああ……」


 後ろから彩楓に話しかけられ、僕は咄嗟に曖昧な返事をした。返事が曖昧になってしまったのは、急に話しかけられたこともあるが、『サプライズ』という単語に対して何か引っかかりを感じたからだ。


 七々扇先生が僕達に何かしらのサプライズをすること――はて、僕はどこかでその情報を聞き、知っていたような。


「……あ」


 そして、僕がそのサプライズの内容を思い出す――それと同時に七々扇先生がその口を開いていた。


「終業式目前という何とも微妙な時期だが、このクラスの新しい仲間を紹介しようと思う」


 その七々扇先生の言葉に――サプライズの内容にクラスの何人かが驚愕の声を上げる。それから「どんな人が来るのか」「性別はどちらなのか」など歓喜の色が混じった声で教室内が溢れかえった。


「よーし。おーい、入ってきていいぞー」


 七々扇先生がそう声を上げると教室の扉が開いた。横にスライドする扉の向こう側から現れたその転入生の姿に様々な声で溢れていた教室が一瞬で静まり返る――その静寂はおそらく転入生の入室に合わせて、皆が空気を読んでその口を閉じたからではなかった。


 その転入生の性別は男であった。宝船と同じ――いや、宝船よりも背が高いように見えるその男子生徒は教卓に上ると七々扇先生の近くまで歩み寄る。身長は見た感じだと2メートルに近そうだ。そして、その身長に見合う体格も持ち合わせた彼の髪は茶色に染め上げられている。顔も強面こわもてであり、彼は見るからに――。


「よし、それじゃあ転入生君。黒板に名前を書いて自己紹介をしてくれ」


「……はい」


 少しの間を置いて僕達に背を向けた転入生の彼はチョークを抓むと向き合った黒板に自らの名前を書き始めた。静寂の中、チョークが黒板を打つ音だけが数秒ほど続いて――そして、黒板に名前を書き終えた転入生は改めて僕達の方を振り向いてこう言った。


「……蘇芳剛義すおうたかよしです。よろしくお願いします」


「はーい、皆! 蘇芳君に歓迎の拍手をー!」


 高らかに七々扇先生が拍手をする――が、それに応じて拍手をしたのはほんの数人だけだった。ほとんどの人が転入生――もとい、蘇芳剛義を見たまま固まってしまっている。


「…………あれ?」


 自分が思っていたものとは違う生徒達の反応に違和感を覚えたのか、小首を傾げる七々扇先生。しかし、それも仕方のないことだと僕は思った。


 そう、蘇芳剛義という人間は見るからに――『不良』と呼ばれるべき外見をしていたのである。

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